2017/05/13

快慶展

奈良国立博物館で開催中の『快慶 日本人を魅了した仏のかたち』を観てまいりました。

GWに行ったのですが、平日だったので、夜間開館の日だったら少しはゆっくりできたんでしょうけど、スケジュールはツメツメ。朝一で西宮で『勝部如春斎展』を観て、天王寺で『木×仏像』を観て、奈良に着いたのが14時(お昼も電車の中。笑)。まず先に興福寺の『阿修羅 - 天平乾漆群像展』と奈良博の“なら仏像館”へ。

『阿修羅 - 天平乾漆群像展』では東博や興福寺国宝館の展示と違い、アイドル化されてしまった「阿修羅像」が本来の位置におさまり、やっと落ち着いて観ることができたなという感じがします。こうして観ると、あくまでも八部衆の一つであることも実感。また、本尊「阿弥陀如来像」や「四天王像」など鎌倉彫刻の存在感が強いことにも気づきます。「四天王像」は先に観た『木×仏像』や『快慶展』の「四天王立像」とのつながりも興味深いところです。

そして『快慶展』に入ったのがちょうど15時。当然のことながらこれだけの快慶仏を観たのは初めて。現在確認されている快慶仏の内、8割以上の37点(一部展示替えあり)が出品されています。ほかにも断定されていないものの快慶の可能性が高い仏像も多くあり、快慶の弟子や慶派仏師の仏像も含めると展示品の3/4が仏像。端正な仏像がずらり並ぶ様は壮観です。正直ここまで濃い内容だとは思っていませんでした。

展覧会の内容も、快慶仏の時代毎の特徴や、運慶や重源との関係、弟子への継承など多角的に捉えていて、大変興味深く、また素晴らしいものでした。絵画的ともいわれる快慶仏の美しさ、繊細さ、力強さにただただ見惚れるばかり。たっぷり2時間、ただただ至福のひとときでした。


第1章 後白河院との出会い

会場に入ると、京都・金剛院の「金剛力士立像(阿形・吽形)」がお出迎え。快慶仏と決定付けるものはないようですが、寺伝では快慶の作とされているそうです。誇張された筋骨隆々の上半身はいかにも快慶的。

まずは無位時代といわれる初期の快慶仏から。醍醐寺の「弥勒菩薩坐像」とボストン美術館蔵の「弥勒菩薩坐像」が向かい合わせに置かれ、その美しさにいきなり呆然となります。醍醐寺の「弥勒菩薩坐像」は醍醐寺に行ったときに拝見していますが、お堂の中で間近で観られなかったこともあり、ここまで美しいお姿とは知りませんでした。装飾的な宝冠や光背も素晴らしい。金泥塗による仏像の金色表現としては最初期のものといいます。

快慶 「弥勒菩薩坐像」 (重要文化財)
鎌倉時代・建久3年(1192) 醍醐寺蔵

ボストン美術館の「弥勒菩薩坐像」は興福寺伝来の仏像で、岡倉天心の手に渡り、天心の死後、アメリカへ流出したもの。こちらは金泥塗りではなく漆箔(漆を塗った上に金箔を貼ったもの)で、いまも全身がきれいな金色に輝いてます。肉体表現は瑞々しく、照明のせいか瞳がうるんで見えました。

快慶 「弥勒菩薩立像」
鎌倉時代・文治5年(1189) ボストン美術館蔵

泉涌寺塔頭・悲田院の「阿弥陀如来坐像」は金泥塗に精緻な截金文様も美しく、穏やかな表情が印象的。快慶の出自は不明ですが、法性寺の住僧だったという説があるそうで、現在の泉涌寺の土地の一部はかつて法性寺の寺域だったことから、快慶の歩みを探る上でも貴重な仏像という話です。

金剛院の「執金剛神立像」と「深沙大将立像」は会場入口の「金剛力士立像」と違い、墨書銘から快慶作と判明しているもの。ただ、古典の彫像に倣ったものだそうで、「金剛力士立像」のような肉体の極端な誇張はありません。とはいえ「深沙大将立像」の写実的表現は素晴らしく、迫力のある形相もインパクト大。膝頭には深沙大将の特徴である象の頭が付いています。

「千手観音坐像」 (重要文化財)
鎌倉時代・12~13世紀 清水寺蔵

清水寺奥院の秘仏「千手観音坐像」は2003年に243年ぶりに公開され話題となった仏像。正面と左右に合わせて3つの顔があることから「三面千手観音」とも呼ばれます。これも快慶の名を記すものはないのですが、その像容から快慶の作風が強く認められ、また一門の複数の仏師の関与が想定されるそうです。光背には三十三応現身を配し、端正な佇まいはただ美しいというよりも、神聖なオーラが漂っています。


第2章 飛躍の舞台へ -東大寺再興-

快慶は、平家の兵火により焼失した東大寺の復興に慶派仏師の一人として参加します。最初に展示されているのが快慶の抜擢に深く関係しているといわれる重源の坐像。東大寺の国宝「重源上人坐像」ではなく、それを忠実に模した兵庫・浄土寺に伝来する像ですが、再現性は極めて高く、そしてリアル。

同じく浄土寺の「阿弥陀如来立像」は像高2.3mあり(もっとあるように見えたけど)、今回の展覧会の中では最大の仏像。その昔は“お練り供養”といい、この大きな阿弥陀様を台車に載せて練り歩いたのだとか。浄土寺は重源が建立した寺で、快慶作の国宝「阿弥陀三尊像」(本展には出品されてません)があることでも有名です。

快慶 「孔雀明王坐像」 (重要文化財)
鎌倉時代・正治2年(1200) 金剛峯寺蔵 (展示は5/7まで)

「孔雀明王坐像」は金剛峯寺孔雀堂の本尊。数年前にサントリー美術館で開催された『高野山の名宝展』にも出品されていました。孔雀に乗ったそのお姿や孔雀の羽を象った光背などその特徴のある像容は一度見たら忘れられません。「四天王立像」は『高野山の名宝展』では4躯とも出品されていましたが、本展では「広目天像」(快慶作)と「多聞天像」のみ。“大仏殿様四天王像”とされる四天王像の中では最古とされ、再建時の東大寺大仏殿に安置された四天王像の雛型ともいわれます。ちなみに大仏殿の四天王像の像高は金剛峯寺の「四天王立像」の約10倍というので13mぐらいあったのでしょう。『木×仏像』に展示されていた天王寺の「四天王立像」や『阿修羅 - 天平乾漆群像展』で観た「四天王像」もこの“大仏殿様四天王像”のひとつ。

同じく金剛峯寺の「深沙大将像」のワイルドな肉体感も素晴らしい。金剛院の「深沙大将像」とは違い、躍動感のある造形の中にも快慶独特の形式美を感じます。引き締まった筋肉はボディビルダーのよう。こちらも膝頭に象の顔が付いているほか、お腹には人面が浮き上がっています。

快慶 「四天王立像のうち広目天」 (重要文化財)
鎌倉時代・12世紀 金剛峯寺蔵

「僧形八幡神坐像」は快慶の無位時代の代表的作例。光背や手にした錫杖、また彩色も当初のままといいます。衣文線や衣の皺の表現がとても自然で、彩色も絵画的。まるで本物の布地を羽織っているかのようでした。快慶の写実的表現の極みという感じがします。

快慶 「僧形八幡神坐像」 (国宝)
鎌倉時代・建仁元年(1201) 東大寺蔵

東大寺の「地蔵菩薩立像」も衣文の表現が素晴らしい。肩から斜めに着た法衣の上に袈裟をかけたスタイルで、衣の模様も非常に丁寧かつ細密。眉目秀麗な顔立ちも美しい。「地蔵菩薩立像」の襞のラインが非常に自然なのに対し、東大寺の「阿弥陀如来立像」はきれいに左右対称の流麗な線が印象的。目元も涼しげで、快慶らしい形式美を強く感じる仏像です。

快慶 「阿弥陀如来坐像」 (重要文化財)
鎌倉時代・建仁3年(1203)  東大寺蔵


第3章 東国への進出

関東にもいくつか作例が知られる運慶と違い、関東近辺で確認されている快慶仏は僅か2件だけといいます。広島・耕三寺の「阿弥陀如来坐像」は元は伊豆山に伝来したものとか。高い宝髻や面相が運慶の「大日如来坐像」(真如苑)を彷彿とさせ、一瞬大日如来かと思ってしまいました。手も阿弥陀定印ではなく、法界定印を結んでいます。快慶の「大日如来坐像」も2躯展示されていて、肩からかけた衣の表現、少し開けた眼の表現がそれぞれ酷似しています。

快慶 「阿弥陀如来坐像」 (重要文化財)
鎌倉時代・建仁元年(1201) 耕三寺蔵


第4章 勧進のかたち -結縁合力に拠る造像-

ここでは4躯の阿弥陀如来立像があって、その内、京都・遣迎院と大阪・八葉蓮華寺は快慶作。どちらもスラリとした美しい姿形ですが、八葉蓮華寺の方が丸顔。知恩院の「阿弥陀如来立像」は遣迎院のものに似て、精緻な截金の装飾も素晴らしい。断定はされていないけど、これも快慶仏と見るのが濃厚なようです。京都・浄土宗蔵の「阿弥陀如来立像」は顔の感じが少し異なり、ちょっと男前。浄土宗の開祖・法然の一周忌に造像されたものと推測され、快慶の弟子・行快とする説が有力とのこと。

快慶 「阿弥陀如来立像」 (重要文化財)
鎌倉時代・建久5年(1194)頃 遣迎院蔵


第5章 御願を担う -朝廷・門跡寺院の造像-

「不動明王座像」がこの章と次の章で3躯あって、二つは快慶作、一つは断定されていないものの恐らく快慶仏だろうとのこと。醍醐寺と正壽院の「不動明王坐像」は初期の作例。メトロポリタン美術館蔵の「不動明王坐像」は青蓮院旧蔵とされ、晩年の作だろうとありました。いずれも目をキッと見開き、口をグワッとかみしめた表情が共通。醍醐寺の面相は忿怒というにはちょっとかわいい感じもするのですが、青蓮院旧蔵の方はさすがに表現も上という気がします。筋肉もより引き締まり、姿形は洗練されています。青蓮院の快慶作・兜跋毘沙門天も凛々しいお姿。

快慶 「不動明王坐像」 (重要文化財)
鎌倉時代・建仁3年(1203) 醍醐寺蔵

感動したのはメトロポリタン美術館蔵の「地蔵菩薩立像」。その気品を兼ね備えた瑞々しく優美な表現に、しばし目が釘付けになりました。像高50cmほどの比較的小さな仏像ですが、着衣の文様と彩色は極めて丁寧で、美仏といっていい傑作だと思います。

快慶 「地蔵菩薩立像」
鎌倉時代・12~13世紀 メトロポリタン美術館蔵


第6章 霊像の再生 -長谷寺本尊再興-

奈良・長谷寺の現在の本尊・十一面観世音菩薩立像は室町時代の制作ですが、鎌倉時代初期に快慶が造像したもの(火災で焼失)をもとにしているといいます。昨年、長谷寺に行った際に拝見しましたが、像高10mを超える大変大きな仏像で、国宝・重文指定の木造の仏像では最大なんだそうです。快慶の弟子・長快による「十一面観音立像」は、その長谷寺の十一面観音立像を模したといわれる作品。長谷寺の十一面観音立像がお堂の構造上、足元から見上げる方法でしか見られず、その全貌を目にすることができないので、かつての快慶の十一面観音立像を想像させるに十分のものがあります。

長快 「十一面観音立像」 (重要文化財)
鎌倉時代・13世紀 パラミタミュージアム蔵


第7章 安阿弥様の追求

最後のコーナーは、快慶仏で最も多く残る阿弥陀如来立像の変遷をまとめています。快慶は自らを安阿弥陀仏と称していたことから、快慶の阿弥陀如来立像は“安阿弥様(あんなみよう)”と呼ばれます。像高3尺(約90cm)前後、来迎印を結ぶものが多いのも特徴。比較的早い時期の作例から晩年の作例まで揃い、初期、中期、後期で像容の変化も割と分かりやすいようです。

快慶 「阿弥陀如来立像」 (重要文化財)
鎌倉時代・建仁3年(1203) 西方寺蔵

年代を知る上で一番特徴的なのは着衣の衣文線で、初期のものは襟はV字でたるみがないのですが、だんだんと右胸下にたるみが現れ、晩年のものになると左右両方にたるみが作られます。この章には7躯の阿弥陀如来像(快慶6躯、行快1躯)がありますが、解説を見たあとにまた最初の章に戻って安阿弥様の快慶仏を観直すことで、初期の端正な造形とシンプルで均整のとれた美しい衣文の表現から、晩年の深みを増した面相や複雑で写実的な肉体や衣文の表現へ、快慶が阿弥陀如来像の理想形を追求している様子がより実感できます。こうして見ると、正に快慶のライフワークといった感じです。

快慶 「阿弥陀如来立像」 (重要文化財)
鎌倉時代・嘉禄3年(1227)頃 極楽寺蔵

春に奈良で『快慶展』、秋に東京で『運慶展』と聞いたときは、なんで一度にやってくれないの~と思いましたが、一緒にやっていたら大混雑必至だったでしょうし、さすがにいっぺんに観るのは大変ですから、分けて正解だったかもしれないですね。もうここまで快慶仏が集まる展覧会なんて開催されないでしょうし、たぶん今後数十年語り継がれるレベルの展覧会だと思います。

第二会場(?)もありますよ!


  
『快慶展』と興福寺の『阿修羅 - 天平乾漆群像展』を見たら、スタンプラリーも忘れずに。あとは秋の運慶展。


【快慶 日本人を魅了した仏のかたち】
2017年6月4日(日)まで
奈良国立博物館にて


ペンでなぞるだけ写仏 一日一仏 心を整え、運を磨く。ペンでなぞるだけ写仏 一日一仏 心を整え、運を磨く。


心やすらぐ 国宝仏像なぞり描き心やすらぐ 国宝仏像なぞり描き

0 件のコメント:

コメントを投稿