2017/07/22

吉田博展

損保ジャパン日本興亜美術館で開催中の『吉田博展』を観てまいりました。

昨年、千葉市美術館で開催され、話題になった展覧会。郡山や久留米などを巡回しての最後の開催が東京になります。千葉に行かなかったので一年越しでようやく拝見することができました。

去年はちょうど同じ時期に、吉田博と対立した黒田清輝の展覧会も重なり、そうした話題性があったのは確かですが、昨今の明治期の洋画を見直す機運の中、半ば忘れられていた吉田博の再評価されるきっかけになったのも事実でしょう。

混み合いそうな休日の昼間は避け、土曜日の16時に入ったのですが、この時間でも結構人が入っていて、吉田博の人気の高さに驚きました(混雑というレベルではありませんでしたが)。木版画の評価が高い人ですが、水彩や油彩の技術も大変優れていたこともよく分かりました。さすが黒田清輝に楯突いただけのことはあります。


会場の構成は以下のとおりです:
第一章 不同舎の時代:1894-1899
第二章 外遊の時代:1900-1906
第三章 画壇の頂へ:1907-1920
第四章 木版画という新世界:1921-1929
第五章 新たな画題を求めて:1930-1937
第六章 戦中と戦後:1938-1950

吉田博 「冬木立」
明治27-32年 横浜美術館蔵

小学生の頃のスケッチがあって、小学生にしては上手だし、10代後半の水彩画もその写実性といい、色の感じといい、明治20年代で、しかも10代でここまでの作品が描けるのかと驚きます。会場の解説によると、明治中期は海外からの水彩画家の来日もあり、水彩画ブームが起きていたのだとか。確かに明治期の洋画では水彩画をよく見かけますが、吉田の20歳前後の作品なんか観ても、当時の水彩画のレベルの高さがよく分かります。

吉田博 「雲叡深秋」
明治31年 福岡市美術館蔵

明治期は水彩の方が作品としては多いようですが、油彩もちらほらあって、こちらもとても巧い。後年の作品に比べればまだ少し硬かったり、奥行き感に乏しかったり、描き過ぎている感じがあったりしますが、十分に写実的だし、吉田ならではの構図の巧さや迫真性が光ります。水彩にしても油彩にしても、朝靄だったり、霧だったり、夕暮れだったり、大気や時間を感じる作品が多く、これは後の吉田の木版画でも特徴的に表れています。

吉田博 「チューリンガムの黄昏」
明治38年 福岡市美術館蔵

吉田は何度か渡米しては展覧会で絵を売って、そのお金でアメリカやヨーロッパに遊学してるのですが、各地を取材して風景を描くだけでなく、ベラスケスやレンブラントを模写したり、最新の西洋画を吸収することにも余念がなかったようです。明治後期の油彩画「チューリンガムの黄昏」や「昼寝-ハンモック」などはホイッスラーを彷彿とさせるような平板で暗い色調が印象的。「瀧」や「街道の春」はどことなくセザンヌぽさも感じます。山岳風景の壁画連作「槍ヶ岳と東鎌尾根」 や「野営」はホドラーを思わせ興味深い。

吉田博 「ヴェニスの運河」
明治39年 個人蔵

「ヴェニスの運河」は夏目漱石の『三四郎』にも登場する作品。美術に造詣の深かった漱石も吉田博の作品には注目していたということでしょう。構図的にも表現的にもオーソドックスでありますが、明治期の主流だった黒田清輝率いる白馬会系のアカデミズムな洋画とは違う感じがします。吉田が渡米したのは黒田がフランスから帰国して6年後ぐらいのなのですが、やはり急激な変化を遂げた19世紀末の欧米の美術動向を考えると、目にしたもの吸収したものは全然違うでしょうし、吉田の渡米後の作品を観ていると、黒田の作品は一時代古いものに映ります。

吉田博 「穂高山」
大正期 個人蔵

明治時代はスポーツや趣味としての登山は一般的でありませんでしたが、吉田は全国の山々を歩いては作品を描いています。やはり登山家の憧れ、日本アルプスには強く心惹かれたのか作品も多く、次男の名前も「穂高」としたほどとか(長男にも山の名前を付けようとしたが反対されたといいます)。山を描いた吉田の作品は山を登る人ならではの視点があり、その雄大な景色だけでなく、山を登った人だけが味わえる感動のようなものが伝わってきます。

吉田博 「日本アルプス十二題 劔山の朝」
大正15年 個人蔵

関東大震災後、資金集めのために渡米したアメリカで目にしたものは幕末の浮世絵がいまだ持て囃されている現実。当時日本で人気だった川瀬巴水や伊東深水の新版画にも物足らなさを感じていた吉田は自ら木版画の制作にも手を染めるようになります。吉田の木版画には“自摺”を記されたものがあって、これは彫師や摺師は別にいるわけですが、画家自身が厳しく監修をした証のようなものなのだそうです。“絵の鬼”と呼ばれただけあり、木版画制作も他人任せにせず、その仕上がりには強いこだわりを持っていたのでしょう。

吉田博 「瀬戸内海集 帆船 朝」「帆船 午後」
大正15年 個人蔵

やはり木版画の味わいは格別。巴水と違うと感じるのは吉田の出発が洋画だからでしょうか。吉田博の木版画の特徴は、水彩画と見紛うような繊細で精緻な描写と、色の加減が複雑に表現された見事なグラデーション。同じ版木で朝、昼、夕方といったように色を変えて別摺したシリーズもいくつかあって、光や大気の変化にこだわりを持っていたことも感じます。木版画ではあまり見ない大判の作品も多く、実際に技術的にも制作が非常に難しかった作品もあったようです。

吉田博 「フワテプールシクリ インドと東南アジア」
昭和6年 個人蔵

木版でここまで微細な表現ができるの?と思うような作品もあって、木版画の概念が覆ります。特にインドに取材した作品に精緻な描写が多く、「フワテプールシクリ インドと東南アジア」のアラベスク模様の極めて精緻な文様や床に反射する光の表現には驚愕しました。どれだけ手がかかってるのか。

吉田博 「空中戦闘」
昭和16年 個人蔵

木版画に没頭するようになってから十数年、まだまだこれからという時期に不幸にも戦争が始まります。ご多分に漏れず吉田も従軍画家として中国に赴き、戦争画を描いています。「空中戦闘」は中国軍との空中戦を描いた作品、「急降下襲撃」は戦闘機からの視点で爆撃の様子を描いた作品。ともに戦闘機に搭乗した経験がないと描けないような構図で、現場主義の吉田ならではの作品という気がします。そばには似た構図の写真やスケッチがあって、実際に見た光景をもとにフィクションとして描いていることが分かります。

吉田博 「初秋」
昭和22年 個人蔵

吉田の作品はアメリカで人気が高かったということもあり、戦後米軍関係者がこぞって吉田のもとを訪れたといいます。自宅でアメリカ人と歓談する写真が展示されていましたが、どこかで観たことあるなと思ったら、川瀬巴水にも戦後外国人が作品を買い求めに来たというエピソードがあったのを思い出しました。日本の新版画は技術の高さだけでなく、その美しい風景や詩情性も人気が高かったのでしょうね。

会場入口で『痛快!吉田博伝』という13分ほどの紹介映像が流れています。ここで予習してから作品を観てまわるといいと思いますよ。


【生誕140年 吉田博展 山と水の風景】
東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館にて
2017年8月27日(日)まで


吉田博 全木版画集吉田博 全木版画集

2017/07/15

不染鉄展

東京ステーションギャラリーで開催中の『幻の画家 不染鉄展』を観てまいりました。

不染鉄(ふせん てつ)、初めて名前を聞く画家です。どうしてここまで優れた技術を持つ画家が評価されることもなく長く忘れられていたのか。とても不思議に思うほど、大変素晴らしい展覧会でした。今年一番の衝撃かもしれません。

回顧展は21年前に奈良県立美術館で一度あったきり。なので東京で展覧会が開かれるのも初めて。また東京ステーションギャラリーの雰囲気に合うんですね、これが。

不染鉄の経歴が面白いのですが、10代の頃に日本美術院の研究会員となって本格的に絵の勉強を始めるも、伊豆大島に移り住み、一転漁師に。その後、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学し、首席で卒業。帝展に入選するなど一定の評価を得ていたようですが、戦後は画壇からは距離を置き、学校で教鞭をとったり、校長先生をしてたりしていたようです。


第1章 郷愁の家

比較的初期とされる作品は朦朧体や片ぼかしで描かれた作品が多く、横山大観や菱田春草といった日本美術院の画家の影響を強く感じます。煙るような筆触が何とも言えない雰囲気を創り出していて、朦朧体の作品の中でも個人的にかなり好み。夜道を三味線弾きが歩いてたり、暗闇の中フクロウが枝に止まってたり、詩情溢れる画面作りや懐かしい田舎の風景、また俯瞰的な構図という方向性はこの頃既に固まっていたのかもしれません。特徴的な丸っこい家屋は牛田雞村を思い起こさせます。雞村も日本美術院院友で年齢もほぼ同じなので、何らかの形で繋がりがあったのでしょうか。

不染鉄 「林間」
大正8年(1919)年頃 奈良県立美術館蔵

画風が変わるのは伊豆大島へ移って以降。興味深いのは、画風が変わるだけでなく、不染の思い出が作品に投影されるようになり、それが彼のスタイルになっていくところ。繊細な筆致で描かれた農村や漁村の風景からは自然とともに生きる人々の暮らしが見え、郷愁を誘います。不染が育った小石川や房総、伊豆大島などを描いた作品には、「母はランプの下でしきりにはたををっていた事などを覚えております」(原文ママ)のように画中に思い出が綴られたものが多く、これがまた心に沁みます。

奈良の田園、京都の水郷、下田の海辺を描いた3巻からなる「思出之記」にも人々の慎ましい暮らしぶりがこまごまと描かれ、思わず引き込まれずにいられません。軒先で洗濯を干していたり、家の中では針仕事をしてたり、庭先で母親が魚を捌くのを小さな子どもが見ていたり、そうした生活の風景を見つめる不染の眼差しが温かい。


第2章 憧憬の山水

初期にも大正期に流行した新南画の影響を受けたと思しき作品がありましたが、南画への関心は高かったようで、「雪景山水」や「萬山飛雪」など印象的な南画作品がありました。特に「雪景山水」は幾重もの山並みのところどころに胡粉が使われ、雪の白さを際立たせているのが面白い。南画ではありませんが、「凍雪山村之図」では屋根の雪の白さを胡粉で表現し、家の中の灯りの温かみを強調していて、うまいなと思います。

当時暮らしていた奈良の風景を描いた絵巻「南都覧古」がまた面白くて、「町と申しましてもすっかり田舎です」とか「こうして描いているうちに実際の景色と地理のようなものにとらわれてきて固苦しくなってきます」とか、ちょっと山口晃的なところもあって笑えます。


第3章 聖なる塔・富士

一つフロアーを下りたところにあったのが「薬師寺東塔の図」。薬師寺東塔のバックに奈良の町並み、そして若草山を縦一列に描いていて、ほぼ同構図の作品が複数あったので、この構図にこだわりを持っていたのが分かります。そのなかでひと際大きかった「薬師寺東塔之図」(個人蔵)は写実的な塔に対し、森や木立は点描風に描かれ、秀逸。

不染鉄 「薬師寺東塔の図」
昭和45年(1970)年頃 個人蔵

富士山を描いた作品も複数あるのですが、そのなかでも最も大きく、インパクトが強いのが「山海図絵」。伊豆の海や漁村の風景から雪を頂いた富士の高嶺までを俯瞰で描いた作品。海には魚やカニ、サメの姿があったり、真ん中のあたりには汽車が走っていたり(窓に映る人の姿も)、不染の農村や漁村を描いた風景画と富士山図が合わさったユニークで不思議で魅力的な傑作です。

「山海図絵」やほかの縦の構図に富士山を描いた作品を観て思い出したのが、駿河湾から浅間神社そして富士山までを縦に描く富士山曼荼羅図の伝統的な構図。薬師寺から若草山を望む作品も春日神社やその周辺そして若草山を描く春日社寺曼荼羅図が頭に浮かびます。恐らくこうした参詣曼荼羅図が着想の源にあったのかもしれません。

不染鉄 「山海図絵(伊豆の追憶)」
大正14年(1925) 木下美術館蔵


第4章 孤高の海

昭和30年代になると不染は海をテーマにした作品を繰り返し描いています。大海原に浮かぶ一艘の舟と大きな岩山の孤島。島は伊豆大島をモデルにしてるといいますが、大海原に屹立する姿はまるで蓬莱山のようです。そのモノトーンの色調と、画面から伝わる物寂しさや孤独感が心の奥にドーンと響いて来るというか、しばらく絵の前から動けなくなりました。こんな日本画があったという驚きもさることながら、深遠な思想すら感じられるその水墨の世界に心打たれました。

不染鉄 「南海之図」
昭和30年(1955)頃 愛知県美術館蔵

夜の海の中に家並みが描かれる幻想的な「海」や、絵の外にまで波や魚がビッシリ描きこまれた「思い出の岡田村」、巨大な廃船と漁村の小さな家並みの対比が圧倒的な「廃船」など、非常に印象的な作品が多くあります。

不染鉄 「廃船」
昭和44年(1969)頃 京都国立近代美術館蔵

第5章 回想の風景

不染鉄は小石川にある光圓寺の住職の子ということもあってか、お寺や仏像を描いた作品も残していて、雨の中のお寺から覗く阿弥陀如来を描いた「静雨(静光院)」や無数の無縁仏を描いた「春風夜雨」が印象的。光圓寺のイチョウの大木を描いた作品には小さなお地蔵さんが描かれていて、それがまたなんかとてもいい。

不染鉄 「落葉浄土」
昭和49年(1974)頃 奈良県立美術館蔵

晩年は奈良のお土産の絵を描いたり、焼き物の下絵を描いたり、扁額に絵を描いたり、制作活動の幅も広がっていたようです。知られざる画家というと、どこか辺鄙な山や島に籠ったり、交流を遮断して創作に打ち込むという姿が浮かびますが、不染鉄はそういう意味での孤高の画家という感じではないようですね。2時間近く観てたのですが、とても離れ難く、後を引く展覧会でした。


【没後40年 幻の画家 不染鉄展】
2017年8月27日(日)まで
東京ステーションギャラリーにて


「朦朧」の時代―大観、春草らと近代日本画の成立「朦朧」の時代―大観、春草らと近代日本画の成立

2017/07/09

川端龍子展

山種美術館で開催中の『川端龍子 -超ド級の日本画-』を観てまいりました。

大正から昭和にかけて活躍した近代日本画を代表する画家の一人、川端龍子。本展は龍子の没後50年を記念する回顧展です。

龍子の作品は割と観る機会があるものの、実はよく分かってないところもあって、ちゃんとした形で観たいなと思っていたところの展覧会。ここまでまとめた形での回顧展は12年ぶりといいます。

日本美術ファンなら最初は誰でも一度は間違えると思うのですが、川端龍子は女性ではなく実は男性で、「タツコ」でも「リュウコ」でもなく「リュウシ」と読みます。

「龍子」は雅号ですが、なぜそういう名前をつけたかというと、龍子の父というのがかなりのハンサムで、まぁ外に女性を作っていたそうなんですね。家庭環境も複雑だったようで、龍子も子どもの頃は父のお妾さんと一緒に暮らしたりしていたといいます。そんなこともあってか、自分は人の子でなく龍の子だという意味で「龍子」と付けたのだとか(後に龍子は「父を許すことのできない気持を持ち続けている」とも語っています)。


第1章  龍子誕生 -洋画、挿絵、そして日本画へ-

もともと龍子は洋画家を目指していたというのは日本画ファンには知られた話かもしれません。会場には初期の希少な油彩画も展示されています。「女神」はまだ拙さが残りますが、青木繁のような古代神話をモチーフにした作品で、当時主流の白馬会の影響を窺わせます。「風景(平等院)」はがらりと違って厚塗りの激しいタッチ。ちょっと西洋画かぶれしたところも感じます。

[写真左] 川端龍子 「女神」 明治時代(20世紀) 大田区立龍子記念館蔵
[写真右] 川端龍子 「風景(平等院)」 明治44年(1911) 大田区立龍子記念館蔵

龍子は誰か画家に師事したことはなく、絵を学んだのも学校教育が始まりといいます(後に白馬会洋画研究所などに入ってますが)。旧制中学時代のものでしょうか、授業で描いた絵も展示されていました。「上」とか「丙」とか赤い筆で絵の評価が記されていて、なんか微笑ましい。 「狗子」は長沢芦雪の犬っぽいですよね。

[写真右から] 川端龍子 「狗子」 明治時代(19世紀)
「四季之花」「機関車」 明治32年(1899) 大田区立龍子記念館蔵

[写真左から] 『漫画東京日記』 明治44年(1911)出版 大田区郷土博物館蔵、
『大和めぐり』、『スケッチ速習録(第1号)』 大正4年(1915)出版 大田区立龍子記念館蔵
『日本少年』第10巻14号表紙絵 大正4年(1915)出版
「花鳥双六(『少女の友』第10巻1号付録)」 大正6年(1917)出版

21歳で結婚すると生活の糧を得るため、洋画家としての活動と並行して、新聞や雑誌の挿絵画家としても活躍。一躍人気画家になります。当時から龍子を女性だと思う人が多かったようで、龍子が男性だったことにショックを受けるファンもいたのだとか。

その後、龍子は洋画家としての研鑽を積むために渡米するのですが、結局はそれがきっかけとなり日本画家に転向します。アメリカで自分の作品が評価されなかったことや、滞在中に感銘を受けたのがシャバンヌの壁画とボストン美術館で観た東洋美術ぐらいしかなかったというのも大きかったようです。

川端龍子 「火生」 大正10年(1921) 大田区立龍子記念館蔵

初期の日本画には院展の仲間の速水御舟の影響なのか、群青と緑青を多用した作品もあったりします。その中で「火生」は後の龍子のダイナミズムを想起させる強い個性を感じる作品。発表当時はその激しい色使いが“会場芸術”と揶揄されたといいますが、龍子はむしろ展覧会を目的とした制作、つまり“会場芸術”こそ自分の目指す道だと考えるようになります。


第2章  青龍社とともに -「会場芸術」と大衆-

院展脱退後、自ら立ち上げた美術団体“青龍社”に関する資料も展示されています。青龍社の最初の展覧会は院展にぶつけて横の会場で開催したとかで、在野の巨人といわれた龍子らしいエピソードという気がします。

[写真左] 「青龍社第1回展覧会ポスター」 昭和4年(1929) 大田区立龍子記念館蔵

龍子といえば、“会場芸術”を象徴するスケールの大きな屏風絵。会場の一番奥にはが六曲一双の屏風が3点も展示されていて、とても見応えがあります。

川端龍子 「鳴門」 昭和4年(1929) 山種美術館蔵

「鳴門」は青龍社の第一回展覧会の出品作。ダイナミックで躍動感のある渦潮と、約3.6kgもの群青の絵具を使ったという海の青さと泡立つ白のコントラストが強烈です。よく見ると、白い色も胡粉や金、銀が使われていて、多層的というか、一見大胆な絵に見えて非常に計算されていることが分かります。

川端龍子 「草の実」 昭和6年(1931) 大田区立龍子記念館蔵

「草の実」は紺紙金泥経の装飾絵を屏風に展開したもの。龍子の傑作と名高い東京国立近代美術館の「草炎」(本展には未出品)の翌年に描かれた作品ですが、「草炎」が生い茂る夏の草むらなら、「草の実」は秋の風情でしょうか。数種類の金泥やプラチナが使われていて、同じ金色でもそのニュアンスはさまざま。装飾性の高さやその美しさだけでなく、何か仏教的な尊さも感じます。

[写真右] 川端龍子 「爆弾散華」 昭和20年(1945) 大田区立龍子記念館蔵
[写真左] 川端龍子 「香炉峰」 昭和14年(1939) 大田区立龍子記念館蔵

今回非常に興味深かったのが戦争にまつわる2点の作品。「香炉峰」は日本軍の嘱託画家として偵察機に同乗したときの経験をもとに、廬山の景観を描いたいわゆる戦争画。屏風の大画面からはみ出るぐらいのスケールの大きさに圧倒されます。正しく“超ド級の日本画”。機体が半透明なのもユニークですが、背景の山が廬山の屹立した山というより、日本のやまと絵のような山並みなのも面白い。

「爆弾散華」は戦争末期、自宅を爆撃され、菜園の夏野菜が吹き飛ぶ様子を描いたという作品。爆風で飛び散る野菜やその閃光が様々な形に千切られた金箔で表現されています。その瞬間はまるでストップモーションのようで、空襲で失われた多くの人々の命と重なります。

[写真左] 川端龍子 「百子図」 昭和24年(1949) 大田区立龍子記念館蔵
[写真右] 川端龍子 「五鱗」 昭和14年(1939) 山種美術館蔵 (展示は7/23まで)

[写真右] 川端龍子 「龍巻」 昭和8年(1933) 大田区立龍子記念館蔵
[写真左] 川端龍子 「夢」 昭和26年(1951) 大田区立龍子記念館蔵

ほかにも、戦後インドから上野動物園に贈られた象のインディラと子どもたちをテーマにした「百子図」、どことなくモダンな味わいのある「五鱗」、青々とした海原を飛び跳ねるトビウオを描いた「黒潮」、海の生物ごと巻き上げられるという発想が面白い「龍巻」、中尊寺金色堂の藤原氏の遺体調査のニュースに着想を得たという「夢」、ハイライトの効いた艶やかな色彩が印象的な「牡丹」など、幅広い画業を展観できます。

川端龍子 「真珠」 昭和6年(1931) 山種美術館蔵 (展示は7/23まで)

「真珠」も個人的に大好きな龍子の作品の一つ。「鳴門」に似た青い海と白い波飛沫も印象的です。海辺に寝そべる裸婦はどこか幻想的で、龍子が若い頃に感銘を受けたというシャヴァンヌの壁画のような神秘性も感じます。ちなみに本展ではこの「真珠」のみ撮影可能です(後期は「八ツ橋」(山種美術館)が撮影可です)。


第3章 龍子の素顔 -もう一つの本質-

龍子の異母弟に俳人の川端茅舍がいますが、龍子も20代の頃から俳句も嗜んでいたそうです。読んだ句に絵を添えた短冊があって、絵もいいんですが、字がまたいい字なんです。

琳派風の小さな屏風「春草図雛屛風」にも惹かれました。龍子の琳派への造詣の深さを感じます。対幅の「鯉」や、梅や竹を描いた掛軸など伝統的な画題の日本画もあって、晩年には“床の間芸術”的な作品を手がけていたことも知りました。

[写真左] 川端龍子 「十一面観音」 昭和33年(1958) 大田区立龍子記念館蔵
[写真右] 川端龍子 「花下独酌」 昭和35年(1960) 大田区立龍子記念館蔵

以前、トーハクで川端龍子旧蔵の仏像を拝見したことがありますが、龍子は自邸に持仏堂を設け、十一面観音と脇侍の不動明王と毘沙門天を安置して朝夕欠かさず礼拝していたのだそうです(調べたところトーハクで観たのは毘沙門天立像のよう)。「十一面観音」はその本尊を描いた作品で、「吾が持仏堂」という連作の1点とか。龍子は仏画をどのぐらい描いてたか知りませんが、機会があれば他の作品も観てみたいと思います。そういえば龍子は池上本門寺や浅草寺の天井絵も描いていましたね。

川端龍子 「牡丹」 昭和36年(1961) 山種美術館蔵

超ド級なスケール感のある作品だけでなく、大胆なのに巧みに計算されていたり、力強いのに繊細だったり、いろいろ気づかされることの多い展覧会でした。

本展では山種美術館の所蔵作品だけでなく、大田区立龍子記念館からも多くの作品を借り受けてますが、大田区立龍子記念館の方でも『川端龍子没後50年特別展』が今秋開催されるとのこと。こちらも今から楽しみです。



1階の≪Cafe 椿≫では今回も、青山の老舗菓匠「菊家」による趣向を凝らしたオリジナル特製和菓子が用意されています。どの和菓子も展示された作品にちなんだもの。う~ん、どれを選ぶか迷ってしまう・・・。


※展示会場内の写真は特別に主催者の許可を得て撮影したものです。


【特別展 没後50年記念 川端龍子 -超ド級の日本画-】
2017年8月20日(日)まで
山種美術館にて


カフェのある美術館 素敵な時間をたのしむカフェのある美術館 素敵な時間をたのしむ

2017/07/03

アルチンボルド展

国立西洋美術館で開催中の『アルチンボルド展』を観てまいりました。

アルチンボルドというと、人間の顔を花や野菜などで象った風変わりな絵を描く画家として知られます。過去に『だまし絵展』などで作品が来日したことはありますが、アルチンボルドをメインにした展覧会は日本初とか。

アルチンボルドが活躍したのは16世紀後半。ルネサンスが終焉を迎え、バロックへ移る時代の画家。アルチンボルドはちょっとマニアックだし、ツウ好みの画家というイメージがあったのですが、一度観たら忘れない作品のインパクトもあってか、開幕最初の週から結構にぎわっているようです。

奇想の画家の代表格という感じのアルチンボルドですが、意外なことに、ハプスブルク家の宮廷画家として3代に渡って仕えただけでなく、宮廷のアートディレクターとして祝祭行事の企画や演出なども手掛けていたんですね。会場にはルドルフⅡ世のためにアルチンボルドがデザインした馬上試合のための衣装デザインなんかも展示されていました。

ハプスブルク家の宮廷画家というとベラスケスやゴヤが思い浮かびますし、ほぼ同時代ではデューラーやティツィアーノも縁が深いといいます。その中でアルチンボルドはかなり異色ですし、どうしてもハプスブルク家の宮廷画家というイメージと結び付かなかったのですが、今回の展覧会を観て、そういう今までバラバラだったものが一気に繋がった気がします。実は非常に写実性に優れ、とても知的な画家でした。

ジュゼッペ・アルチンボルド 「春」
1563年 王立サン・フェルナンド美術アカデミー美術館蔵
ジュゼッペ・アルチンボルド 「夏」 1572年 デンヴァー美術館蔵

ジュゼッペ・アルチンボルド 「秋」 1572年 デンヴァー美術館蔵
ジュゼッペ・アルチンボルド 「冬」 1563年 ウィーン美術史美術館絵画館蔵

目玉の《春夏秋冬》シリーズと《四大元素》シリーズは全て一つの部屋にまとめて展示されています。アルチンボルドを代表する作品をグルグル回って観ることができるので、いろいろ比べたり、観直したりできてとても楽しいし、大変助かります。観る方としてはとても楽なのですが、そんなに広い空間でないので混んでくると大変かもしれないですね。

「春」は花、「夏」は野菜など夏の恵み、「秋」は果物など秋の恵み、「冬」は枯れ木だったり、「大地」は野生の動物、「火」は火にまつわるもの、「大気」は鳥、「水」は水の中に暮らす生物だったり、その発想の突飛さなどアルチンボルドのユニークさを存分に楽しめるのですが、実はユニークなだけの画家でないこともよく分かります。写真ではそこまで凄いと思わなかったのですが、実際に《春夏秋冬》や《四大元素》を観るとその写実性の高さ、精緻さに驚かされます。そしてさまざまなメタファー。非常に知的な遊びに満ちた絵であることも初めて知りました。

ジュゼッペ・アルチンボルド 「大地」
1566年(?) リヒテンシュタイン侯爵家コレクション蔵
ジュゼッペ・アルチンボルド(?) 「火」 個人蔵

ジュゼッペ・アルチンボルド(?) 「大気」 個人蔵
ジュゼッペ・アルチンボルド 「水」 1566年 ウィーン美術史美術館絵画館蔵

もちろんアルチンボルドはこんな珍奇な肖像画ばかりを描いていたわけでなく、ちゃんとした肖像画も残しているのですが、数点展示されていた肖像画を観る限り、マニエリスムを感じるものもあって、非常に興味深い感じがしました。宮廷画家ということもあり、実際には宗教画なども描いていたといわれますが、残念ながら現存はしないとか。

初期博物学との繋がりや後の静物画への影響という切り口もなるほどと思います。時代的に大航海時代の影響もあって、たとえば《春夏秋冬》の「花」には遠くアフリカやアメリカ大陸の花も描かれているといいます。

そしてハプスブルク家のクンストカンマー(美術蒐集室)まで話は広がります。ハプスブルク家にはそれこそ古今東西の珍しいものや貴重なものが世界各地から運び込まれたのでしょうから、どんなお宝があったのかとても興味をそそります。ミュージアムの原型といわれるのもなるほどと思います。カナリア諸島から連れて来られたという多毛症の少年の絵があったのですが、見せ物的な好奇の対象でもあったでしょうし、当時の特権階級の持つ支配欲や優越感のようなものもあったのかなと思ったりしました。

ジュゼッペ・アルチンボルド 「庭師/野菜」 個人蔵
クレモナ市立美術館蔵

SNSでも話題の“アルチンボルド・メーカー”は会場入口にあります。すでに数十分の行列ができてるので、“アルチンボルド・メーカー”をやりたい人は時間に余裕を持った方がいいでしょう。特に閉館時間前は危険ですね。会期末なんて相当な行列ができるんじゃないかと思いますよ。

わたしの顔はこんな感じです(笑)


【アルチンボルド展】
2017年9月24日(日)まで
国立西洋美術館にて


奇想の宮廷画家 アルチンボルドの世界 (TJMOOK)奇想の宮廷画家 アルチンボルドの世界 (TJMOOK)