2015/10/30

琳派 京を彩る

京都国立博物館で開催中の『琳派 京を彩る』を観てまいりました。

琳派誕生から400年。まあ何をして琳派のはじまりとするかは意見もあるでしょうが、本阿弥光悦が徳川家康から京都洛北・鷹峯の地を与えられ、工芸の職人などを集めて「光悦村」を作ってから400年になるといいます。

今年はとにかく記念の展覧会やイベントが多くありましたが、そのトリを飾るのが本展。琳派誕生の地・京都で初めての本格的な琳派展なのだそうです。

会場はいつもの旧本館(明治古都館)ではなく、昨年オープンした平和知新館。館内は広々とし、各部屋が細かく分かれているので、混んでる割にはあまり窮屈な感じはしませんでした。

全期間の出品数は175点。8年前の東博の『大琳派展』が約240点だったので、規模としては『大琳派展』におよびませんが、カブる作品は1/3ぐらいで、琳派ファンには見慣れた作品もあるものの、初めて観る作品も多く、地元寺院や関西圏の美術館の所蔵作品が多く展示されているのも京都らしいところです。


第1章 光悦 琳派の誕生

本展は、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳を中心に据えてるところがさすが京都。あくまでも京都の琳派。全体の8割がこの3人(およびその周辺)の作品で、とりわけ光悦、宗達の充実ぶりはハンパありません。『大琳派展』では大きく取り上げられていた酒井抱一と鈴木其一は琳派の後継者扱い。抱一はん?あ~江戸ん人ですやろ。其一ってどなたはんどすか?状態。

本阿弥光悦 「舟橋蒔絵硯箱」(国宝)
江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵 (展示は11/1まで)

光悦は書状などの史料も多いのですが、琳派の成り立ちを考えると貴重です。本阿弥家はもともと刀剣の研磨、鑑定を家業としていたということで、斬る真似をするだけで骨まで砕けるという名刀「骨喰藤四郎」と、光悦の従兄弟・光徳によるその押型の刀絵図(明暦の大火で焼身となる前の刀文が分かる)も展示されています。陶芸では楽焼の茶碗、蒔絵工芸ではおなじみの「舟橋蒔絵硯箱」、ほかにも螺鈿の経箱や笛筒などが並びます。


第2章 光悦と宗達 書と料紙の交響

つづいて光悦と宗達のコラボ作品。やはり圧巻は「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」の全巻まるまる展示で、宗達の美しい絵と光悦の流麗な書を最初から最後まで通して観られるというのは感動ものです。観終わってもまた最初から観たくなるぐらい惹かれるものがあります。13.5mもの長い絵巻がちょうどケースにうまいこと収まっていて、これはこの絵巻を展示するために合わせた大きさなのかとも思いました。

筆・本阿弥光悦、画・俵屋宗達 「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(重要文化財)
桃山時代・17世紀 京都国立博物館蔵

ほかにも繊細優美な下絵に同化する光悦の字が美しい「四季草花下絵千載集和歌巻」や、雲母刷の色とりどりの料紙が贅沢な謡本の数々など、ため息の出るものばかり。


第3章 宗達と俵屋工房

宗達といわれる作品って、宗達筆と「伝わる」ものも多く、いわゆる工房作も含めると数は結構あるので、宗達といわれている作品があっても、これ本当に宗達?みたいな、ちょっと疑問符が付くものがあるのも事実。しかしここは京博。満を持して開催した琳派展だけあり、第一級の宗達作品、あるいは宗達およびその周辺とされる納得のいくクオリティの作品が並びます。

俵屋宗達 「蓮池水禽図」
江戸時代・17世紀 京都国立博物館蔵

やはりホンモノの宗達を観ると、たとえば先日某美術館で観た同題の伝・宗達の「蓮池水禽図」はなんか違うなと思ってしまいます(たとえ真筆だとしても明らかに水準が違うなと)。水墨なのに色彩を感じるというか、池辺の空気や湿気を感じるというか。すいすい泳ぐカイツブリの静かな水の動きまで見えるようです。

「蓮池水禽図」は蓮の葉のたらし込みも印象的ですが、「牛図」のたらし込みはこれぞ“たらし込み”という感じ。ここまで牛の肉体を表現できるのかと感動します。

俵屋宗達 「舞楽図屏風」(重要文化財)
江戸時代・17世紀 醍醐寺蔵 (展示は10/25まで)

醍醐寺の「舞楽図屏風」は『大琳派展』にも出品されなかった宗達の代表作。三島由紀夫はその表現を音楽的と評したといいます。ちょっと俯瞰的な構図が面白いですね。京博のすぐ目と鼻の先の養源院からは「唐獅子図杉戸絵」が出品。養源院といえば宗達の白象の杉戸絵も有名ですが、そちらは貸し出されていませんでした。

俵屋宗達 「唐獅子図杉戸絵」(重要文化財)
江戸時代・17世紀 養源院蔵

数年前に東博の平常展で展示されていて印象深かった「扇面散屏風」や、やまと絵風の「西行物語絵巻」、琳派作品のその図様が多く見られる「伊勢物語図色紙」など興味深い作品があります。「伊年」印の「芥子図屏風」はケシのリズミカルな配置とパターン化された花や葉の組み合わせが光琳の「燕子花図屏風」を思わせます。宗達の後継者では金地草花図を展開させた宗雪の「秋草図屏風」が素晴らしい。


第4章 かたちを受け継ぐ

琳派は家系や師弟関係ではなく私淑により受け継がれ、また先達の作品を模写・模作することで次世代に伝わっていったわけですが、ここではその例を挙げて世代を超えた琳派の継承を紹介しています。

俵屋宗達 「風神雷神図屏風」(国宝)
江戸時代・17世紀 建仁寺蔵

まずは琳派の代名詞「風神雷神図屏風」。宗達、光琳、抱一の「風神雷神図屏風」の揃い踏みはここ約10年で3度目だと思いますが、京都では実に75年ぶりとのこと。これが目的で観に行く人も多いのではないでしょうか。宗達の元祖「風神雷神図屏風」は全期間展示ですが、光琳の「風神雷神図屏風」は11/8まで、抱一の「風神雷神図屏風」は10/27からで、3点の揃い踏みは10/27から11/8までになります。

尾形光琳 「三十六歌仙図屏風」
江戸時代・18世紀 メナード美術館蔵

もうひとつは「三十六歌仙図屏風」。こちらは光琳、抱一、其一。絵巻や画帖でよく見る歌仙絵を詠歌を伴わない群像表現に翻案した光琳。それをほぼ正確に模写した抱一。其一は掛軸の「三十六歌仙図」が有名ですが、今回出品されているのは屏風仕立てのもので、光琳と抱一の歌仙図をアレンジしつつ、琳派で同じく継承されている檜図と組にしているのが面白い。其一は「風神雷神図」もそのまま模写するのでなくアレンジを加えていますが、自分なりに創作してしまうのがユニークですね。


第5章 光琳 琳派爛漫

今年は光琳の300回忌でもあるのだそうで、光悦、宗達に劣らず光琳も充実。願わくば「燕子花図屏風」か「紅白梅図屏風」のどちらかでもあればと思いますが、こちらの2作品とも春にMOA美術館と根津美術館で出てしまってますからね、残念です。(国宝・重要文化財の公開は原則年間2回以内とし、公開日数は60日以内とするというルールがあります)

尾形光琳 「孔雀立葵図屏風」(重要文化財)
江戸時代・18世紀 個人蔵 (展示は10/25まで)

尾形光琳 「白楽天図屛風」
江戸時代・18世紀 個人蔵

興味深いのが「孔雀立葵図屏風」。立葵は「伊年」印の草花図の流れを汲んでると思うのですが、右隻の崖は「太公望図屏風」の崖の表現を、梅のジグザグの枝は「紅白梅図屏風」を思い起こさせます。立葵と孔雀という組み合わせも不思議ですし、あまり意匠化されてない左隻に比べ右隻はかなり誇張化されているのも不思議。

京博の公式マスコットにもなった光琳の「竹虎図」もあります。虎というより大きな猫といった憎めなさと軽妙洒脱な水墨の味わいが秀逸です。

尾形光琳 「竹虎図」
江戸時代・18世紀 京都国立博物館蔵


第6章 くらしを彩る

光琳の編み出した意匠は絵画の世界にとどまらず、たとえば光琳模様として着物や工芸品など江戸時代にブランド化していたのは有名なところ。ここでは生活に密着した香包や団扇、着物、蒔絵など工芸品に加え、弟で陶芸家の乾山の陶器などを紹介しています。

尾形光琳 「扇面貼交手筥」(重要文化財)
江戸時代・18世紀 大和文華館蔵

高級呉服商のボンボンとはいえ、やはり優秀な職人たちの仕事ぶりを間近で見て育ったというのは何物にも代え難く、絵師としての能力はあとあと磨かれるとしても、デザイナー的なセンスやディレクター的なカンはやはり育った環境に大きく左右されるのでしょう。そうした光琳のマルチクリエイターぶりがよく分かるコーナーでした。

尾形乾山 「立葵図屏風」
元文5年(1740) 個人蔵 (展示は11/1まで)

乾山はサントリー美術館の『着想のマエストロ 乾山見参!』と重なる作品も多いのですが、琳派、特に光琳の工芸意匠の流れの中で見ることで、光琳・乾山のブランド戦略が浮き彫りになってくる気がします。乾山の絵画も出品されていて、「立葵図屏風」は光琳の「孔雀立葵図屏風」を彷彿とさせますが、構図が工夫され、デザイン化されてるのがさすがです。展示の解説に「形式的なたらし込み」と書かれていたのが笑えますが。


第7章 光琳の後継者たち 琳派転生

抱一は光琳の後継者として他の絵師たちと一括りにされています。『大琳派展』では抱一と其一にもスポットが当てられていましたので、そこはやはりポイントが京都に置かれていると感じるところです。それでも展示の多くは抱一の作品で、絵画にとどまらず、光琳の意匠を引き継いだかたちの抱一デザインの団扇や着物などもあり、見応えがあります。

抱一の「青楓朱楓図屏風」は多くの部分を其一が手がけたのではないかとされる作品。確かに、濃厚な色彩感や大胆な構図は其一的で、其一の代表作「夏秋渓流図屏風」を思い起こさせます。

酒井抱一 「青楓朱楓図屏風」
文政元年(1818) 個人蔵 (展示は11/1まで)

1階の仏像コーナーは琳派に関係なく仏像なんですが、その一角に≪光琳と同時代の彫刻≫として清水隆慶という仏師の作品が展示されていて、これが面白い。どれも小ぶりで、まるで人形のよう。「風俗百人一衆」なんてその人その人の生活が滲み出てくるようで見事でした。



今年は多くの琳派の展覧会がありましたが、これを観ずして琳派イヤーは語れないという本命の展覧会だと思います。しばらく琳派の展覧会は落ち着くでしょうし、恐らくこの先数年は質・量ともにこの規模を超える琳派展はないでしょうから、琳派好きは観ておいて損はないと思います。


【琳派誕生400年記念 琳派 京(みやこ)を彩る】
2015年11月23日(月・祝)まで
京都国立博物館 平成知新館にて


尾形光琳: 「琳派」の立役者 (別冊太陽 日本のこころ 232)尾形光琳: 「琳派」の立役者 (別冊太陽 日本のこころ 232)


光悦── 琳派の創始者光悦── 琳派の創始者


俵屋宗達 琳派の祖の真実 (平凡社新書)俵屋宗達 琳派の祖の真実 (平凡社新書)

2015/10/23

久隅守景展

サントリー美術館で開催中の『逆境の絵師 久隅守景 親しきものへのまなざし』を観てまいりました。

狩野探幽の弟子の中でも特に優秀な門下四天王の一人といわれ、探幽の名「守信」から一字もらい、また探幽の姪を妻にもらうなど、血筋を重んじた狩野派の中にあって、とりわけ高い期待と信頼が寄せられていた守景。

探幽やその弟・尚信、安信ら江戸狩野派の作品は観る機会が多いものの、その弟子となると、英一蝶のように狩野派を飛び出したり(彼の場合は破門ですが…)、また狩野派の画塾に学び後に大成した絵師を除けば、一族の片腕として活躍したとはいえ、一門人にこうしてスポットが当たるのは異例のような気がします。

個人的には東博で観た「納涼図屏風」に一目惚れして以来、守景は気になる存在でした。数年前に石川県立美術館で回顧展がありましたが、そのとき観に行けなかった身としては待望の展覧会。これまでなかなか掴めなかった守景の全貌が明らかになります。


第一章 狩野派からの出発

狩野尚信・信政とともに参加した「知恩院小方丈下段の間 四季山水図襖」や富山の古刹・瑞龍寺の「四季山水図襖」の見事な障壁画、いかにも狩野派といった風情の山水図が並びます。瑞龍寺の「四季山水図襖」はたっぷりとした余白や薄墨の山影など探幽の流れを感じますが、知恩院の「四季山水図襖」はこんもりと丸みを帯びた山の量感がユニーク。

久隅守景 「四季山水図襖」
江戸時代・17世紀 瑞龍寺蔵

御殿や寺院の障壁画を描くにも、狩野派の親子兄弟親族の中でも格によって描く部屋が決められていたりするわけですから、弟子にもかかわらず障壁画を任されていたということからも守景の実力と評価が分かります。

「十六羅漢図」は狩野派の粉本に依ったとされる典型的な図様ですが、羅漢が龍の耳掃除をしていたり、足元で虎が戯れていたりとユーモラスのところも。

久隅守景 「十六羅漢図」
江戸時代・17世紀 光明寺蔵


第二章 四季耕作図の世界

四季耕作図や機織図は狩野派の作品によく見かける古典的な画題。守景も多く手がけていて、彼を特徴づけるものとして紹介されています。日本画の屏風では右から左へ季節が移るのが通常ですが、守景の四季耕作図では左から右に季節が流れていたり、描かれている人物や風俗の描写に独特の個性があるようです。

久隅守景 「四季耕作図屏風 旧小坂家本」(重要美術品)
江戸時代・17世紀 個人蔵 (展示は11/5~)

参考で探幽の「四季耕作図屏風」(展示は11/3まで)もあって、一作品だけなのでこれだけでは比較できませんが、探幽より守景の作品の方が耕作以外にも農村の生活風景や人々の生き生きとした営みが描かれて絵として面白味があります。田起こしや田植え、稲刈りや脱穀といった稲作の季節を追った流れに加え、機を織る人、牛を引く人、遊ぶ子供たち、雨宿りする人たち、鷹狩りや闘鶏などさまざまな情景や暮らしぶりが丁寧に、表現豊かに描かれています。

面白かったのが個人蔵の「四季耕作図屏風」で、一般的に中国の風俗を描かれるものが多い中、これだけは日本の風俗や田園風景が描れています。山々も漢画的な描写ではなく、やまと絵のような丸みを帯びた山容で、一面桜が咲いた山もあり、興味が尽きません。

四季耕作図は鑑戒画ともいわれ、「将軍や大名は耕作図に描かれた農作物を生産する人々の姿に領民たちを重ね合わせ、自らの戒めにした」そうで、時の為政者の注文により数多く描かれたといいます。恐らく守景の作品も、かつては大名家などで大切にされていたものなのでしょう。


第三章 晩年期の作品 -加賀から京都へ

探幽のもとで修業をしていた息子・彦十郎が破門されたことがきっかけで、守景は探幽のもとを去ります。守景は探幽から遣わされ加賀藩に滞在していたことがあり、その縁で金沢に移り、制作活動をつづけたそうです。

ここまでは狩野派らしい画風の障壁画や屏風の展示が中心だったのでそう思うのかもしれませんが、狩野派のしがらみから解放された守景の作品は、表現的にも幅が拡がり、より自由に、思いのまま腕を振るっているような感じがします。

久隅守景 「納涼図屏風」(国宝)
江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵 (展示は11/3まで)

守景の代表作といえば「納涼図屏風」。ひょうたん棚の下でのんびり夕涼みする一家の光景が微笑ましい。虫の声を聴いているのか、心地いい夜風と穏やかな家族の時間が伝わってくるようです。男と女で描く線を使い分けていたり、瓢箪は軽い筆致、月は外隈と、筆触の妙も楽しめます。図録には農家の女性でも半裸で外に出るのは憚れるので現実ではなく理想の姿だろうとありましたが、江戸時代には女性が半裸で農作業をすることもあったといいますし、明治生まれだったうちの祖母は縁側で瓢箪みたいなおっぱいを出して涼んでいたりしたので、昔はありふれた光景だったのかもしれません。


第四章 守景の機知 -人物・動物・植物

守景の人物画や動物画にはユーモアや朴訥とした味わいがあります。人物描写も巧いのですが、動物・鳥の表現はことさら秀逸。何ともいえない愛らしさがあります。おすすめは「花鳥図屏風」で、こんな表情豊かでかわいい鳥の屏風はなかなかありません。鳥たちの楽しげなおしゃべりが聴こえるようです。

久隅守景 「虎図」
江戸時代・17世紀 個人蔵 (展示は11/3まで)

「虎図」のこの愛らしい表情といったら。探幽にこんなかわいい虎の絵があるのかは分かりませんが、守景の虎は尚信の「猛虎図」(『江戸の狩野派』参照)を彷彿とさせます。狩野派のことなので、もとにした共通の粉本か古画があったのでしょうか。軽妙な筆運びや機知に富んだ表現力は探幽というより尚信に近いものを感じます。

久隅守景 「鍋冠祭図押絵貼屏風」
江戸時代・17世紀 個人蔵 (展示は11/3まで)

「鍋冠祭図押絵貼屏風」や「六歌仙画帖」も面白い。線描が軽快というか流麗というか、それでいて適格に人物をうまくとらえています。水墨の「蘭亭曲水図屏風」も遊び心が溢れていて楽しい。どの人物の描写もこなれ感があります。


第五章 守景の子供たち 雪信・彦十郎

最後に守景の問題児たち。娘・清原雪信は同門の絵師と駆け落ちし、息子・彦十郎は同じく同門の絵師と諍いがもとで破門となり、島流しされます。彦十郎は晩年に描いたとされる鷹とジャコウ猫の組み合わせがユニークな押絵貼の「鷹猫図屏風」が展示されていて、なかなかの腕前。

清原雪信 「粟鶉図」
江戸時代・17世紀 個人蔵 (展示は10/26まで)

ここでは雪信の作品が充実していて、得意とした花鳥画や仏画、『源氏物語』など古典に材を取った作品などが並びます。雪信は江戸時代を代表する女流絵師。実践女子学園香雪記念資料館の『華麗なる江戸の女性画家たち』で雪信の作品を観て、その実力に驚きましたが、今回あらためてその腕の確かさを痛感しました。

「粟鶉図」の丁寧な描写とデリケートな筆線、「小督図」の細やかな表現としっとりとした情緒、狩野派らしい図様にも関わらず女性らしさを感じさせる「観音図」などどれも完成度が高く見事。一度、清原雪信展というのも観てみたいものです。



守景は江戸絵画の中でも決してメジャーな絵師ではありませんし派手さはありませんが、探幽譲りの腕の確かさ、人間味溢れるまなざしと表現の豊かさ、おおらかな雰囲気は格別です。館内は展示のスペースもゆったりしていて、たぶんそれほど混まないと思う(笑)ので、ゆっくりと日本画を鑑賞したい方にはおすすめです。


【逆境の絵師 久隅守景 親しきものへのまなざし】
2015年11月29日(日)まで
サントリー美術館にて


関連書籍:
聚美 vol.17(2015 AUT 特集:一休宗純の世界 久隅守景の芸術

2015/10/18

五姓田義松展

神奈川県立歴史博物館で開催中の『没後100年 五姓田義松 -最後の天才-』を観てまいりました。

五姓田義松というと、高橋由一と同時代、日本の洋画黎明期に活躍した画家の一人と記憶し、作品も何度かお目にかかってはいましたが、由一ほどの強い印象は持っていませんでした。

年齢的にも由一より一回り下ですし、由一の後に続いた人だろうとばかり思っていたのですが、実は由一より先に洋画家として頭角を現したこと、またどこか未熟な点も残る由一の絵に比べ、完璧に洋画の技術を習得していたこと、黒田清輝よりも前にパリに留学しサロンに入賞したことなど、恥ずかしながら今回の展覧会で初めて知りました。

その五姓田義松の没後100年を記念した本展は、前後期合わせ約800点という圧倒的なボリュームの作品や資料を展示。見どころも多く、これまでの義松のイメージを覆すとても素晴らしい内容でした。


第1章 鉛筆画/水彩画

鉛筆画や水彩画は初期のものもあれば、帰国後のものもあるので、ちょっと混乱しますが、制作年の表記を見るといつの作品かは分かります。それにしてもまあ膨大なデッサンの数々。当時はまだ油彩の画材が高価で、油彩画の練習をする機会も限れら、鉛筆や水彩で描かざるを得なかったということもあるようです。東京や横浜の風景や旅先での風景、身近な人々の顔や町の風俗などが細かく丁寧に描かれていて、幕末から明治初期にかけての様子を知る上でも面白い。

五姓田義松 「台所」
神奈川県立歴史博物館蔵

今回こうしてまじまじと見てまず驚くのはデッサン力がとても優れていること。見たものを素直に克明に描いています。10歳のときに絵師でもある父の勧めで、開港まもない横浜に居留していたイギリス人画家チャールズ・ワーグマンに弟子入りしたという経緯からも、無垢な状態で西洋画の技術を習得したことが一番の要因なのでしょう。そのあたりが日本洋画の父といわれる高橋由一との大きな違いなのかもしれません。

それにしても日本人で西洋画を学んでる人なんていなかった時代に、よくここまで鉛筆画や水彩画の技術を身につけられた思います。日本画の写生とは全く違いますし、細部まで丁寧で、陰影の付け方がまた巧い。父親の先見の明や英才教育のおかげというのもあるのでしょうが、やはり本人の努力がどれだけすごかったのか。この習作デッサンの数が物語っています。


第2章 油彩画

初期の油彩画は正確に把握する造形感覚がまだ乏しいと解説されていましたが、いやいやどうして、ごく初期の「婦人像」や「自画像」などは10代でここまで描けてれば問題ないでしょというレベルです。

五姓田義松 「自画像」
明治10年(1877) 東京藝術大学蔵

『ダブル・インパクト』でも紹介されていた22歳の「自画像」は第1回内国勧業博覧会で高橋由一を押さえ最高賞を受賞。義松はこれをきっかけに皇室から仕事の依頼を受けるなど洋画界のホープとして順調なスタートを切ります。由一の絵を見ていると、こうして日本人は徐々に西洋画の技術を学んでいったのね、と少々微笑ましいぐらいに思うのですが、明治初期にいきなりこうして高い技術を持った洋画家が生まれていたとはビックリです。

五姓田義松 「西洋婦人像」
明治14年(1881) 東京藝術大学蔵

五姓田義松 「人形の着物」
明治16年(1883) 笠間日動美術館蔵

25歳のときに活動の場をパリに移し、本場ヨーロッパで学び、また自分の実力を試そうとします。ちょっとお腹まわりが男性的な気がしないでもありませんが見事に写実的な「西洋婦人像」など、ヨーロッパでさらに腕を磨いたことが分かります。

まるでヨーロッパの画家が描いたのではないかと思うような「人形の着物」。この作品で義松は日本人として初のサロン入選を果たします。しかし時代は印象派が席巻。あくまでもリアリズムにこだわった義松の挑戦は失敗に終わります。日本の風景や風俗などを描いた作品を売りながら、イギリスやアメリカなどを転々とし、失意のまま日本に帰国したようです。

五姓田義松 「土佐丸」
明治29年(1896) 日本郵船株式会社蔵 (展示は10/16まで)

不幸なことに日本に戻ると、今度は一世代下で、義松の後にパリに留学した黒田清輝が印象派を取り入れた外光派の作品で脚光を浴び、義松の画風は明治中期にあって既に時代遅れとなってしまいます。そのあたりが義松が近代洋画史から忘れ去られてしまった一因のようです。

その後の義松の活動は肖像画や風景画の制作が中心となります。それでも「大隈重信像」や「原敬肖像」など重鎮の肖像画を描いているところ見ると、高い評価は得ていたのでしょう。後期の油彩画は構図的にも優れ、色彩の面でも研鑚を重ねた結果がよく分かるのですが、日本人画家としては最初期に渡欧したぐらい志の高かった青年だったことを考えると、後年多く描いたという富士山の風景画からは一抹の寂しさを感じずにいられません。


第3章 家族/自画像

義松の作品には自画像や家族を描いた作品も多くあります。とくに家族が揃った肖像画は近世以前は少なかったといいます。一家の肖像には家族以外にも義松と同年代の弟子たちが一生懸命制作に励む姿も描かれています。

五姓田義松 「五姓田一家之図」
明治5年(1872)頃 神奈川県立歴史博物館蔵

今回の展覧会で一番衝撃的だったのは母の臨終の前日の姿を描いたという「老母図」で、そのリアリティや筆の力強さもさることながら、これを僅か20歳で描いたということに驚きます。自分の母親の命が消えて無くなろうとしているときに、ここまで真っ直ぐに向かい合い、ここまで描き切った義松の気持ちを思うと、胸に熱いものが込み上げてきます。

五姓田義松 「老母図」
明治8年(1875) 神奈川県立歴史博物館蔵

会場の最後には義松の「変顔」デッサンもあり、最後の最後まで楽しませてくれます。五姓田義松がここまで早熟とは知りませんでしたし、ここまだズバ抜けた画力を持ったいたとも知りませんでした。もしかしたら早すぎた天才なのかもしれません。この展覧会を機に五姓田義松の再評価もきっと進むことでしょう。


【没後100年 五姓田義松 -最後の天才-】
2015年11月8日(日)まで
神奈川県立歴史博物館にて


関連書籍:
絵師五姓田芳柳義松親子の夢追い物語 (幕末明治西洋画師サバイバル)絵師五姓田芳柳義松親子の夢追い物語 (幕末明治西洋画師サバイバル)

2015/10/15

中国書画精華 -日本における受容と発展-

東京国立博物館の東洋館4階で行われている特集展示『中国書画精華 -日本における受容と発展-』を観てきました。

古来、日本画に大きな影響を与えてきた中国絵画。水墨画だって、花鳥画だって、禅画だって、文人画だって、もとは中国絵画なわけです。今回の特集展示は、日本における中国絵画の受容と発展に注目しながら、東博所蔵の名品を観るという企画で、南宋から明時代にかけて作品を中心に、重要文化財や国宝など大変充実した展示内容になっています。


伝・馬遠 「寒江独釣図」(重要文化財)
南宋時代・13世紀 東京国立博物館蔵(展示は10/25まで)

まずは南宋を代表する宮廷画家の馬遠。院体画の第一人者ですね。大きな余白のなかに詩情を込めた描き方は“馬一角”といわれ、馬遠の特徴とされています。大河にたゆたう小舟と釣糸に神経を集中させる一人の男。ゆったりとした静かな時間の流れを感じます。

梁楷 「六祖截竹図」(重要文化財)
南宋時代・13世紀 東京国立博物館蔵(展示は10/25まで)

梁楷 「李白吟行図」(重要文化財)
南宋時代・13世紀 東京国立博物館蔵(展示は10/25まで)

梁楷も南宋を代表する宮廷画家。簡略な筆で人物などを表現する減筆体で有名ですね。「六祖截竹図」も「李白吟行図」も少ない筆数で描かれ、減筆体の特徴が良く出ています。「六祖截竹図」は本来は三井記念美術館所蔵の「六祖破経図」と対幅で、昨年の『東山御物の美』で二幅が並んで限定公開されていたのは記憶に新しいところです。梁楷は水墨人物画など日本画に大きな影響を与え、東山御物の唐絵(中国絵画)の中でも最上とされたといいます。後期展示(10/27~)には国宝の「出山釈迦図」と「雪景山水図」が並びます。これも見ものです。

伝・夏珪 「山水図」
元時代・13世紀 東京国立博物館蔵(展示は10/25まで)

伝・夏珪 「山水図(唐絵手鑑「筆耕園」の内)」(重要文化財)
南宋時代・13世紀 東京国立博物館蔵(展示は10/25まで)

夏珪も馬遠とともに南宋四大家の一人と並び称される南宋院体画の代表的な絵師。雪舟に大きな影響を与えたことでも知られています。「馬遠の「筆」に対して「墨」,とくに滋潤な墨色の美しさを最大の特色とした」と解説されていました。対幅の山水図と手鑑の山水図の2点が出品されていて、ともに深く豊かな墨の筆触が強い墨気を感じさせ秀逸です。「筆耕園」の山水図は数ある夏珪と伝わる作品の中でも夏珪の水墨画法に最も近いのだそうです。

周全 「獅子図」
明時代・16世紀 東京国立博物館蔵(展示は10/25まで)

ほかにも、浙派を代表する画家の一人で、雪舟が師事したといわれる宮廷画家・李在の重厚な水墨画や、飄逸な画風の石恪の禅画、明時代の画院画家とされる周全の「獅子図」などが並びます。この周全の「獅子図」のインパクトといったら。気持ち悪いというか、滑稽というか。こんなけったいな獅子図は初めて観ました。一応、吉祥画らしいです。

馮子振筆 「無隠元晦あて法語」(国宝)
元時代・14世紀 東京国立博物館蔵

会場の残り半分は禅林墨跡で、南宋・元に渡った日本の禅僧によって日本に請来した中国高僧の書や、来日した中国僧が残した書が並びます。書のことはよく分からないのですが、日本の書画への影響や、茶の湯文化で広がった墨跡や古筆鑑賞の豊かな趣味の世界に思いを馳せることができます。



【中国書画精華 -日本における受容と発展-】
2015年11月29日(日)まで
東京国立博物館 東洋館8室にて


中国絵画入門 (岩波新書)中国絵画入門 (岩波新書)

2015/10/11

MOMATコレクション 藤田嗣治、全所蔵作品展示。

東京国立近代美術館の常設展示で行われている『特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。』を観てまいりました。

藤田嗣治の半生を描いた映画『FOUJITA』の公開に合わせた特集展示なんでしょうが、東近美というと、ここのところ戦争画の展示に力を入れているということもあるので、藤田の戦争画を全て紹介することで、日本の近代美術の光と影を一気に見せてしまおうという狙いがあるようにも思えます。

期間中は常設展の4階と3階は一部の展示室を除いて全て藤田嗣治の作品が展示されています。その数26点。そのほかにも藤田が寄稿した雑誌や著作、藤田の挿画などが多く展示されています。


パリの異邦人

やはりレオナール・フジタといえば、真っ先に思い浮かべるのが“乳白色の肌”。繊細な墨線で囲われた、しっとりとしたミルク色の肌のなんとも艶めかしいこと。1920年代のパリの人々をも魅了したふじた藤田の裸婦像は今も十分魅力的です。柔らかくもくっきりとした、迷いのない線は浮世絵を参考にしたものだそうで、いかにエキゾチックさを出すかを考えた末に生まれたものだとか。

藤田嗣治 「タピスリーの裸婦」
1923年 京都国立近代美術館蔵

パリ時代の代表作のひとつ「タピスリーの裸婦」。真珠のような上品で柔らかな肌の光沢にうっとりします。これだけは京近美からの特別出品という扱いのようです。「タピスリーの裸婦」と「パリ風景」はつい先だっての『NO MUSEUM, NO LIFE? これからの美術館事典』にも出品されていましたね。

藤田嗣治 「五人の裸婦」
1923年 東京国立近代美術館蔵

「五人の裸婦」は布を持つ女性は触覚、耳を触る女性は聴覚、口を指す女性は味覚、狗を伴う女性は嗅覚、中央の女性が視覚と五感を表しているのだとか。その装飾画のような象徴的な佇まいに黒田清輝の「智・感・情」を思い出しました。

南米旅行の際の作品が2点あって、それまでの優しい色合いの画風から鮮やかな色彩へと変化し、官能的な裸婦はたくましく生きる女性の姿へと変わっていくのが面白い。

藤田嗣治 「猫」
1940年 東京国立近代美術館蔵

藤田の作品には猫がよく描かていますが、「猫」はたくさんの猫が暴れまわり、よく見ると本能剥き出しで、ちょっと怖い感じさえあります。時代の空気を読んだ、一種の戦争画のようにも思えます。


戦争画

出品作品中、半分以上の14作品が戦争画。藤田の戦争画は『MOMATコレクション 誰がためにたたかう?』でも2作品だけ公開されていましたが、今回は東近美が所蔵(正確にはアメリカからの無期限貸与)する藤田の戦争画が全て並ぶという点で貴重です。ある意味藤田の名を借りた戦争画展といった感じすらします。

藤田嗣治 「哈爾哈(はるは)河畔之戦闘」
1941年 (無期限貸与) ※2015年7月に撮影

戦争画といっても戦争初期と末期では雰囲気がかなり違って、当初は「南昌飛行場の焼打」や「哈爾哈河畔之戦闘」のように戦地のパノラマ的な光景や戦闘機などがドラマティックに描かれていたものが、戦争が泥沼化し、戦況が悪化していくと、兵士がひしめき合う暗い画面に変化していきます。

それでも、たとえばノモンハン事件を描いた「哈爾哈河畔之戦闘」は一見その青空から日本の晴れ晴れしい活躍をイメージさせますが、実際には日本軍・ソ連軍ともに多大な犠牲を払った悲惨なものだったそうで、藤田は死体が転がる凄惨な光景の別バージョンも描いていたともいわれています。

藤田嗣治 「アッツ島玉砕」
1943年 (無期限貸与) ※2015年7月に撮影

人が人を殺しあう地獄絵図を描いた「アッツ島玉砕」は負け戦にも関わらず、「くじけず一層力をつくそう」というメッセージとともに大々的に報道され、ある意味メディアミックス的な戦略に利用されたといいます。

藤田がそれを認識し、意図していたのかは分かりませんが、かつて描いた戦争画はきれいに描きすぎたと振り返り、「縦横無尽に主観を混えて描きまくるべきだ」と述べています。「アッツ島玉砕」は日本人の勇敢な戦いが描かれてるのかと思いきや、よく見ると日本兵の狂気に満ちた、錯乱したような形相が強烈ですし、逆に米兵の救いを求めるような表情に気持ちが動かされます。

藤田嗣治 「サイパン島同胞臣節を全うす」
1945年 (無期限貸与)

藤田はヨーロッパの戦争画の歴史に触れ、「今日我々が最も努力し甲斐のあるこの絵画の難問題」を戦争のお蔭によって勉強ができ、戦時の戦意高揚にも役立ち、後世に保存されるならば「今日の日本の画家程幸福な者はなく、誇りを感ずる」と語っています。

単に戦争画を描くというのではなく、ヨーロッパの戦争画に比して劣ることのないよう、戦争画の名画を研究し、引用していたという点に強い興味を覚えます。「アッツ島玉砕」や「血戦ガダルカナル」ではラファエロ原案の壁画「ミルウィウス橋の戦い」と、「ソロモン海域に於ける米兵の末路」では「メデューサ号の筏」と、「サイパン島同胞臣節を全うす」ではアリ・シェフェールの「スリオート族の女たち」との関連性を指摘されていました。こうした知識を積極的に活かし、藤田は当時の戦争画をリードしたといいます。


戦後

戦後の作品は3作品。寓話を描いた「ラ・フォンテーヌ頌」の解説に「人間めいた行動をしようとするのに、つい残念な本性を表す」動物たちの姿をこの時期よく描いたとあり、そういう解説を読んでしまうと、戦争画の戦争責任の批判を受け、日本画壇から追放された藤田の思いと重なって見えてしまいます。かつてのパリ時代を彷彿とさせる「少女」はフランス帰化後の藤田の心の平穏が伝わってくるようです。

藤田嗣治 「ラ・フォンテーヌ頌」
1949-60年 東京国立近代美術館蔵


【所蔵作品展 MOMATコレクション 特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。】
2015年12月13日(日)まで
東京国立近代美術館にて


もっと知りたい藤田嗣治(つぐはる)―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)もっと知りたい藤田嗣治(つぐはる)―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)


戦争画リターンズ──藤田嗣治とアッツ島の花々戦争画リターンズ──藤田嗣治とアッツ島の花々