2011/12/23
平成中村座 十二月大歌舞伎
平成中村座の十二月大歌舞伎に行ってきました。今月は夜の部だけの鑑賞。
まずは『葛の葉』。
女房葛の葉と葛の葉姫の二役に扇雀、保名に松也。前半では保名の女房の葛の葉と瓜二つの葛の葉姫が現れて、どちらが本物の葛の葉か、となります。後半の奥座敷では一転、本物の葛の葉姫が訪ねてきたことに動転した女房・葛の葉(実は狐)の切ない子別れ。前半には扇雀の早替わりが、後半には曲書きがあり、ケレン味もあって楽しめました。ただ、後半は狐言葉や狐の仕草など狐っぽさの演技が前に出ていたのに対し、我が子と泣く泣く別れる情感がちょっと物足らない嫌いがありました。松也は保名をとても丁寧に務めていて、古風な感じもあって好感が持てました。先月の『吃又』でもいい味を出していたし、これからますます期待できそうです。
つづいて、常磐津の大曲『積恋雪関扉』。
関守関兵衛実は大伴黒主に勘太郎、宗貞に扇雀、小野小町姫に七之助、傾城墨染実は小町桜の精に菊之助。前半は宗貞のもとを小町姫が訪れ、こんな大雪の日にと関兵衛が怪しむが実は宗貞の恋人だったという展開、後半は関兵衛(実は大伴黒主)と墨染(実は小町桜の精)の駆け引きが見どころです。四人が四人、全員初役というのも面白く、新鮮。まるで花形歌舞伎のようですが、そこは若手とはいえ、実力のある役者ばかりなので申し分なし。中でも勘九郎襲名を前にした勘太郎が奮闘していて、また菊之助の墨染の妖艶さも格別で、二人の踊りはダイナミックで見応えがありました。小町姫と墨染は一人二役の場合が多いようですが、今回は七之助と菊之助がそれぞれ演じ、若手女形の競演といったところ。ただ、七之助も十分に美しいのですが、菊之助の肉感的な色気を前にしてしまうと、その細さ故にどうしても貧相に見えてしまい、ちょっと割を食ってしまった感じがしました。
最後は12月らしく、忠臣蔵外伝の『松浦の太鼓』。
松浦侯に勘三郎、源吾に菊之助、其角に彌十郎、お縫に七之助。勘三郎の松浦侯は愛嬌があって、いかにも勘三郎らしく“機嫌のいい殿様”で楽しい。其角も彌十郎らしいユーモラスなセンスと温かみと出ていて良かったです。菊之助はこの源吾も初役だそうですが、義士という難しい役どころを清々しく演じ、印象的でした。菊之助にしては珍しく声が嗄れていたのが気になりましたが、昼の部から夜の部、ずっと出ずっぱりというのもあるのでしょうか。最後は本公演お決まりの舞台の後ろが開いてスカイツリーが目の前に広がるとなるのですが、この日は昼でも最高気温9℃という日で、寒いわ、暗くてスカイツリーは見えないわで、役者さんも大変ですが、観る方も覚悟の松浦の太鼓でした。
2011/12/17
南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎
すでに会期終了となりましたが、『南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎』展を最終日に駆け込みで拝見してきました。
1543年にポルトガル船が種子島に来航して以後、16世紀半ばから17世紀初頭にかけて活発化したポルトガル、そしてスペインとの南蛮貿易。鉄砲やキリスト教の伝来にとどまらず、さまざまな物資や技術、文化が到来し、日本に多大な影響を与えましたが、美術においても、西洋美術作品や画法がダイレクトに伝えられ、わずか1世紀足らずの間ですが南蛮美術が花開きます。
まず第一会場の4階は、
第1章 はるかなる西洋との出会い
第2章 聖画の到来
第3章 キリシタンと輸出漆器
の3部構成。
入口を入るとすぐ、金雲輝く見事な「南蛮屏風」が展示されていました。一見すると市街を俯瞰した狩野派の作品らしい屏風絵ですが、よく見ると町を行き交うさまざまな階級の老若男女に混じり、ちらほらと南蛮人の姿が。南蛮船や南蛮寺なども描かれ、日本に南蛮文化が到来した頃の人々の驚きや生活の変化が屏風絵から伝わってくるようです。
「南蛮屏風」は当時の様子や風俗などが分かる貴重な作例ですが、そのほかにもキリシタンの礼拝用の聖画や聖像、また海外へと輸出されて行った日本の美術工芸品などが展示されていました。特に礼拝用の聖画や聖像などは、キリスト教の弾圧により、恐らくことごとく破壊されたでしょうから、密かに隠し持たれていたものが今に伝わっているということを考えると、非常に貴重な資料だと思います。
一つ階を降りて3階は、
第4章 泰西王侯騎馬図屏風の誕生と初期洋風画
第5章 キリシタン弾圧
第6章 キリシタン時代の終焉と洋風画の変容
第7章 南蛮趣味の絵画と工芸
の4部構成。
階段を降りてすぐの吹き抜けのロビーには、今回の目玉となっている二つの「泰西王侯騎馬図屏風」が展示されていました。金屏風という日本的なものに描かれた“日本的でないもの”のこの違和感。誰の手による作品なのか、またどうして制作されたのか、全くもって謎のようですが、西洋と東洋の出会いが生み出したこのユニークな屏風を見ていると、なんとも不思議であり、また面白く、南蛮美術の時代的な特異性をあらためて感じます。
傍らには「泰西王侯騎馬図屏風」の各箇所を高精細のデジタル画像で撮影し拡大したパネルが展示され、さまざまな光学調査で分析された構図や技法、顔料などの研究成果が拝見できます。
こういった西洋画の画法を採り入れ、西洋の人々や風俗を描いた作品を“初期洋風画”と呼ぶそうで、同じコーナーには桃山・江戸初期の日本人の描いた西洋風俗図がほかにも展示されていました。16世紀末ともなると、ヨーロッパではバロック美術が台頭してきますが、桃山時代に日本に伝えられた画法はまだ後期ルネサンス様式の影響が色濃いようです。それでも、これが日本人の手によるものかと考えると、その完成度の高さには驚かされます。
今回の展覧会での一番の特徴は、一部の作品を除いて、誰の手による作品かほとんど分からないということ。南蛮美術の作品の多くは、イエズス会の神学校などで西洋人から西洋画の技術を直接学んだ日本人絵師によるものと推定されていますが、名前を残している人がほとんどおらず、屏風絵等の制作の経緯や、その絵師がどういう経歴を持ち、その後どうしたのか、全く謎だなのだそうです。これもキリスト教の弾圧などを恐れてのことだったのでしょうか。
第5章と第6章は南蛮美術の“影”の部分、キリシタンの弾圧とその時代の終焉にまつわる作品が展示されていました。聖職者の処刑を描いた殉教絵や踏み絵は、作品を観るということ以上に歴史に触れるという思いを非常に強く感じます。聖者を達磨に見立てたりと、形を変えながら残ろうとする洋風画に時代の困難さを見る思いがしました。こうして日本に伝わった西洋画の技術は鎖国が解かれる江戸末期まで(秋田蘭画などごく一部を除いて)途絶えることになります。
【南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎】
2011年12月4日(日)まで
サントリー美術館にて
1543年にポルトガル船が種子島に来航して以後、16世紀半ばから17世紀初頭にかけて活発化したポルトガル、そしてスペインとの南蛮貿易。鉄砲やキリスト教の伝来にとどまらず、さまざまな物資や技術、文化が到来し、日本に多大な影響を与えましたが、美術においても、西洋美術作品や画法がダイレクトに伝えられ、わずか1世紀足らずの間ですが南蛮美術が花開きます。
まず第一会場の4階は、
第1章 はるかなる西洋との出会い
第2章 聖画の到来
第3章 キリシタンと輸出漆器
の3部構成。
入口を入るとすぐ、金雲輝く見事な「南蛮屏風」が展示されていました。一見すると市街を俯瞰した狩野派の作品らしい屏風絵ですが、よく見ると町を行き交うさまざまな階級の老若男女に混じり、ちらほらと南蛮人の姿が。南蛮船や南蛮寺なども描かれ、日本に南蛮文化が到来した頃の人々の驚きや生活の変化が屏風絵から伝わってくるようです。
重要文化財「南蛮屏風」(右隻) 伝狩野山楽
桃山時代 17世紀初期 サントリー美術館蔵
桃山時代 17世紀初期 サントリー美術館蔵
「南蛮屏風」は当時の様子や風俗などが分かる貴重な作例ですが、そのほかにもキリシタンの礼拝用の聖画や聖像、また海外へと輸出されて行った日本の美術工芸品などが展示されていました。特に礼拝用の聖画や聖像などは、キリスト教の弾圧により、恐らくことごとく破壊されたでしょうから、密かに隠し持たれていたものが今に伝わっているということを考えると、非常に貴重な資料だと思います。
「花鳥蒔絵螺鈿聖龕(聖母子像)」
桃山時代 16世紀末~17世紀初期 サントリー美術館蔵
桃山時代 16世紀末~17世紀初期 サントリー美術館蔵
一つ階を降りて3階は、
第4章 泰西王侯騎馬図屏風の誕生と初期洋風画
第5章 キリシタン弾圧
第6章 キリシタン時代の終焉と洋風画の変容
第7章 南蛮趣味の絵画と工芸
の4部構成。
階段を降りてすぐの吹き抜けのロビーには、今回の目玉となっている二つの「泰西王侯騎馬図屏風」が展示されていました。金屏風という日本的なものに描かれた“日本的でないもの”のこの違和感。誰の手による作品なのか、またどうして制作されたのか、全くもって謎のようですが、西洋と東洋の出会いが生み出したこのユニークな屏風を見ていると、なんとも不思議であり、また面白く、南蛮美術の時代的な特異性をあらためて感じます。
傍らには「泰西王侯騎馬図屏風」の各箇所を高精細のデジタル画像で撮影し拡大したパネルが展示され、さまざまな光学調査で分析された構図や技法、顔料などの研究成果が拝見できます。
重要文化財 「泰西王侯騎馬図屏風」
桃山~江戸時代初期 17世紀初期 神戸市立博物館蔵
桃山~江戸時代初期 17世紀初期 神戸市立博物館蔵
重要文化財 「泰西王侯騎馬図屏風」
桃山~江戸時代初期 17世紀初期 サントリー美術館蔵
桃山~江戸時代初期 17世紀初期 サントリー美術館蔵
こういった西洋画の画法を採り入れ、西洋の人々や風俗を描いた作品を“初期洋風画”と呼ぶそうで、同じコーナーには桃山・江戸初期の日本人の描いた西洋風俗図がほかにも展示されていました。16世紀末ともなると、ヨーロッパではバロック美術が台頭してきますが、桃山時代に日本に伝えられた画法はまだ後期ルネサンス様式の影響が色濃いようです。それでも、これが日本人の手によるものかと考えると、その完成度の高さには驚かされます。
今回の展覧会での一番の特徴は、一部の作品を除いて、誰の手による作品かほとんど分からないということ。南蛮美術の作品の多くは、イエズス会の神学校などで西洋人から西洋画の技術を直接学んだ日本人絵師によるものと推定されていますが、名前を残している人がほとんどおらず、屏風絵等の制作の経緯や、その絵師がどういう経歴を持ち、その後どうしたのか、全く謎だなのだそうです。これもキリスト教の弾圧などを恐れてのことだったのでしょうか。
重要文化財「聖フランシスコ・ザヴィエル像」
江戸時代初期 17世紀初期 神戸市立博物館
江戸時代初期 17世紀初期 神戸市立博物館
第5章と第6章は南蛮美術の“影”の部分、キリシタンの弾圧とその時代の終焉にまつわる作品が展示されていました。聖職者の処刑を描いた殉教絵や踏み絵は、作品を観るということ以上に歴史に触れるという思いを非常に強く感じます。聖者を達磨に見立てたりと、形を変えながら残ろうとする洋風画に時代の困難さを見る思いがしました。こうして日本に伝わった西洋画の技術は鎖国が解かれる江戸末期まで(秋田蘭画などごく一部を除いて)途絶えることになります。
【南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎】
2011年12月4日(日)まで
サントリー美術館にて
2011/12/03
ゴヤ 光と影
かれこれ1ヶ月前のことなので、ちょっとアップが遅くなってしまいましたが、国立西洋美術館で開催中の『ゴヤ展』に行ってきました。
今回の『ゴヤ展』はスペインのプラド美術館所蔵の作品展。油彩画25点、素描40点、版画57点(内51点は国立西洋美術館所蔵作品)、資料(書簡)1点の計123点。ここまで大規模なフランシスコ・デ・ゴヤの展覧会は実に40年ぶりとのこと。
ゴヤの作品で真っ先に浮かぶのが、「裸のマハ」と「着衣のマハ」、そして「巨人」。しかし、数年前に「巨人」がゴヤの作品ではないという結論に達したと発表された今、ゴヤといえば、もう二つのマハなのです(すいません、他によく知らなくて)。スペインでは国宝級であるはずのマハの一作が、遠く日本までこうしてやって来たのですから見逃す手はありません。
会場に入ると、まずゴヤの自画像が。以後、ゴヤの油彩画や宮廷画家としての肖像画、またライフワークであった寓話的な版画の数々が展示されています。
ゴヤはもともと王立タピスリー工場での原画制作で才能を認められ、頭角を現したということで、まずはそのタピスリー、つまり綴れ織の壁掛の原画が展示されています。どれも美しい油彩画で、タピスリーの原画でこれだけ完成度が高いのだから、実際のタピスリーはどんなものだったのだろうと思いますが、残念ながらタピスリーの展示はありませんでした。それでもゴヤの油彩画の色彩感、またスペインの日常生活の情景を知る上でも、とても貴重な作品だと思います。
本業の傍ら(?)に、ゴヤが私的に描いたり、依頼を受けて描いた作品、主に女性を描いた作品が次のコーナーには展示されていました。ゴヤの代表作「着衣のマハ」もその中に飾られています。“マハ”とはスペイン語で「小粋な女」を意味する言葉だそうで、俗にスペインの下町娘を指していたようです。残念ながら「裸のマハ」は来日していませんが、このモデルが誰なのかというのは諸説あって、数年前には「裸のマハ」を題材にした映画も作られたほど。謎めいた女性は昔も今も人の心を掴んで離さないものなのでしょうね。
ゴヤはタピスリー用の原画制作に携わる一方で風俗画も多く残していますが、ある時期から政府高官や貴族らの肖像画を多く手掛けるようになったといいます。これは宮廷画家の座を狙っていたゴヤの野心の表れだったとも言われていますが、その甲斐あってか、ゴヤは宮廷画家に登用され、やがて首席宮廷画家にまで出世を遂げます。本展にも国王カルロス4世の肖像画をはじめ、この頃ゴヤが手掛けた肖像画が展示されていて、先の風俗画とは異なる手堅い作風が見て取れます。しかし、1792年に病から聴力を失うと、ゴヤの作品には厭世的な傾向が表れ、生業の肖像画にも敢えて理想化されない、時としてあからさまな画風が見られるようになったと言われています。
このようにゴヤは、「着衣のマハ」のような美しい作品や色鮮やかな風俗画があったり、かっちりとした肖像画があったりする一方で、「わが子を食うサトゥルヌス」(非展示)のようなちょっと不気味で怖い絵画があるのもユニークなところ。そうした悪夢的な作風や戯画は版画シリーズ<ロス・カプリーチョス>や<素描帖>にも多くあり、本展覧会でもゴヤのそのもう一つの側面を垣間見ることができます。人間観察の鋭さや社会風刺、権力批判はゴヤの風俗画や肖像画とはまた違う面白さがあります。
ゴヤは一筋縄ではいかない多面性を持った画家だったということが良く分かる展覧会でした。
【プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影】
国立西洋美術館にて
2012年1月29日まで
もっと知りたいゴヤ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
宮廷画家ゴヤは見た [Blu-ray]
今回の『ゴヤ展』はスペインのプラド美術館所蔵の作品展。油彩画25点、素描40点、版画57点(内51点は国立西洋美術館所蔵作品)、資料(書簡)1点の計123点。ここまで大規模なフランシスコ・デ・ゴヤの展覧会は実に40年ぶりとのこと。
ゴヤの作品で真っ先に浮かぶのが、「裸のマハ」と「着衣のマハ」、そして「巨人」。しかし、数年前に「巨人」がゴヤの作品ではないという結論に達したと発表された今、ゴヤといえば、もう二つのマハなのです(すいません、他によく知らなくて)。スペインでは国宝級であるはずのマハの一作が、遠く日本までこうしてやって来たのですから見逃す手はありません。
会場に入ると、まずゴヤの自画像が。以後、ゴヤの油彩画や宮廷画家としての肖像画、またライフワークであった寓話的な版画の数々が展示されています。
ゴヤ「日傘」 1777年
ゴヤはもともと王立タピスリー工場での原画制作で才能を認められ、頭角を現したということで、まずはそのタピスリー、つまり綴れ織の壁掛の原画が展示されています。どれも美しい油彩画で、タピスリーの原画でこれだけ完成度が高いのだから、実際のタピスリーはどんなものだったのだろうと思いますが、残念ながらタピスリーの展示はありませんでした。それでもゴヤの油彩画の色彩感、またスペインの日常生活の情景を知る上でも、とても貴重な作品だと思います。
ゴヤ「着衣のマハ」 1800-07年
本業の傍ら(?)に、ゴヤが私的に描いたり、依頼を受けて描いた作品、主に女性を描いた作品が次のコーナーには展示されていました。ゴヤの代表作「着衣のマハ」もその中に飾られています。“マハ”とはスペイン語で「小粋な女」を意味する言葉だそうで、俗にスペインの下町娘を指していたようです。残念ながら「裸のマハ」は来日していませんが、このモデルが誰なのかというのは諸説あって、数年前には「裸のマハ」を題材にした映画も作られたほど。謎めいた女性は昔も今も人の心を掴んで離さないものなのでしょうね。
ゴヤ「ガスパール・メルチョール・デ・ホベリャーノスの肖像」 1798年
ゴヤはタピスリー用の原画制作に携わる一方で風俗画も多く残していますが、ある時期から政府高官や貴族らの肖像画を多く手掛けるようになったといいます。これは宮廷画家の座を狙っていたゴヤの野心の表れだったとも言われていますが、その甲斐あってか、ゴヤは宮廷画家に登用され、やがて首席宮廷画家にまで出世を遂げます。本展にも国王カルロス4世の肖像画をはじめ、この頃ゴヤが手掛けた肖像画が展示されていて、先の風俗画とは異なる手堅い作風が見て取れます。しかし、1792年に病から聴力を失うと、ゴヤの作品には厭世的な傾向が表れ、生業の肖像画にも敢えて理想化されない、時としてあからさまな画風が見られるようになったと言われています。
ゴヤ「魔女たちの飛翔」 1798年
このようにゴヤは、「着衣のマハ」のような美しい作品や色鮮やかな風俗画があったり、かっちりとした肖像画があったりする一方で、「わが子を食うサトゥルヌス」(非展示)のようなちょっと不気味で怖い絵画があるのもユニークなところ。そうした悪夢的な作風や戯画は版画シリーズ<ロス・カプリーチョス>や<素描帖>にも多くあり、本展覧会でもゴヤのそのもう一つの側面を垣間見ることができます。人間観察の鋭さや社会風刺、権力批判はゴヤの風俗画や肖像画とはまた違う面白さがあります。
ゴヤは一筋縄ではいかない多面性を持った画家だったということが良く分かる展覧会でした。
【プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影】
国立西洋美術館にて
2012年1月29日まで
もっと知りたいゴヤ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
宮廷画家ゴヤは見た [Blu-ray]
2011/11/26
国立劇場公演「日本振袖始」「曽根崎心中」
国立劇場大劇場の11月歌舞伎公演『日本振袖始』『曽根崎心中』を観てきました。
国立劇場は今年開場45周年ということで、先月10月から来年4月まで連続で歌舞伎を上演することになっていて、その第2弾が近松門左衛門の『日本振袖始』と『曽根崎心中』。
『日本振袖始』は、一幕物の「八岐の大蛇(やまたのおろち)退治」のくだりに、新たに序幕を加えての上演。もともとが全五段の大作なのだそうですが、40年前に六代目歌右衛門が復活させるまで長らく上演されなかったことや、またその後の公演でも「八岐の大蛇退治」のくだり(「出雲国簸の川川上の場」)しか上演されてなかったことを考えると、ほかの段はあまり面白くないのでしょう。そのため、今回は、前段を「出雲国簸の川川岸桜狩の場」として序幕にまとめ、二幕物としての上演となっています。
二幕目の「出雲国簸の川川上の場」では、八岐の大蛇の生贄となった稲田姫を素戔嗚尊(すさのおのみこと)が救うという筋立てですが、序幕では素戔嗚尊と稲田姫の出会いや、素戔嗚尊と八岐の大蛇の因縁、またタイトルにもなっている「振袖」の名前の由来が語られます。二幕目の暗い深山のおどろおどろしい場面とは大きく異なり、春おだやかな景色の中の場面で、まったく雰囲気が違うのですが、八岐の大蛇退治の前段としてよくまとめられ、構成されているなと感じました。
二幕目は舞踊劇で囚われの身の稲田姫の舞、八つの酒甕の酒を飲んで酩酊する岩長姫(実は八岐の大蛇)の舞、そして八岐の大蛇と素戔嗚尊の対決と、大きく分けて3部構成。魁春が赤姫姿の岩長姫と隈取の八岐の大蛇の二役を堂々と演じ、見応えがありました。欲を言えば、もう少し迫力というか、妖しさが欲しかったかなという気もします。素戔嗚尊の梅玉は貴公子然とした品の良い佇まいで、持ち前の端正さがかえって控えめに映りはしないかとも思いましたが、魁春との相性は流石で、全く気になりませんでした。梅玉の部屋子・梅丸が若干15歳ながらで稲田姫を演じ、健闘。その初々しさと美しさはとても印象的でした。
つづいては、『曽根崎心中』。お初に藤十郎、徳兵衛に翫雀。藤十郎のお初は既に1300回を超え、公演期間中には藤十郎襲名後のお初役100回目も迎えたそうな。今年で齢80の藤十郎ですが、年齢を感じさせないどころか、その若々しさには驚くばかり。縁起でもない話ですが、富十郎が逝き、芝翫が逝き、藤十郎のお初だっていつまで観られるか分からないと思って今回観にきたのですが、この人はまだまだ大丈夫だと確信しました。筋書きに「一世一代と思って勤める」と語っていて、もちろん藤十郎本人も年齢的に覚悟はしてるんだろうなとは思いますが。
その藤十郎のお初は、溢れんばかりの生命力に満ち、女性らしい包容力があり、決して弱い女性ではありませんが、それ故に徳兵衛への恋焦がれ、思い詰めた感情が胸に迫ります。これが円熟した味なのかもしれませんが、その円熟さを感じさせない初々しいお初が印象的でした。翫雀の徳兵衛は真面目さが身上で、その正直さが彼にとってはアダとなるわけですが、その優しく真面目で一直線なところの表現が巧く、愛する女性を思う愛おしさがなんとも切なく思えました。天満屋の名場面はもちろんですが、曽根崎の森の道行も哀感迫るものがありました。すでに5度目という亀鶴の九平次はあぶなげなく、寿治郎の下女お玉は場をさらう面白さ。竹三郎は徳兵衛の伯父・久右衛門を情濃く演じ、最後の叫びは痛切で感動的ですらありました。
国立劇場は今年開場45周年ということで、先月10月から来年4月まで連続で歌舞伎を上演することになっていて、その第2弾が近松門左衛門の『日本振袖始』と『曽根崎心中』。
『日本振袖始』は、一幕物の「八岐の大蛇(やまたのおろち)退治」のくだりに、新たに序幕を加えての上演。もともとが全五段の大作なのだそうですが、40年前に六代目歌右衛門が復活させるまで長らく上演されなかったことや、またその後の公演でも「八岐の大蛇退治」のくだり(「出雲国簸の川川上の場」)しか上演されてなかったことを考えると、ほかの段はあまり面白くないのでしょう。そのため、今回は、前段を「出雲国簸の川川岸桜狩の場」として序幕にまとめ、二幕物としての上演となっています。
二幕目の「出雲国簸の川川上の場」では、八岐の大蛇の生贄となった稲田姫を素戔嗚尊(すさのおのみこと)が救うという筋立てですが、序幕では素戔嗚尊と稲田姫の出会いや、素戔嗚尊と八岐の大蛇の因縁、またタイトルにもなっている「振袖」の名前の由来が語られます。二幕目の暗い深山のおどろおどろしい場面とは大きく異なり、春おだやかな景色の中の場面で、まったく雰囲気が違うのですが、八岐の大蛇退治の前段としてよくまとめられ、構成されているなと感じました。
二幕目は舞踊劇で囚われの身の稲田姫の舞、八つの酒甕の酒を飲んで酩酊する岩長姫(実は八岐の大蛇)の舞、そして八岐の大蛇と素戔嗚尊の対決と、大きく分けて3部構成。魁春が赤姫姿の岩長姫と隈取の八岐の大蛇の二役を堂々と演じ、見応えがありました。欲を言えば、もう少し迫力というか、妖しさが欲しかったかなという気もします。素戔嗚尊の梅玉は貴公子然とした品の良い佇まいで、持ち前の端正さがかえって控えめに映りはしないかとも思いましたが、魁春との相性は流石で、全く気になりませんでした。梅玉の部屋子・梅丸が若干15歳ながらで稲田姫を演じ、健闘。その初々しさと美しさはとても印象的でした。
つづいては、『曽根崎心中』。お初に藤十郎、徳兵衛に翫雀。藤十郎のお初は既に1300回を超え、公演期間中には藤十郎襲名後のお初役100回目も迎えたそうな。今年で齢80の藤十郎ですが、年齢を感じさせないどころか、その若々しさには驚くばかり。縁起でもない話ですが、富十郎が逝き、芝翫が逝き、藤十郎のお初だっていつまで観られるか分からないと思って今回観にきたのですが、この人はまだまだ大丈夫だと確信しました。筋書きに「一世一代と思って勤める」と語っていて、もちろん藤十郎本人も年齢的に覚悟はしてるんだろうなとは思いますが。
その藤十郎のお初は、溢れんばかりの生命力に満ち、女性らしい包容力があり、決して弱い女性ではありませんが、それ故に徳兵衛への恋焦がれ、思い詰めた感情が胸に迫ります。これが円熟した味なのかもしれませんが、その円熟さを感じさせない初々しいお初が印象的でした。翫雀の徳兵衛は真面目さが身上で、その正直さが彼にとってはアダとなるわけですが、その優しく真面目で一直線なところの表現が巧く、愛する女性を思う愛おしさがなんとも切なく思えました。天満屋の名場面はもちろんですが、曽根崎の森の道行も哀感迫るものがありました。すでに5度目という亀鶴の九平次はあぶなげなく、寿治郎の下女お玉は場をさらう面白さ。竹三郎は徳兵衛の伯父・久右衛門を情濃く演じ、最後の叫びは痛切で感動的ですらありました。
2011/11/20
11月吉例顔見世大歌舞伎
久しぶりに新橋演舞場に向かい、11月大歌舞伎を観てまいりました。
11月は顔見世公演ですが、今月は二世松緑、七世梅幸の追善興行ということで、ゆかりの演目が並んでいます。
昼の部、まずは近松門左衛門の『傾城反魂香』。通称『吃又』。又平に三津五郎、女房おとくに時蔵。三津五郎の又平は吃音の障害故のイラ立ちと自らの不甲斐なさがよく出ていて、又平の絶望感を巧く表現していたと思います。又平を労わるおとくも優しさと細やかさ、そして切なさが見えて、抑えるところは抑え、出るところは出て、細部まで行き届いた良いおとくでした。土佐将監の彦三郎、北の方の秀調は出過ぎず、しかし尾を引く味わいがありました。
つづいて『義経千本桜』から『吉野山』。忠信に松緑、静御前に菊之助。二世松緑と七世梅幸の孫同士の顔合わせということになります。ちょうど2年前の“さよなら歌舞伎座公演”で、菊五郎・菊之助の『吉野山』を観ていますが、そのときはどうも菊之助の静御前が澄まし過ぎていて面白くなかった記憶があるのですが、今回の静御前は表情や物腰に柔らかさが加わり、良かったと思います。一方の松緑は、型はしっかりと決め、安定感もあり、躍動感もあって、卒なく踊っているのですが、菊五郎ほどとは言わないまでも、もう少し芝居心(実は狐という)があっても良かったかなという気がしないでもありませんでした。
昼の部最後は『魚屋宗五郎』。宗五郎に菊五郎、おはまに時蔵、おなぎに菊之助、三吉に松緑。菊五郎と時蔵の夫婦はもうツーカーの域で、そのやり取りは観ているだけで楽しい。酒乱と化す菊五郎は嫌みがなく、崩れすぎず、カラッとした感じがいい。菊之助のおなぎは武家奉公らしい品があり、松緑の三吉もコメディリリーフ的な江戸っ子風情が出ていて、團蔵の太兵衛もしんみりとしつつもちょっととぼけた感じもあって、まさしく配役の妙。生世話の醍醐味というか、菊五郎劇団の盤石さというか、充実の『魚宗』でした。
さて夜の部は『外郎売』から。今月は追善興行なので、どれも二世松緑か梅幸にゆかりの芝居ですが、これだけは二世松緑が演じたわけでなく、松緑が祖父の二世松緑と共演した想い出の狂言ということらしいです。筋書きを見たら、松緑の『外郎売』はもう6度目で、海老蔵より数が多い。さすが手慣れたもので、見せ場の早口の言い立ても小気味よく、荒事も立派でした。大磯の虎の梅枝、化粧坂の少将の右近が若々しい美しさで、目を惹くのですが、共にもう少し存在感が欲しいところ。亀三郎の珍斎はユニークな味が出ていて好演でした。
つづいては今月の最大の目玉、菊之助の『京鹿子娘道成寺』。『二人道成寺』『男女道成寺』と菊之助の“道成寺”は観ていますが、一人で踊るのは12年ぶりとのこと。今や若女形では抜群の菊之助だけに、満を持しての『娘道成寺』といえるでしょう。その花子は、正に若さ、美しさの極みにあり、絶品。乱拍子に手踊り、鞠歌、そして恋の手習いへと、女心を切々と、しなやかに踊り演じるその様は陶然とする美しさで、何とも言えぬ色気が漂っています。鐘に目をやる眼差しも力強く、そして妖しげ。後半の山づくし、ただ頼め、そして鈴太鼓へと連なるシークエンスは激しさと妖しさが増し、圧巻。玉三郎とは一味違う妖艶さが漂い、最早風格さえ感じました。衣装の数々も華やかで、帯の引き抜きもあり、いやはや見応え十分でした。
さて、最後は『髪結新三』。菊五郎の新三、時蔵の忠七、左團次の源七、三津五郎の家主と芸達者が揃い踏み。菊五郎の新三は気障な小悪党だけど、いなせで愛嬌があって格好いい。不敵なのに、この明るさと飄逸としたところが菊五郎の良さなのかもしれません。三津五郎のやや暴走気味の家主といい、左團次の親分風情といい、時蔵の忠七の頼りなさといい、どれも秀逸。菊之助、梅枝、萬次郎、秀調、亀蔵、菊十郎とそれぞれが個性が出ていて、申し分のない面白さでした。菊五郎が東京で新三を演じるのは実に8年ぶりだそうで、今が一番の熟達の味わいを感じさせる菊五郎劇団会心の世話狂言でした。
【吉例顔見世大歌舞伎】
新橋演舞場にて
2011年11月25日(金)まで
坂東玉三郎舞踊集1 京鹿子娘道成寺 [DVD]
11月は顔見世公演ですが、今月は二世松緑、七世梅幸の追善興行ということで、ゆかりの演目が並んでいます。
昼の部、まずは近松門左衛門の『傾城反魂香』。通称『吃又』。又平に三津五郎、女房おとくに時蔵。三津五郎の又平は吃音の障害故のイラ立ちと自らの不甲斐なさがよく出ていて、又平の絶望感を巧く表現していたと思います。又平を労わるおとくも優しさと細やかさ、そして切なさが見えて、抑えるところは抑え、出るところは出て、細部まで行き届いた良いおとくでした。土佐将監の彦三郎、北の方の秀調は出過ぎず、しかし尾を引く味わいがありました。
つづいて『義経千本桜』から『吉野山』。忠信に松緑、静御前に菊之助。二世松緑と七世梅幸の孫同士の顔合わせということになります。ちょうど2年前の“さよなら歌舞伎座公演”で、菊五郎・菊之助の『吉野山』を観ていますが、そのときはどうも菊之助の静御前が澄まし過ぎていて面白くなかった記憶があるのですが、今回の静御前は表情や物腰に柔らかさが加わり、良かったと思います。一方の松緑は、型はしっかりと決め、安定感もあり、躍動感もあって、卒なく踊っているのですが、菊五郎ほどとは言わないまでも、もう少し芝居心(実は狐という)があっても良かったかなという気がしないでもありませんでした。
昼の部最後は『魚屋宗五郎』。宗五郎に菊五郎、おはまに時蔵、おなぎに菊之助、三吉に松緑。菊五郎と時蔵の夫婦はもうツーカーの域で、そのやり取りは観ているだけで楽しい。酒乱と化す菊五郎は嫌みがなく、崩れすぎず、カラッとした感じがいい。菊之助のおなぎは武家奉公らしい品があり、松緑の三吉もコメディリリーフ的な江戸っ子風情が出ていて、團蔵の太兵衛もしんみりとしつつもちょっととぼけた感じもあって、まさしく配役の妙。生世話の醍醐味というか、菊五郎劇団の盤石さというか、充実の『魚宗』でした。
さて夜の部は『外郎売』から。今月は追善興行なので、どれも二世松緑か梅幸にゆかりの芝居ですが、これだけは二世松緑が演じたわけでなく、松緑が祖父の二世松緑と共演した想い出の狂言ということらしいです。筋書きを見たら、松緑の『外郎売』はもう6度目で、海老蔵より数が多い。さすが手慣れたもので、見せ場の早口の言い立ても小気味よく、荒事も立派でした。大磯の虎の梅枝、化粧坂の少将の右近が若々しい美しさで、目を惹くのですが、共にもう少し存在感が欲しいところ。亀三郎の珍斎はユニークな味が出ていて好演でした。
つづいては今月の最大の目玉、菊之助の『京鹿子娘道成寺』。『二人道成寺』『男女道成寺』と菊之助の“道成寺”は観ていますが、一人で踊るのは12年ぶりとのこと。今や若女形では抜群の菊之助だけに、満を持しての『娘道成寺』といえるでしょう。その花子は、正に若さ、美しさの極みにあり、絶品。乱拍子に手踊り、鞠歌、そして恋の手習いへと、女心を切々と、しなやかに踊り演じるその様は陶然とする美しさで、何とも言えぬ色気が漂っています。鐘に目をやる眼差しも力強く、そして妖しげ。後半の山づくし、ただ頼め、そして鈴太鼓へと連なるシークエンスは激しさと妖しさが増し、圧巻。玉三郎とは一味違う妖艶さが漂い、最早風格さえ感じました。衣装の数々も華やかで、帯の引き抜きもあり、いやはや見応え十分でした。
さて、最後は『髪結新三』。菊五郎の新三、時蔵の忠七、左團次の源七、三津五郎の家主と芸達者が揃い踏み。菊五郎の新三は気障な小悪党だけど、いなせで愛嬌があって格好いい。不敵なのに、この明るさと飄逸としたところが菊五郎の良さなのかもしれません。三津五郎のやや暴走気味の家主といい、左團次の親分風情といい、時蔵の忠七の頼りなさといい、どれも秀逸。菊之助、梅枝、萬次郎、秀調、亀蔵、菊十郎とそれぞれが個性が出ていて、申し分のない面白さでした。菊五郎が東京で新三を演じるのは実に8年ぶりだそうで、今が一番の熟達の味わいを感じさせる菊五郎劇団会心の世話狂言でした。
【吉例顔見世大歌舞伎】
新橋演舞場にて
2011年11月25日(金)まで
坂東玉三郎舞踊集1 京鹿子娘道成寺 [DVD]
2011/11/17
法然と親鸞 ゆかりの名宝
東京国立博物館で開催中の『法然と親鸞 ゆかりの名宝』展に行ってきました。
これまで『法然展』や『親鸞展』というのはそれぞれありましたが、こうした二人合同の展覧会というのは初めてとのこと。今年は法然の800回忌、親鸞の750回忌ということで実現に至ったそうです。
前回は『空海と密教美術』と題し、密教(真言密教)の名宝が展示されましたが、今回は法然と親鸞ということで、浄土宗、浄土真宗ということになります。
ここ数年、東京国立博物館では、宗派絡み、お寺絡みの特別展が続いていて、2003年の『大日蓮展』(日蓮宗)以降、『空海と高野山』(真言宗)、『京都五山 禅の文化展』(禅系宗派)、『最澄と天台の国宝』(天台宗)、『唐招提寺展』(律宗)、『妙心寺展』(臨済宗)、『興福寺 国宝仏頭展』『興福寺 国宝阿修羅展』(法相宗)、『国宝 薬師寺展』(法相宗)、『東大寺大仏展』(華厳宗)とあり、今回の『法然と親鸞展』で、主だった宗派は一回りといった感じでしょうか。
その『法然と親鸞展』は、密教という少々難解なものの後ということもあってか、キャプションや解説がとても分かりやすく、また法然のものは緑色、親鸞のものは青色と色分けもしてあり、見やすさまで気を配った丁寧な作りが印象的でした。
密教(真言密教)は各宗派に多大な影響を与えた一方で、民衆には非常に分かりづらく、その分かりづらい教義を見て分かるようにと視覚化したのが密教美術のそもそもの始まりでした。一方で、法然と親鸞による仏教(浄土宗と浄土真宗)は、貴族などお金のある特権階級の救済ばかりの旧来の仏教に異を唱え、広く一般大衆の救済を旨として、ただ阿弥陀仏を念じれば浄土に行けるという分かりやすさから広がったもの。もともとが分かりやすさを目的としており、すんなりと受け入れやすいのかもしれません。
まず、最初のコーナーは「第1章 人と思想」。法然、親鸞それぞれの肖像画や彫像、肉筆の資料などを紹介しながら、二人の足跡を追っていきます。
見どころの一つは「二河白道図」で、前期に2点、後期に2点それぞれ出品されます。この光明寺本はその中でも最古の遺品。極楽浄土に行くためには、火の河(瞋憎)と水の河(貪愛)の間の細い一本道を渡って行かなければならないという浄土教の説話に基づいた作品です。
個人的に一番感動したのは親鸞による「観無量寿経註」で、浄土教の代表的な経典(浄土三部経)の一つ、観無量寿経を書写したものに、さらに行間や余白にビッシリと自ら註釈を書いています。親鸞30代前半の修業時代のものだそうですが、その熱心な研鑽の姿勢にはただただ驚かされます。親鸞の字は決してきれいではないのですが、隙間なく埋め尽くす字を見ていると、仏教に対する真摯な態度に深い感銘を覚えます。(※国宝「観無量寿経註」は11/6までの展示。11/8からは国宝「阿弥陀経註」が展示されます)
つづく第2章は「伝記絵に見る生涯」。伝記絵を通じて、法然と親鸞の波乱に富んだ生涯をたどり、浄土教の教えを伝えるというものです。国宝「法然上人行状絵図」は阿弥陀如来が衆生を救済するために立てた48の誓願にちなんで48巻で構成されています。一部のみの展示ですが、色も鮮やかで、後の法然絵伝にも大きな影響を与えたようです。
第3章は「法然をめぐる人々」と「親鸞をめぐる人々」。法然や親鸞と弟子との間のやりとりや、彼らの教えを引き継いだ後年の信徒たちの活動を書面や絵画を通して紹介しています。
この阿弥陀如来立像は、戦後滋賀県のある寺で発見された仏像で、法然の1周忌にあわせて弟子の源智上人が造立したものとされ、像内には後鳥羽上皇や後白河法皇、源頼朝、平清盛など故人も含め約4万6千人ほどの姓名を記し、怨親平等と菩提を願った文書が納められていたそうです。解説には「有力な慶派仏師の作と考えられる」と書かれていて、一説には快慶の弟子行快の作とも言われています。
第4章は「信仰のひろがり」。浄土宗や浄土真宗の寺院に伝来する名宝が展示されています。親鸞が偶像崇拝に消極的で、仏像のお祈りするよりも「南無阿弥陀仏」を一心に唱えることが大事としていたこともあり、そのためかこれまでの仏教系の展覧会に比べると、本展は仏像の出品数が多くありません。とはいえ、国宝の「早来迎」や「当麻曼荼羅縁起」(いずれも展示は11/13まで)や鎌倉の浄光明寺の「阿弥陀三尊坐像」など、珠玉の名品がズラリ。中には、宗派の寺院の所蔵ということで応挙や狩野派の絵画も出品されていました。
浄土宗と浄土真宗をあわせると信者数は約2000万人といわれ、多くの日本人が浄土教の教えを拠り所にして生きてきたことを考えると非常に興味深い思いがしました。正直、阿修羅像や東寺の仏像曼荼羅のような目玉のとなる仏像はありませんし、『空海と密教美術展』のような派手さはありませんが、仏教を身近に感じられる良い展覧会だったと思います。
【法然と親鸞 ゆかりの名宝】
東京国立博物館にて
2011年12月4日(日)まで
法然 (別冊太陽 日本のこころ 178)
法然入門 (ちくま新書)
親鸞 (ちくま新書)
これまで『法然展』や『親鸞展』というのはそれぞれありましたが、こうした二人合同の展覧会というのは初めてとのこと。今年は法然の800回忌、親鸞の750回忌ということで実現に至ったそうです。
前回は『空海と密教美術』と題し、密教(真言密教)の名宝が展示されましたが、今回は法然と親鸞ということで、浄土宗、浄土真宗ということになります。
ここ数年、東京国立博物館では、宗派絡み、お寺絡みの特別展が続いていて、2003年の『大日蓮展』(日蓮宗)以降、『空海と高野山』(真言宗)、『京都五山 禅の文化展』(禅系宗派)、『最澄と天台の国宝』(天台宗)、『唐招提寺展』(律宗)、『妙心寺展』(臨済宗)、『興福寺 国宝仏頭展』『興福寺 国宝阿修羅展』(法相宗)、『国宝 薬師寺展』(法相宗)、『東大寺大仏展』(華厳宗)とあり、今回の『法然と親鸞展』で、主だった宗派は一回りといった感じでしょうか。
「当麻曼荼羅縁起」(国宝) 鎌倉時代
その『法然と親鸞展』は、密教という少々難解なものの後ということもあってか、キャプションや解説がとても分かりやすく、また法然のものは緑色、親鸞のものは青色と色分けもしてあり、見やすさまで気を配った丁寧な作りが印象的でした。
密教(真言密教)は各宗派に多大な影響を与えた一方で、民衆には非常に分かりづらく、その分かりづらい教義を見て分かるようにと視覚化したのが密教美術のそもそもの始まりでした。一方で、法然と親鸞による仏教(浄土宗と浄土真宗)は、貴族などお金のある特権階級の救済ばかりの旧来の仏教に異を唱え、広く一般大衆の救済を旨として、ただ阿弥陀仏を念じれば浄土に行けるという分かりやすさから広がったもの。もともとが分かりやすさを目的としており、すんなりと受け入れやすいのかもしれません。
蓮如筆「歎異抄」(重要文化財) 室町時代
まず、最初のコーナーは「第1章 人と思想」。法然、親鸞それぞれの肖像画や彫像、肉筆の資料などを紹介しながら、二人の足跡を追っていきます。
見どころの一つは「二河白道図」で、前期に2点、後期に2点それぞれ出品されます。この光明寺本はその中でも最古の遺品。極楽浄土に行くためには、火の河(瞋憎)と水の河(貪愛)の間の細い一本道を渡って行かなければならないという浄土教の説話に基づいた作品です。
「二河百動図」(重要文化財) 鎌倉時代
※京都・光明寺蔵(展示期間:~11/13まで)
※京都・光明寺蔵(展示期間:~11/13まで)
個人的に一番感動したのは親鸞による「観無量寿経註」で、浄土教の代表的な経典(浄土三部経)の一つ、観無量寿経を書写したものに、さらに行間や余白にビッシリと自ら註釈を書いています。親鸞30代前半の修業時代のものだそうですが、その熱心な研鑽の姿勢にはただただ驚かされます。親鸞の字は決してきれいではないのですが、隙間なく埋め尽くす字を見ていると、仏教に対する真摯な態度に深い感銘を覚えます。(※国宝「観無量寿経註」は11/6までの展示。11/8からは国宝「阿弥陀経註」が展示されます)
つづく第2章は「伝記絵に見る生涯」。伝記絵を通じて、法然と親鸞の波乱に富んだ生涯をたどり、浄土教の教えを伝えるというものです。国宝「法然上人行状絵図」は阿弥陀如来が衆生を救済するために立てた48の誓願にちなんで48巻で構成されています。一部のみの展示ですが、色も鮮やかで、後の法然絵伝にも大きな影響を与えたようです。
「法然上人行状絵図」(部分)(国宝) 鎌倉時代
第3章は「法然をめぐる人々」と「親鸞をめぐる人々」。法然や親鸞と弟子との間のやりとりや、彼らの教えを引き継いだ後年の信徒たちの活動を書面や絵画を通して紹介しています。
「阿弥陀如来立像」(重要文化財) 鎌倉時代
この阿弥陀如来立像は、戦後滋賀県のある寺で発見された仏像で、法然の1周忌にあわせて弟子の源智上人が造立したものとされ、像内には後鳥羽上皇や後白河法皇、源頼朝、平清盛など故人も含め約4万6千人ほどの姓名を記し、怨親平等と菩提を願った文書が納められていたそうです。解説には「有力な慶派仏師の作と考えられる」と書かれていて、一説には快慶の弟子行快の作とも言われています。
「地獄極楽図屏風」(重要文化財) 鎌倉時代
(展示期間:~11/13まで)
(展示期間:~11/13まで)
第4章は「信仰のひろがり」。浄土宗や浄土真宗の寺院に伝来する名宝が展示されています。親鸞が偶像崇拝に消極的で、仏像のお祈りするよりも「南無阿弥陀仏」を一心に唱えることが大事としていたこともあり、そのためかこれまでの仏教系の展覧会に比べると、本展は仏像の出品数が多くありません。とはいえ、国宝の「早来迎」や「当麻曼荼羅縁起」(いずれも展示は11/13まで)や鎌倉の浄光明寺の「阿弥陀三尊坐像」など、珠玉の名品がズラリ。中には、宗派の寺院の所蔵ということで応挙や狩野派の絵画も出品されていました。
「阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)」(国宝) 鎌倉時代
(展示期間:~11/13まで)
(展示期間:~11/13まで)
浄土宗と浄土真宗をあわせると信者数は約2000万人といわれ、多くの日本人が浄土教の教えを拠り所にして生きてきたことを考えると非常に興味深い思いがしました。正直、阿修羅像や東寺の仏像曼荼羅のような目玉のとなる仏像はありませんし、『空海と密教美術展』のような派手さはありませんが、仏教を身近に感じられる良い展覧会だったと思います。
【法然と親鸞 ゆかりの名宝】
東京国立博物館にて
2011年12月4日(日)まで
法然 (別冊太陽 日本のこころ 178)
法然入門 (ちくま新書)
親鸞 (ちくま新書)
2011/11/12
長谷川等伯と狩野派展
出光美術館で開催中の『長谷川等伯と狩野派展』に行ってきました。
等伯の作品を中心に、長谷川派の作品と、等伯と同時代の安土桃山時代から江戸初期の狩野派の作品を比較展示した展覧会です。
昨年は等伯の没後400年ということで、東京国立博物館で大々的な回顧展『長谷川等伯展』があり、4年ほど前には京都国立博物館で『狩野永徳展』もあり、ほかにも東京国立博物館での『対決-巨匠たちの日本美術』展などで等伯や永徳それぞれの作品を観る機会はありましたが、こうして“長谷川派”“狩野派”という形で作品に触れる機会はなかったように思います。
会場を入ってすぐのコーナーには狩野派全盛時代の作品が。華麗な狩野派の作品に否が応にも胸が高鳴ります。
狩野永徳の末弟・長信の作品が2点、永徳の父・松栄の作品が2点、狩野派2代目の元信の印のある作品が1点(但し、元信画に学んだ他の狩野派絵師ではないかという説)の計5点。後期(11/22~)には永徳「鷲捕兎図屏風」が長信「松に鶴亀図屏風」と入れ替えで出展されます。
狩野派を大きく銘打った割には5点だけと少ないのが少々寂しい気もしますが(後のコーナーで狩野派の作品は数点出てきます)、出光美術館の広さを考えるとしょうがないのかもしれません。それでも長信の「松に鶴亀図屏風」や「桜・桃・海棠図屏風」はいずれも華やかで装飾的な桃山絵画様式で、狩野派全盛期の特徴的な画趣を堪能することができます。
一角には、まるで狩野派に挑むかのように長谷川等伯の「竹虎図屏風」が展示されています。右隻には低い姿勢で獲物を狙うかのような虎、左隻にはまるで猫のような格好で耳を掻く虎。2頭の対照的な虎の構図が面白い。左隻の隅に「これは周文の作である」と狩野探幽による但し書きが堂々と書かれていて、探幽が等伯の作品を知らずに見間違ったのか、はたまた故意に周文作としたのか、という説があるそうです。等伯の時代には有名な「対屋事件」のような嫌がらせもありましたが、もし意図的に歴史から等伯を抹消しようとしていたとすると、ちょっと怖いですね。
次の間は、等伯の作品を中心にまとめられています。等伯の「竹鶴図屏風」「松に鴉、柳に白鷺図屏風」に加え、等伯に影響を与えたという宋末元初の中国の画僧・牧谿や室町時代の水墨画家・能阿弥の作品が参考展示されています。
牧谿は中国ではあまり評価されなかったのに対し、日本では高く評価され、室町幕府8代将軍足利義政が収集した東山御物の中にも数多く含まれていたといいます。等伯の画論集「等伯画説」でも牧谿のことが多く語られていますが、確かに牧谿の墨画の湿潤な大気や淡い光の様子は等伯を彷彿とさせます。(牧谿は2点出展されています)
次が「長谷川派と狩野派」。長谷川派と狩野派の作品の比較を通して、それぞれの特色や共通点を探っています。見ものは長谷川派と狩野派(狩野常信)の「波濤図屏風」対決で、互いを強く意識しながらも、ときに相手の表現を盗み学び、切磋琢磨していた様子がうかがえます。残念なのは、いずれの「波濤図屏風」も右隻のみの展示で、左隻が出ていなかったこと。スペースの問題なのでしょうが、左右揃った状態で観たかったなという気がしました。(図録には左右揃いで掲載されています)
最後は「やまと絵への傾倒」ということで、長谷川派による「柳橋水車図屏風」のほか、同時代のやまと絵の作例を紹介。等伯や長谷川派がやまと絵についても強い関心を示していたことが分かります。
近年、等伯、狩野派ともに展覧会が続いたこともあって、それほど新鮮ではないかもしれませんが、あえて比較展示をすることで、両派の画風の違いや親近性、また研鑽の過程などさまざまな角度から観ることができ、また時折挟まれる解説パネルも分かりやすく、オススメの展覧会です。
【日本の美・発見Ⅵ 長谷川等伯と狩野派】
出光美術館にて
2011年12月18日(日)まで
もっと知りたい狩野派―探幽と江戸狩野派 (アート・ビギナーズ・コレクション)
もっと知りたい長谷川等伯―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
松林図屏風
等伯の作品を中心に、長谷川派の作品と、等伯と同時代の安土桃山時代から江戸初期の狩野派の作品を比較展示した展覧会です。
昨年は等伯の没後400年ということで、東京国立博物館で大々的な回顧展『長谷川等伯展』があり、4年ほど前には京都国立博物館で『狩野永徳展』もあり、ほかにも東京国立博物館での『対決-巨匠たちの日本美術』展などで等伯や永徳それぞれの作品を観る機会はありましたが、こうして“長谷川派”“狩野派”という形で作品に触れる機会はなかったように思います。
会場を入ってすぐのコーナーには狩野派全盛時代の作品が。華麗な狩野派の作品に否が応にも胸が高鳴ります。
狩野永徳の末弟・長信の作品が2点、永徳の父・松栄の作品が2点、狩野派2代目の元信の印のある作品が1点(但し、元信画に学んだ他の狩野派絵師ではないかという説)の計5点。後期(11/22~)には永徳「鷲捕兎図屏風」が長信「松に鶴亀図屏風」と入れ替えで出展されます。
元信印「花鳥図屏風」(室町~桃山時代)
狩野派を大きく銘打った割には5点だけと少ないのが少々寂しい気もしますが(後のコーナーで狩野派の作品は数点出てきます)、出光美術館の広さを考えるとしょうがないのかもしれません。それでも長信の「松に鶴亀図屏風」や「桜・桃・海棠図屏風」はいずれも華やかで装飾的な桃山絵画様式で、狩野派全盛期の特徴的な画趣を堪能することができます。
狩野長信「桜・桃・海棠図屏風」 (桃山時代)
一角には、まるで狩野派に挑むかのように長谷川等伯の「竹虎図屏風」が展示されています。右隻には低い姿勢で獲物を狙うかのような虎、左隻にはまるで猫のような格好で耳を掻く虎。2頭の対照的な虎の構図が面白い。左隻の隅に「これは周文の作である」と狩野探幽による但し書きが堂々と書かれていて、探幽が等伯の作品を知らずに見間違ったのか、はたまた故意に周文作としたのか、という説があるそうです。等伯の時代には有名な「対屋事件」のような嫌がらせもありましたが、もし意図的に歴史から等伯を抹消しようとしていたとすると、ちょっと怖いですね。
長谷川等伯「竹虎図屏風(左隻)」 (桃山時代)
次の間は、等伯の作品を中心にまとめられています。等伯の「竹鶴図屏風」「松に鴉、柳に白鷺図屏風」に加え、等伯に影響を与えたという宋末元初の中国の画僧・牧谿や室町時代の水墨画家・能阿弥の作品が参考展示されています。
長谷川等伯「松に鴉・柳に白鷺図屏風(右隻)」(桃山時代)
牧谿は中国ではあまり評価されなかったのに対し、日本では高く評価され、室町幕府8代将軍足利義政が収集した東山御物の中にも数多く含まれていたといいます。等伯の画論集「等伯画説」でも牧谿のことが多く語られていますが、確かに牧谿の墨画の湿潤な大気や淡い光の様子は等伯を彷彿とさせます。(牧谿は2点出展されています)
牧谿「平沙落雁図」(重要文化財)(中国・南宋末~元時代初期)
次が「長谷川派と狩野派」。長谷川派と狩野派の作品の比較を通して、それぞれの特色や共通点を探っています。見ものは長谷川派と狩野派(狩野常信)の「波濤図屏風」対決で、互いを強く意識しながらも、ときに相手の表現を盗み学び、切磋琢磨していた様子がうかがえます。残念なのは、いずれの「波濤図屏風」も右隻のみの展示で、左隻が出ていなかったこと。スペースの問題なのでしょうが、左右揃った状態で観たかったなという気がしました。(図録には左右揃いで掲載されています)
長谷川派「波濤図屏風(右隻)」(江戸時代)
最後は「やまと絵への傾倒」ということで、長谷川派による「柳橋水車図屏風」のほか、同時代のやまと絵の作例を紹介。等伯や長谷川派がやまと絵についても強い関心を示していたことが分かります。
長谷川派「柳橋水車図屏風(右隻)」(江戸時代)
近年、等伯、狩野派ともに展覧会が続いたこともあって、それほど新鮮ではないかもしれませんが、あえて比較展示をすることで、両派の画風の違いや親近性、また研鑽の過程などさまざまな角度から観ることができ、また時折挟まれる解説パネルも分かりやすく、オススメの展覧会です。
【日本の美・発見Ⅵ 長谷川等伯と狩野派】
出光美術館にて
2011年12月18日(日)まで
もっと知りたい狩野派―探幽と江戸狩野派 (アート・ビギナーズ・コレクション)
もっと知りたい長谷川等伯―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
松林図屏風
2011/11/09
天守物語
新国立劇場で『天守物語』を観てきました。
<【美×劇】-滅びゆくものに託した美意識->の第3弾。今回は新国立劇場の演劇総監督・宮田慶子の演出ではなく、俳優でもある白井晃の演出。劇場も中劇場を使っています。
『天守物語』というと、玉三郎版がつとに有名で、映画にもなり、歌舞伎としても再演され、ある意味、鏡花の舞台としてはひとつの決定版として高く評価をされているので、その対比が興味をそそるところです。
その白井晃=篠井英介版の『天守物語』は、中劇場の奥行きのある舞台機構を巧く使い、シンプルな正方形の舞台上だけで物語が展開します。その抽象的かつ現代的な舞台が、不思議と鏡花の幻想的な雰囲気とマッチしていて、なかなか面白いなと思いました。舞台の奥にはセリのようなステップ(段)があって、亀姫の登場・退場シーンで効果的に使われ、また後半の殺陣の場面ではダイナミックさを生んでいました。
富姫は篠井英介が女形で演じるわけですが、もともとは花組芝居で女形をしていた人だけあり、その立ち居振る舞いは立派。女形が富姫を演じるということで、どうしても玉三郎と比較してしまうのですが、玉三郎の美しさや気品には適わないものの、玉三郎とは異なる凛とした佇まいというか風格があって、富姫に対する思い、情熱はその演技からもひしひしと伝わってきました。
平岡祐太の図書之助は予想外と言ったら失礼ですが健闘していたと思います。涼しく、かつ勇ましく、そして純粋な図書之助がよく出ていました。ただどうしてもそのルックスが災いしてか、富姫の恋愛感情が本来の図書之助像に対してでなく、母性本能をくすぐる年下の可愛い男性に対するものに映ってなりませんでした。
残念なのは、自分が見たのが二日目ということもあってか、まだ台詞が馴染んでいないからなのか、全体を通じて鏡花の幽玄の世界があまり感じられなかったこと。鏡花の美しい言葉もどこか表面的。原作の言葉で語られているのに何か現代的。やはり鏡花の世界観は、比べるのが酷かもしれませんが、何十年も鏡花の世界を追い求め、自分の血とし肉としてきた玉三郎版には敵わないのでしょうか。確かに、まだ二日目だったので、もう少しこなれてきたら面白いんじゃないかと思います。
冒頭に現代の男性3人(篠井、平岡、近江之丞桃六役の人だと思う)が現れ、舞台の途中でも現代の男が奥のほうを通り過ぎるのですが、その演出の意図が分かりませんでした。何か意味があるのでしょうが、あえて挿入するほどのものだったか不明です。
とまぁ、好き勝手なこと書いてますが、玉三郎の『天守物語』と比較してしまうからいけないわけで、玉三郎の舞台を見ていなければ、十分楽しめる舞台だと思います。それと、原作も戯曲ですから、先に原作を読んでいると、台詞がどう芝居で演じられ、語られるか見る楽しみもあるのではないでしょうか。
【天守物語】
新国立劇場にて
2011年11月20日(日)まで
夜叉ヶ池・天守物語 (岩波文庫)
泉鏡花 (ちくま日本文学 11)
<【美×劇】-滅びゆくものに託した美意識->の第3弾。今回は新国立劇場の演劇総監督・宮田慶子の演出ではなく、俳優でもある白井晃の演出。劇場も中劇場を使っています。
『天守物語』というと、玉三郎版がつとに有名で、映画にもなり、歌舞伎としても再演され、ある意味、鏡花の舞台としてはひとつの決定版として高く評価をされているので、その対比が興味をそそるところです。
その白井晃=篠井英介版の『天守物語』は、中劇場の奥行きのある舞台機構を巧く使い、シンプルな正方形の舞台上だけで物語が展開します。その抽象的かつ現代的な舞台が、不思議と鏡花の幻想的な雰囲気とマッチしていて、なかなか面白いなと思いました。舞台の奥にはセリのようなステップ(段)があって、亀姫の登場・退場シーンで効果的に使われ、また後半の殺陣の場面ではダイナミックさを生んでいました。
富姫は篠井英介が女形で演じるわけですが、もともとは花組芝居で女形をしていた人だけあり、その立ち居振る舞いは立派。女形が富姫を演じるということで、どうしても玉三郎と比較してしまうのですが、玉三郎の美しさや気品には適わないものの、玉三郎とは異なる凛とした佇まいというか風格があって、富姫に対する思い、情熱はその演技からもひしひしと伝わってきました。
平岡祐太の図書之助は予想外と言ったら失礼ですが健闘していたと思います。涼しく、かつ勇ましく、そして純粋な図書之助がよく出ていました。ただどうしてもそのルックスが災いしてか、富姫の恋愛感情が本来の図書之助像に対してでなく、母性本能をくすぐる年下の可愛い男性に対するものに映ってなりませんでした。
残念なのは、自分が見たのが二日目ということもあってか、まだ台詞が馴染んでいないからなのか、全体を通じて鏡花の幽玄の世界があまり感じられなかったこと。鏡花の美しい言葉もどこか表面的。原作の言葉で語られているのに何か現代的。やはり鏡花の世界観は、比べるのが酷かもしれませんが、何十年も鏡花の世界を追い求め、自分の血とし肉としてきた玉三郎版には敵わないのでしょうか。確かに、まだ二日目だったので、もう少しこなれてきたら面白いんじゃないかと思います。
冒頭に現代の男性3人(篠井、平岡、近江之丞桃六役の人だと思う)が現れ、舞台の途中でも現代の男が奥のほうを通り過ぎるのですが、その演出の意図が分かりませんでした。何か意味があるのでしょうが、あえて挿入するほどのものだったか不明です。
とまぁ、好き勝手なこと書いてますが、玉三郎の『天守物語』と比較してしまうからいけないわけで、玉三郎の舞台を見ていなければ、十分楽しめる舞台だと思います。それと、原作も戯曲ですから、先に原作を読んでいると、台詞がどう芝居で演じられ、語られるか見る楽しみもあるのではないでしょうか。
【天守物語】
新国立劇場にて
2011年11月20日(日)まで
夜叉ヶ池・天守物語 (岩波文庫)
泉鏡花 (ちくま日本文学 11)
2011/10/28
松岡映丘展
練馬区立美術館で開催中の『松岡映丘展』に行ってきました。
今年は松岡映丘の生誕130年とのことで、生まれ故郷の兵庫での回顧展に続いての巡回展です。
松岡映丘(1881-1938)は、兵庫県の中部に位置する今の神崎郡の旧家の生まれ。生家は代々医家で、父は儒学者、兄にはかの有名な民俗学者の柳田國男をはじめ、医師や政治家、国文学者、言語学者といった錚々たる兄弟がいます。「松岡五兄弟」として有名のようで(ここまですごい人が揃えば当然ですが)、地元にはその業績を讃えた記念館まであり、本展にもその写真や資料がいくつか展示されていました。
さて、映丘は、もとは狩野派の橋本雅邦の指導を受けていたこともあるそうですが、半年ぐらいで通わなくなり、その後、住吉派(土佐派)に入門して本格的にやまと絵を学びます。やがて東京美術学校を首席で卒業。一時期、川合玉堂に師事していたこともあるようです。
展覧会には、東京美術学校時代の作品も何点か展示されていましたが、卒業制作作品の「浦の島子」などはさすが首席で卒業するだけあり、その完成度は高く、どう見ても美術学生の作品とは思えないものでした。
映丘は、なんといってもやまと絵。『源氏物語』や『平家物語』などの古典文学に材をとったり、平安時代の王朝絵巻を思わせるような優美な作品や勇壮な武者絵を手がけたりと、サブタイトルにもあるように、明治以降、圧倒的な洋画への流れの中で頑なにやまと絵に執着し、「新興大和絵」としてその再興に尽力します。
弟子や妻に甲冑や十二単を着せ、絵のモデルをさせたり、自ら鎧を身にまとい、ポーズをとったりする資料写真も展示されていて、やまと絵に対する情熱は並々ならぬものだったことが窺い知れます。有職故実(朝廷・公家・武家の儀典礼式や年中行事等)の研究にも熱心で、映画や歌舞伎の時代考証や美術にも首を突っ込んだこともあるようです。
古典回帰のやまと絵に、どこか近代的な要素が見られるのも映丘の特徴かもしれません。そうした点が一番感じられるのは映丘の美人画で、本展にもいくつか出展されていました。「伊香保の沼」は榛名湖に身を投げたという美しい姫君の悲しい伝説に取材した作品。どこか寂しげな表情が印象的な女性は写実的で、やまと絵というより大正期の抒情画を思わせます。
大正15年には、当時脚光を浴びていた新進女優、水谷八重子(初代)をモデルにしたモダンな「千草の丘」を発表。顔が水谷八重子に似すぎているとかで、センセーショナルな話題を呼んだそうです。やまと絵風の山並みとグラデーションのかかった空、そして可憐な秋草を背景に黄色の着物が瑞々しく映える美しい作品ですが、映丘の作品の中ではかなり異色で、「伊香保の沼」同様、大正ロマンの香りがします。
映丘と同時代には、鏑木清方や上村松園といった美人画の大家がいますが、浮世絵の流れを汲む清方や京都画壇の品を受け継いだ松園とは趣が異なり、映丘のベースはやはりやまと絵なのだなと思います。清方や松園の作品にも古典に取材した作品は多くありますが、映丘の美人画はより叙情的で、高い物語性を感じられるように思います。
これだけまとまった松岡映丘の回顧展は30年ぶりとのこと。忘れられた日本画家というイメージの映丘ですが、これを機に再評価の波も来るかもしれません。
【生誕130年 松岡映丘-日本の雅-やまと絵復興のトップランナー】
平成23年11月23日まで
練馬区立美術館にて
今年は松岡映丘の生誕130年とのことで、生まれ故郷の兵庫での回顧展に続いての巡回展です。
松岡映丘(1881-1938)は、兵庫県の中部に位置する今の神崎郡の旧家の生まれ。生家は代々医家で、父は儒学者、兄にはかの有名な民俗学者の柳田國男をはじめ、医師や政治家、国文学者、言語学者といった錚々たる兄弟がいます。「松岡五兄弟」として有名のようで(ここまですごい人が揃えば当然ですが)、地元にはその業績を讃えた記念館まであり、本展にもその写真や資料がいくつか展示されていました。
さて、映丘は、もとは狩野派の橋本雅邦の指導を受けていたこともあるそうですが、半年ぐらいで通わなくなり、その後、住吉派(土佐派)に入門して本格的にやまと絵を学びます。やがて東京美術学校を首席で卒業。一時期、川合玉堂に師事していたこともあるようです。
「鵯越」 明治30年(1897)
なんと16歳のときの作品!
なんと16歳のときの作品!
展覧会には、東京美術学校時代の作品も何点か展示されていましたが、卒業制作作品の「浦の島子」などはさすが首席で卒業するだけあり、その完成度は高く、どう見ても美術学生の作品とは思えないものでした。
「道成寺 (右隻)」 大正6年(1917)
清姫の怨霊が憑りついた白拍子の目が怖い。。。
清姫の怨霊が憑りついた白拍子の目が怖い。。。
映丘は、なんといってもやまと絵。『源氏物語』や『平家物語』などの古典文学に材をとったり、平安時代の王朝絵巻を思わせるような優美な作品や勇壮な武者絵を手がけたりと、サブタイトルにもあるように、明治以降、圧倒的な洋画への流れの中で頑なにやまと絵に執着し、「新興大和絵」としてその再興に尽力します。
「みぐしあげ」 大正15年(1926)
弟子や妻に甲冑や十二単を着せ、絵のモデルをさせたり、自ら鎧を身にまとい、ポーズをとったりする資料写真も展示されていて、やまと絵に対する情熱は並々ならぬものだったことが窺い知れます。有職故実(朝廷・公家・武家の儀典礼式や年中行事等)の研究にも熱心で、映画や歌舞伎の時代考証や美術にも首を突っ込んだこともあるようです。
「伊香保の沼」 大正14年(1925)
古典回帰のやまと絵に、どこか近代的な要素が見られるのも映丘の特徴かもしれません。そうした点が一番感じられるのは映丘の美人画で、本展にもいくつか出展されていました。「伊香保の沼」は榛名湖に身を投げたという美しい姫君の悲しい伝説に取材した作品。どこか寂しげな表情が印象的な女性は写実的で、やまと絵というより大正期の抒情画を思わせます。
「千草の丘」 大正15年(1926)
大正15年には、当時脚光を浴びていた新進女優、水谷八重子(初代)をモデルにしたモダンな「千草の丘」を発表。顔が水谷八重子に似すぎているとかで、センセーショナルな話題を呼んだそうです。やまと絵風の山並みとグラデーションのかかった空、そして可憐な秋草を背景に黄色の着物が瑞々しく映える美しい作品ですが、映丘の作品の中ではかなり異色で、「伊香保の沼」同様、大正ロマンの香りがします。
「うつろう花」 大正10年(1921)
映丘と同時代には、鏑木清方や上村松園といった美人画の大家がいますが、浮世絵の流れを汲む清方や京都画壇の品を受け継いだ松園とは趣が異なり、映丘のベースはやはりやまと絵なのだなと思います。清方や松園の作品にも古典に取材した作品は多くありますが、映丘の美人画はより叙情的で、高い物語性を感じられるように思います。
これだけまとまった松岡映丘の回顧展は30年ぶりとのこと。忘れられた日本画家というイメージの映丘ですが、これを機に再評価の波も来るかもしれません。
【生誕130年 松岡映丘-日本の雅-やまと絵復興のトップランナー】
平成23年11月23日まで
練馬区立美術館にて
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