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2019/09/08

坂本繁二郎展

練馬区立美術館で開催中の『坂本繁二郎展』を観てきました。

ブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館)の展覧会で青木繁の作品と一緒に観ることが多くあったので、夭折の画家・青木繁の盟友ということは頭にあるのですが、坂本繁二郎がどういう画家かというと、馬の絵と静物の印象があるぐらいで、実はよく知らないのです。

本展はその坂本繁二郎の没後50年を記念する回顧展。東京では約10年ぶりの本格的な展覧会だといいます。青木繁というと明治時代を代表する洋画家なので、坂本繁二郎も昔の画家とばかり思ってましたが、実はわたしが生まれた頃はまだ存命だったというのも驚きでした。


会場の構成は以下のとおりです:
第1章 神童と呼ばれて 1897-1902年
第2章 青春-東京と巴里 1902-1924年
第3章 再び故郷へ-馬の時代 1924-1944年
第4章 成熟-静物画の時代 1945-1963年
第5章 「はなやぎ」-月へ 1964-1969年

坂本繁二郎は福岡・久留米の生まれ。有名な話ですが、小学校の同級生には青木繁がいます。16歳で上京した青木に対し、坂本は久留米に残り、図画の代用教員をしていたのですが、東京で本格的に絵を学んだ青木の上達ぶりに焦りを覚え、上京を決めたといいます。

久留米時代の坂本の作品もいくつか展示されていました。確かに‟神童”と呼ばれただけあり、油絵具や水彩絵具が入手できず墨で描いたという「立石谷」や、夏空に広がる雨雲と広い田園の複雑な風景を見事に捉えた「夏野」などを観ると、これが15、16歳の少年の作品かと目を疑うぐらい完成度の高さに驚きます。

坂本繁二郎 「立石谷」
明治30年(1897)頃 個人蔵

坂本や青木に絵の手ほどきをした森三美という洋画家の作品と、それを模写したと思われる坂本の作品が並んで展示されていたのですが、この森三美もまだ明治時代中頃にもかかわらず、しっかりとした洋画の技術を身に付けていて、なかなかのものでした。東京から遠く離れた久留米にあって、優れた画家に指導してもらえたことは、坂本と青木にとって幸運だったのだと思います。

初期の坂本の作品は、いわゆる旧派の写実的で堅実な画風だったのですが、「張り物」や「魚を持ってきた海女」など1910年あたりの作品から印象派風の光に満ちた画風に変わっていきます。青木繁の作品も代表作「海景(布良の海)」や絶筆「朝日」などいくつか展示されていましたが、早くに亡くなってしまう青木に対し、坂本の絵はどんどん光の捉え方が発展していくのが印象的でした。

坂本繁二郎 「三月頃の牧場」
大正4年(1915) 東京国立近代美術館蔵

夏目漱石に高く評価されたという「うすれ日」にはじまり、「海岸の牛」や「三月頃の牧場」など、印象主義的な明るい色彩で描いた牛の絵があるかと思えば、黒一色で光を探求してみせた「牛」のような実験的な作品もあったりします。

坂本繁二郎 「帽子を持てる女」
大正12年(1923) 石橋財団アーティゾン美術館蔵

「帽子を持てる女」はフランス留学中の代表作。フランス留学中の作品に共通する淡く柔らかな色彩と、色面で表した女性の、穏やかな中にも強い意志をもったような佇まいが印象的です。

坂本繁二郎 「水より上る馬」
昭和28年(1953) 株式会社鉄鋼ビルディング蔵

坂本繁二郎というと馬の絵と静物の印象が強いのですが、日本に帰国後、最初に描いたのも馬だったそうです。「牛を馬に乗りかえた。馬と柿は一生描く」という言葉が紹介されていましたが、同じモチーフを繰り返し繰り返し描いているところを見ると、こだわりが強い人だったのだろうなと感じます。フランス留学前の作品と視力が衰えてからの最晩年を除いて、画風がほとんど変わらないというのもある意味すごい。

静物は柿だけでなく、栗や梨、茄子といった野菜や果物から、植木鉢や玩具、果てはモーターに至るまで、実はいろいろ描いているのですが、晩年、能面の静物に行きつくのも面白い。能面の無表情な独特の表情、一見単調な構図。それらを補うように様々な色彩や筆触がとても複雑な諧調やマチエールを生んでいます。何枚も並べられた能面の静物を観ていてモランディの静物を思い浮かべました。
 
坂本繁二郎 「能面と鼓の胴」
昭和37年(1962) 石橋財団アーティゾン美術館蔵

風景画もなかなか良くて、珍しい六曲一双の「雲仙の春・阿蘇の秋」はとても印象的でした。最晩年はほとんど視力を失うも、月の絵を繰り返し描き、幽玄とも東洋的印象主義とも評される独自の画境に行きつくところが凄いなと感じます。


【没後50年 坂本繁二郎展】
2019年9月16日まで
練馬区立美術館にて

2017/08/05

藤島武二展

練馬区立美術館で開催されている『生誕150年記念 藤島武二展』を観てまいりました。

藤島武二というと日本の近代洋画を牽引した最も重要な画家の一人ですが、自分の中でその特徴をいまひとつ掴めていないこともあり、そうした意味でも今回の展覧会を楽しみにしてました。

今回は生誕150年記念ということで、藤島の作品だけでも約150点(前後期合わせ)と出品数も多く、なかなか観られない個人蔵の作品も含め、代表作がほぼ出揃う貴重な機会。ここまでの規模の回顧展は15年ぶりといいます。早速開幕初日に行ってきましたが、大変充実した内容になっていて、明治の黎明期から昭和にかけての近代洋画の変遷を見る上でも興味深いものがありました。


本展の構成は以下のとおりです:
Ⅰ-1. 修行
Ⅰ-2. 飛躍
Ⅱ-1. 留学
Ⅱ-2. 模索
Ⅱ-3. 転換
Ⅲ-1. 追求
Ⅲ-2. 到達

藤島武二 「婦人と朝顔」
1904年 個人蔵

会場に入ってすぐのところに展示されているのが藤島の代表作「婦人と朝顔」。藤島というと、洋画版美人画ともいうべき、情緒的で、品のある美しい女性を描いた作品がパッと頭に浮かびます。

藤島が生まれたのは幕末の薩摩。父は薩摩藩士で、母方は祖先に狩野派の絵師がいるような家系だったといいます。薩摩で四条派の絵師に学び、京都では円山四条派最後の絵師ともいわれた川端玉章に師事。展示されていた当時の水墨画はあっさりした作品で、他にどんな日本画を描いていたのか気になるところではありますが、藤島自身は「最初の狩野派の画風の影響は生涯を通じてなかなか強いものがあるように思う」と語っているだけに、日本画の修行は藤島の基礎を成す重要なものだったのかもしれません。

藤島武二 「池畔納涼」
1898年 東京藝術大学蔵

洋画に転向すると、山本芳翠の指導を受けたそうで、最初期の油彩「桜狩」はなるほど芳翠風のニュアンスがあります。その後、外光派の表現に傾倒。黒田清輝は1歳上、同郷ということもあり、憧れの存在だったといいます。「逍遥」や「池畔納涼」は黒田の「湖畔」の影響を感じなくもありません。

与謝野晶子 『みだれ髪』
1901年

藤島といえば、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の装幀も有名。本展では『みだれ髪』に代表される藤島がデザインした装幀や絵葉書の展示が充実しています。会場の解説ではグラフィックデザインの先駆者という紹介のされ方がしてありましたが、ラファエル前派やアールヌーヴォーを取り入れた装飾的なデザインは今見ても素敵だし、たとえば与謝野晶子の『小扇』の扇子から顔を覗かせる構図は日本人離れしたセンスの良さを感じます。

そもそも藤島が装幀のデザインをするきっかけとなったのが、与謝野晶子が藤島の耽美的な表現を高く評価したからといわれています。一角に展示されていた「夢想」なんかは確かにロセッティの「ベアタ・ベアトリクス」を思い起こさせます。

藤島武二 「西洋婦人像」
1906-1907年 島根県立石見美術館蔵

ヨーロッパへ留学したのが38歳。すでに日本では成功しているのに、イタリアやフランスでちゃんと弟子入りしデッサンから学び直したというのが偉い。やはり本場の体験は大きかったようで、人物描写の精度がぐっと上がります。一方で、ヨーロッパでアカデミズムを学びながらフォーヴィズムや表現主義的な方向に流れるのも面白い。ローマの風景を描いた小品のいくつかはナビ派的な雰囲気すら感じます。

藤島武二 「うつつ」
1913年 東京国立近代美術館蔵

帰国後の画風の変化は大きく、しばらく模索の時期が続いたようですが、東洋的な女性像や装飾画などへアプローチを試みるあたりから、藤島本来のロマンティシズムや装飾性がさまざまなスタイルと融合し、作品としても安定してきます。「うつつ」は明治浪漫主義的な傾向が見られますが、「花籠」や「匂い」は垢抜けているというか、フォーヴィズムやマティスなどから吸収したものが成果として表れているように思います。

藤島武二 「花籠」
1913年 京都国立近代美術館蔵

藤島武二 「匂い」
1915年 東京国立近代美術館蔵

藤島の東洋的な女性像といえば、2014年にブリヂストン美術館で開催された『描かれたチャイナドレス』が記憶に新しいところ。とりわけ横顔を描いた構図が多く、これはイタリアのルネサンス期の横顔の婦人像に着想を得たといいます。女性を正面から描いた「うつつ」や「匂い」は情感溢れたロマンティシズムを感じますが、横顔から描いた「鉸剪眉」や「東洋振り」(8/22から展示)は顔立ちの美しさが際立ち、より素直に女性の美しさを感じられる気がします。

藤島武二 「鉸剪眉」
1927年 鹿児島市立美術館蔵

こうして観てると、画風の変遷はあっても、藤島の耽美的な好みや象徴主義的な傾向はヨーロッパ留学前と後であまり変わっていないのかもしれません。浜名湖の風景をイメージしたという「静」はシャヴァンヌを彷彿とさせますし、下から上へ視線を誘う縦の構図が印象的な「カンピドリオのあたり」は中間色が多用され、ルドンなど象徴主義の影響を感じます。

藤島武二 「山上の日の出」
1934年 京都国立近代美術館蔵

晩年は日本各地を旅し、海や山の風景、とりわけ「日本の国の象徴するに相応しい日の出の風景」を描くようになります。単純化が強まり、ロマンティシズムや装飾性は一気に薄れます。台湾の風景や風俗を描いた作品は小品ならではの味わい深さを感じたものの、これは完全に好みの問題ですが、晩年の海景を描いた作品群はどれも退屈。軍嘱託画家の頃の作品や絶筆など見どころはあるし、単純化された構成やあっさりとした筆触が藤島の行き着いた先というのは分かるのですが、あまり魅力を感じませんでした。

藤島武二 「耕到天」
1938年 大原美術館蔵

本展で唯一残念なのが、藤島の外光派時代を代表する「黒扇」と象徴主義的な傑作「天平の面影」がフランスのオランジュリー美術館で開催されている『ブリヂストン美術館の名品展』と重なり、出品されていないこと。それ以外はとても満足度の高い展覧会でした。


【生誕150年記念 藤島武二展】
2017年9月18日(月)まで
練馬区立美術館にて


巡回先:
鹿児島市立美術館 2017年9月29日(金)~11月5日(日)
神戸市立小磯記念美術館 2017年11月18日(土)~2018年1月28日(日)


日本の近代美術 (岩波文庫)日本の近代美術 (岩波文庫)

2016/04/02

国芳イズム

練馬区立美術館で開催中の『国芳イズム-歌川国芳とその系脈 武蔵野の洋画家 悳俊彦コレクション』に行ってきました。

なかなか時間が作れず、やっと行けたと思ったら、もう会期半分が過ぎてしまっていました。(しかもまた記事のアップが遅くなってしまって・・・)

国芳は毎年のように展覧会がありますし、しかも今年はこれとは別にもう一本『俺たちの国芳 わたしの国貞』がありますし、もう散々観てきた感があるというのに、こうして人が集まるのですから、国芳人気はすごいもんだなと思います。

とはいえ、朝一だったこともあるのか、予想に反してガラガラ。国芳の展覧会っていつもどこも混雑してるので、こんなゆっくりと国芳作品を観られたのは嬉しい誤算(といっていいのか?)でした。

そんな本展は、洋画家の悳俊彦(いさお としひこ)氏のコレクションを紹介した展覧会。悳俊彦氏は武蔵野の面影をライフワークに描き続けている洋画家ですが、浮世絵研究家としても知られ、特に国芳の研究では定評があるのだそうです。

出品数は浮世絵作品だけで約230点。途中入れ替えがあり、常時160点ぐらいが展示されてます。国芳作品はその内の半分弱で、残りは河鍋暁斎、月岡芳年を含む国芳一門の作品と“国芳イズム”を継承する小林永濯や尾形月耕、山本昇雲の作品。ボリュームもさることながら、個人コレクターのコレクションとは思えないぐらい充実度がハンパありません。

歌川国芳 「六様性国芳自慢 先負 文覚上人」
万延元年(1860)

猛者たちの梁山泊

まずは国芳。いくつかのテーマを設け、“国芳イズム”を探ります。
最初に並ぶのが国芳の代名詞であり、ブレイクするきっかけとなった「通俗水滸伝豪傑百八人」をはじめとする武者絵の数々。ダイナミックだったり破天荒だったり、ユーモラスだったり、ちょっと奇矯な作品ばかりが取り上げられやすい国芳ですが、かなりしっかりと国芳ならではの武者絵というものを紹介していると思います。

歌川国芳 「鏗鏘手練鍛の名刄 紙屋治兵衛」
弘化4年(1847)

国芳の弟子・月岡芳年と落合芳幾の競作「英名二十八衆句」など“無残絵”の先駆け的作品という「鏗鏘手練鍛の名刄 紙屋治兵衛」や真正面に弓を引く姿がハードボイルドな「誠忠義士伝 間瀬宙太夫正明」など、どれも滅茶苦茶カッコイイ。

歌川国芳 「誠忠義士伝 間瀬宙太夫正明」
弘化4年(1847)

もちろん「相馬の古内裏」や「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」といったお馴染みのスペクタクルな大判三枚続の作品も多く並んでいるので、国芳が初めての人にも嬉しい。

歌川国芳 「相馬の古内裏」
弘化年間(1844-48)


モブシーン ざわめきの群集表現

江戸の人々の姿を生き生きと描いた躍動的な作品も国芳の魅力のひとつ。それを発展させたのが国芳お得意の見立て物や絵解き物(判じ物)で、井戸掘りの櫓や土蔵の棟上げをする職人を子どもに見立てた作品もいかにも国芳って感じ。代表作「源頼光公館土蜘作妖怪図」は天保の改革を暗に批判したものというのは有名な話。うしろで蠢く妖怪は圧政に苦しむ江戸の庶民だといいます。

歌川国芳 「源頼光公館土蜘作妖怪図」
天保14年(1843)


洒落と才智と戯れと

遊女の美人画は禁止とか歌舞伎の役者絵は禁止とか、お上の無慈悲なお達しから生まれたともいう国芳の戯画。役者の似顔絵を子どもの落書きにように描いた「荷宝蔵壁のむだ書」の頃は実はすでに禁制が解かれていたのだそうです。国芳の戯画はただの風刺絵ではなく、それを逆手に取るぐらいの余裕やヒネリがあって、江戸の人々の底強さを感じさせます。


猫狂いの動物画

国芳の猫好きは有名すぎるぐらい有名ですが、さすが国芳コレクターの方の展覧会だけあって、現存2枚しか確認されていないという“鼠除け用”の猫の浮世絵もあったりします。人間の姿を動物に置き換えた作品を国芳はよく描いていますが、「里すゞめねぐらの仮宿」は遊女を雀に見立てた作品で、これも天保の改革で遊女を描けなかったためのアイディアとか。

歌川国芳 「里すゞめねぐらの仮宿」
弘化3年(1846年)


江戸の賑わい 流行と人気者

最後に風景画や芝居絵、妖怪絵、私家版の摺り物などなど、国芳の幅広いレパートリーとその技の数々を堪能。時は幕末、国芳も西洋画をすでに目にしていたようで、遠近法や影の描写など西洋画を意識した作品も見られるようになります。

歌川国芳 「浅茅原一ツ家之図」
安政2年(1855年)


国芳門人・河鍋暁斎・月岡芳年

このあとは国芳門人をはじめ、門人を代表する河鍋暁斎や月岡芳年、また小林永濯や尾形月耕、山本昇雲にスポットを当てています。

国芳の門人は名前が分かっているだけで80余名。月岡芳年や落合芳幾、芳艶あたりは有名で作品はよく見かけますが、他にも個性的な弟子はたくさんいて、博打好きで33歳で獄死したという芳鶴、背中一面に国芳絵の入れ墨を入れていたという一門きっての色男・芳雪、後年子ども向けの玩具絵を手掛けたという芳藤など、本展では28人の弟子の作品が紹介されています。日本に2組しかないという大判3枚続の「勇国芳桐対模様」は国芳が門人を引き連れて山王祭に繰り出す図で、芳鶴、芳雪、芳藤らが名前入りで描かれています。芳雪は片肌脱いだ刺青姿。

月岡芳年 「魁題百撰相 菅谷九右エ門」
慶応4年(1868)

河鍋暁斎 「元禄日本錦 岡嶋八十右門常樹 倉橋伝助武幸」
明治19年(1886)

暁斎は錦絵のみの展示。わずか7歳で国芳に入門するのですが、国芳の素行を見かねた両親が狩野派へ預けたというエピソードが笑えます。国芳は暁斎を“画鬼”と呼んでかわいがったといい、雀百までじゃないですが、暁斎の絵を観ていると、やはり国芳の下で受けた影響は大きいんだろうなと強く感じます。


小林永濯・尾形月耕・山本昇雲

小林永濯、尾形月耕、山本昇雲は明治期の浮世絵ファン垂涎の素晴らしさ。2階の会場は錦絵中心で1階に肉筆画が展示されています。

山本昇雲 「今すがた 花やしき」
明治42年(1909)

山本昇雲 「曽我兄弟夜討之図」

月耕は独学なのだそうで、美人画などその線のタッチが独特で新鮮です。昇雲は代表作といえる子どもを描いた作品や新版画風の美人画などが多く並んでいます。その中でも異質というか、驚いたのが肉筆画の「曽我兄弟夜討之図」で、非常に繊細なタッチで素晴らしい。背景の水墨の木々も見事。

小林永濯 「遊女鞠遊び」
明治17年(1884)

そして何と言っても注目は近年評価が高まっている永濯。永濯は親が国芳か豊国に入門させようとしたら、今さら浮世絵でもないだろうという意見があり、幕末の狩野派の絵師・狩野永悳に弟子入りしたといいます。錦絵も良いのですが、やはり肉筆の素晴らしさは格別で、こんなに永濯作品を観たのは初めて。「鍾馗図」のカッコよさ、「遊女鞠遊び」の美しさ、「猫図」の不気味さに惚れました。

小林永濯 「猫図」

最後に国芳コレクターで洋画家の悳俊彦の作品を紹介。武蔵野の田園風景が中心で、子どもの頃よく遊んだ石神井公園を描いた作品もあって、懐かしかったです。


【国芳イズム-歌川国芳とその系脈 武蔵野の洋画家 悳俊彦コレクション】
2016年4月10日 (日)まで
練馬区立美術館にて


国芳イズム—歌川国芳とその系脈国芳イズム—歌川国芳とその系脈

2015/09/02

舟越保武彫刻展

練馬区立美術館で開催中の『舟越保武彫刻展 まなざしの向こうに』を観てまいりました。

戦後日本を代表する彫刻家・舟越保武の回顧展。舟越保武の歩みを6つの時期に分け、約60点の彫刻作品と約50点のドローイングを展示しています。

ちょうど観に行った日の前日に美智子皇后がご覧になられたことがニュースになったり、アート関連のテレビ番組で取り上げられたこともあるのか、練馬区立美術館では珍しく(失礼!)受付に行列ができていました。

本展は岩手県立美術館、郡山市立美術館と回ってきた巡回展で、舟越が戦前、練馬・豊玉にあった“練馬アトリエ村”で活動をしていたという縁もあって練馬での開催ということなんだそうです。


会場の構成は以下の通りです。
第1章 彫刻への憧れ-東京美術学校受験の頃から 1933~1943年頃まで
第2章 模索と拡充-戦後 1945~195年頃まで
第3章 《長崎26殉教者記念像》 1958~1962年まで
第4章 信仰と彫刻-《原の城》・《ダミアン神父》の頃 1962~1975年頃まで
第5章 静謐の美-聖女たち 1975~1986年まで
第6章 左手による彫刻-最後の出品作品まで 1987~1998年まで

舟越は美校在学中から石彫には興味を抱いていたようで、椎名町の大理石工場で薄赤色の大理石に出会ったとき、「身体に熱いものが走る」思いがしたといいます。美校に通っていたとはいえ、石彫には素人だったようで、アトリエ近くの石屋の親方から道具の使い方を教わり、石彫に取り組んだのだとか。紅霰と呼ばれるその大理石を使った当時の作品も展示されていて、一心不乱にこの石と対峙したんだろうなという熱い思いのようなものが伝わって来ます。

舟越保武 「白鳥」
昭和23年(1948) 東京国立近代美術館蔵

ギリシャ神話を思わせる「白鳥」はその優美なフォルムと、純白の大理石の素材感を活かした石肌が印象的。憧れていたロダンに近づこうという舟越の意識を感じさせます。

この頃すでに完成されたものがありますが、心に響いてくる感じがしてくるのは信仰に根ざした主題を扱うようになった頃のものから。まだ幼い長男を肺炎で亡くしたことがきっかけとなり、舟越はカトリックの洗礼を受けます。黄色の水仙に埋もれるように眠る長男の死顔を描いたパステル画が涙を誘います。

舟越保武 「ダミアン神父」
昭和50年(1975) 岩手県立美術館蔵

2階に上がると、豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、磔の刑に処されたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人(日本二十六聖人)を顕彰する記念碑として制作された「長崎26殉教者記念像」(展示は岩手県立美術館所蔵のもの4体)にまず釘付けになります。磔にされた足は宙に浮き、神への祈りを口にしてるのか、口は少し開き、目は天を見つめ、ただひたすらに祈るその敬虔な姿に強く胸打たれます。デッサンも多く展示されていて、下絵から完成されていく様子もよく分かります。

「ダミアン神父」はハワイでハンセン病患者の救済に生涯を捧げたベルギー人宣教師。その顔や手は結節でボコボコとしていて、見た目は醜い相貌ですが、何か語りかけてくるような慈愛に満ちています。ダミアン神父は自らもハンセン病に感染し亡くなるのですが、病に罹ったとき、「我々ハンセン病患者は…」と語ることができるようになり、やっと苦しみを分かち合えるようになったと喜んだといわれています。その姿は重い皮膚病患者を癒したというイエス・キリストと重なります。

舟越保武 「原の城」
昭和46年(1971) 岩手県立美術館蔵

「ダミアン神父」と向かい合うように展示されているのが「原の城」。島原の乱で討ち死にした兵士が「雨あがりの月の夜に、青白い光を浴びて亡霊のように立ち上がる姿」を描いたといいます。力も尽き、うつろなその姿に、殉教したキリシタンの悲しみが表されているようです。背中には「いえずす さんたまりあ 寛永十五年 如月二十八日 原の城 本丸にて没」と彫られていました。

近くに田沢湖の「たつこ像」のブロンズの試作彫刻がありました。田沢湖で見ているのに、恥ずかしながらこれが舟越保武の作品とは知りませんでした。湖畔に佇むあの美しい彫像は、実は雪解けの荒れた峠の道を補修する作業者の中に見かけた若い女性をイメージしたものだそうです。

舟越保武 「聖クララ」
昭和56年(1981) 岩手県立美術館蔵

聖女の胸像も多く、そのなんともいえない美しさ、清らかさは感動的ですらあります。「聖クララ」は諫早石という砂岩で制作されていて、やや灰色で青みがかった石の冷たい印象を補うため、紅茶の飲み残しを塗って色の温かみを出したといいます。どの作品からも深い愛情と信仰が感じられ、厳かで静謐な時間が流れているようです。

舟越は1987年に脳梗塞で右半身不随になりますが、その後も左手だけで制作活動を続けます。病後の作品からは流麗なラインは失われますが、その荒々しさの中に人間の悲哀がよりくっきりと浮かび上がり、そこに込められた魂はより一層胸を打つものがあります。

舟越保武 「ゴルゴダ」
平成元年(1989) 岩手県立美術館蔵

今回展覧会を拝見し、舟越を特徴づけるものの一つに石彫があり、ブロンズでは表せない素材からくる質感と、リアルな表現力に大きな魅力を感じました。そしてやはりキリスト教を主題とした彫刻の美しさ、静謐さ、崇高さに強く惹かれます。胸がジーンとするような、そんな素晴らしい展覧会でした。


【開館30周年記念 舟越保武彫刻展 まなざしの向こうに】
2015年9月6日(日)まで
練馬区立美術館にて


舟越保武―まなざしの向こうに舟越保武―まなざしの向こうに

2015/05/17

小林清親展

練馬区立美術館で開催の『没後100年 小林清親展 文明開化の光と影をみつめて』に行ってきました。

もう少し早めに行きたかったのですが、ゴールデンウィークにも行けずじまい。結局最終日になってしまいましたが、ようやく駆け込みで拝見してまいりました。

小林清親というと“最後の浮世絵師”とよくいわれ、自分もその程度の認識でしかなかったのですが、同じ明治に活躍した月岡芳年や豊原国周、楊洲周延といった浮世絵師とはかなり趣が違うので、ずっと気になる存在ではありました。


第一章 光線画

小林清親の浮世絵(木版画)といえば“光線画”。文明開化で変わる都市景観や風俗を、光や影を効果的に用いた表現方法で描きだした(当時としては)新感覚の木版画です。

清親の木版画は新版画の展覧会などでもよく見かけますし、光線画自体もどんなものなのかは知ってはいましたが、やはりこれだけ作品が揃うと、さまざまな表現や技術も見られ、また比較もできて非常に興味深いものがあります。

小林清親 「高輪牛町朧月景」 明治12年(1879)

小林清親 「駿河町雪」 明治12年(1879)頃

会場は≪橋≫や≪街≫、≪夜≫、≪水≫などのテーマに分け、それぞれに近代化の象徴である蒸気機関車や電線、また橋のある風景や街の明かりなどを描いた作品を展示しています。光の調子や影の付け方で、季節や時間、また天候といった微妙な加減が表現されていたり、それまでの浮世絵では描かれてこなかった夜や水の表情が豊かだったり、清親の鋭い観察眼と、それを絵にする繊細で巧みな表現力に感嘆します。

小林清親 「両国花火之図」 明治13年(1880)

小林清親 「日本橋夜」 明治14年(1881)頃

花火が上がって一瞬昼間のように明るくなる様子を描いた「両国花火之図」や、ガス燈や提灯、建物の窓から漏れる灯りだけを描き、通りを行き交う人々をシルエットで描いた「日本橋夜」など、アイディアですね。

技術的にもレベル高い作品が多く、特に「梅若神社」は背景を薄墨の線で色版を白抜きの線で表現していて、太さや位置がずれないよう慎重に摺り重ねる必要があるのだとか。よく見るとどれだけ手の込んだ作品なのかが分かります。

ほかにも、画面をコーティングしテラテラした光沢をつける“ニス引き”や、西洋の銅版画の手法を真似て川面に反射する夕陽を横線で描いた作品など、とても研究熱心な方だったんでしょうね。

小林清親 「梅若神社」 明治12-14年(1879-81)頃

江戸の面影を残す名所を描いた「武蔵百景」のシリーズもいくつかあって、近代化していく景色を描いたそれまでの画風とも異なり、時代が求めていなかったのか、不評で途中で版行中止になったとありました。個人的には好きな絵だったんですけどね。

清親の有名なエピソードに、近くで火事が起きたのでスケッチ帖を片手に飛び出し、翌朝家に戻ったら家が灰になっていたというのがありますが、そのときの火事(両国の大火)を描いた作品も出ています。

小林清親 「猫と提灯」 明治10年(1877)

清親の代表作「猫と提灯」ももちろん出品されていました。初めてこの絵を見たときは木版画だと気づかなかったくらい、猫の毛の質感や提灯の色の感じがとても繊細なのですが、35度摺りという驚異的な数の版でできているのだそうです。会場には版木や順序摺りの見本が展示されていました。


第二章 風刺画・戦争画

清親はあるときパタリと光線画をやめ、当時の風刺雑誌に“清親ぽんち”と呼ばれる風刺画を描くようになります。これもまた評判を呼び、清親が漫画を描きだしてから誌面が楽しいと言われたのだとか。その絵はかなりデフォルメされ、時に滑稽に時にグロテスクに、恐らく皮肉を利かせて描かれていて、西洋の風刺雑誌の絵をかなり参考にしたんだろうなと思わせます。

ほかにも国芳ばりの戯画や、日清、日露戦争を題材にした戦争画などもあり。戦争画は大判三枚続など大画面を活かしてドラマティックに描いたといいます。

小林清親 「壱人六面相 可笑くも何ともないハ」 明治17年(1884)


第三章 肉筆画・スケッチ

肉筆画は2階と1階に。清親の肉筆画を観た記憶はないので、たぶん初めてなんじゃないかと思うのですが、また別の魅力が見られてとても興味深いです。清親の木版画は淡彩の柔らかい色調と繊細な表現でまるで水彩画を思わせるようなところがありますが、彼の水彩画はそのイメージのままで、共通するものを感じます。

日本で水彩絵具が発売されたのが明治12年頃だそうで、清親は早い時期から水彩の技術を習得。水彩画家としても先駆的な存在だったんですね。会場には清親のスケッチ帖もあって、水彩絵具で着色されたものもあったりします。


小林清親 「川中島合戦図屏風」
明治43年(1910) 静岡県立美術館蔵

ほかにも大胆なな筆さばきの「象図」や日本の神話を描いた「神代の国」、滑稽な味わいの「左甚五郎図」、軽妙な筆致の軸物など、非常に幅の広い作品が観られます。極めつけは六曲一双の「川中島合戦図屏風」。人物の表情や動きが絶妙でとても面白い。どこか野口哲哉や山口晃の作品を思わすような妙な魅力がありました。今回公開はされていませんが、屏風の裏は水墨の龍虎図になってるそうで、これがまたいい。これも観てみたかった。


小林清親という人は絵は上手いし、ユーモアも抜群だし、何でもこなしてしまう器用さがあったんだろうなと思います。前期を観に行けなかったのがつくづく残念。とても充実した展覧会でした。


【没後100年 小林清親展 文明開化の光と影をみつめて】
2015年5月17日(日)まで
練馬区立美術館にて


小林清親 文明開化の光と影小林清親 文明開化の光と影