2019/10/27

バスキア展

六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催中の『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』に行ってきました。

バスキアって確かに自分が10代の終わりから20代前半にかけて、とても注目を集めていたし、カッコよかったし、あの時代の、特にニューヨークのアートシーンを代表する現代アーティストだったと思うのですが、ここまで再評価(って言うんですかね?)が進んだのはここ10年ぐらいという印象があります。

80年代のニューペインティングというと、同じニューヨークで活躍したキース・ヘリングの方が日本では人気があったと思うのですが、最近はどうもバスキアの方が人気・評価ともに高いようですし、ZOZO元社長の前澤氏が購入して話題になりましたが、作品の市場価値もかなり高騰しています。

そんなバスキア、日本で初めての大規模な回顧展が始まりました。初日の夜間開館に行こうと、張り切って会社を出たものの、その日は内覧会の日で(途中で気づいたw)、翌週になりましたが行って来ました。(ってもう1ヶ月前ですね・・・)

バスキアの作品は映画や雑誌で見たりというのはありますが、実物っていつ見たかなと考えてみたのですが、大昔にスパイラル地下のCAYでバスキアの落書き(今回展示されてます)を見たり、『アンディ・ウォーホル展』でウォーホルとバスキアのコラボ作品を観たりというのはあるのですが、単独の展覧会というのは初めてかもしれません。

ジャン=ミシェル・バスキア 「フーイー」
1982年 高知県立美術館蔵無題

バスキアなんて観に来るのは同時代を過ごした40歳代以上なんだろうなと思っていたのですが、半分以上は若い世代で、前澤効果なのかバスキア人気は広く浸透しているのに驚きました。

ジャン=ミシェル・バスキア 「炭素/酸素」
1984年 ホール・コレクション蔵

どの作品もとても自由でとても激しくてとても詩的、そして楽しい。無邪気なんだけどメッセージ性があり、ポップなんだけどどこか冷めている。感性と勢いのあるままに生涯を終えたことも大きいと思うのですが、30年も前の作品だというのに今も刺激的なのはやはり凄い。若い世代に今も受け入れられているというのにはやはり理由があるんだと思います。

ジャン=ミシェル・バスキア 「無題」 1982年 前澤友作蔵

前澤さんが購入した作品も展示されていました。値段の話は別にしても、やはりクールだし、カッコいいし、大枚叩いてでも買いたくなる気持ちも分かります(お金があれば)。

ジャン=ミシェル・バスキア 「自画像」 1985年 個人蔵

線や色の複雑なアンサンブル、調和と非調和を繰り返し重なっていくレイヤー。バスキアの出発点であるストリート・グラフィティやクラブミュージックにしても、メインストリームから外れた故のエネルギーや反骨精神がベースの部分で繋がっているのかもしれません。

ジャン=ミシェル・バスキア 「プラスティックのサックス」
1984年 アニエスベー財団蔵

バスキアとジャズとの関連は有名で、作品にもジャズにインスパイアされた作品があったりしますが、彼の半ば即興的な絵画スタイルはやはりジャズに通じるものがあると感じます。「プラスティックのサックス」に描かれている人物は伝説のジャズミュージシャン、チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーなんだとか。なぜか「おりがみ」の文字も。

ジャン=ミシェル・バスキア 「オニオンガム」
1983年 ヴァン・デ・ウェッジ・ファインアート蔵

ジャン=ミシェル・バスキア 「メイド・イン・ジャパン1」「メイド・イン・ジャパン2」
1982年 ディミトリ・マブロマチス蔵

「おりがみ」の文字のように、日本との繋がりを感じさせる作品もあったりします。五重塔が描かれていたり、$ではなくYENと書かれていたり、その名もずばり「メイド・イン・ジャパン」という作品があったり。「オニオンガム」にも右上に「MADE IN JAPAN」の文字が見えます。バスキアが活躍した1980年代は日本製のウォークマンやテレビゲームが大流行したり、MADE IN JAPANの製品がアメリカに押し寄せた時代でもありました。

ジャン=ミシェル・バスキア 「消防士」 1983年 北九州市立美術館蔵

バスキアは1988年に亡くなりますが、その少し前、スランプに陥っていた時代があったようで、確かに晩年は退屈な作品もあったりします。早世した画家やアーティストの展覧会を観るといつも、この人が長く生きていたらどんな作品を残していただろうと思うのですが、バスキアの場合、駆け抜けて行ったからこそ、若さと勢いがあり、刺激的で濃密で、美しいのだろうという気がします。

ジャン=ミシェル・バスキア 「無題(ドローイング)」
1986年 ラリー・ウォルシュコレクション蔵


【バスキア展 メイド・イン・ジャパン】
2019年11月17日(日)まで
森アーツセンターギャラリーにて


バスキア展 メイド・イン・ジャパン

バスキア・ハンドブック

2019/10/20

名勝八景 憧れの山水

出光美術館で開催中の『名勝八景 憧れの山水』を観てきました。

使ってる人は多いと思うのですが、『東京駅周辺美術館共通券』という東京駅近辺の出光美術館、東京ステーションギャラリー、三井記念美術館、三菱一号館美術館の4つの美術館(以前は現在休館中のブリヂストン美術館も入ってた)で利用できるお得なチケットがありまして、毎年2~3冊買ってるのですが、今年はまだ出光美術館のチケットだけ使えてなくて、ようやく行くことができました(まだ1枚残ってる)。

本展は名勝を描いた水墨画、特に瀟湘八景図と西湖図を中心に、古の人々が憧れを抱いた山水の世界を紹介しています。瀟湘八景や西湖の水墨を集めた展覧会は珍しくありませんが、そこはやはり出光美術館なので所蔵品を中心に集められただけあり優品揃いで、個人的にも元信や山楽、又兵衛など、好きな絵師の作品が多く、大満足の展覧会でした。


会場の構成は以下のとおりです:
第1章 瀟湘八景-「臥遊」の発展と継承
第2章 西湖-描かれた「地上の楽園」
第3章 閑雅なる名勝ー文人たちのいるところ
第4章 名所八景-日本の名所

自ら遊ぶ様子を妄想する鑑賞の仕方を‟臥遊”と言うのだそうです。瀟湘八景図や西湖図、また多くの文人画はそうした理想郷の中に描かれた風景や人物を自分に置き換えることで、ある種の描く喜びや観る喜びがあったのかもしれません。

瀟湘八景図は中国の名勝・瀟湘地方の情趣豊かな情景を八景に分けて描いたもので、鎌倉時代には既に日本にもたらされていたといいます。最初に雪村の「瀟湘八景図屏風」が2点、六曲一隻の屏風と六曲一双の屏風がありました。一隻のみの屏風には瀟湘夜雨や平沙落雁、煙寺晩鐘、洞庭秋月などが描かれ、コンパクトにまとめられた分、凝縮された味わいがありますが、一方の一双の屏風には八景が両隻にわたり描かれ、牧谿様の表現もあれば、米法山水を思わせる筆遣いも見せ、雪村らしい奇態な山も。雪村が中国絵画を高いレベルで身に付けていたことが窺い知れます。

伝 周文 「瀟湘八景図屏風」(重要文化財)
室町時代 香雪美術館蔵

瀟湘八景図では初公開という狩野探幽と安信の合作の画帖と小型の掛軸が素晴らしい。墨の滲みやぼかしを活かした草体の優品。探幽の弟子・久隅守景の「瀟湘八景図屏風」は探幽というより室町水墨画を思わせるところが面白い。

その中でとても興味深かったのが伝・周文の「瀟湘八景図屏風」。周文を思わせるオーバーハング(と解説に書かれていた)な峻峰が特徴的ですが、前景の山や家屋が迫って見えるぐらい細密で強調されていて、金泥の雲がたなびいてたり、一部に彩色があったり、時代的にも周文より後のものだろうなという印象を受けました。解説では周文の弟子・岳翁蔵丘説が濃厚とのことでした。

瀟湘八景図のコーナーとは別のところに展示されていましたが、岩佐又兵衛の筆とされる「瀟湘八景図巻」も。落款や印章はないのですが、精緻極まる筆致や単眼鏡でやっと分かるぐらいの人物の微細な面貌、そして奇怪な木の表現はやはり又兵衛という感じがします。

鴎斎 「西湖図屏風」(重要文化財)
室町時代 京都国立博物館蔵

狩野山楽 「西湖図屛風」
江戸時代 サントリー美術館蔵

西湖図では狩野元信の謹直な線と横に長い構図がユニークな「西湖図屏風」や、金地に黒と白のバランス、墨の濃淡、細密な描写、どれをとっても素晴らしい山楽の「西湖図屏風」など、もうたまりません。山楽の「西湖図屛風」には16世紀半ばに倭寇に襲来を受けるも焼け残った雷峰塔の姿が描かれていることから、山楽が最新の情報を得ていたのだろうと解説されていました。この屏風は京博の『狩野山楽・山雪展』にも出てないし、サントリー美術館でも観た覚えがないので私は初見かもしれません。

ここで印象的だったのが鴎斎の「西湖図屏風」。鴎斎は能阿弥が用いた号ですが、能阿弥と別人とされ、ただし室町時代後期の同時代の絵師と考えられているそうです。淡彩の柔らかな筆墨と湿潤な空気感が実にいい。

長沢芦雪 「赤壁図屏風」
江戸時代 根津美術館蔵

根津美術館の芦雪の「赤壁図屏風」も来てました。薄墨の山々にぬめり感のある濃墨の木々。一見粗放に見えて崖の上の枝は強風に曲がり、波や人物は丁寧に描いていて、ぶっ飛んでるのに実は計算されているところが芦雪の凄いところだなと思います。

他にも、右隻に吉野の桜、左隻に龍田の楓で一面を埋め尽くした見事な「吉野龍田図屏風」や、『源氏物語』の「総角(あげまき)」に取材したとされる、いわゆる留守模様の「宇治橋柴舟図屏風」、同じく『源氏物語』に基づく土佐光起の「須磨・明石図屏風」、中国の瀟湘八景になぞらえた「近江名所図屏風」など見応えのある作品が並びます。


【名勝八景 憧れの山水】
2019年11月10日(日)まで
出光美術館にて



日本水墨画全史 (講談社学術文庫)

2019/10/05

岸田劉生展

東京ステーションギャラリーで開催中の『没後90年記念 岸田劉生展』を観てきました。

大正から昭和初期にかけての日本の近代洋画を代表する画家にして、その独創性ゆえ孤高の画家とまで評された岸田劉生の回顧展です。

10年前にも損保ジャパン日本興亜美術館(当時は損保ジャパン東郷青児美術館)で没後80年の記念展が開催されましたが、そのときは自画像や肖像画中心だったので、初期から38歳で若くして亡くなるまでの画業を一堂に観るという点では久しぶり(少なくとも東京では)の回顧展なのではないでしょうか。

10年後は没後100年なので、きっと大規模な回顧展がまたあるのでしょうが、それまでこれだけの作品を観られることは多分ないんじゃないかと思います。

劉生というと「麗子像」を思い浮かべる人も多いでしょうが、短い人生の中で激しく画風が変遷した画家だったことがよく分かる展覧会でした。


会場の構成は以下のとおりです:
第一章:「第二の誕生」まで:1907~1913
第二章:「近代的傾向…離れ」から「クラシックの感化」まで:1913~1915
第三章:「実在の神秘」を超えて:1915~1918
第四章:「東洋の美」への目覚め:1919~1921
第五章:「卑近美」と「写実の欠除」を巡って:1922~1926
第六章:「新しい余の道」へ:1926~1929

最初に劉生が10代の頃に描いた水彩画が展示されていました。当時、水彩画の専門誌『みずゑ』が創刊され、水彩画ブームが起きていたのだそうです。劉生の水彩画はお世辞にも上手いとはいえないものの、絵を描くのが好きなんだなということが伝わってきます。

岸田劉生 「B.L.の肖像(バーナード・リーチ像)」
大正2年(1913) 東京国立近代美術館蔵

白馬会の洋画研究所で黒田清輝に師事するとめきめきと腕を上げます。外交派の表現で描かれたものがあったり、ホイッスラー作品を思わせるものがあったりしますが、やがて文芸・美術雑誌『白樺』に感化され、ゴッホやセザンヌ、ゴーギャンといったポスト印象派に影響された鮮烈な表現が見られるようになります。

岸田劉生 「自画像」
大正2年(1913) 東京国立近代美術館蔵

岸田劉生 「自画像」
大正2年(1913) 豊田市美術館蔵

没後80年の展覧会が自画像と肖像画が中心だったように、劉生は生涯において自画像を多く描いています。特に22〜23歳(1913〜14年)の頃に集中し自画像だけで30点にのぼるといわれます。友人を描いた肖像画も多く、手当たり次第に友人を捕まえてはモデルをさせ、一日も2人描くこともあったことから、友人からは“首狩り”や“千人斬り”と揶揄されたとか。もちろんそれは画技の研鑽と写実の追求のためだったのでしょうし、ずらりと並ぶ自画像や肖像画からも劉生の筆致がどう変わっていったかが具に分かります。

岸田劉生 「高須光治君之肖像」
大正4年(1915) 愛知県美術館蔵

この頃、劉生はデューラーなど北方ルネサンスに傾倒していきます。暗い背景に明暗のコントラストを効かせた擬古的な肖像画は近代洋画の路線から逆行するようにも思えますが、それまで試行錯誤してきた写実や技巧を突き詰めたら、近代絵画に行きつく前の基本に戻ったということなのでしょう。このあたりから劉生の独創性が際立っていきます。

岸田劉生 「麗子肖像(麗子五歳之像)」
大正7年(1918) 東京国立近代美術館蔵

岸田劉生 「麗子微笑」
大正9年(1920) ポーラ美術館蔵(展示は9/23まで)

そして「麗子像」。まだ幼い頃の麗子像は北方ルネサンスの影響下にある感じがしますが、一方で劉生は東洋美術に関心を深め、内なる美を求めていきます。麗子の顔がだんだんと横につぶれたようなになり、時に妖しく、時にグロテスクに、異質のリアリズム、いわゆるデロリが現れます。匿くされたところに深さや神秘さ、厳粛さがあるとした劉生の言うところの「卑近美」です。少し目が潤んでいる麗子像があったのですが、長時間モデルをさせられた麗子が足が痺れて泣きそうなのに父はキャンバスに集中して気づいてくれなかったというエピソードが紹介されてました。

岸田劉生 「壺の上に林檎が載って在る」
大正5年(1916) 東京国立近代美術館蔵

劉生の作品を観ているとこだわりが強いと言うか、絵に多くを求めすぎているのではないかという気がしてきます。静物も素直でないところがあって、壺の上に林檎が乗ってたり、テーブルの上の果物がわざとらしく並べてあったり、良く言えば哲学的、悪く言えば考えすぎて意味不明な感じがします。

岸田劉生「黒き土の上に立てる女」
大正3年(1914) 似鳥美術館蔵

風景画は代々木時代の赤土の大地の風景が全く風光明媚ではないのに生命力や力強さがありとても興味を引くのですが、逆に自然豊かな湘南の風景に面白味を感じませんでした。それまで劉生の作品からひしひしと伝わてきた強い意思や実験精神があまり見られなかったからかもしれません。

東洋の美の追求のため劉生は初期浮世絵や宋元画を研究していたようですが、やがて自ら日本画を描き始めます。作品は南画や淡彩の水墨が多く、油彩画とは違った色彩や軽妙さが面白い。ただ、日本画の基礎があるわけではないので、やはりそこは同時代の日本画家とは一緒に比べられないし、今まで追求していたものはどこに行ったのだろうと考えずにはいられません。

岸田劉生 「道路と土手と塀(切通之写生)」(重要文化財)
大正4年(1915) 東京国立近代美術館蔵

画壇から距離を置き、京都で遊び呆けていた劉生は劉生が兄と慕った武者小路実篤に呼び戻され、再び油彩画に熱心に取り組んだようですが、38歳で惜しくもこの世を去ります。亡くなる直前新たな展開を見せた油彩画が興味深く、もう少し生きていれば、どんな作品を描いていたんだろうと思わずに入られませんでした。


【没後90年記念 岸田劉生展】
2019年10月20日(日)まで
東京ステーションギャラリーにて



もっと知りたい岸田劉生 (アート・ビギナーズ・コレクション)