2012/10/21

ふるあめりかに袖はぬらさじ

赤坂ACTシアターで坂東玉三郎主演の『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を観てきました。

ご存じ有吉佐和子原作で、杉村春子の当たり役だった作品。杉村春子による文学座公演の初演が1972年で、今年は40周年とのこと。玉三郎も1988年から杉村春子が演じたお園を演じていて、今回が10回目の公演になるそうです。

玉三郎も当初は新劇の役者さんたちと『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を上演してきましたが、2007年には念願の歌舞伎公演を行っています。自分は残念ながら本公演は観ておらず、翌年シネマ歌舞伎で拝見したのですが、あまりの面白さに2度も観に行きました。

さて今回は、その歌舞伎版以来の公演で、南座、御園座と巡業して、亀遊役に壇れいを迎えての最終公演となります。

もともとは杉村春子のために書かれた舞台なので、流れ流れた年増芸者で、話好きで、世話好きで、酒飲みで、男にだらしがなくて、といかにも杉村春子が得意としそうなキャラを念頭においたような役。玉三郎はきれいすぎて、どちらかというとお園には不似合いなのですが、玉三郎は玉三郎らしいアプローチで、愛嬌のある“お園”を創りだしています。杉村本人は玉三郎のお園に最初は反対したそうですが、その舞台を見て太鼓判を押したともいわれています。

玉三郎は流石に慣れたもので、申し分のない演技で、時に新劇的だったり、時に世話物的だったりと“玉三郎のお園”ができあがっているなと感じました。珍しく台詞を言い間違えたり、言いよどんだりしたところがありましたが、観に行ったのが楽前だったので、長い公演の疲れだったのでしょうか。でも、存分に玉三郎のお園を楽しく拝見することができました。

前回の歌舞伎版では七之助がとても素晴らしかった亀遊を、今回は壇れいが演じるというのが話題ですが、壇れいの品の良さが邪魔をしてどうしても女郎に見えないというのはありましたが、薄幸の花魁の切なさや恋心、何より消え入りそうな儚さを難なく演じて、さすが巧いなと思いました。ただやはり歌舞伎と違って、女性が女性を演じるとリアルで、なんか生々しいもんですね。

ラストの演出が歌舞伎版と異なるなど、若干演出上の違いはあったようですが、基本的には同じ本なので、それほどの差異はなかったのように思います。ただ感じたのは役者さんの個性というか存在感の薄さ。役者のアクというか存在感が、玉三郎や壇れいを除くと平板というか、ちょっと寂しい印象を受けました。玉三郎のお気に入りらしい藤吉も、あの幕末の世に渡米して医者になろうという大志を抱いているほどの強さや熱さが残念ながら感じられませんでした。

歌舞伎版はそれぞれの役者さんの個性が強く、ほんのちょい役なのに海老蔵が出てくるだけで場の空気が変わるような存在感があったし、岩亀楼主人の勘三郎や思誠塾岡田の三津五郎なんかも、主役の玉三郎と渡り合う主張の強いいい芝居をしていたと思います。確かに歌舞伎版はオールスターキャストの贅沢な配陣でしたし、それぞれの役者の格を重んじる歌舞伎という舞台の特殊性故なのかもしれません。今回の舞台は、やはり玉三郎を“主演女優”にした企画という性格が強く、前面に玉三郎が出ていて、他の役者が一歩引いているような印象さえ受けました。特に後半は玉三郎の独壇場。もう少し玉三郎と対等に渡り合える役者がいれば、舞台にグッと厚みが出ただろうなと思います。

考えてみると、自分が玉三郎の舞台を見るのは、歌舞伎座さよなら公演の『助六』以来。この間、歌舞伎公演は東京では新橋演舞場を中心に行っていますが、玉三郎は“鹿鳴館事件”があってから演舞場とは犬猿の仲という話なので、東京で歌舞伎はル・テアトル銀座でお正月公演をやっただけ。あとは東京では舞踊公演や、去年の『牡丹亭』と今回の公演といった一般公演のみ。今年、人間国宝に選ばれた現役最高峰の歌舞伎女形の割には、ちょっと残念な気もします。

来年、新・歌舞伎座ができたら、玉三郎の歌舞伎をたくさん観られるのだろうとは思うのですが、当たり役といわれた役をいきなり封印したり、また一説には引退説までささやかれている人ですから、どこまで熱心に打ち込んでくれるのか、まだまだ予断を許しません。歌右衛門や雀右衛門や芝翫らの跡を継ぎ、歌舞伎で立女形として歌舞伎界を引っ張っていくつもりがあるのかどうか、ここ2年ばかりの玉三郎の行動を見ていると、ちょっと不安が残ります。

今回の『ふるあめりかに袖はぬらさじ』も、もしかしたら最後になるのでは?という一抹の不安があり、チケットを慌ててとりました。玉三郎が敬愛してやまない杉村春子は88歳になってもお園を演じていますが、はたして玉三郎はそこまでしてお園を演じるだろうかと思うのです。80歳を過ぎても下着姿で舞台の上に立ち、ブランチを演じてしまう女優魂の塊のような杉村春子や、老醜といわれながらも舞台に立ち続けた歌右衛門のように、玉三郎に“もう美しくない玉三郎”、“老けた玉三郎”を曝してまで舞台に立つ意志や覚悟はあるのか、そこがずっと気になっています。

お園は年を重ねても、ますます味の出てくる、いい役だと思います。一生続けられる芝居だと思うのです。またいつか玉三郎のお園が観られる日を楽しみにしていたいと思います。


ふるあめりかに袖はぬらさじ (中公文庫)ふるあめりかに袖はぬらさじ (中公文庫)

2012/10/20

竹内栖鳳 -京都画壇の画家たち

山種美術館で開催中の『竹内栖鳳 -京都画壇の画家たち』に行ってきました。

“東の大観、西の栖鳳”というように、横山大観が関東出身の近代日本画の巨匠であるのに対し、竹内栖鳳は京都画壇の筆頭に挙げられる近代日本画の大家。明治・大正・昭和を生き、上村松園や西山翠嶂をはじめ、名だたる日本画家を多く育て上げたことでも知られています。

本展は、竹内栖鳳の作品を中心に、栖鳳の造形的源泉となった円山・四条派の先人たちの作品や、上村松園、西村五雲、橋本関雪といった栖鳳の流れを汲む画家の作品を展示しています。

会場に入ると、まずは栖鳳の代表作で重要文化財の「班猫」がお出迎え。よーく見ると、えり首のカーブというか、首の長さが少々いびつな気もしないでもないのですが、毛の質感といい、模様の感じといい、何よりも毛づくろいをしながら、こちらの様子をうかがっているような視線といい、うまいなぁと思います。

竹内栖鳳 「班猫」(重要文化財)
大正13年(1924年) 山種美術館

作品のそばに、この猫に一目惚れしたときのエピソードや実際の“班猫”の写真が飾られていました。沼津の八百屋で「徽宗皇帝の猫がいるぞ!」と言って、飼い主に何とかお願いして栖鳳の自筆画と交換してもらったのだそうです。ペット好きなら誰でもそうでしょうが、いくら頭を下げて頼まれたからといって大事な家族を譲るなんてことはまずありえないので、そこを拝み倒した栖鳳の、この猫を描きたいという執念は相当のものだったのでしょう。

この並びには、≪先人たちに学ぶ≫として、円山応挙や応挙の弟子・長沢芦雪、また森寛斎や川端玉章など円山派、与謝蕪村に呉春といった四条派の作品が展示されています。栖鳳の師にあたる幸野楳嶺が元は円山派に学び、後に四条派に入門した人ということもあり、栖鳳は円山派と四条派の双方の流れを汲んだ画家とされています。円山派の写生を重んじた写実性と四条派の詩情に富んだ画風が栖鳳にどう影響を与えたのか、ここから推し量ることができます。ただ、師・幸野楳嶺の作品が一点も展示されていなかったのは少々残念でした。

竹内栖鳳 「象図」
明治37年(1904年) (展示は10/28まで)

栖鳳は明治33年(1900年)にヨーロッパに遊学をしていて、西洋美術に大きな刺激を受けたといいます。帰国後に描かれた金地水墨の「象図」は、円山四条派を軸とした画風や構図の中にも、西洋絵画から学んだ写実性が活かされていて、新しい動物表現に挑戦しようとした意気込みが強く伝わってくる作品です。栖鳳は、「西欧芸術を知ることによって、却って東洋芸術の精神とか東洋芸術特有の技術とか色調とかを理解することができた」と語っています。

竹内栖鳳 「潮来小暑」
昭和5年(1930年) 山種美術館蔵

淡彩で描かれた潮来の風景画も何点か展示されていました。この作品はタナーやコローを意識し、西洋画の技法を取り入れたそうです。

竹内栖鳳 「飼われた猿と兎」
明治41年(1908年) 東京国立近代美術館蔵

「飼われた猿と兎」は自宅に飼っていたサルや動物園のウサギを写生して制作した作品だそうです。冒頭の「班猫」もそうですが、この人は相当熱心に写生をしたんだろうなと思います。猿や兎の動きや表情がよく捉えられています。

栖鳳は動物画が多いのも特徴で、ほかにも「熊」という、まるでぬいぐるみのような熊の絵もありました。これも栖鳳なのか、とちょっとビックリしました。個人的には墨画の「晩鴉」や屏風仕立ての「蛙と蜻蛉」がいいなと思いました。欲をいうなら、栖鳳のライオンの絵も観たかったな、と。

 竹内栖鳳 「春雪」
昭和17年(1942年) 京都国立近代美術館蔵 (展示は10/28まで)

「春雪」は栖鳳の最晩年の作品。この作品を展覧会に出品し、その5ヶ月後亡くなったのだそうです。舳先にとまるカラスとぼた雪のような春の雪。静けさと寂しさと、どこか安らぎが感じられるような奥深い絵です。

会場の最後には、≪栖鳳をとりまく人々≫として、栖鳳から指導を受けた上村松園、西村五雲、橋本関雪や村上華岳らの作品が展示されています。

竹内栖鳳 「絵になる最初」
大正2年(1913年) 京都市美術館蔵 (展示は10/30から)

後期には栖鳳の代表作「絵になる最初」や「蹴合」も展示されます。


【没後70年 竹内栖鳳 ―京都画壇の画家たち― 】
2012年11月25日(日)まで
山種美術館にて


竹内栖鳳 (ちいさな美術館)竹内栖鳳 (ちいさな美術館)

2012/10/14

お伽草子展

サントリー美術館で開催中の『お伽草子展』に行ってきました。

“お伽草子”とは、室町時代から江戸時代にかけて作られた絵入りの短編物語のことで、絵巻や絵本でも親しまれ、幅広い階層に愛読されたといいます。

“おとぎ”は、もともと寄り添う意味の“とぐ”から来ていて、退屈を紛らわせたり、慰めたり、機嫌を取ったりするための話し相手のこと。空いた時間にちょっと読むにはちょうどよい“相手”としての需要があって“お伽草子”は広まったのでしょう。

内容は「一寸法師」や「浦島太郎」のような昔話もあれば、恋愛物語や武勇伝、さらには怪奇譚まで、その題材は多彩で幅広く、時代時代で新しい物語が作られ、現存作品だけでも400種類を超えるそうです。

本展では、全期間で約110点の作品が展示され、お伽草子の成り立ちから、時代ごとの変化、その内容の変遷や特異性などを紹介しています。

会場に入ると、まず“お伽草子”の定義が書かれていました。
  1. 短編であること。比較的短い時間で楽しめる。
  2. テーマの新奇性。物語文学が貴族の恋愛物語であるのに対し、“お伽草子”は名もない庶民が主人公だったり、神仏の化身や申し子だったり、動物たちが人間のようにふるまったりするなど多種多様。
  3. 多くの場合、絵を伴うこと。
とのことでした。

序章には、18世紀前半に大坂の渋川清右衛門が「御伽草子」の名で刊行した23編の“お伽草子”が展示されています(期間により5~6点ずつ)。「御伽草子」は渋川清右衛門が使ったいわば商標のようなもので、ロングセラー商品としてヒットしたといいます。“お伽草子”という言葉自体は、ここから広まったということです。


第1章 昔むかし ― お伽草子の源流へ

絵巻の全盛期は鎌倉時代といわれていますが、当時は寺社縁起や高僧伝記などの宗教的なものが多く、物語文学を内容とするものは少なかったそうです。やがて、鎌倉時代末期になると、題材や表現にそれまでとは異なる物語が現れます。これがお伽草子の萌芽といわれているとのことでした。

「福富草子」(部分) (重要文化財)
室町時代 京都・春浦院蔵

「むかしむかし、見事な“放屁っぷり”で長者になった男がおりました。それを真似ようとした…」という男の失敗談を描いた「福富草子」。サントリー美術館 には「放屁合戦絵巻」という一度見たら忘れない絵巻の珍品がありますが、今回はその出展はなく、2点の「福富草子」が展示されていました。こんな昔話が あったんですね。

ほかにも、物語化される前の浦島伝説「浦嶋明神縁起絵巻」も展示されていて、まずはお伽草子の源流から触れていきます。


第2章 武士の台頭 ―「酒呑童子」を中心に

武士が台頭する鎌倉時代以降になると、軍記物語が登場し、それはやがて超人的な武士像を生み、武勇説話や怪物退治に姿を変えていきます。丹波の大江山に棲む鬼の頭領・酒呑童子を退治する物語は100を超えるものが存在するそうで、当時は非常にポピュラーな物語だったことがよく分かります。

狩野元信 「酒伝童子絵巻」(下巻 部分)
大永2年(1522) サントリー美術館蔵

本展ではその現存最古のものという「大江山絵詞」(重要文化財)のほか、狩野永徳の祖父にあたる元信による「酒伝童子絵巻」や岩佐派の関与が指摘されている「大江山縁起図屏風」などのお伽草子と呼ぶには立派過ぎる“酒呑童子もの”の絵巻や屏風も展示されています。


第3章 お伽草子と下剋上

すっかり武士の世の中となった室町時代。文化もそれに応じた発展を遂げます。戦国の世は、文芸の世界にも質の変化と多様化をもたらしたといいます。このコーナーでは、立身出世といった時代の精神や風潮、また物語の主人公や画風の変容、また享受層の広がりを、さまざまなお伽草子から辿っていきます。

伝・土佐光信 「地蔵堂草紙絵巻」(部分)
室町時代 個人蔵

「地蔵堂草子」は、美女に連れられ竜宮に行った僧が美女の正体が竜だと知り、地蔵堂へ戻ってくるが、一夜明けると僧は竜の姿になっていたというお話。絵巻は土佐光信の筆と伝えられるもので、素朴でユーモラスな画風の作品が多い中でも、ちょっと別物というような完成度の高い絵巻でした。

「おようのあま絵巻」(部分)
室町時代 サントリー美術館蔵

「おようのあま」は、貴族や武家の女房たちを訪ねては小物や古衣などを売り歩く“御用の尼”と呼ばれる老尼が、お茶をごちそうになった老僧にお礼に世話をする若い女性を約束するが、後日現れたのは若い女性の格好をした老尼だったというお話。

“お坊さん”ものではほかにも、美しい娘に一目惚れした僧侶が長い竹筒で愛を囁くという「ささやき竹物語」や、殺生をいさめたり、念仏をすすめたりと熱心に語りかけるも、あれこれと言い返されてしまう僧の悲哀をユーモラスに描いた「善教房絵巻」など、ユニークな作品がありました。

「浦島絵巻」(部分)
室町時代 日本民藝館蔵 (展示は10/8まで)

“浦島太郎”の話はいくつもバリエーションがあるようで、この「浦島絵巻」もいじめられてた亀を助けるわけでもなく、現代のストーリーと若干違うようです。名前も“浦島太郎”ではなく“浦島子”でした。この箱からピューッと出てるのは実は煙で、「玉手箱を開けたら男は白髪のおじいさんになりました」ということなのですが、今で言うと“ヘタうま”っていうんでしょうか、素朴な味わいがあって、子どもが喜んで見ている光景が目に浮かぶような楽しいお伽草子でした。

ほかにも、兄・海幸の釣り針を失くした弟・山幸が翁に導かれて海中の竜宮城に向かい、無事に釣り針を見つけた上に美しい姫と結婚するという海幸・山幸の神話を描いた「かみ代物語」や、刈萱道心と子・石童丸の説話を描いた「かるかや」など、稚拙な画ながらも、素朴さとユーモラスさに溢れた作品があって、とても面白かったです。


第4章 お伽草子と〈場〉 ― すれ違う物語・行きかう主人公

「鼠草子」もいくつものバリエーションが展示されていました。昔話の「ねずみの嫁入り」とは違う話のようで、畜生界から逃れたいと願う鼠が人間の女性と結婚するも、実は鼠だと知ったお嫁さんが逃げてしまうというお話。擬人化された鼠の姿がユーモラスです。

鼠草子絵巻(巻二 部分)
室町時代~桃山時代 サントリー美術館蔵

鼠が人間のお嫁さんが欲しいと願をかけるところが清水観音(清水寺)なのですが、お伽草子の中には清水寺が登場するものがいくつもあって、その数40篇を超えるそうで、現存するお伽草子の約1割を占めているというから驚きです。

京都の清水寺の門前で女性を物色する「物ぐさ太郎」など、ここでは清水寺が重要な場面に描かれているお伽草子を集め、その関係を探る独立したコーナーが設けられています。中でも、清水寺を舞台にした中将と姫の恋愛を描く「しぐれ絵巻」は貴族の男性の目が少女マンガのようなパッチリ二重でビックリします。女流絵師による作品だそうで、昔からパッチリ二重はイケメンの象徴だったのでしょうか。いろんな絵巻を観てきましたが、こんなの初めて観ました。


第5章 見えない世界を描く ― 異類・異界への関心

最後のコーナーは、異界や異類が描かれたお伽草子を集めています。先ほどの「鼠草子絵巻」もこちらのコーナーでも紹介されていましたが、ほかにも天狗が比叡山の僧との法力競べであえなく負けてしまう様を描いた「是害房絵巻」や、台所用品など器物のお化けを描いた「付喪神絵巻」、また妖怪たちの跳梁跋扈を描く「百鬼夜行絵巻」などが展示されています。

中でも、60点を超えるという「百鬼夜行絵巻」の最古の名品といわれる京都・真珠庵蔵の「百鬼夜行絵巻」は中世の妖怪の絵が見られるという点でも非常に興味深い作品でした。このほかにも、「百鬼夜行絵巻」と「付喪神絵巻」が合体したような、その名も「百器夜行絵巻」なるユニークな作品もありました。

「付喪神絵巻」(上巻 部分)
室町時代 岐阜市・崇福寺蔵

たとえば「平家物語」や「伊勢物語」、「源氏物語」を取り上げた作品のように、多少なりともその物語のバックグラウンドがないと、ちゃんと理解するのが難しいものと違って、“お伽草子”は肩ひじ張らず楽しめる“軽め”なところがいいのだと思います。高尚な美術作品とは違って敷居も低く、大人から子どどもまで楽しめて、愉快でとても楽しい展覧会でした。


【お伽草子 この国は物語にあふれている】
2012年11月4日(日)まで
サントリー美術館に


慶応義塾図書館蔵図解 御伽草子慶応義塾図書館蔵図解 御伽草子


十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの

2012/10/10

月岡芳年展

太田記念美術館で開催中の『月岡芳年展』に行ってきました。

待ちに待った月岡芳年の回顧展。芳年は歌川国芳の弟子で、幕末から明治前期にかけて活躍した最後の浮世絵師。今年はその芳年の没後120年にあたり、前後期あわせて240点の作品が揃うという東京では約17年ぶりとなる大規模な展覧会です。

近年、歌川国芳が脚光を浴び、あちらこちらで国芳の展覧会が開催されていますが、さすがに少し食傷気味。国芳はもういいから、月岡芳年を見せてよ、と思っていたところに届いた朗報。首を長くして待っておりました。

本展は、芳年の画業を5つの章に分け、それぞれの時代の作品を紹介しています。


第1章 国芳一門としての若き日々

月岡芳年は1839年(天保10年)に新橋の商家に生まれ、数えで12歳の頃、武者絵や戯画で当時人気絶頂の歌川国芳に入門します。その3年後の15歳のときには三枚続の大判錦絵を制作。駆け出しどころかまだ修行中の身で、大判三枚続でデビューするのは異例中の異例で、親族から制作費の提供があったのではないかということでした。それでも僅か15歳にしてこれだけの作品が作れるというのは、相当の実力があってこそ。師匠・国芳の作品を思わせるインパクトのある大胆な構図や表現力から芳年の早熟さが伝わってきます。

月岡芳年 「文治元年平家の一門亡海中落入る図」
嘉永6年(1853年) (展示は10/28まで)

芳年の本格的な画業の開始は22歳の頃で、役者絵をはじめ武者絵や美人画など幅広く手掛けていたようです。芳年が国芳から薫陶を受けたのは国芳が亡くなるまでの僅か10年程ですが、芳年の初期の作品はいずれも国芳の画風や影響を強く感じさせます。

月岡芳年 「東海道 名所之内 由比ヶ浜」
文久3年(1863年) (展示は10/28まで)

徳川家茂が朝廷に参内するため東海道を練り歩いた様子を描いた「御上洛東海道」は、歌川広重や河鍋暁斎を筆頭に歌川派の絵師16名を総動員した大規模な揃物で、芳年は8点を制作しています。相模湾越しの富士山という典型的な東海道ものの構図に鶴が群れをなして飛んでいくユニークなアレンジが印象的です。

月岡芳年 「通俗西遊記 混世魔王 孫悟空」
元治元年(1864年) (展示は10/28まで)

「通俗西遊記」は芳年最初の本格的な物語絵のシリーズ。孫悟空の口から子猿のシルエットが飛び出ていて魔王に襲いかかるというユニークな作品です。芳年はこの頃から若手の有望株として徐々に頭角を現し出したといいます。

月岡芳年 「和漢百物語 大宅太郎光圀」
慶応元年(1865年) (展示は10/28まで)

日本や中国の怪談を題材にした「和漢百物語」は26点からなり、本展では前後期で6点が展示されます。「大宅太郎光圀」は、国芳の代表作「相馬の古内裏」と同じ滝夜叉姫の妖術で大宅太郎が骸骨に襲われる場面を描いた一枚。師匠の「相馬の古内裏」の巨大な骸骨とは異なり、小人のような骸骨がみんなして攻めてくるのがちょっと笑えます。芳年はこの「和漢百物語」から月岡姓を名乗り始めます。


第2章 幕末の混迷と血みどろ絵の流行

月岡芳年といえば“血みどろ絵”。芳年自身がこうした残酷な作品に傾倒してのかと思っていたのですが、会場の解説によると、こうした表現は幕末の歌舞伎や講談で好まれた趣向で、芳年はそれを過激に演出したに過ぎないとありました。幕末という時代がそうした嗜好を求めていて、芳年はそれを敏感に嗅ぎとったということのようです。

月岡芳年 「英名二十八衆句 稲田九蔵新助」
慶応3年(1867年)

「英名二十八衆句」は、歌舞伎や講談の残酷な場面のみを集めた揃物。「稲田九蔵新助」は「英名二十八衆句」の代表的な一枚で、裸の女性が逆さ吊りされて、切りつけられるという、正に凄惨の極み。俗に“あんこう斬り”というのだそうです。恐ろしすぎます。

月岡芳年 「英名二十八衆句 団七九郎兵衛」
慶応2年(1866年) (展示は10/28まで)

歌舞伎や人形浄瑠璃の人気狂言『夏祭浪花鑑』で団七が舅の義平次を殺めてしまう場面を描いた「団七九郎兵衛」。ねっとりした血の感じや泥まみれの立ち回りが伝わってくる凄まじい作品です。歌舞伎で観ていても惨い場面ではありますが、ここまでの描写はさすがに過剰という気がします(笑)。

月岡芳年 「英名二十八衆句 福岡貢」
慶応3年(1867年) (展示は11/1から)

後期には、遊郭の人々を次々と斬殺する殺し場が有名な、歌舞伎で人気の『伊勢音頭恋寝刃』の「福岡貢」が展示されます。白絣の柄もちゃんと井桁模様になってます。

月岡芳年 「東錦浮世稿談 幡随院長兵衛」
慶応3年(1867年) (展示は10/28まで)

「東錦浮世稿談」は当時人気のあった講談を題材にした揃物。これも歌舞伎で人気の『幡随院長兵衛』の湯殿の名場面を描いた一枚。太ももには折れた槍が刺さったままで、あちこちに血の手形つき、壮絶な最期であったことが想像できます。

月岡芳年 「魁題百撰相 冷泉判官隆豊」
明治元年(1868年) (展示は10/28まで)

南北朝時代から江戸初期までの歴史上の人物を描いた「魁題百撰相」。実は過去の英雄の名と略伝を借り、彰義隊の人たちの姿を重ね合わせたものだそうです。冷泉隆豊は周防の戦国武士で、敵に囲まれ自害した際、自らの内臓を天井に投げつけたという壮絶な最期を遂げた人物。よく見ると、お腹のあたりに飛び出た内蔵が描かれています。生々しい描写に芳年の徹底ぶりがうかがえます。

このほかにも、第1章、第2章には、師・国芳の出世作「水滸伝」を芳年流にアレンジした「美勇水滸伝」や「豪傑水滸伝」、役者絵のシリーズ「勇の寿」、和漢の故事・物語の人物を描いた「一魁随筆」などの揃物が展示されています。


第3章 新たな活路 -新聞と西南戦争

明治になり、次々と西洋の新しい文化の波が入ると、芳年も西洋風の表現を取り入れようと模索を始めたといいます。時代的にも浮世絵は過去のものとなり、芳年は新聞の挿絵に活路を見出します。新聞記事といっても内容は殺人事件や強盗事件、ときには怪奇現象といった三面記事で、芳年の作風とうまく合致し、彼の絵は非常に人気が高かったそうです。

月岡芳年 「郵便 報知新聞 第六百十四号」
明治8年(1875年) (展示は10/28まで)

やがて西南戦争が勃発すると、芳年は西南戦争を題材にした作品を次々と発表します。写真の技術が既に入っていたとはいえ、報道写真に使われるまでの即日性はなく、遠く九州で起きた大事件を伝えるメディアとして、芳年の錦絵は大いに持て囃されたそうです。


第4章 新時代の歴史画 -リアリズムと国民教化

新聞の挿絵で人気を博す一方で、この頃の芳年は歴史画に取り組み、神話の時代から江戸時代に至るまで、歴史上の人物を題材にした作品を精力的に発表しています。このコーナーでは、歴史的なエピソードや日本古来の神話や説話にまつわる作品を展示しています。

月岡芳年 「藤原保昌月下弄笛図」
明治16年(1883年) 千葉市美術館蔵 (展示は10/28まで)

「藤原保昌月下弄笛図」は、展覧会に出品した絹本着色の肉筆画をもとに版画化した作品。非常に人気が高く、その人気に乗じて歌舞伎作品も上演されたほどだといいます。


第5章 最後の浮世絵師 -江戸への回帰

40代半ばになり、浮世絵師としてトップの実力と人気を得た芳年。その卓越した画芸と筆遣いはさらに磨きがかかり、次々と傑作と評される作品を発表します。

月岡芳年 「風俗三十二相 みたさう 天保年間御小性之風俗」
明治21年(1888年)  (展示は10/28まで)

「風俗三十二相」は女性たちの心の描写をとらえた全32点からなるシリーズ。いずれも江戸時代の女性の風俗を描いたもので、晩年の美人画の傑作と評価されています。芳年は国芳の弟子の中でも美人画が得意といわれていたそうで、女性の艶っぽさや叙情的な表現に芳年の幅広い画力を感じます。

月岡芳年 「雪月花の内 雪 岩倉の宗玄 尾上梅幸」
明治23年(1890年) (展示は10/28まで)

芳年の明治期の役者絵が何枚も展示されていましたが、江戸時代によく見られる役者絵のパターンと違って、役者の表現力や演出的な構図というんでしょうか、芝居を浮世絵化するアレンジ力が非常に面白く、際立っていると感じました。

月岡芳年 「月百姿 垣間見の月 かほよ」
明治19年(1886年)  (展示は10/28まで)

芳年の代表作として非常に名高い「月百姿」も前後期合わせて6点展示されます。「垣間見の月 かほよ」は、三大狂言の一つ『仮名手本忠臣蔵』がなぞらえた作品として知られる『太平記』で、顔世御前に横恋慕する高師直に顔世の侍女が風呂上りの顔世の姿を覗き見させるというエピソードを描いた作品。なんとも色っぽい作品です。本作の下絵も展示されていました。

月岡芳年 「奥州安達がはらひとつ家の図」
明治18年(1885年) (展示は11/1から)

後期には、芳年の“無残絵”の傑作として知られる「奥州安達がはらひとつ家の図」も展示されます。

10/14までの限定公開ですが、芳年の知られざる傑作で、肉筆画の「幽霊之図 うぶめ」も展示されています。芳年の肉筆画は少なく、その中でも本作は妖しさ、不気味さでは随一の作品だと思います。なかなか公開されることのない作品のようですので、お見逃しのないように。

月岡芳年 「幽霊之図 うぶめ」
明治11~17年(1878-1884年) 慶應義塾蔵 (展示は10/14まで)

奇想の絵師・国芳の後継者として、“血みどろ絵”や“無残絵”の絵師として、エキセントリックな部分だけが語られがちな芳年ですが、そうした部分だけではない彼の多彩な作品群やその画芸、画力の素晴らしさを堪能できる絶好の展覧会です。国芳で浮世絵が面白いなと感じた人には是非おすすめです。


【没後120年記念 月岡芳年】
2012年11月25日(日)まで
太田記念美術館にて


月岡芳年 幕末・明治を生きた奇才浮世絵師 (別冊太陽)月岡芳年 幕末・明治を生きた奇才浮世絵師 (別冊太陽)


衝撃の絵師 月岡芳年衝撃の絵師 月岡芳年


月岡芳年 和漢百物語 (謎解き浮世絵叢書)月岡芳年 和漢百物語 (謎解き浮世絵叢書)


月岡芳年 風俗三十二相 (謎解き浮世絵叢書)月岡芳年 風俗三十二相 (謎解き浮世絵叢書)

2012/10/06

シャルダン展

三菱一号館美術館で開催中の『シャルダン展』に行ってきました。

「シャルダン? 消臭芳香剤のシャルダンなら知ってるけど」という人がほとんどなのでは。でも、その消臭芳香剤の名前も、実はこの画家シャルダンに由来しているのです。

そんな西洋美術に詳しい人以外にはほとんど無名の画家ジャン=バティスト=シメオン・シャルダンは、18世紀フランスを代表する画家の一人。当時はまだフランス革命前で、ロココ美術が隆盛していた時代。そんな中で、ただひたすらに自分が信じる絵を描き続けた孤高の画家です。

ちょうど先月まで国立西洋美術館で開催されていた『ベルリン国立美術館展』(10/9~12/2 九州国立博物館で開催)で観たシャルダンの「死んだ雉と獲物袋」がとても強く印象に残っていて、今回の展覧会は個人的にも非常に楽しみにしていました。

展覧会の構成は以下の通りです。
第一部 多難な門出と初期静物画
第二部 「台所・家具の用具」と最初の注文制作
第三部 風俗画-日常生活の場面
第四部 静物画への回帰
シャルダンの影響を受けた画家たちと《グラン・ブーケ》 ~三菱一号館美術館のコレクションから

ジャン・シメオン・シャルダン 「ビリヤードの勝負」
1720年頃 パリ、カルナヴァレ美術館蔵

入口を入ったところには、シャルダン20歳の頃の作品が飾られていました。シャルダンの父はビリヤード台を作る職人だったそうで、シャルダンも恐らくビリヤードには親しんでいたのでしょう。この頃のシャルダンはこうした風俗画なども描いていたようです。

ジャン・シメオン・シャルダン 「死んだ野兎と獲物袋」
1730年以前 ルーヴル美術館蔵

シャルダンは歴史画家に師事したり、装飾画家の助手を務めたりした後、1724年に職人画家の組合、聖ルカ・アカデミーの親方画家になったといいます。その後、展覧会に出品した絵が好評を博し、王立絵画彫刻アカデミーへの入会も認められます。 経歴なんかを見ると、歴史画などにも手を染めていたのかもしれませんが、この頃のシャルダンは静物画を主に描いていたようです。一匹の死んだウサギを描いたことが静物画にのめり込むきっかけだったということが解説に書かれていました。

ジャン・シメオン・シャルダン 「肉のない料理」
1731年 ルーヴル美術館蔵

ジャン・シメオン・シャルダン 「肉のある料理」
1731年 ルーヴル美術館蔵

「肉のない料理」と「肉のある料理」は2枚の連作。画題は四旬節と謝肉祭に基づいていますが、19世紀になってつけられた題名だそうです。「肉のない料理」には魚とフライパンといった寒色系で、「肉のある料理」は赤身の肉と銅鍋といった暖色系で、それぞれ対をなすようになっています。

ジャン・シメオン・シャルダン 「食前の祈り」
1740年頃 ルーヴル美術館蔵

シャルダンは静物画の名手として知られ、特に動物と果物に卓越した画家として評価されていたそうですが、静物画の画家は当時の美術界の位階では最も低く、生活のこともあってでしょうか、1730年代から風俗画を描き始めます。シャルダンは美術界での地位も上がり、収入と新しい顧客を得たといいます。

「食前の祈り」はヴァリアントが2点出品されています。もともとは国王ルイ15世に献呈したもので、その後、同じ画題の作品の注文が相次いだといいます。「食前の祈り」で現存するものは4点あって、その内の2点が本展に出品されています。ルーヴル美術館所蔵の作品はシャルダンが亡くなるまで手元に置いておいたもので、もう一枚のエルミタージュ美術館所蔵の作品はロシアの女帝エカテリーナ2世が買い求めたものだそうです。

ジャン・シメオン・シャルダン 「羽根を持つ少女」
1737年頃 個人蔵

同じ風俗画のコーナーには、シャルダンの作品の中で最も美しい作品といわれる代表作「羽根をもつ少女」が展示されていました。遊んでいるところなのか、これから遊ぼうとしているのか、ラケットと羽根を持ってはいるものの、絵から動きや楽しそうな雰囲気は感じられません。きめ細かな白い肌とリンゴのような赤い頬。まるでフランス人形のようです。この作品は、かつてエカテリーナ2世が愛蔵していたものだとか。本作もヴァリアントを何枚も描いているようで、ほぼ同一の構図の作品(“ジャン・シメオン・シャルダンに帰属”と表示)も並んで展示されていました。

ジャン・シメオン・シャルダン 「デッサンの勉強」
1753年頃 東京富士美術館蔵

ジャン・シメオン・シャルダン 「良き教育」
1753年頃 ヒューストン美術館蔵

「デッサンの勉強」と「良き教育」は2点で一対の作品になっています。シャルダンの作品にはこうした対画が多いようで、先ほどの「羽を持つ少女」も「カードのお城」(本展には出品されていません)という作品と対になっています。現在は別々の美術館に所蔵されているこの二つの作品が、一緒に展示されるのは約30年ぶりなのだそうです。

ジャン・シメオン・シャルダン 「台所のテーブル (別名)食事の支度」
1755年 ボストン美術館蔵

1740年代後半、約15年ぶりに静物画に回帰したシャルダンは、1750年代の半ばには静物画の制作に専念します。かつての静物画も十分に優れていましたが、この頃の静物画は明暗のバランスや物の量感がより際立ち、表現にも熟達したものを感じます。また、暮らしが裕福になったことを反映しているのか、描かれる調度品も高価なものになっていたりします。

ジャン・シメオン・シャルダン 「桃の籠とぶどう」
1759年頃 レンヌ美術館蔵

果物の静物画は初期の作品にも多くありましたが、後年のものは質感や色彩に独特のトーンが生まれ、対象の本質をより追求しようとしていることが伝わってきます。「台所のテーブル」は少々ごちゃごちゃした感がありましたが、後年の作品は構図も簡素になり、ワンパターン化しますが、一方で対象の配置に秩序が生まれ、安定感が加わってきます。また、この頃になると、風俗画を描いていた頃のような厚塗りはなくなり、筆にも柔らかさや滑らかさが見られます。

ジャン・シメオン・シャルダン 「木いちごの籠」
1760年頃 個人蔵

「木いちごの籠」はシャルダンが到達した静物画の傑作のひとつ。テーブルの真ん中には籠に詰まれた真っ赤な木苺のピラミッドの山が置かれ、水の入ったコップと白いカーネーションの寒色を左に、さくらんぼと桃の暖色を右に配置し、非常にバランスのよい、また無駄のない、調和の取れた作品になっています。絵から伝わってくる色彩感、そして静謐さは、初期や中期の作品にはなかったもので、シャルダンの行き着いた世界なのだと感じます。

ジャン・シメオン・シャルダン 「銀のゴブレットとりんご」
1768年頃 ルーヴル美術館蔵

銀のゴブレットはシャルダンが生涯にわたり繰り返し描いたモチーフ。初期のものと見比べると、光の反射や陰影表現が際立ち、立体感が生まれています。非常にシンプルな構成の中に、静物画を極めたシャルダンだからこその技術と感性が感じられる作品です。

会場の最後の方には、三菱一号館美術館所蔵のルドンの「グラン・ブーケ」やセザンヌ、ミレーらの作品が展示され、シャルダンからの影響や関係を探っています。

シャルダンの作品は現存数も少なく、本展も出品数が38点と少ないのですが、なかなか良質な展覧会でした。


【シャルダン展 ― 静寂の巨匠】
2,013年1月6日(日)まで
三菱一号館美術館にて


シャルダン (アート・ライブラリー)シャルダン (アート・ライブラリー)


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