今年は川合玉堂の生誕140年にあたるそうで、有数の日本画コレクションで知られる山種美術館が所蔵する玉堂作品71点が全点公開されるほか、奥多摩・御岳の玉堂美術館や東京国立近代美術館などから玉堂の代表作が集められています。東京で川合玉堂単独の展覧会が開かれるのは実に31年ぶりのこととか。まさしく待望の展覧会です。
川合玉堂は、明治から昭和にかけての日本の近代日本画を代表する画家。素朴な農村や山村の季節の風景やそこで生きる人々の姿や動物などを描いた作品に定評があります。
本展では、玉堂の初期の作品から晩年の作品まで、その画業の変遷も辿りつつ、玉堂の日本画の素晴らしさだけでなく、人となりまで伝わってくるような充実した展覧会になっていました。
第一章:研鑽の時代(青年期から壮年期へ)
まずは明治から昭和初期にかけての作品から玉堂のが画風の変遷を辿ります。
会場に入ると、最初に登場するのが玉堂22歳の頃の作品「鵜飼」。岩山の描き方など非常にかっちりしたタッチの山水画ですが、前景には鵜飼をする人々が描かれていて、日本的な情緒が感じられるのはいかにも玉堂らしいところです。玉堂が生まれ育ったのが長良川のそばということもあり、玉堂は“鵜飼”をたびたび取り上げているようです。
この頃、玉堂は京都で円山四条派の望月玉泉や幸野楳嶺に師事し日本画を学んでいましたが、「鵜飼」を出展した博覧会で橋本雅邦の作品を見て衝撃を受け、雅邦の門を叩くため上京したといいます。
川合玉堂 「渓山秋趣」
1906年(明治39年) 山種美術館蔵
1906年(明治39年) 山種美術館蔵
初期の玉堂は漢画的な山水表現が多いというのが印象的でした。このようにして研鑽を積んだ人なんだなというのが分かります。山にしても川や滝など水辺にしても、玉堂の作品に頻繁に登場するモチーフですが、前半期の作品には円山四条派や狩野派などの影響が感じられるというか、まだそこから抜け出せていない感じがあります。この「渓山秋趣」も奥行きある深山の風景や岩のグラデーション、また紅葉の木々の感じなど、雅邦の代表作「白雲紅樹」を思い起こさせます。
川合玉堂 「行く春 小下図」
1916年(大正5年) 玉堂美術館蔵
1916年(大正5年) 玉堂美術館蔵
玉堂の作品で個人的に一番好きなのが、昨年の東京国立近代美術館の『美術にぶるっ! 第Ⅰ部 MOMATコレクションスペシャル』でも展示されていた「行く春」(本展では出展されていません)なのですが、本展ではその“小下図”が展示されていました。比べてみると、左隻の桜の枝の張り出し方や右隻に川の流れ(勢い)が完成作では手が加えられているようです。“小下図”にはスケッチした小さな紙が貼られていたり、試行錯誤していた過程が窺えます。
同じく“小下図”としては、昭和天皇の大嘗祭(即位後の最初の新嘗祭)のために献納した「悠紀地方風俗屏風」の“小下図”が展示されています。やまと絵風の屏風に自転車に乗った人を描くなど遊び心を感じさせる作品でした。
川合玉堂 「写生画巻 花鳥 15歳写生」
1888年(明治21年) 玉堂美術館蔵
1888年(明治21年) 玉堂美術館蔵
会場の途中には玉堂の写生帖なども多く展示されていました。15歳のときの写生帖は今は画巻に張り替えられていましたが、撫子の花やカワセミなどとても丁寧に描きこんでいるのが印象的です。イヌの絵がまたかわいい。
川合玉堂 「写生帖 縮図写生」(一部)
1891年(明治24年)頃 玉堂美術館蔵
1891年(明治24年)頃 玉堂美術館蔵
川合玉堂 「写生入り玉堂筆書簡」(参考出品)
玉堂の娘婿に送った手紙というのも展示されていました。娘に子どもが生まれたことを香港に赴任中の夫に知らせるために、当時は写真は現像に時間がかかったので、玉堂が赤ちゃんの絵を描いて送ったそうです。玉堂の人柄が偲ばれる貴重な手紙です。
[写真右] 川合玉堂 「瀑布」
1909年(明治42年)頃 玉堂美術館蔵
[写真中] 川合玉堂 「二日月」
1907年(明治40年) 東京国立近代美術館蔵(※展示は7/7まで)
1909年(明治42年)頃 玉堂美術館蔵
[写真中] 川合玉堂 「二日月」
1907年(明治40年) 東京国立近代美術館蔵(※展示は7/7まで)
今回の展覧会で、新しい発見というか、玉堂という画家のイメージが一番大きく変わったのが、この三枚の作品でした。
「瀑布」は円山四条派が得意とした画題の一つで、勢いよく流れる滝の轟音と飛沫が感じられるような、しかしどこか閑寂で、荘厳な雰囲気のする作品でした。真っ白な滝と黒々とした岩山のコントラストがまた素晴らしい。「二日月」は玉堂の代表作の一つということで、本展での見ものの一つかと。水墨を没骨法で描きつつ、ターナーなど自然主義表現も意識した作品といわれています。空の色に輸入化学顔料が使われていて、当時はその美しさが評判を呼んだそうですが、後年退色し玉堂をがっかりさせたというお話でした。それでも十分に自然主義的な印象を与えながらも日本の湿潤な空気を感じさせる素晴らしい作品だと思います。
川合玉堂 「紅白梅」
1919年(大正8年) 玉堂美術館蔵
1919年(大正8年) 玉堂美術館蔵
大正時代というと琳派の再発見ブームがあり、多くの日本画家が“琳派的”な作品に取り組んでいますが、ご他聞に漏れず玉堂もありました。館長さんによるギャラリートークでは、光琳の「紅白梅図屏風」を意識して制作されたという話でしたが、自分はパッと見、円山応挙の「藤花図」を思い出しました。なにより構図が同じ。また、幹はたらし込みで描き、花は一枚一枚丁寧に描きこんでいるのも「藤花図」を彷彿とさせます。
第二章:玉堂をめぐる日本の原風景
玉堂的なといいますか、玉堂のイメージってこうだなという作品が並びます。時代的には昭和10年以降の作品で、玉堂はすでに60歳を超えています。老年に差し掛かり、画風が落ち着いたのか、さらに日本的な風景を極めようとしたのか。また、たびたび写生に訪れていた奥多摩に、戦争をきっかけに疎開をしたことも、こうした作品の制作に拍車をかけたのかもしれません。
[写真右] 川合玉堂 「柳蔭閑話図」
1922年(大正11年) 個人蔵(※展示は7/7まで)
1922年(大正11年) 個人蔵(※展示は7/7まで)
「柳蔭閑話図」は大正時代の作品で、出展作品リストには<第一章>にありましたが、スペースの関係か、実際には<第二章>に展示されていました。朝鮮旅行の際の印象をもとに描いた作品で、暫く行方不明になっていたものだとか。玉堂にしては珍しく、外国の風俗を描いたもので、紙の素材なども特殊な手の込んだ方法を用いているそうです。
川合玉堂 「荒海」
1944年(昭和19年) 山種美術館蔵
1944年(昭和19年) 山種美術館蔵
「荒海」は玉堂唯一の戦争画といわれる作品。どこが戦争と関係するのか?と思いますが、『戦時特別美術展』に出展された作品で、荒々しい波の表現に玉堂の心情が込められているのではないかとのことでした。波や岩が実に写生的で、特に波の表現は荒れる波の様子を様々に描き分けていて、見入ってしまいました。
川合玉堂 「山雨一過」
1943年(昭和18年) 山種美術館蔵
1943年(昭和18年) 山種美術館蔵
今回の展示作品の中で、個人的にとても印象深かった作品。玉堂が住んでいた奥多摩の浅間嶺や笹尾根の尾根道を思い起こさせます。奥多摩や桧原村のあたりは昔は谷がきつく、ゆるやかな山の尾根道や峠道が交易路として発展したと聞きます。古き時代ののどかな風景がよみがえるようです。
川合玉堂 「湖畔暮雪」
1950年(昭和25年) 山種美術館蔵
1950年(昭和25年) 山種美術館蔵
「湖畔暮雪」もかなり好きな作品。湖畔に並ぶ家々の屋根に積もった雪は色を塗らずに絹本の地の色で表しているそうで、これは応挙がよく使った技法ということです。
川合玉堂 「水声雨声」
1951年(昭和26年) 山種美術館蔵
1951年(昭和26年) 山種美術館蔵
玉堂の代表作に「彩雨」(東京近代美術館所蔵)という作品があるそうで、その絵が評判を呼び、そうした依頼にこたえて描いた一枚とのこと。没骨法による水墨画と玉堂らしい人物の点景が印象的です。こうして玉堂の作品を観ていると、玉堂の絵に小さく添えられた人物は副次的なものではなく、実は周りの風景の方が脇役で、そうした自然の中で生きる小さく描かれた人々の方が主役なのだろうと思うのです。
川合玉堂 「早乙女」
1945年(昭和20年頃) 山種美術館蔵
1945年(昭和20年頃) 山種美術館蔵
今回の展覧会のチラシや図録などのメインのイメージに使われている作品。どこか微笑ましく、とても長閑で、心温まる感じがしますが、この作品が描かれたのは戦争の真っ只中とのことで、玉堂には強く意味するものがあったのかもしれません。みんなが田植えに勤しむ中、腰を伸ばす姿を一人描くだけで、絵がとても生き生きしたものになるのが凄いと思います。俯瞰で描いた構図もユニークです。
川合玉堂 「加茂女十三首」(参考出品)
会場には玉堂の書も展示されていました。かなり達筆というか、とても美しい字を書きます。
第三章:玉堂のまなざし
こちらには玉堂のちょっと珍しい作品や他の画家との共作、また動物を描いた作品などが展示されています。
川合玉堂 「氷上(スケート)」
1953年(昭和28年) 山種美術館蔵
1953年(昭和28年) 山種美術館蔵
“余技の楽しみ”として展示されていた玉堂ファンには意外と知られた(?)一枚。モデルは日本の女子フィギュアスケートの草分け、稲田悦子選手だそうです。玉堂はなぜかフィギュアスケートが好きだったようで、戦前のスケッチも残されているのだとか。時にこうした現代的な風俗も描いていたんですね。
[写真右から] 横山大観 「松」、 川合玉堂 「竹」、 竹内栖鳳 「梅」
1934年(昭和9年) 山種美術館蔵(※展示は7/7まで)
1934年(昭和9年) 山種美術館蔵(※展示は7/7まで)
“松竹梅”として、大観、栖鳳との三幅対と、同じく大観と龍子との三幅対が展示されていました。近代日本画を代表する三人の合作の“松竹梅”とは贅沢なものです。
[写真右] 川合玉堂 「双馬」 1954年(昭和29年) 山種美術館蔵
[写真中] 川合玉堂 「猿」 1955-56年(昭和30-31年)頃 山種美術館蔵
[写真左] 川合玉堂 「松上双鶴」 1942年(昭和17年)頃 山種美術館蔵
[写真中] 川合玉堂 「猿」 1955-56年(昭和30-31年)頃 山種美術館蔵
[写真左] 川合玉堂 「松上双鶴」 1942年(昭和17年)頃 山種美術館蔵
入口をはさんだ第二会場には、“動物をいつくしむ”として動物を描いた作品がまとめて展示されています。上の写真の「双馬」と「猿」はそれぞれ干支の絵として描いたもののようです。松竹梅にしても干支にしても、縁起のいい画題として人気があったんでしょうね。
川合玉堂 「虎」
1945年(昭和20年)頃 山種美術館蔵
1945年(昭和20年)頃 山種美術館蔵
日本画にはお決まりの「虎」。虎の絵は、“千里往還”ということで武運と無事の帰還を祈って、戦争への出征に際して多く依頼を受けて描いていたそうです。薄墨と濃墨で描き分けた虎や岩の描写が見事です。
川合玉堂 「猫」
1951年(昭和26年) 山種美術館蔵
1951年(昭和26年) 山種美術館蔵
隣にはネコも。
こうしてあらてめて川合玉堂の作品を観てみると、その技量の高さと、そこに描かれる自然や人物への洞察力の深さに感心しました。玉堂はもっと評価されてもいい画家だと思ってるのですが、そうした意味でも多くの人に観てもらいたい展覧会です。
※会場内の写真は主催者の許可を得て撮影したものです。
【生誕140年記念 川合玉堂 ―日本のふるさと・日本のこころ― 】
会期: 2013年6月8日(土)~8月4日(日)
〔一部展示替 前期:6/8~7/7 後期:7/9~8/4〕
開館時間: 午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日: 月曜日(但し、7/15は開館、7/16休館)
会場: 山種美術館
美術館併設の≪Cafe 椿≫では、川合玉堂の絵にちなんだ期間限定オリジナル和菓子も愉しめます。
画集 川合玉堂の世界