2016/10/27

速水御舟の全貌

山種美術館で開催中の『速水御舟の全貌 -日本画の破壊と創造-』のブロガー内覧会に参加してまいりました。

山種美術館は国内有数の日本画コレクションで知られますが、その中で最も充実し、また人気が高い画家といえば速水御舟ではないでしょうか。これまでもたびたびその作品に触れる機会はありましたが、今回は開館50周年記念として御舟の画業の全貌をふり返るというもの。かなり力が入ってます。

山種美術館の所蔵作品に加え、他の美術館や個人コレクターの所蔵作品も多く、初期から晩年まで時代々々を代表する約80点の作品が集まっています。御舟にスポットを当てた展覧会は過去にもありましたが、御舟の作品のみで構成された展覧会は約7年ぶり、各時期の代表作がここまで一堂に会するのは実に23年ぶりなのだそうです。


第1章 画塾からの出発

御舟は14歳で歴史画の大家・松本楓湖の画塾に入りますが、楓湖の画塾は古画の模写をさせるだけで、基本的には放任主義だったといいいます。このあたりは昨年世田谷美術館で開かれた『速水御舟とその周辺』でも詳しく取り上げられていましたね。10代の頃の作品がいくつか出ていましたが、模写の覚書として制作したという「瘤取之巻」を観ると、線描の精緻さもさることながら、筆に迷いがなく的確なのに驚きます。

楓湖門下の兄弟子・今村紫紅への憧れや横山大観ら日本美術院の面々との交流は、初期の「萌芽」や「錦木」などに色濃く現れていて、人物描写に輪郭線を廃した無線描法を試すなどその影響のほどが分かります。また、同じ黒でも質感が違う絵具を使ったり、胡粉で濃淡を巧みに表現したり、どれも10代の作品とは思えないクオリティ。


第2章 質感描写を極める

色彩へのこだわりは並々ならぬものがあったようです。初期の御舟というと群青中毒が有名ですが、その前に黄土色にこだわった時期もあったのですね。日本画の絵具にない色を使ったり、近所の薬局からいろんな薬品を取り寄せては新しい色の研究もしていたのだとか。御舟はカラリストであるという山崎館長のお話が印象的でした。

会場入ってすぐのところに展示されていたのが「鍋島の皿に柘榴」。写実的な石榴も素晴らしいのですが、お皿の磁器特有の冷たく硬質な質感がこれまた見事です。果物と磁器の組み合わせは好んで描いていたようで、数点出品されています。西洋の写実表現を日本画に応用できないか挑んでるようにも見えるのですが、主に色紙大の金地に描かれ、いかにも日本画的な趣を見せるのが面白いですね。

娘の桃の節句のお祝いに描いたという折枝画の「桃花」も印象的です。本作は台北故宮博物院に所蔵されている馬麟の「桃花図」を参考にしているのではないかという話でした。御舟は徽宗の「桃鳩図」の粉本を模写するなど院体花鳥画の研究にも熱心だったようで、落款も徽宗の痩金体に似せています。

ゴッホもどきの「向日葵」というのもありました。日本画で油彩画のような質感をいかに出すかということにこだわっていた時期でもあったようです。ほかにも、関東大震災直後の瓦礫と化した建物をキュビズム風に描いた「灰燼」やブナの大木を大胆にトリミングした異色作「樹木」、まるでコントラストの強いモノクロ写真のような水墨の「墨竹図」など、日本画を破壊してそこから何かを得ようとする御舟の挑戦を感じ取ることができます。


第3章 《炎舞》から《名樹散椿》へ-古典を昇華する

大正時代は琳派のリバイバルが起きた時代でもあり、御舟も琳派に影響を受けた作品をいくつか残しています。「木蓮(春園麗華)」は『鈴木其一展』にも出品されていた其一の「木蓮小禽図」との類似性が指摘されている作品。モノトーンでまとめてることでより一層、木蓮の妖艶さが増しています。

御舟の琳派的な作品の代表格といえば、「翠苔緑芝」と「名樹散椿」。ギャラリートークでも宗達や其一といった絵師の名を挙げ、その関連性を解説していただきましたが、それ以上に驚くのは絵具や技法に対する御舟の旺盛な実験精神。たとえば「翠苔緑芝」の紫陽花の萼(ガク)の印象的な色彩は胡粉に卵白を交ぜたとか重層を交ぜたとか、火で炙ったとか言われていて、いまだ謎だといいます。

速水御舟「名樹散椿」(重要文化財)
昭和4年(1929) 山種美術館蔵

「名樹散椿」は昭和の絵画として初めて重要文化財に指定された作品。背景の金地の撒きつぶしについては一昨年の『輝ける金と銀』でも紹介されていましたが、金砂子を一面に散らす撒きつぶしは普通の金箔の10倍の量が必要で、なおかつ均等に撒かないといけないので技術的にもとても高度なのだそうです。御舟は楓湖の門を叩く前に蒔絵師のもとで修業をしていて、蒔絵の技法をヒントにしているのではないかとのことでした。

そばには“撒きつぶし”と“金泥”と“箔押し”のサンプル(写真下)があって、その色味の違いを実際に見比べることができます。スライドで見せていただいた金地比較を見ても、御舟が同じ金でも作品によって使い分けていたことが分かります。



大正後期あたりから瀟洒な水墨画も増えてきます。琳派的な作品と同様に古典に立ち返ろうとしていたのでしょうか。

速水御舟 「紅梅・白梅」
昭和4年(1929) 山種美術館蔵


第4章 渡欧から帰国後の挑戦へ 

御舟はイタリアで開催された『ローマ日本美術展覧会』に美術使節として参加。ギリシャやエジプトなどにも足を延ばします。会場にはギリシャの神殿を描いた作品やフィレンツェの風景の写生などのほか、アテネの神殿の前で写した記念写真も紹介されていました。

速水御舟 「あけぼの・春の宵」
昭和9年(1934) 山種美術館蔵

ここでは御舟の花鳥画がスポットが当てられているのですが、その熟達した画技、味わい深さは同時代の画家の中でも随一だと思います。あれだけ西洋画の技法を意識した作品を残していながら、渡欧後の御舟は日本画らしい日本画がぐっと増えてくるのも面白いところです。

速水御舟 「白芙蓉」「牡丹」
昭和9年(1934) 山種美術館蔵

個人的に御舟の作品で一番好きなのが「墨牡丹」。墨の濃淡の滲みを活かした花びらの表現の素晴らしさは筆舌に尽くし難いものがあります。第二会場には40歳で急逝する御舟の絶筆「円かなる月」や未完となった「盆梅図」なども展示されています。構図に苦心するなど、最後の最後まで新しい日本画の創造に余念がなかったことが分かります。

速水御舟 「牡丹花(墨牡丹)」
昭和9年(1934) 山種美術館蔵

御舟の最高傑作「炎舞」も第二会場に展示されています。この部屋はもともと「炎舞」を飾ることを考えて設計されているそうで、ほの暗い室内に浮かび上がる赤い焔と蛾は何とも言えないほどに妖しく、そして美しく映えます。じーっと観ていると自分も焔のまわりを飛ぶ蛾になったような気にさえなってきます。御舟が「もう一度描けと言われても二度とは出せない色」と語るその焔は「伴大納言絵巻」の炎上する応天門の火災や仏画の火焔を参考にしているといわれています。

速水御舟 「炎舞」(重要文化財)
大正14年(1925) 山種美術館蔵

山種美術館が所蔵している御舟の作品は割と観る機会がありますが、代表作とされる作品が揃って公開されることは実はあまりありません。今回は他館所蔵の代表作も集まっており、御舟を知るには大変良い機会だと思います。


※展示会場内の写真は特別に主催者の許可を得て撮影したものです。


  美術館併設の「Cafe椿」では御舟の作品にちなんだ特製和菓子もありますよ。

【開館50周年記念特別展 速水御舟の全貌 -日本画の破壊と創造-】
2016年12月4日(日)まで
山種美術館にて


もっと知りたい速水御舟―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)もっと知りたい速水御舟―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

2016/10/21

藤田嗣治展

府中市美術館で開催中の『藤田嗣治展 -東と西を結ぶ絵画-』を観てまいりました。

今年で生誕130年を迎える藤田嗣治。名古屋市美術館と兵庫県立美術館で先に開催され、好評を博した展覧会の巡回展です。

藤田嗣治の半生の映画化や戦争画の公開などもあって、最近何かと作品を観る機会が増えている藤田。とはいえ、個人的にはこうして回顧展という形で観たことがなかったので、とても楽しみにしていました。

本展は、国内の美術館の所蔵作品などを中心に、藤田の死後、夫人が所有していた作品が寄贈されたフランスのランス市美術館の作品も含め、初期から晩年まで約110点の作品を観ることができます。いつもより展示スペースを拡大し、かなり見応えがありました。


Ⅰ 模索の時代 1909年~1918年

父は後に陸軍軍医総監となる軍医、母方は親戚に大正を代表する演劇人・小山内薫や洋画家の岡田三郎助がいるという芸術一家。父の上司でもあった森鴎外の薦めもあって、藤田が画家の道に進んだというのは有名な話ですね。

藤田嗣治 「自画像」
1910年 東京藝術大学蔵

ちょっと生意気そうな面構えの「自画像」は昨年藝大美術館の『《舞踏会の前》修復完成披露展』でも公開されていた作品。藤田が学んだ当時の東京美術学校や日本の洋画界は黒田清輝を中心としたグループに圧倒されていて、藤田は黒田の推し進める洋画技法に反発していたといいます。とはいえ、この頃の藤田の作品を観ると、当時持て囃された典型的な“日本の”洋画スタイルの殻を破れているわけでも決してないことも分かります。

藤田嗣治 「スーチンのアトリエ」
1913年 ランス美術館蔵

藤田嗣治 「三人の娘」
1917年 ランス美術館蔵

パリに留学した藤田は、日本で学んだ油絵の技法がいかに古臭く、また不自由なものであったか痛感したと語っています。パリ時代の初期作品はまだ画風も固まらず、ユトリロやモディリアーニを意識したような作品があったり、キュビズムに影響された作品があったり、エジプト美術を取り入れた作品があったり、どれも暗中模索という感じ。でもそれは自分なりの新たな技法をいかに創造するかに余念がなかったということの裏返しなのでしょう。


Ⅱ パリ画壇の寵児 1919年~1929年

そして狂乱の時代。“乳白色の肌”を手に入れた藤田は一躍時代の寵児になります。日本からは日本画の技法の焼き直しだなどと批判も受けたようですが、乳白色の下地の上を走る流麗で繊細な墨の線はこの人のものであり、何と言っても美しいし、観ていて気持ちいいものがあります。

藤田嗣治 「五人の裸婦」
1923年 東京国立近代美術館蔵

「五人の裸婦」は藤田の出世作となった作品。昨年の『MOMATコレクション 藤田嗣治、全所蔵作品展示』にも展示されていて、その装飾画的で象徴的な女性たちの佇まいがとても印象に残っています。

この時代の作品はやはり藤田の絶頂期だけあって、どの作品も充実した日々に生まれた作品なんだなという感じを強く受けます。展示でも一番多いのは“乳白色の肌”の代名詞である裸婦画なのですが、静物画にしてもパリの街を描いた小品にしても乳白色のトーンは独特の味わいを醸し出しています。

藤田嗣治 「バラ」
1922年 ユニマットグループ蔵

「ギターを持つ少年と少女」や「動物群」など子どもや動物を描いた作品でも優しい色合いと繊細な筆のタッチは上手く活かされていて印象的です。20年代後半の裸婦画は女性がより肉づきが良くなり、肉感的というか官能的な感じがあったのも面白い。

藤田嗣治 「自画像」
1929年 名古屋市美術館蔵


Ⅲ さまよう画家 1930年~1937年

パリから日本に帰国する際に立ち寄った南米の風俗に触発され描いた作品は、それまでの乳白色のトーンから一変。濃厚な原色に彩られ、官能的だったり力強かったりと、描かれる女性たちも趣きを異にします。それは日本に帰国後の作品でも観られ、東洋的な容姿がやたらと強調されたりして、「日本を訪れた外国人が描いた絵のようだ」と揶揄されもしたそうです。

藤田嗣治 「カーナバルの後」
1932年 公益財団法人平野政吉美術財団蔵

この頃の作品は、風俗や民俗に藤田の興味が注がれていたり、キリスト教的主題の作品があったりして、確かに画風の振れ幅は大きいのだけれど、次なる芸術的高みへ何か挑戦をし続けているようにも見えます。フジタの代表作「秋田の行事」の下絵と思われる作品や、銀座コロンバンの天井壁画(現在は迎賓館が所蔵)も展示されています。


Ⅳ 戦争と国家 1938年~1948年

近年、東京国立近代美術館が戦争画を積極的に公開するようになり、藤田の戦争画にも注目が集まりましたが、本展ではその内の3点が展示されています。天井の高いゆったりとした空間に悲惨な戦争画が並ぶ光景は東近美で観るのとはまた違った印象を受けます。

父が軍医ということもあり、最初は義理で描いていたという話もあるようですが、創作に行き詰っていた藤田は戦争画に突破口を見い出し、のめり込んで行きます。ヨーロッパの伝統的な歴史画に比肩するものとして戦争画に高揚感を覚え、芸術的昇華を見ていたことは事実でしょう。しかし、「アッツ島玉砕」の絵の前には「脱帽」という看板が掲げられ、人々が絵に手を合わせて涙したというエピソードなどを聞くと、国威発揚としての戦争画の罪の大きさは計り知れないと感じます。

藤田嗣治 「アッツ島玉砕」
1943年 東京国立近代美術館蔵


Ⅴ フランスとの再会 1949年~1952年

戦争犯罪者として糾弾され、日本から追われるように出国した藤田はニューヨークを経て再びパリへ渡ります。ようやくかつての藤田らしさが戻り、描かれる女性や子供の顔にも優しい表情が現れます。ここでは素描も多く展示されていて、藤田のスケッチの確かさを知ることができます。

藤田嗣治 「美しいスペイン女」
1949年 豊田市美術館蔵


Ⅵ 平和への祈り 1952年~1968年

最後のコーナーでは藤田が晩年、力を注いだランスの大聖堂の祭壇画やステンドグラスなどの習作を中心に展示されています。「聖母子」の絵のまわりは金箔で縁取られ、まるで家紋のような模様が飾られて日本的な感じを受けるのがユニークですね。

藤田嗣治 「聖母子」
1959年 ノートル=ダム大聖堂(ランス)蔵

初めて藤田の戦争画を観たときは、これも藤田なのかとショックを受けたのを覚えています。 こうして初期から晩年まで追って観ていくと、才能に恵まれ、高い評価を受けていたとはいえ、創作に行き詰る様子や画風が変わる様子も実際の作品と共に見て取ることができます。画風の変遷や葛藤も含め藤田がどう変わっていったか分かり、とても面白ったです。


【藤田嗣治展 -東と西を結ぶ絵画-】
2016年12月11日(日)まで
府中市美術館にて


評伝 藤田嗣治〔改訂新版〕評伝 藤田嗣治〔改訂新版〕

2016/10/17

日本美術と髙島屋

日本橋高島屋で開催中の『高島屋史料館所蔵 日本美術と髙島屋 ~交流が育てた秘蔵コレクション~』を観てまいりました。

本展は高島屋史料館のコレクション展なのですが、高島屋と近代日本画が共に歩んだ歴史が見えて大変素晴らしい内容でした。

京都で創業した高島屋はもともとは呉服屋ですが、明治になると貿易業にも手を染め、海外向けの商品開発にも力を入れたといいます。輸出用に制作された美術染織は、現物は売られてしまってるので、残念ながら多くの作品が原画しか残っていないのですが、京都画壇を中心とした錚々たる画家が腕を奮っていたことに驚きます。

当時の高島屋には画工室というのがあり、職人や画家たちが美術工芸品の製作に腕を振るっていたそうなのですが、中には若き日の竹内栖鳳もいて、会場にはその出勤簿なども展示されていました。

明治の美術工芸品の技術レベルの高さはこれまでもいろんな展覧会で目の当たりにしてきましたが、美術染織においても、たとえば今尾景年が下絵を手掛けた唐織物「秋草に鶉」の精緻な表現は現在では再現不可能だといいます。幸野楳嶺が下絵の「厳島紅葉渓図」なんて、下絵と完成品の友禅が並んで展示されていましたが、単眼鏡で覗いても染織と分からないぐらい忠実に再現されていてビックリします。

大正期の琳派画家として知られる神坂雪佳の「光琳風草花」は下絵とはいえ完成度は高く、実物の写真も展示されていましたが、かなりの傑作と感じました。川端龍子の4曲1隻の大きな屏風「潮騒」があって、これがまた見事。この原画をもとに綴織が制作されたものの、戦争の影響で発表する機会を逸し、最終的には壁掛けに仕立てられ、ヒトラーのもとに渡ったのだそうです。

竹内栖鳳 「ベニスの月(原画)」
明治37年(1904) 高島屋史料館蔵

都路華香 「吉野の桜(原画)」
明治36年(1903) 高島屋史料館蔵

ほかにビロード友禅もあり、『竹内栖鳳展』にも出品されていたビロード友禅の「ベニスの月」の原画をはじめ、山元春挙や都路華香による原画も展示されていました。フランスの大女優サラ・ベルナールが竹内栖鳳原画のビロード友禅を購入したというエピソードが紹介されていましたが、時のジャポニズムもあって日本的情緒を感じさせる作品は人気が高かったのでしょうね。

冨田渓仙 「風神雷神」
大正6年(1917) 高島屋史料館蔵

西の栖鳳があれば東の大観もあり。高島屋は日本美術院再興にも協力的で、大観が高島屋の別荘に滞在し作品制作を行ったり、院展の関西展が高島屋で行われるなど、その関係は深かったようです。大観のほかにも、下村観山や奥村土牛、小倉遊亀、小杉放庵、冨田渓仙など、日本美術院の面々の優品が並びます。

富岡鉄斎 「碧桃寿鳥図」
大正5年(1916) 高島屋史料館蔵

最後の一角には、高島屋創業家の飯田家と飯田家と姻戚関係にあるトヨタ自動車創業家の豊田家から髙島屋史料館に寄贈された作品が特別展示されています。ここがまた富岡鉄斎や川合玉堂、西村五雲、木島桜谷、野口小蘋、都路華香など、なかなかの趣味の良さ。絵画以外にも、当時の婚礼衣装などもあったり、雛人形(なんと平櫛田中!)があったり、さすがの品々です。

原画・北野恒富 「キモノ大阪春季大展覧会」
昭和4年(1929) 高島屋史料館蔵

日曜日の午後ともなれば、デパートの美術館はさぞや混んでるだろうなと思ったら、とても空いていてあっけにとられました。これだけ観られて入場無料というのがすごいですね。


【日本美術と髙島屋】
2016年10月24日(月)まで
日本橋高島屋にて


竹内栖鳳: 京都画壇の大家 (別冊太陽 日本のこころ 211)竹内栖鳳: 京都画壇の大家 (別冊太陽 日本のこころ 211)

2016/10/14

大仙厓展

出光美術館で開催中の『大仙厓展 - 禅の心、ここに集う』を観てまいりました。

出光美術館開館50周年を記念する特別展の第5弾。仙厓は出光美術館でもたびたび観ていますが、今回は“大”と付くだけのことはあり、出光美術館と並ぶ仙厓コレクションを誇る福岡市美術館と九州大学文学部の所蔵作品もあわせて展示されていて、とても充実した、素晴らしい展覧会になっています。

いつもの出光美術館の陶磁器コレクションもなく、全て仙厓。2時間観ていたのですが、時間が足りないぐらいでした。仙厓は出光にとって特別の存在だけに、解説も行き届いてて、思い入れの強さが伝わってきます。

訪れたのは開幕2日目でしたが、なかなかの人の入り。特に若い人が多いのに驚きました。やはり仙厓画のゆるさ、かわいさに人気が集まってるというのもあるのでしょう。もちろんユーモラスな絵ばかりでなく、禅画ならではの深さがありますが、そこは仙厓なので気楽に観られますし、何より観ていて楽しいのがいいですね。


会場の構成は以下のとおりです:
第一章 仙厓略伝-作品でつづる生涯
第二章 仙厓の画賛-道釈人物画で画風の変遷をたどる
第三章 仙厓禅画の代表作、「指月布袋」「円相」「〇△☐」-禅の心、ここに集う
第四章 「厓画無法」の世界-この世の森羅万象を描く
第五章 筑前名所めぐり-友と訪ねた至福の旅をたどる
第六章 愛しき人々に向けたメッセージ-仙厓の残した人生訓を味わう

仙厓 「布袋画賛」
出光美術館蔵

仙厓の作品の多くは、還暦を機に寺の住職を弟子に譲って隠居してから87歳で亡くなるまでに描かれたもの。会場には40代の頃という早い時期の作品も展示されていて、狩野派系の粉本を写したとされるその作品は意外にもしっかりとした筆致で、後年の仙厓の絵と全く異なるのに驚きます。

禅機図や祖師図などを例に取り、50代の頃から80代にかけての画風の変遷を分かりやすく説明しているコーナーがあって、それなどを観ていると、もとからくだけた絵を描いていたのでなく、墨絵のテクニックが実はちゃんとあり、だんだんと崩していって“厓画無法”という自由で型破りな画風になっていったことがよく分かります。

仙厓 「坐禅蛙画賛」
出光美術館蔵

ユーモラスな絵とその人柄から仙厓人気は凄まじかったようで、一時は絶筆を宣言し、“絶筆碑”なるものまで制作しています。揮毫を希望する人の紙がうず高く積まれていたなんというエピソードも紹介されていました。

もちろん禅画なので、絵に添えて禅の教えに基づく画賛が書かれてるのですが、その賛がまたウィットに富んでいます。こちらを向いてニヤリと笑ってるような蛙の絵には「全ての存在に仏性があるように座禅してるような姿の蛙も悟りを開くことができるだろう」と書き添えてあって、筆を取りながらニヤリと笑う仙厓の顔が思い浮かぶようです。

仙厓 「指月布袋画賛」
出光美術館蔵

恐らく人気があったということもあるのでしょうが、仙厓には同じ画題の作品がいくつもあって、空を指差す親子を描いた「指月布袋画」もそのひとつ。絵の外にあるのだろう月を眺めながら、「を月様幾ツ、十三七ツ」と親子の楽しげな会話が伝わってきます。

仙厓 「一円相画賛」
出光美術館蔵

仙厓 「〇△☐」
出光美術館蔵

禅画といえば、円相図。禅における真理であり、悟りであり、無限であり、宇宙であり、深すぎて理解には遠く及びませんが、「一円相画賛」に添えられた「これくふて茶のめ」がまた仙厓らしくて笑えます。円相図も描き終えればただの図形に過ぎず、書き終えたときから既に修業は始まっていて、わたしにはもう紙くず同然だから、茶菓子と思って楽しんでください、というわけです。難しいことは考えず、観て楽しんでもらえれば私は満足ですという仙厓はとてもイカしてます。

しまいには〇と△と☐とか、ふざけてるのか何なのか、凡人にはもうよく分かりません。出光興産の創業者で無類の仙厓コレクターだった出光佐三氏はこの作品を「宇宙を表した作品」と語り、これを受けて鈴木大拙が「The Universe」と英語名を付けたという有名な作品です。

仙厓 「凧あげ図」
福岡市美術館(石村コレクション)蔵

どこが禅なのかと思うような(笑)作品もたくさんあります。ほとんど子どもの落書きのような「凧あげ図」や、虎図を頼まれ猫を描き「猫ニ似タモノ」と頓智を利かせた「虎画賛」、山寺の和尚さんよろしく子どもが悪戯して猫に紙袋を被せた「猫に紙袋図」など、かわいい仙厓画に笑いが止まりません。

仙厓 「章魚図」
福岡市美術館(三宅コレクション)蔵

もちろん“大”仙厓展なので、仙厓の唯一の着色画という「章魚図」や、珍しいトドの写生画「トド画賛」、仙厓が愛した筑前や博多の風俗を描いた作品、そのほかにも仙厓遺愛の茶碗や歌集など、こういう機会でないとなかなか観られないような幅広い作品が展示されています。

仙厓 「花見画賛」
出光美術館蔵

仙厓の最晩年の「牡丹画賛」も良かったなあ。「うへてみよ 花のそだたぬ 里もなし」。何事もやってみなければはじまらない。仙厓の画賛はどれも意味が深く、そして心に染みます。素朴でユルい仙厓の作品を観ていると、自然と気持ちも和んできますね。オススメの展覧会です。


【開館50周年記念 大仙厓展 - 禅の心、ここに集う】
2016年11月13日(日)まで
出光美術館にて


仙厓(せんがい):ユーモアあふれる禅のこころ (別冊太陽 日本のこころ)仙厓(せんがい):ユーモアあふれる禅のこころ (別冊太陽 日本のこころ)

2016/10/09

ダリ展

国立新美術館で開催中の『ダリ展』を観てまいりました。

国内では10年ぶり回顧展だそうで、もうそんななりますかという感じです。2006年の上野の森美術館の『ダリ回顧展』のときは狭いところで、混んでて…という印象しか残ってないのですが、前回が約100点に対し、今回は過去最大規模という約250点。初期から晩年まで満遍なく作品が揃い、ボリュームがあるので見応えがあります。やはり国立新美術館の天井の高い広い空間は観やすく、前回はなかった大画面の作品も多い。

前回の『ダリ回顧展』も休日は1時間待ちとかでしたし、今回も先に公開された京都市美術館では連日混雑していたようなので、早めに行った方が吉(なんでもそうですが)とばかりに開幕の週最初の夜間開館に伺ってきました。(ブログの記事アップがすっかり遅れてしまいましたが…)


会場の構成は以下のとおりです:
第1章 初期作品
第2章 モダニズムの探求
第3章 シュルレアリスム時代
第4章 ミューズとしてのガラ
第5章 アメリカへの亡命
第6章 ダリ的世界の拡張
第7章 原子力時代の芸術
第8章 ポルトリガトへの帰還-晩年の作品

初期作品はまだ10代の頃のものからあって、カタルーニャ地方の伝統的な舞踊を幻想的に描いた「魔女たちのサルダーナ」やラファエロの自画像にヒントを得た(らしい)「ラファエロ風の首をした自画像」が印象的でした。新印象派的な点描の作品やセザンヌ風の作品、フォーヴィスムに影響を受けた作品もあって、早熟で、10代にして前衛的傾向があったことも分かります。

サルバドール・ダリ 「ラファエロ風の首をした自画像」
1921年 ガラ=サルバドール・ダリ財団蔵

王立サン・フェルナンド美術学校では、後に映画監督として成功するルイス・ブニュエルやスペインを代表する詩人となるガルシア・ロルカと出会います。特にブニュエルとはシュルレアリスムの記念碑的映画『アンダルシアの犬』を共同制作。『アンダルシアの犬』と、同じくブニュエルと組んだ『黄金時代』は会場の一角でも上映されています。『黄金時代』は1時間ぐらいありますが、『アンダルシアの犬』は15分ぐらいの短編なので、時間に余裕があれば折角なのでご覧になるのがいいかと(ちょっと刺激的な場面がありますが)。

サルバドール・ダリ 「ルイス・ブニュエルの肖像」
1924年 国立ソフィア王妃芸術センター蔵

ブニュエルの肖像画もあって、一目見てブニュエルと分かるぐらい似ていて笑えます。特徴を捉えた写実的な風貌、キュビズムの影響を感じさせるボリューム感、デ・キリコを思わす形而上絵画的な背景。発展途上とはいえ、ダリの進む方向が見えるようです。

ピカソと出会ったり、シュルレアリストらとの交遊が生まれたりするのもこの時代。キュビズムやピュリスム、未来派といった芸術運動を貪欲に吸収し、それを作品化していってるのですが、どの作品もそれなりに完成度が高いのがスゴイ。

サルバドール・ダリ 「子ども、女への壮大な記念碑」
1929年 国立ソフィア王妃芸術センター蔵

ダリは「パラノイア的=批判的方法」という独自の哲学に基づきダブルイメージと呼ばれる表現手法を構築。シュルレアリスムの急先鋒として数々の作品を発表していきます。「謎めいた要素のある風景」でキャンバスに絵を描いている人物はフェルメールをイメージしてるとか。右奥のセーラー服の少年はダリの分身だといいます。

ダリの作品は複雑なイメージが重なっていて、まるで説明のつかない(しかしそれぞれに意味がある)夢のシーンのようです。同じシュルレアリスムでもマグリットがイメージを切り取ってフレームの中に“絵画”として見せるのに対し、ダリはどこか映像的で、イメージを重層的に表現し、フレームの枠を超えた広がりというか、映像のシークエンスから切り取られた一コマを見てるような気になります。

サルバドール・ダリ 「謎めいた要素のある風景」
1934年 ガラ=サルバドール・ダリ財団蔵

サルバドール・ダリ 「見えない人物たちのいるシュルレアリスム的構成」
1936年 ガラ=サルバドール・ダリ財団蔵

第二次世界大戦中はアメリカに亡命。アメリカでも人気のダリのもとにはさまざまな仕事が舞い込み、映画制作に参加したり、宝飾品のデザインを手がけたり、仕事の幅が広がっていきます。注文肖像画も多く受けていたようで、たぶんアメリカの新しいもの好きのセレブリティにはダリは人気だったんでしょうね。ダリ的風景を背景にした肖像画なんて、すごく面白し、羨ましすぎます。

サルバドール・ダリ 「アン・ウッドワード夫人の肖像」
1953年 公益財団法人諸橋近代美術館蔵

ここではディズニーと組んだ『デスティーノ』や、美術協力として参加したヒッチコックの『白い恐怖』の夢のシーンが上映されています。『デスティーノ』は結局未完に終わり、その後2003年に復元。『白い恐怖』の夢のシーンは、撮影したものの結局ヒッチコックが気に入らず大半がカットされてしまったといいます。ダリはどんな夢のシーンを用意していたのか、とても興味をそそられます。

サルバドール・ダリ 「不思議の国のアリス」
1969年 ガラ=サルバドール・ダリ財団蔵

ダリが手がけたバレエなどの舞台美術のデザイン画やその映像なども紹介されていましたが、一番面白かったのがダリが挿絵を手がけた『不思議の国のアリス』。カラフルな色彩と滲みを活かした水彩画のような独特なタッチ、そしてシュールな空想の世界に目が釘付けです。

サルバドール・ダリ 「ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌」
1945年 国立ソフィア王妃芸術センター蔵

広島・長崎に落とされた原爆に衝撃を受けたダリは“原子力の絵画”なるものを数多く発表していて、ここでは1コーナーが設けられています。それこそ戦争や原爆をイメージさせるモチーフや分子構造みたいな作品もあって、原爆投下がダリの作品世界にどんな影響を与えたかが分かります。「ポルト・リガトの聖母」はキリスト教的主題を、この時代のダリの作品特有の原子核構造のような浮遊的構図で神秘的に描いた作品。愛妻ガラが聖母マリアに置き換えられています。

サルバドール・ダリ 「ポルト・リガトの聖母」
1950年 福岡市美術館蔵

晩年はルネサンスや古典絵画への回帰が強まり、大画面の作品も多く手掛けたといいます。会場でひと際大きかったのが「テトゥアンの大会戦」。カタロニアの画家フォルトゥニーの歴史画に着想を得た作品だそうですが、よく見ると、人の顔や盾の形などに数字がたくさん隠れているというユニークな作品。ダリの遊び心を感じます。個人的には「海の皮膚を引きあげるヘラクレスがクピドをめざめさせようとするヴィーナスにもう少し待って欲しいと頼む」(長いタイトル!)のシュールさが好きですね。

サルバドール・ダリ 「テトゥアンの大会戦」
1962年 公益財団法人諸橋近代美術館蔵

サルバドール・ダリ 「海の皮膚を引きあげるヘラクレスがクピドを
めざめさせようとするヴィーナスにもう少し待って欲しいと頼む」
1963年 長崎県美術館蔵

誰もが知ってるようなダリの代表作が来日しているわけではないのですが、これだけの作品が集まる展覧会もそうはありませんし、ダリの世界に触れられる良い機会ですし、何より観ていて楽しいというのが一番だと思います。会期後半はかなりの混雑が予想されるのでお早めに。


【ダリ展】
2016年12月12日(月)まで
国立新美術館にて


もっと知りたいサルバドール・ダリ (生涯と作品)もっと知りたいサルバドール・ダリ (生涯と作品)


ダリの塗り絵ダリの塗り絵