今年は松岡映丘の生誕130年とのことで、生まれ故郷の兵庫での回顧展に続いての巡回展です。
松岡映丘(1881-1938)は、兵庫県の中部に位置する今の神崎郡の旧家の生まれ。生家は代々医家で、父は儒学者、兄にはかの有名な民俗学者の柳田國男をはじめ、医師や政治家、国文学者、言語学者といった錚々たる兄弟がいます。「松岡五兄弟」として有名のようで(ここまですごい人が揃えば当然ですが)、地元にはその業績を讃えた記念館まであり、本展にもその写真や資料がいくつか展示されていました。
さて、映丘は、もとは狩野派の橋本雅邦の指導を受けていたこともあるそうですが、半年ぐらいで通わなくなり、その後、住吉派(土佐派)に入門して本格的にやまと絵を学びます。やがて東京美術学校を首席で卒業。一時期、川合玉堂に師事していたこともあるようです。
「鵯越」 明治30年(1897)
なんと16歳のときの作品!
なんと16歳のときの作品!
展覧会には、東京美術学校時代の作品も何点か展示されていましたが、卒業制作作品の「浦の島子」などはさすが首席で卒業するだけあり、その完成度は高く、どう見ても美術学生の作品とは思えないものでした。
「道成寺 (右隻)」 大正6年(1917)
清姫の怨霊が憑りついた白拍子の目が怖い。。。
清姫の怨霊が憑りついた白拍子の目が怖い。。。
映丘は、なんといってもやまと絵。『源氏物語』や『平家物語』などの古典文学に材をとったり、平安時代の王朝絵巻を思わせるような優美な作品や勇壮な武者絵を手がけたりと、サブタイトルにもあるように、明治以降、圧倒的な洋画への流れの中で頑なにやまと絵に執着し、「新興大和絵」としてその再興に尽力します。
「みぐしあげ」 大正15年(1926)
弟子や妻に甲冑や十二単を着せ、絵のモデルをさせたり、自ら鎧を身にまとい、ポーズをとったりする資料写真も展示されていて、やまと絵に対する情熱は並々ならぬものだったことが窺い知れます。有職故実(朝廷・公家・武家の儀典礼式や年中行事等)の研究にも熱心で、映画や歌舞伎の時代考証や美術にも首を突っ込んだこともあるようです。
「伊香保の沼」 大正14年(1925)
古典回帰のやまと絵に、どこか近代的な要素が見られるのも映丘の特徴かもしれません。そうした点が一番感じられるのは映丘の美人画で、本展にもいくつか出展されていました。「伊香保の沼」は榛名湖に身を投げたという美しい姫君の悲しい伝説に取材した作品。どこか寂しげな表情が印象的な女性は写実的で、やまと絵というより大正期の抒情画を思わせます。
「千草の丘」 大正15年(1926)
大正15年には、当時脚光を浴びていた新進女優、水谷八重子(初代)をモデルにしたモダンな「千草の丘」を発表。顔が水谷八重子に似すぎているとかで、センセーショナルな話題を呼んだそうです。やまと絵風の山並みとグラデーションのかかった空、そして可憐な秋草を背景に黄色の着物が瑞々しく映える美しい作品ですが、映丘の作品の中ではかなり異色で、「伊香保の沼」同様、大正ロマンの香りがします。
「うつろう花」 大正10年(1921)
映丘と同時代には、鏑木清方や上村松園といった美人画の大家がいますが、浮世絵の流れを汲む清方や京都画壇の品を受け継いだ松園とは趣が異なり、映丘のベースはやはりやまと絵なのだなと思います。清方や松園の作品にも古典に取材した作品は多くありますが、映丘の美人画はより叙情的で、高い物語性を感じられるように思います。
これだけまとまった松岡映丘の回顧展は30年ぶりとのこと。忘れられた日本画家というイメージの映丘ですが、これを機に再評価の波も来るかもしれません。
【生誕130年 松岡映丘-日本の雅-やまと絵復興のトップランナー】
平成23年11月23日まで
練馬区立美術館にて