イリヤ・レーピン(1844‐1930)は、近代ロシアを代表するリアリズム絵画の巨匠。これまでロシア美術の展覧会などでその作品は日本でも紹介されていますが、レーピン単独でのここまで大規模な回顧展は初めてなのだそうです。
この日は、山下裕二氏(明治学院大学教授)と籾山昌夫氏(神奈川県立近代美術館 主任学芸員)による「レーピンの魅力を語る」座談会がありました。ナビゲーターは「青い日記帳」のTakさんこと中村さん。
山下先生は“日本美術応援団”として知られる日本画専門の美術史家ですが、この日は“ロシア美術応援団”としてご参加。籾山氏はロシア絵画ご専門で、卒論も修論もレーピンという、レーピンを語らせたら国内では右に出る者はいないという方。非常に詳しく、また分かりやすく、興味深いお話を聞かせていただきました。
レーピンというと、「ヴォルガの船曳き」と「皇女ソフィア」ぐらいしか自分は知らなかったのですが、ロシアでは横山大観や雪舟クラスの国宝的な画家なのだそうです。ロシア国内では名声を獲得した反面、彼の作品はほとんど国外に出なかったので、西欧ではいまひとつメジャーになれなかったみたいです。
帝政ロシア時代は主に上流階級に支持されていましたが、革命後は「ヴォルガの船曳き」に代表される“帝政時代の虐げられた人々を告発した画家”として評価されます。しかし、逆にそのことが災いし、海外では東西冷戦体制に翻弄され、特にアメリカでは不当な評価を受けたということでした。 山下先生は「20世紀の美術史はアメリカの捏造」とおっしゃってました。妙に納得。
トークショー風景
さて、会場へ。
本展は世界最大のレーピン・コレクションを誇るモスクワの国立トレチャコフ美術館の所蔵作品の中から選りすぐりの油彩画や素描約80点で構成されています。入口にはレーピンの自画像が飾られていました。なかなかのハンサム。一番油ののった40代の頃に描かれた作品で、キャンバスの目が分かるほど薄塗りなのが特徴的です。
イリヤ・レーピン 「自画像」
1887年 国立トレチャコフ美術館蔵
1887年 国立トレチャコフ美術館蔵
Ⅰ 美術アカデミーと「ヴォルガの船曳き」
最初のコーナーは、サンクト・ペテルブルクの美術アカデミーで絵画の基礎を学んでから、初期の代表作「ヴォルガの舟曳き」までの20代の頃の作品を展示しています。
まず最初に惹き込まれたのが「老女の肖像」(写真右)。エルミタージュ美術館所蔵のレンブラント作品の模写だそうです。レーピンはレンブラントに多大な影響を受けたということで、光と影の効果や深い陰影など後々の作品でもレンブラントを彷彿とさせる作品が多くありました。
同じ並びには、レーピンの実弟で音楽家の「ワシーリー・レーピンの肖像」(写真中)や19世紀後半のロシアを代表する芸術評論家の「ウラジミール・スターソフの肖像」(写真左)もあり、肖像画家として早くからその才能がフルに発揮されていたことがよく分かります。余談ですが、トークショーで、レーピンの弟はレーピンの奥さんのお姉さんと結婚したというエピソードがあったのですが、その弟がこの人なんでしょうかね。
「ヴォルガの舟曳き」は19世紀のロシア絵画を代表する傑作。産業革命が進んだ19世紀後半にあっても、人力で舟を曳くという前近代的な光景。牛馬のように働く、貧しい漁民たちのリアルな表情や動きにハッとさせられた記憶があります。「ヴォルガの舟曳き」は本展には出展されていませんが、習作や同じ題材を扱ったバリエーション作品が展示されています。「ヴォルガの舟曳き」の初公開当時、レーピンはこの絵に満足していなかったそうで、「浅瀬を渡る船曳き」(写真左奥)を制作します。「ヴォルガの舟曳き」が横の隊列なのに対し、「浅瀬を渡る船曳き」は縦の隊列で、表情にもより苛酷さと苦難が表れています。
上の写真は会場で配られた謎のチラシ。列車の車内に 「ヴォルガの舟曳き」が飾られていて、レーニン風のおじいさんが昔は人力で舟を曳いていた川も今はこんなに近代的になったんだと孫(?)に語っているらしく、旧ソ連時代に社会主義的な宣伝として使われたものだそうです。
Ⅱ パリ留学:西欧絵画との出会い
1873年、レーピンはイタリアを経てパリに向かいます。レンブラントやベラスケス、ハルスなどの作品に刺激を受け、特にレンブラントの描くイメージはレーピンを圧倒します。そしてレーピンはパリの自由な絵画の息吹に強く惹かれていきます。パリで「第1回印象派展」が開かれたのが1874年。レーピンは正に印象派前夜のパリで、新しい絵画の歴史を肌で感じ取ったようです。特にマネの作品はレーピンに衝撃を与えます。
ここのコーナーは5作品と少なかったのですが、ほかのコーナーで観られるような作品と趣が異なり、パリの影響を感じさせるマネ風の作品やレンブラント風の作品が見られました。
Ⅲ 故郷チュグーエフとモスクワ
4年間のパリ留学から帰国したレーピンは故郷ウクライナのチュグーエフを拠点に絵画制作に打ち込みます。西欧のモダニズムを直に触れたレーピンは、ロシア社会の現実を人一倍強く感じたのではないでしょうか。土着的な農民生活や社会のひずみ、そうした民衆の暮らしや姿を絵にしていきます。
展示されていた中で強く印象に残ったのが、「《「トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック》のためのスケッチ、習作」というとても民俗的な作品。テーブルのまわりに群れをなす男たちのそれぞれの個性が強く描写されていて、習作とは思えないインパクトがありました。
このコーナーには、中野京子さんの「怖い絵3」に出てきた「皇女ソフィア」(写真右)があります。ソフィア様、恐ろしすぎます。「皇女ソフィア」の原題は「ノヴォデヴィチ修道院に幽閉されて1年後の皇女ソフィア・アレクセエヴナ、1698年に銃兵隊が処刑され、彼女の使用人が拷問されたとき」という長いもので、そのタイトルにこの絵の背景的なものが語られています。窓の外には処刑された銃兵隊が見せしめに吊るされていて、ソフィアの後ろでは侍女が怯えて震えています。
「皇女ソフィア」のとなりには、まるで正反対の「修道女」(写真左)。アメとムチではありませんが、あえて対照的な絵を並べたのでしょうか? 少女の清楚な表情に癒されたのは私だけではないはずです。
「背の曲がった男」(写真右)はパネル展示の「クールクス県の十字架行進」に描かれていた杖をついた青年の肖像画。青年の表情からは身体が不自由な辛さや困難さは微塵も感じません。逆に、前向きさやひたむきさ、心の豊かさが伝わってくるようです。レーピンの肖像画は、ただその人の表情を切り取っただけのものではなく、何かその人の内面が凝縮されているような、そんな印象を与えます。となりの「巡礼者たち」(写真左)はまるで写真かと見間違うような写実性の高い作品。これもロシアの風土的なもの、土着的なものを強く感じさせます。
「あぜ道にて-畝を歩くヴェーラ・レピーナと子どもたち」(写真左)はレーピンの妻と二人の娘の牧歌的な日常生活を描いた作品。実験的制作だったそうで、印象派の影響を強く感じさせます。ふと映画『ひまわり』の広大なひまわり畑を思い出しました。となりはレーピンの息子を描いた「少年ユーリー・レーピンの肖像」(写真右)。寝転がってるのを俯瞰で描いているのか、構図が少し不思議でしたが、解説によると短縮法という方法で意図的に描いたものだそうです。このユーリーも後に画家になったとのこと。
イリヤ・レーピン 「休息-妻ヴェーラ・レーピナの肖像」
1882年 国立トレチャコフ美術館蔵
1882年 国立トレチャコフ美術館蔵
本展のメイン作品としてポスターやチラシに使われているレーピンの代表作「休息」。先ごろ行われたX線検査の結果、当初は目を開けて描かれていたことが分かったそうです。籾山氏によると、この頬杖をついたポーズは西洋画では悲しみの姿を意味するそうで、右腕には喪章のようなものも描かれているとのこと。実際に観ると、喪章なのか黒い影なのか分かりづらいのですが、同じ会場に展示されている本作の鉛筆画の習作には喪章らしきものが確認できます。
ちなみに、レーピンの妻ヴェーラはレーピンより11歳年下。レーピンが美術アカデミーの学生だったときの下宿先の娘さんだそうで、ヴェーラが17歳の時に結婚していて、同じ年に子供も産んでいます。作品を観る限り、ヴェーラはとても美しく、かわいいお嬢さんという感じなので、娘に手をだし“できちゃった婚”でもしたのかもしれません。余談ですが、晩年はレーピンとヴェーラは事実上の離婚状態で(教会に離婚を認められなかった)、“後妻”の肖像画も展示されていました。
レーピンの面白いところは、社会批判的な作品や労働者階級を描いた作品を発表する一方で、上流階級の肖像画も多く手掛けているところです。「展覧会の絵」で知られる「作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像」(写真中)はムソルグスキーの亡くなる10日前に描かれた作品とのこと。ぼさぼさの髪、アル中っぽい赤ら顔(ムソルグスキーは晩年アルコール中毒だった)、疲れた表情などレーピンはリアリズムに徹し、そのストレートな描写からは名作曲家の威厳は感じられません。一方でとなりの「工兵将校アンドレイ・デーリヴィクの肖像」(写真左)は逆にとても威厳のある肖像画。“表現力と技法のいずれからみてもレーピンの傑作”と解説にありました。レーピンは歴史画や風俗画などにも素晴らしい作品が多いのですが、やはり肖像画は秀でていると感じます。
Ⅳ 「移動派」の旗手として:サンクト・ペテルブルク
サンクト・ペテルブルグに移った1882年以降の旺盛な創作期の作品を展示しています。「移動派」とは、サンクト・ペテルブルグの前衛芸術家グループ「移動展覧会協会」のことで、帝政ロシア各地を移動して展覧会を開いたためそう呼ばれます。その中でもレーピンの作品は常に議論の的となり、彼の作品を一目観ようと各地で観衆が押しかけたといいます。
イリヤ・レーピン 「思いがけなく」
1884-88年 国立トレチャコフ美術館蔵
1884-88年 国立トレチャコフ美術館蔵
ここでの見ものは、トークショーでも皆さん絶賛の「思いがけなく」でしょう。まるで映画の一場面のような、ドラマ性の高い作品です。革命家と思しき男性の突然の帰還に戸惑う大人たち、そして喜びとも戸惑いとも取れる微妙な表情を浮かべる子供たち。彼の帰還がどれだけこの家族の不意をつくもので、動揺を与えているかが画面の端々から伝わってきます。
写真を撮影したときは気付かなかったのですが、よく見たら山下先生が写っていました(笑)。
レーピンの傑作のひとつ「イワン雷帝とその息子イワン」の習作「1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン」(写真右)も展示されています。誤って息子を殺してしまったイワン雷帝の史実に基づいたもので、習作と言えども非常に緊迫したドラマを感じる作品です。イワン雷帝の慄然とした表情から目が離せません。
イリヤ・レーピン 「キャベツ」
1884年 国立トレチャコフ美術館蔵
1884年 国立トレチャコフ美術館蔵
いきなりなぜか「キャベツ」。これがまた実にリアル。水滴までついていたりします。キャベツといえばロールキャベツですが、ロールキャベツってロシア料理なんですよね。
イリヤ・レーピン 「ピアニスト、ゾフィー・メンターの肖像」
1882年 国立トレチャコフ美術館蔵
1882年 国立トレチャコフ美術館蔵
山下先生オススメの“タカビー”なピアニストの肖像画。リストの愛弟子で、Wikipediaによると「当時の最高のヴィルトゥオーゾの一人に数えられ、パリでは「リストの再来」と呼ばれた」のだそうです。この美貌と才能。レーピンの肖像画からもそれは十分に伝わってきます。
「ワルワーラ・イスクル・フォン・ヒルデンバント男爵夫人の肖像」(写真左)も上から目線の“タカビー系”の肖像画。サロンの女主人で、“社交界の華”と呼ばれていたそうです。衣装も当時の最先端のものだとか。この並びには、大女優サラ・ベルナールのライバル的存在だったエレオノーナ・ドゥーゼの肖像画も展示されていたのですが、それがまたかっこよかった。
イリヤ・レーピン 「手術室の外科家エヴゲーニー・パーヴロフ」
1888年 国立トレチャコフ美術館蔵
1888年 国立トレチャコフ美術館蔵
実は今回の展覧会で一番気に入ったのがこの一枚。小さな作品ですが、細部までこだわっていて、手術室の中のピーンと張りつめた緊張感や物音、空気まで伝わってくるようでした。外科医が手に持つ木槌にはゾッとしましたが。
Ⅴ 次世代の導き手として:美術アカデミーのレーピン
最後のコーナーは、円熟期を迎え、美術アカデミーで次世代の若い画家の育成に力を注いでいた頃のレーピンの作品を展示しています。
ここでは「ゴーゴリーの《自殺》」(写真左)が強烈でした。原稿を読んだ司祭に否定され、衝動的に原稿を燃やしてしまい、錯乱状態に陥る文豪ゴーゴリー。目が完全にイッちゃってます。生々しいというか、ある意味、「皇女ソフィア」より恐ろしい。構図的にはどこか、先の「イワン雷帝とその息子イワン」を思い起こさせます。この事件の10日後にゴーゴリーは自殺します。
レーピンは同時代の西欧の画家の影に隠れて、日本ではほとんど知られていませんが、何で今まであまり取り上げられなかったのだろうと思うぐらい強い衝撃を受けました。非常に画力があり、写実性が高く、個人的にはかなり好きな画家でした。巡回展もありますので、ぜひこの機会に足を運んでみてはいかがでしょうか。
※会場内の写真は主催者の許可を得て撮影したものです。
【国立トレチャコフ美術館所蔵 レーピン展】
Bunkamuraザ・ミュージアムにて
2012年10月8日(月・祝)まで(開催期間中無休)
開館時間: 10:00-19:00(入館は18:30まで)
※毎週金・土曜日は21:00まで開館(入館は20:30まで)
主催:Bunkamura
http://www.bunkamura.co.jp/
後援:ロシア連邦外務省、ロシア連邦文化省、在日ロシア連邦大使館、ロシア連邦文化協力庁、ロシア文化フェスティバル組織委員会
協力:日本航空
企画協力:アートインプレッション
巡回先:
浜松市美術館 2012年10月16日(火)~12月24日(月・祝)
姫路市立美術館 2013年2月16日(土)~3月30日(土)
神奈川県立近代美術館 葉山 2013年4月6日(土)~5月26日(日)
怖い絵死と乙女篇 (角川文庫)