今月は歌舞伎座の昼の部と名古屋・錦秋顔見世大歌舞伎の夜の部を観てきました。
ともに共通する演目が『伊勢音頭恋寝刃』。
福岡貢を演じるのは、歌舞伎座では一昨年の御園座につづいて二度目の勘九郎、名古屋では初役の菊之助。
歌舞伎座はお紺に七之助、万野に玉三郎、喜助に仁左衛門。福岡貢は仁左衛門の当たり役。玉三郎も万野やお紺を過去に何度も演じているので、この2人が勘九郎と七之助の後ろ盾となり、芸の伝承といった意味合いの強い舞台という感じがしました。特に仁左衛門は一昨年の御園座の舞台でも勘九郎と組んでおり、自分の後継として勘九郎に芸を伝えようとしているのが明らかでしょう。
松嶋屋のファンとしては、仁左衛門が出るなら、そして玉三郎が一緒ならなおのこと、仁左衛門の貢に勘九郎の喜助でしょと思いますが、本公演は十七世勘三郎・十八世勘三郎の追善公演。まぁしょうがありません。
その勘九郎も七之助も、2人の指導に応えるように熱演をしており、出来は上々。勘九郎・貢はもちろん仁左衛門・貢にはまだまだ遠く及びませんが、中村屋らしい貢ができつつあるように感じました。
さて、名古屋の『伊勢音頭』。こちらは菊之助の貢、時蔵の万野、松緑の喜助、梅枝のお紺と、みんな初役というからビックリ。それより何より歌舞伎座の『伊勢音頭』と雰囲気が違うのにまたビックリ。
菊之助はまだちょっと堅いというか、もう少し柔らかさが欲しい気はしましたが、役作りはほぼ完成されていて、緊迫感のある芝居でした。貢がだんだんと憎悪をたぎらせていく様も芝居に説得力があります。時折笑いが起きる歌舞伎座の『伊勢音頭』とは違い、無駄な笑いも起きません。時蔵の万野は玉三郎の嫌みたらしさとも違う嫌な女。亀三郎のお鹿も喜劇に走らない。ただ萬太郎の万次郎はいただけない。つっころばしという感じが全然しませんでした。
そして“青江下坂”が妖刀だということが分かるということがポイント。歌舞伎座の『伊勢音頭』ではそれが伝わってきませんでした。大量殺人も妖刀であることで納得します。この辺りは『籠釣瓶』に近いかも。
同じ福岡貢でも菊之助と勘九郎ではアプローチというかスタンスが違うのでしょう。勘九郎は仁左衛門から芸を引き継ぎ、中村屋らしい貢を作ろうと苦心してる気がします。菊之助は菊五郎型の伝統を守り、それをなんとか形にしようとしている感じがします。
ところで、2つの『伊勢音頭』を観ていて、いくつか芝居の構成や演出の違いに気づきました。たとえば、歌舞伎座では座敷の上手には障子の部屋があるのですが、名古屋ではその部屋が二階(中二階)になっていたりします。『伊勢音頭』には東京型と上方型があるのは知っていましたが、特に愛想尽かし以降で違うところが多いようでした。
万野にキレた貢が腰の刀を探すが場面で、松嶋屋/中村屋の型では両手を後ろ手にして見得を切りますが、音羽屋の型では扇子を折って刀に見立てて見得を切ります。松嶋屋/中村屋型では折紙は最後の最後にお紺が貢に渡しますが、音羽屋型では刀の中身が違うことに気づいた貢が油屋に戻って来たときにお紺が二階から折紙を投げます。万野の殺され方も違いますし、音羽屋版では二階で寝ていた岩次の首を斬り落とすという場面もありました。貢の頬の血糊も音羽屋型では最初からついて登場します。名古屋で惣踊りがなかったのはどうも演出の都合のよう。
ただ、松嶋屋/中村屋版は上方型なのだろうと思っていたら、渡辺保氏の本を読む限り、東京型に近いようです。本来の松嶋屋型は花道は外ではなく廊下という設定で、奥庭の場の舞台設定も異なるよう。殺しは奥庭には出ず、お紺まで斬ってしまう。最後に駆けつけるのは喜助と万次郎。どういう経緯で東京型を取り入れるようになったのでしょう。少なくとも13代目仁左衛門までは上方型でやってたみたいです。
2つの『伊勢音頭』のおさらいに仁左衛門の『伊勢音頭』の録画を鑑賞しました。やっぱり福岡貢といったらこれですよ、これ。そしてこれが「ぴんとこな」ですよ。素晴らしい。勘九郎も菊之助もそれぞれ仁左衛門の福岡貢という極みを目指して頑張って欲しいです。
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