さて、今月も歌舞伎座の杮葺落五月大歌舞伎に行ってまいりました。今月は第二部と第三部のみ拝見。
まずは『伽羅先代萩』で「御殿」と「床下」。女形の大役・政岡を演じるのは人間国宝の坂田藤十郎。
藤十郎の政岡を観るのは初めて。上方流というんでしょうか、“山城屋型”というんでしょうか、たとえば玉三郎の政岡とは演出が若干異なるようです。分かりやすいところだと、よく見る『先代萩』では、千松が八汐に刺されると、政岡が鶴千代を打掛で覆って守るという場面がありますが、“山城屋型”では政岡が鶴千代を奥の間に避難させ、その襖の前で懐剣を握ったままじっと立っているという演出でした。
『先代萩』の見どころの一つ“飯炊き”は、今回は時間の関係かカットされていましたが、前回藤十郎が政岡を演じた御園座の公演でもカットされているようなので、年齢を考慮してのことかもしれません。藤十郎の政岡は、お家の大事と母の苦しみの狭間でグッとこらえる心情が見事で、また息子・千松の亡骸を抱き悲しむ場面では義太夫に乗せてクドキをたっぷりと見せ、濃厚な味わいがありました。梅玉の八汐、秀太郎の栄御前、時蔵と扇雀の沖の井と松島と役者も揃い、総じて華やかで格調もあり、とても良かったと思います。一転荒事の「床下」は吉右衛門の荒獅子男之助に幸四郎の仁木弾正という兄弟競演で、大歌舞伎らしく見応えがありました。
つづいては『廓文章』。通称「吉田屋」。さよなら公演のときにも同じ仁左衛門と玉三郎でかかっていますが、前回は見逃しているので、杮葺落公演での再演を大変楽しみにしていました。
仁左衛門演じる伊左衛門はどうしようもない放蕩息子で、今は家を勘当され、夕霧会いたさに紙衣姿で吉田屋にやって来ます。夕霧に会ったら会ったで、素直になれず拗ねてそっぽを向く始末。その子供っぽさ、憎めなさ、じゃらじゃらした感じがたまらなくいい。一方の玉三郎の儚げな美しさ、艶やかさ。この玉三郎を何年も待ち望んでいたのだと思わずにはいられませんでした。ただ、伊左衛門の恋焦がれる思いほどの思いというか、同じ熱さを玉三郎からはあまり感じられなかったようにも思います。もう少し嬉しそうな感情が表に出てるといいのにと。
さて、第三部は『梶原平三誉石切』から。景時に吉右衛門、景親に菊五郎、景久に又五郎、そして六郎太夫に歌六、梢に芝雀。吉右衛門の景時は声といい表情といい堂々とした大きさといい、素晴らしい。その向こうを張るのが菊五郎。團十郎の代役ということで菊五郎にしては珍しい役回りですが、その景親が実に骨太で、芝居に一層の厚みを増していました。また、歌六、芝雀の親子が情感たっぷりで、吉右衛門・菊五郎の大きさと比べても遜色なく、ここまでドラマティックな石切梶原は初めて観た気がします。
最後は、五月最大の目玉、玉三郎と菊之助の『京鹿子娘二人道成寺』。さよなら公演のときにも拝見していますが、今回は少し志向を凝らし、後半の“ただ頼め”を日替わりで踊ったようです。私が観た日は玉三郎の“当番”でした。恐らく玉三郎はもう一人で道成寺を踊らない気がする(気がするだけですが)ので、「もしかしたら見納めかも」と思いながら目に焼き付けました。
この玉三郎と菊之助の『二人道成寺』は現代の歌舞伎舞踊では最高峰のものでしょう。もちろん玉三郎の極みの域に菊之助はまだまだ辿りつけていませんが、それでもその玉三郎と肩を並べて踊ることができるのは若手女形では菊之助しかいないわけです。その二人の妖艶な絡みは夢幻のようであり、「鐘入り」のときの、ああもう終わってしまう…という寂しさ、そして観終わったあとの、夢から覚めて現実に引き戻されたときのような何とも言えない気持ち、これは他の役者、他の演目では決して感じないものです。これからもいくつも名舞台と呼ばれるものを観ることになるでしょうが、この二人の『二人道成寺』ほどの水準のものはそうそう現れない気がします。
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