2010/11/26

やけたトタン屋根の上の猫

昨日、新国立劇場でテネシー・ウィリアムズの『やけたトタン屋根の上の猫』を観てきました。

テネシー・ウィリアムズというと、一般ウケする『ガラスの動物園』や文学座のレパートリーとしても有名な『欲望という名の電車』は比較的上演されますが、なぜか『やけたトタン屋根の上の猫』は滅多に上演される機会がなく、今回とても楽しみにしてました。しかも主役がベルリン映画祭で主演女優賞を受賞したばかりの寺島しのぶというホットなキャスティング。チケットもものの数分で完売という人気ぶりでした。

で、お芝居はどうだったかというと、とてもいいんです、とてもいいんですけど、「だけど」がつくというか。期待の寺島しのぶのマーガレット(マギー)が、ちょっと僕のイメージするマギーと違うというか……。

第一幕は寺島しのぶの独壇場で、膨大な台詞を喋るんですが、テンションばかり高くて、もう少し繊細さが欲しかったな、と。 たぶん演出からして、そういうアプローチだったのでしょう。「こんな喜劇的な話だったけ」と思わせるところもしばしば。義姉との応酬は最早コメディでした。<“触らぬもの”状態のゲイの夫から愛を取り戻そうともがく妻>という本来のマーガレットの設定がよく見えないというか、逆に<義父の遺産を得ようと必死で、傷ついたゲイの夫に無神経な妻>という感じに僕には映ってしまいました。マギーの安易な行動が夫の“親友”スキッパーの破滅のきっかけとなり、それが結局は夫婦の不和の原因となり、二人の間に影を落としてるのに、それが感じられなかったのが残念でした。

映画版の『熱いトタン屋根の猫』はプロダクション・コードがあって、オリジナルにあるゲイ的な要素は直接的に描かれていませんが、マギーのアプローチは原作に近いと自分は思っているのです。映画版を観たテネシー・ウィリアムズは激怒した言われていますが、エリザベス・テイラーといい、ポール・ニューマンといい、戯曲の持つ雰囲気が出ていて、あれはあれで成功していると思います。寺島しのぶには、あのエリザベス・テイラーのような魅力が欠けてたような気がします。

ポール・ニューマンが映画で演じたブリックは北村有起哉が演じています。もう少し失望感とか無力感が出ていても良かったかなとも思いましたが、第二幕の父親との“会話”なんて、息もつけない程のものすごい緊張感。T・ウィリアムズ的な絶望の世界を体現していて素晴らしかったです。ブリックの母親役で銀粉蝶が出てて、彼女が台詞を話しだすと、寺島しのぶの影が薄くなるほど存在感があって、さすが舞台女優は違うなと感心しました。

と、偉そうなこと書いてますが、やっぱりテネシー・ウィリアムズはいい。こういう世界、好きだなぁとあらためて思いました(笑)。ただ、あまりに彼は絶望の淵をあからさまに描くので、そうしたものに慣れてない人は直視できないというか、いたたまれない気分になるのだと思います。ブリックと父親がお互いの心の叫びをぶつけ合うシーンなんて、それを直視しなければならない観客は逃げ場さえなくて、どう見ても落ち着かない様子でした。それがテネシー・ウィリアムズの作品がなかなか上演されない理由なのかなとも少し思いました。

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