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2017/08/18

杉本文楽 女殺油地獄

世田谷パブリックシアターで『杉本文楽 女殺油地獄』を観てきました。

前回の『杉本文楽 曾根崎心中』から3年。ふたたび近松、しかも『女殺油地獄』に挑戦ということで、期待を抱かずにいられません。

杉本文楽版『女殺油地獄』は、下之巻「豊島屋油店の段」を前と奥に分け、「前」を素浄瑠璃、「奥」を人形浄瑠璃という構成。今回は一人遣いではありませんでしたが、『曾根崎心中』同様に手摺りはありませんでした。

冒頭、人間国宝・鶴澤清治が新たに作曲したという「序曲」を自ら三味線で聴かせ、つづいてあらかじめ録音された杉本博司の声で近松門左衛門の口上人形がご挨拶という仕掛け。公演回数が多いわけでないので、録音でなく生で話しても良かったんじゃないかと思いましたが、そこはプロの語り手でないので、しょうがないのかもしれません。

素浄瑠璃は義太夫を竹本千歳太夫、三味線を鶴澤藤蔵という組み合わせ。ところが千歳太夫の声の調子が最悪。公演初日から声の調子が悪いと漏れ聞こえていましたが、最後まで戻らなかったようです。

最後の「奥」は義太夫を豊竹呂勢太夫 豊竹靖太夫、人形遣いを吉田幸助、吉田一輔、吉田玉勢といった若手が勤めていました。

豊島屋の「前」を素浄瑠璃にしたのは面白いと思いましたが、義太夫の千歳太夫の声の調子が悪く、素浄瑠璃の迫力が十分活かされなかったのが残念。また演出方法を「前」と「奥」でがらりと分けたことで、「前」の臨場感の連続性が途切れ、奥がいまひとつ盛り上がらず、緊張感に欠けたものになってしまったように思います。

前回の『曾根崎心中』は目の肥えた文楽ファンから賛否両論あったとはいえ、文楽の固定概念を壊す演出に見るべきものはありましたが、 今回はそれもなかった。ただ杉本博司の遊びに付き合えるかどうか。近松を観る・聴くというより、杉本のインスタレーションを観る感覚に近いように感じました。

今回の『女殺油地獄』では、前回以上に通常の文楽公演では見ない観客層が多かった気もします。一般の文楽ファンは前回の『曾根崎心中』で早くも離れて行ってしまったのかもしれません。恐らく文楽を初めて観る人も多かったでしょうし、そもそも初心者に素浄瑠璃はハードルが高すぎたんじゃないでしょうか。あれじゃ初めて文楽を観る人が気の毒だと思いました。

叶うものなら、仁左衛門の与兵衛で『女殺油地獄』をまた観たいなと思いながら三軒茶屋をあとにしたのでした。


能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集10)能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集10)


週刊誌記者 近松門左衛門 最新現代語訳で読む「曽根崎心中」「女殺油地獄」 (文春新書)週刊誌記者 近松門左衛門 最新現代語訳で読む「曽根崎心中」「女殺油地獄」 (文春新書)

2015/06/30

ゴミ、都市そして死


世田谷パブリックシアターで劇団SWANNYの『ゴミ、都市そして死』を観てきました。2013年の紀伊国屋ホールの舞台の再演です。

『ゴミ、都市そして死』は、ドイツの映画監督でドイツ現代演劇の演出家としても知られるライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが1974年に発表した戯曲。ダニエル・シュミットが『天使の影』として映画化し、ファスビンダーはヒモ役で出演もしています。ファスビンダーの演出による舞台も計画されていたようですが、ファスビンダーの死により実現には至りませんでした。

SWANNYの舞台は初めてですし、はたしてファスビンダーの戯曲を日本でちゃんと舞台化できるのか少々心配だったのですが、ファスビンダーやシュミットの映画ほど深刻な芝居でもなく、それでいてファスビンダーらしい退廃的なムードはちゃんとあって、適度に計算して演出したんでしょうね。

舞台はドイツの都市フランクフルトの片隅でもあり、月面の架空の場所でもあり、という設定(舞台の背景には大きな月がある)になっていて、都会のゴミ溜めのようなところならどこでもいいのかもしれません。虚と実、貧と富、男と女、ユダヤとファシズム、さまざまなものがタテにもヨコにも、深く複雑に入り乱れ、そして混沌としています。

娼婦とそのヒモ、同性愛、ユダヤ人、女装した歌手、暴行、貧乏、急に舞い込む大金、孤独、絶望、殺し…。いかにもファスビンダーという感じのキーワードが次から次へと出てきます。メランコリックで破滅的、愛を求める姿と歪んだ愛の姿。差別的な言葉や性的な言葉がひっきりなしに飛び交います。ファスビンダーの作品に理性は無いに等しい。話の展開もファスビンダーらしいものでした。

主役の売春婦ローマ・Bを演じる緒川たまきはそんな難しいファスビンダーの芝居を体当たりの演技で演じ切っていたと思います。ローマ・Bのヒモの名前はフランツ。ファスビンダー作品では彼の分身としてたびたび登場する役名です。『天使の影』でもファスビンダー自身が演じていましたが、この役者(仁科貴)がファスビンダー似だったのがちょっとツボでした。

舞台の右奥に生演奏のバンド(石橋英子 with ぎりぎり達)がいて、どこか退廃的な舞台の雰囲気を盛り上げていました。歌手役で登場する渚ようこがまたカッコいい!

映画版しか観たことがないので、原作にどのぐらい忠実なのかは分かりませんが、冒頭歌われるアカペラの輪唱やオペラの歌曲、ドイツ語の原曲のまま流れる音楽などは『天使の影』で使われた曲をそのまま使っているようです。ところどころ、これはペーア・ラーベンだなというメロディーもありました。

開演前に、「こんにちは、ファスビンダーです。草葉の陰から・・・」と注意事項のアナウンスがあって、椅子から転げ落ちそうになりました。いつからファスビンダーはこんなキャラになったのだと(笑)

出だしがそんなだったので、大丈夫かな?と最初不安になりましたが、わたし的にはかなり楽しめました。もうひとつの『猫の首に血』も観に行けば良かった。


ゴミ、都市そして死 (ドイツ現代戯曲選30 第25巻)ゴミ、都市そして死 (ドイツ現代戯曲選30 第25巻)

2015/05/31

地獄のオルフェウス


Bunkamura シアターコクーンで『地獄のオルフェウス』を観てきました。

暴力、人種差別、因襲、閉鎖的な土地…。テネシー・ウィリアムズのキーワードがこれでもかというぐらいに散りばめられています。イギリスの若き新進気鋭の演出家が演出したとのことですが、演出は割と忠実に原作(一部改変してるところもある)の重苦しい世界を再現しています。変にエキセントリックになり過ぎず、それでいて気違いじみたおぞましい土地の空気と暴力に踏みにじられていく若者の姿がしっかり描き出されていたと思います。ただ原作の南部の根深い因襲やドロドロした人間関係が、映画版(『蛇皮の服を着た男』)ほど感じられなかった気もします。もっと生々しくても良かったんじゃないかと。

癌に侵された夫に代わって雑貨店を切り盛りするレイディは、“買われた”ように結婚した年の離れた夫と愛のない生活を送り、人生に疲れきっています。そこに突然現れた一人の若い男。閉塞的な生活で常にイライラしていた彼女に色気が戻ってくる、その様を大竹しのぶが実に的確に演じていたなと感じました。自由の魂の象徴である若者ヴァル役の三浦春馬は頑張っているし悪くはないんですが、“蛇皮の服を着た男”を演じるには線が細すぎ。色男としては通っても、南部の男というイメージがせず、テネシー・ウィリアムズ劇の匂いがしません。

精神がイカれた色情狂のキャロルを演じる水川あさみが怪演。現実離れした絵を描く保安官の妻ヴィー役の三田和代もさすがに上手いのですが、ヴィーとヴァルの関係がまるで母と子のようで、原作の不貞に近い関係が見えません。

この日は東京公演の千秋楽だったので、カーテンコールでは主役2人の挨拶も。演出のフィリップ・ブリーンはすでにイギリスにいて、この場にはいませんでしたが、Skypeで舞台を見ているのだとか。そういう時代なんですね。


テネシー・ウィリアムズ〈2〉地獄のオルフェウス (ハヤカワ演劇文庫)テネシー・ウィリアムズ〈2〉地獄のオルフェウス (ハヤカワ演劇文庫)

2015/05/30

海の夫人


新国立劇場でイプセンの『海の夫人』を観てきました。

演出は、2010年新国立劇場で観た同じくイプセンの『ヘッダ・ガーブレル』と同じ宮田慶子。現代の口語調に近い新訳による上演で、演出的な意図でもあるんでしょうが、イプセン劇にしては軽い感じがあります。若手の役者の台詞もアクセントやイントネーションがイマドキの若者の語感で、最初はちょっと違和感がありました。

医師ヴァンゲルと後妻のエリーダの関係と、エリーダと義娘たちとの関係、娘たちと若者2人との関係、そしてエリーダとかつての恋人との関係、そうした関係の中で感情の昂りや気持ちの波が寄せては返し寄せては返しを繰り返します。

エリーダとヴァンゲルのやり取りの合間々々に挿入される若者たちの戯れは、夫婦の深刻で重い空気を振り払うかのような喜劇性があり、まるで北欧の短い夏を謳歌する様にも似て、どこかベルイマンの『夏の夜は三たび微笑む』を思い起こさせもします。最初は戸惑った現代的な言葉のやり取りは、若者たちやこの家族の日常を生き生きとしたものにし、結果それが芝居のいいアクセントになっています。この軽さが逆にイプセンの世界をリアルで身近なものにしていて、これはこれで清新でいいかなと思うようになりました。

幼子を失ってから精神的にも不安定なエリーダを演じる麻実れいはイプセンらしい女主人公を体現していて圧倒的です。死んだと思っていたかつての恋人が生きていることを知り動揺するその姿、そして自分のアイデンティティに気づき自分を見つめ直す姿。その世界にどんどん引き込まれてしまいます。まわりの役者も巧くコントロールされた演技でバランスがとれています。みんなよく役のキャラクターを掴んでいて、とても好ましい演技だと思いました。

自由とはなんなのか。最後のエリーダの台詞に涙ぐむ女性がちらほら。ラストシーンは自分もちょっとぐっときました。


イプセン戯曲選集―現代劇全作品イプセン戯曲選集―現代劇全作品

2015/02/23

死の舞踏



銀座・博品館劇場で仲代達矢×白石加代子×益岡徹という濃い〜い3人の舞台『死の舞踏』を観てきました。

仲代達矢と白石加代子の対談で、仲代が白石とやるなら『死の舞踏』をやりたいと語っていたことがあり、それが実現したというわけです。(対談のあとにとんとんと決まったのかも)

『死の舞踏』は『令嬢ジュリー』で有名なストリンドベリの戯曲。ストリンドベリは同じスウェーデンのイングマール・ベルイマンも好んで取り上げた作家で、事実この『死の舞踏』も何度か取り上げようとしていました(途中で中止に追い込まれ結局実現しなかった)。

海外でもローレンス・オリヴィエやイアン・マッケラン、ヘレン・ミレンやジェラルディン・マクイーワンといった名優が舞台で演じた作品。そんな芝居を仲代達矢と白石加代子が組むといった観に行かないわけがありません。幸いに千秋楽の前から4列目という絶好の席を確保できました。

舞台はドラマ・リーディングというスタイルで、脚本を持っての言わば朗読劇のような感じ。舞台上には折りたたみ椅子がいくつも並んで置かれていて、3人の役者たちがあっちに座ってこっちに座ってと動きながら芝居をしていきます。

25年の愛なき夫婦の悲劇。戯曲を読む限り、重苦しい芝居なのかと思っていたのですが、ところがどっこい、結構笑わせてもらいました。『百物語』ばりの白石加代子の怪演と飄々とした表情の裏に狂気を孕んだ仲代達也の熟達した演技。凄かったです。

カーテンコールの演出も楽しかった!

2014/08/14

百物語 FINAL


白石加代子の『百物語』のファイナル公演を観てきました。

締めを飾るのは、三島由紀夫の『橋づくし』と泉鏡花の『天守物語』。一番最後は『天守物語』と決めていたそうです。

ファイナルはいつもの岩波ホールではなく、東京でも何ヵ所かで公演があるのですが、やはり『百物語』を観るなら岩波ホールの大きさ(狭さ) が一番だと思ってるので、吉祥寺シアターでの公演を選びました。これが正解。一人芝居を見るには程良い大きさで、また客席と舞台との距離も近く(白石さんは緊張するとおっしゃてましたが)、また今までにないぐらいの良席だったこともあり、間近で白石さんの芝居を拝見できて大満足。

さて、まずは『橋づくし』。中秋の名月の夜に7つの橋を渡って願掛けをする4人の女性の悲喜交々を描いた作品で、それぞれ個性的な若い女性を巧みに演じ分けるのですが、それがまた可笑しい。三島の作品がそもそもユーモラスなのか、白石さんの演技がコミカルなのか。オチは途中で読めてくるのに、それを白石さんがどう見せるか、それがたまらないのです。隣の席のおばさんがケタケタよく笑ってました。

そして『天守物語』。原作は何度も読んで、歌舞伎も演劇でも観た大好きな鏡花作品。あれだけの登場人物(17人!)を一人で演じるのだから大変です。二人の黒子が白石さんの手となり足となり頑張っていました。

白石加代子が『天守物語』をやるという時点で、まぁだいだい想像していましたが、これがまた楽しい『天守物語』で、まさに白石ワールド。富姫はともかく、おきゃんな亀姫や滑稽な朱の盤坊、極めつけは舌長姥で、まぁその姿が似合うこと似合うこと(笑)

それでも図書之助が出てくると、舞台は一気に引き締まり、図書之助と富姫の二人の言葉の応酬から目が離せません。禁断の恋の熱情と切なさが胸を締め付けます。

まだまだ次の話を聴きたいところではありますが、次の話を聴くと白石加代子がもののけになって出て来るというのでやめときます(笑)

白石加代子さん、長い間おつかれさまでした。


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2014/03/26

杉本文楽 曾根崎心中

世田谷パブリックシアターで『杉本文楽 曾根崎心中』を観てきました。

文楽の観劇歴はまだ2年足らずのひよっこですが、現代美術家の杉本博司氏がプロデュースしたとあり、2011年の杉本文楽を見逃した身としては是非観たいと思っておりました。

アート系のファンからは絶賛の評価を聞いていましたが、文楽ファンからはかなり手厳しい批判も耳に入っていたので、そのあたりを自分でも確かめてみたいというのもありました。

構成・演出・舞台美術・映像は杉本博司が手掛け、太夫には豊竹嶋大夫、豊竹呂勢大夫、竹本津駒大夫、三味線に人間国宝の鶴澤清治、鶴澤藤蔵、人形遣いに桐竹勘十郎などなど錚々たる顔ぶれ。文楽勢の力の入れようが分かります。

今回の杉本文楽のポイントとしては、
  • 『曾根崎心中』の初演時の台本を使い近松門左衛門の原文に忠実に舞台化したこと
  • 現代では行われなくなった“一人遣い”を採用したこと
  • 現在の文楽公演ではカットされている「観音廻り」を復活させたこと
  • 文楽に必須の“手摺り”をなくしたこと(下駄も履かない)
  • 杉本博司による舞台美術や映像、束芋のアニメーションが使われていること
などでしょうか。

従来の文楽では舞台に沿って“手摺り”があり、人形は横の動きに限定されるわけですが、杉本文楽は“手摺り”がないので縦の動きを可能とし、「観音廻り」では舞台奥から手前に向かい、お初が歩いてくるという演出を実現しました。NHKで放映した初演時のドキュメンタリーを観ていましたので、どんな感じかは多少分かっていましたが、私自身はなかなか面白いアイディアだなと思っています。ただ、会場のSPTは初演時の神奈川芸術劇場より舞台構造が小さく、縦の導線が思ったほど長くなかったのと、初演時にはあった「道行」での縦の動きが本公演ではありませんでした。(他に杉本氏所蔵の観音像が登場しなかったなど演出上の変更点はいくつかあるようです)

「観音廻り」の見どころは、やはり勘十郎による一人遣いの人形表現と、今回のために作曲された鶴澤清治による楽曲と、呂勢大夫が切々と謳いあげる近松オリジナルの詞章でしょう。お初は実は観音信仰が高く、仏に帰依する気持ちが『曾根崎心中』の浄土思想の根本にあるということで、この「観音廻り」の復活は非常に意味のあるものだと思うのですが、ただ残念なのは、そうした重要な事柄が一体どれだけの人に伝わっているのかということ。舞台は闇の中で進行するため、床本を見ることもできず、また文楽公演にあるような字幕もありません(字幕表示の是非は別として)。

「観音廻り」では舞台の背景に杉本博司による映像と束芋が手がけたアニメーションが流されます。演出としてはユニークな試みでしたが、思ったほどの映像体験でも、期待したほどの映像効果もなく、また話題のアニメーションも近松の雰囲気とは合わず浮いていました。そのあとの「生玉社の段」、「天満屋の段」、「道行」は筋としては『曾根崎心中』と同じで(本は違うのでしょうが)、先に挙げた点を除けば特に意表を突く演出はありません。全体的に照明は非常に計算され、高い効果を上げていると感じましたが、たとえば「生玉社の段」は手摺りや背景の書き割りもないため、人形遣いの動きが不安定で、緊張感のない場になってしまったのは否めません。

コクーン歌舞伎が伝統に縛られない現代的な演出やスタイリッシュなセットなどで従来の歌舞伎ファン以外の層に受け入れられ、歌舞伎であって歌舞伎とちょっと違うように、杉本文楽も文楽であって文楽とはちょっと違います。初演版の台本を使うとか一人遣いとか、杉本博司が古典回帰を狙ったのかといえば、それはまた違う話で、あくまでも杉本氏の表現手段のネタとしての『曾根崎心中』なのだなという印象です。

アイディアや演出はさすがユニークでよく考えてるなと思いましたが、冠に杉本の名が付いていようがいまいが、文楽の力は圧倒的で、近松の世界はやはり面白いなぁというのが率直な感想。文楽ファンから見れば、批判の対象となるところもいろいろあるのでしょうが、私はそこまでは思ってなく、文楽の間口を広げるためにも、こうした新しい試みはあってもいいのじゃないかと思います。今回の公演で初めて文楽に触れた人たちが、これから文楽に親しんでくれたなら、杉本文楽をやった意味もあるというもの。それと、できれば、本来の文楽公演で、あらためて「観音廻り」の復活上演をして欲しいですね。


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アートの起源アートの起源


三毛猫ホームズの文楽夜噺三毛猫ホームズの文楽夜噺

2014/02/24

アルトナの幽閉者


新国立劇場でサルトルの『アルトナの幽閉者』を観てきました。

重い話で台詞量がハンパなくて3時間半でしかもサルトル! どっと疲れましたが、なかなか見応えのある芝居でした。

舞台は第二次世界大戦終戦から13年の時が経ったドイツ。自分の死期を悟った父は、いまやドイツ有数の企業に成長した造船会社を次男に委ねようとするのですが、次男の嫁の激しい抵抗に遭います。実は家の2階には死んだはずの長男が“幽閉”されていて、次男の嫁がパンドラの箱を開けたとき、13年保たれていた家族のバランスが崩れていきます。

長男フランツは狂気に囚われ、30世紀の法廷でドイツ人の戦争犯罪を「蟹たち」に向かって弁護するという妄想に取り憑かれています。舞台の進行とともに、彼を狂気に至らせた3つの事件(脱走したユダヤ人を匿った事件、前線での従軍体験、妹を強姦しようとしたアメリカ人への傷害事件)が語られ、フランツの心の傷の深さと、父や妹との複雑な関係が徐々に明らかにされます。

隣国との緊張関係、きな臭いナショナリズムの動き、そしてここにきて『アンネの日記』の破損事件・・・戦後ドイツと戦争責任を扱った芝居を意図あって今出してきた訳ではないと思うのですが、こんなときに観ると過去の戦争の暗部を描いた芝居が何か現代日本への皮肉のようにも思えてきます。

そんな重苦しく出口の見えない話ですが、その閉塞感もただ息苦しいだけに終わらず、悲劇が喜劇に思える瞬間さえあるのは今の時代の感性だからなのか、若い演出家や役者によるものだからなのか。ただそれが芝居に独特の面白味を与えていて、退屈させません。

時折挟まれるフラッシュバックの演出の巧さ。芝居のリズムを止めることなく、逆に芝居にリアリティとより一層の緊迫感を与えることに成功しています。そして充実した俳優陣。何より緩急自在に狂人を演じた岡本健一が素晴らしい。狂気の世界と現実の狭間で生きるフランツを、膨大な台詞に溺れることなく自分の言葉で表し、さらに生きることの辛さとその裏腹なおかしみまで表現した彼の圧倒的な表現力が、この芝居をここまで“見せる”ものにしたといっていいでしょう。

『アルトナの幽閉者』はある意味、父と子の愛憎劇でもあり、息子を愛しながらも長年避けてきたために、どう向き合えばいいのか苦しむ父を演じた辻萬長が安定した上手さを見せます。最初は高い声が耳について嫌だなと思った妹レニの吉本菜穗子も、気が付けばその芝居に引きこまれている自分がいました。弟の妻ヨハンナの美波も難しい役どころを的確に演じていたと思います。

日本でもいろんな問題が根深くあるように、ドイツでもアウシュビッツの元看守3人が拘束されたというニュースがつい先日流れていたりと、戦争から何十年も経っているにもかかわらず、いまだに多くの人が戦争と対峙しています。そうした問題をある家族の中に凝縮した芝居と言えるのかもしれません。幽閉されていたのは実はフランツだけでなく家族全員だったわけですが、幽閉から解放された先にあるものは何かを考えさせられる芝居でした。


劇作家サルトル劇作家サルトル

2014/01/13

百物語 第三十一夜


岩波ホールで白石加代子の『百物語 第三十一夜』(第96話・第97話)を観てきました。

『百物語』は毎回観てるわけではありませんし、しばらくぶりなのですが、今回は成瀬巳喜男が映画化もした林芙美子原作の『晩菊』と、山田五十鈴のあたり役として知られ、歌舞伎でも中村勘三郎が復活させ話題になった『狐狸狐狸ばなし』という、映画ファンの食指も動く2本立て。岩波ホールの公演は2日だけ。しかも席数も少ないので、いつも激戦。なんとかチケットを確保し、観に行って参りました。

まずは『晩菊』。ちょうど成瀬の映画の、元芸者の杉村春子と彼女のもとを訪れる昔の恋人・上原謙との場面にあたります。舞台では白石加代子が一人二役で演じます。

容色も衰えた元芸者の女のもとに昔恋仲だった年下の男から電話が入ります。懐かしい恋人に会えるということで、急いで肌を整えたり化粧をしたりと、まるで若い娘のように嬉々とする姿がかわいい。しかし、男にかつての輝きはなく、実はお金を借りに来たことを知り、一気に気持ちが醒めてしまいます。そうした女性の恋心の機微を繊細に表現し、知らず知らず白石ワールドに引き込まれていきます。

映画では彼女が金貸しで、折角会えた男もお金のことで訪ねて来たのかと落胆しますが、原作には金貸しの件はなく、舞台はあくまでも老境を迎えた女と、事業が失敗し年齢以上に老け込んだ男の心理描写をいかに演じ分けるかにかかってます。ただ、まだ練り上げ不足だったのか、白石さんも珍しく台詞を何度か噛んだり、少し淡々としたところもあり、ラストは原作通り(映画版とは異なる)なのですが、いまひとつパッとしませんでした。幕が下りて始めて芝居が終わったことを分かった人もいたようです。まぁ、まだ公演2日目だったので、このあたりはもっと良くなることでしょう。

20分の休憩を挟んで次は『狐狸狐狸ばなし』。もとは山田五十鈴、森繁久彌、三木のり平、十七世中村勘三郎という超豪華な役者が揃い、大ヒットした舞台。当時は歌舞伎でも山田五十鈴を主演に迎え、舞台化もされてるんですね。

こちらは一人五役の大奮闘。白石加代子の“らしさ”が出て痛快です。舞台中央の座卓を前に語るだけの『晩菊』と違って、舞台を縦横無尽に動き回る忙しさ。登場人物はもちろん声色で演じ分けるのですが、着物を左右に片袖ずつ通して、誰なのか目でも分かるような工夫もされていました。演じてる本人や裏方さんは大変そうでしたが、観てる私は存分に笑わせてもらいました。

岩波ホールでの百物語の公演はこの日が最後の舞台とのことで、カーテンコールで挨拶された白石さんもとても感慨深げでした。だって第一回公演から岩波ホールなんですもんね。朗読劇を観るには岩波の大きさ(小ささ)はちょうど良かったんですけど…。

次回はいよいよ最終夜。100話すると何かが起こるんで99話でおしまいにしますって。


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2013/12/28

渇いた太陽


テネシー・ウィリアムズ原作、浅丘ルリ子、上川隆也主演の『渇いた太陽』を観てきました。

原作は『青春の甘き小鳥』。ウィリアムズの代表作の一つで、ジェラルディン・ペイジ、ポール・ニューマン主演で映画化(監督:リチャード・ブルックス)もされている作品です。『渇いた太陽』というタイトルは映画版の邦題になります。

浅丘ルリ子が演じるのは往年の大女優アレクサンドラ。衰えていく若さと美貌、そして第一線を走り続けることの不安からハリウッドから失踪した彼女は酒とドラッグに溺れています。彼女はパームビーチのビーチボーイでハリウッドでの成功を夢見るチャンスを付き人に雇い、南部の町セントクラウドに行き着きます。そこはチャンスの故郷。彼はかつての恋人ヘブンリーと再会しようとするのですが…という物語。

浅丘ルリ子は過去にもこの作品の舞台化のオファーを受けていたそうですが、原作を読んで断っていたといいます。しかも2度も。かつて演じた『欲望という名の電車』でも、ウィリアムズ作品を演じる辛さから熱を出してしまったとも語っていました。そんな演じる側にも精神的な負担を強いるウィリアムズ作品に真っ向から挑む姿はさすが大女優、素晴らしいものがあります。原作では、ハリウッドで成功したとはいえ、そこそこ15年のキャリアの女優の話ですが、浅丘ルリ子は芸歴50年を超える大ベテラン。そこはやはり大女優の貫録と説得力がリアルに出て良かったのではないでしょうか。この役を演じるにはそれ相応の大女優然としたオーラがないと話になりません。

アルコール中毒、ドラッグ、セックス、性病、人種差別、リンチ…といったキーワードが散らばる本作。映画版は、ハリウッドのヘイズコードの問題でストーリーの変更を余儀なくされ、性病という問題を扱えず、ラストも原作とは全く違っていますが、本公演ではほぼ原作に沿った形で上演されているようです。だから、正直、目をつぶりたくなるようなシーンもあります。耳を覆いたくなるようなセリフもあります。そうした難役を難なくこなしてしまうところはスゴいなと思います。

相手役の上川隆也はさすが舞台出身の方だけに手堅いのですが、本来のチャンスが持っているアレクサンドラを利用して伸し上がろうとする野心と若さ故の無謀さ、周りが見えなくなるほどの自分本位さが出ていないというか、上川隆也という役者のもつイメージや年齢的なものが障壁となり、それらがストレートに伝わってこないという感じを受けました。商業的な所を考えると、彼のネームバリューと実力あっての配役だということは分かるのですが、ウィリアムズの芝居を求めるなら、彼はミスキャストだったと思います。

周りはそれなりに舞台経験のある実力派俳優が固めているものの、少々小粒感は否めません。その中では、フィンレーを演じたベテラン俳優・渡辺哲はさすが別格というか、浅丘ルリ子と上川隆也と演じて遜色なかったのは彼ぐらいかなと。ノニ伯母さんとミス・ルーシーの二役を演じた貴城けいも宝塚出身の人だけに巧いのですが、初老のノニ伯母さんはちょっと彼女には無理がありました。逆に芝居を安っぽくしてしまったように感じます。二役にする意味があったのでしょうか。

演出的には、やはり商業演劇のせいか、ウィリアムズを原作にしていながらあまりウィリアムズ臭が薄いというか、過激さや暴力性を抑えると、あれがギリギリのところなのかなと思いながら観ていました。最後に音楽ですが、なぜかモリコーネの映画音楽(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』)が流れるのですが、たぶん何か意図するところがあるのでしょうが、ウィリアムズ作品のイメージにも舞台の南部のイメージにもそぐわなく、しかも既成の音楽を使っているという有り物感がし、残念な気がしました。

それでも難しい題材の芝居を商業ベースにのせて公演した意義はなかなか大きいのではないでしょうか。またどなたかが再挑戦してくれることを楽しみにしたいと思います。

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咲きつづける浅丘 ルリ子 咲きつづける

2013/12/27


青山スパイラルで鈴木京香の一人芝居『声』を観てきました。

1時間強の一幕もので、主人公の女性が電話越しの恋人に語りかけるというモノローグです。原作(戯曲)はジャン・コクトー。三谷幸喜がコクトーの芝居を演出するというので、もしや去年のチェーホフみたいになるのかと一抹の不安があったのですが、奇を衒うこともなく、鈴木京香という素材だけで正面から勝負したという感じでした。

恋人とは別れ話が持ち上がっていて、彼女は彼を引き止めたくて“いい女”を演じようとします。しかし、彼には別の女性の存在が見え隠れし…。

『声』の初演はコメディ・フランセーズだそうで、有名なところではロベルト・ロッセリーニ監督の映画『アモーレ』(第一部『人の声』)でのアンナ・マニャーニの怪演が知られます。ほかにも、何の因縁かロッセリーニをマニャーニから奪ったイングリッド・バーグマンもアメリカ復帰後にテレビ映画で演じています。日本での初演は杉村春子というぐらいですから、演技派女優の腕の見せどころといった芝居なんだと思います。それを今や日本を代表する演技派、鈴木京香がどう演じるかが見もの。

私自身はマニャーニ版とバーグマン版を観ていますが、マニャーニはマニャーニの、バーグマンはバーグマンの味があったように、鈴木京香は鈴木京香らしい色気と愛らしさといじらしさを感じさせる『声』でした。

二人の関係を元に戻したいと願うも、もう彼女の“声”が彼の心に届くことはない。そんな切ない女心を現代の等身大の女性として演じていたと思います。それは自立した現代的な女性。男性に依存しなくても生きていけるのかもしれません。でも、恋人という支えがないと崩れてしまう、そんな女性の弱さが伝わってきます。

今や携帯電話やメールの時代、もう長電話という言葉も懐かしい響きがあります。そうした前時代的な芝居を、現代的な女性が演じるという難しさ、違和感も少なからず感じもしました。ただそれが、昔も今も変わらない女性の強さと弱さを表現したのだと捉えれば、納得もできます。

戯曲に忠実ということもあり、三谷幸喜カラーはほとんど感じませんでしたが、開演前に流れてた楽しげのシャンソンや、劇中鈴木京香が時折見せるコケティッシュぶりは三谷幸喜らしさでしょうか。「悲劇と喜劇は裏表」とはいえ、喜劇ではないので三谷幸喜ファンには物足らなさもあるかもしれませんが、こういう芝居を時々挑戦してくれると演劇ファンとしては楽しみになってくるなと思います。


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2013/11/07

MIWA

NODA・MAPの最新作『MIWA』を観てきました。

美輪明宏の半生を野田秀樹が劇化し、宮沢りえがそれを演じるという話題の舞台。昨年の紅白歌合戦を挙げるまでもなく、いまだ圧倒的なパワーと影響力を持つ美輪明宏をどう調理するのか、観る前からこれほど楽しみだった舞台も久しぶりです。

気になっていたのは、美少年としての丸山明宏か、怪物としての美輪明宏か、はたまた新たな創造物か、宮沢りえが主演なのだから恐らくは美少年・丸山明宏がキーになるのか、などといろいろ想像しながら、劇場に向かいました。

ネタバレになってしまいますが、丸山臣吾(美輪明宏(丸山明宏)の改名前の本名)がこの世に生まれいずるところから舞台は始まります。彼が男性なのか、女性なのか、それとも両性を併せ持った存在なのか。プロローグでは彼のアイデンティティをめぐる問答が繰り広げられます。このときに彼のもう一つの“声”として登場するのが両性具有の安藤牛乳ことアンドロギュヌス(古田新太)。アンドロギュヌスは臣悟の声として、分身として、守り神として、付きつ離れつ彼を導きます。

ストーリーはもちろんフィクションの形を取っていますが、基本的に美輪明宏の複雑な家庭環境や幾つもの出会いと別れ、戦争(原爆)など、実際のエピソードを取り入れて展開していきます。

臣吾を生んですぐ亡くなる実母や育ての母を井上真央が、初恋の相手や恋人・赤紘繋一郎を瑛太が、臣吾を見守る丸山家のお手伝いさんや銀巴里での仲間を浦井健治と青木さやかが、臣吾の父やゲイバー、銀巴里の支配人を池田成志が、といったように役者はそれぞれ役目を担わされ、まるで輪廻転生のように彼の前に現れては消えていきます。

もちろん野田秀樹の芝居らしくスピード感と笑いと言葉遊びに溢れています。美輪明宏の前世・天草四郎をスライドさせるところなど上手いなと思います。ただ、やはり今も生きる有名人の、そして本人公認(?)の芝居ですから、批判的なところ、否定的なところはなく、美輪明宏の波瀾万丈の人生と歌と美貌をなぞりつつ、美輪明宏を賛美して終わります。思い切った冒険があるわけでもなく、美輪明宏を題材にした芝居の想定の範囲内という印象でした。

ここ最近の野田秀樹の、現代社会に潜む歪みや問題を投げかけるといったこともありません。強いていえば、美輪明宏や同性愛者たちが受けた侮蔑的な差別や偏見、容赦ない人格否定といったホモフォビアが取り上げられてはいますが、テーマはあくまでも美輪明宏の人生であり、ホモフォビアはテーマとして提起されるほどのものではなかったように思います。

芝居は期待を裏切らない面白さがあり、野田ファン、美輪明宏ファンにも十分受け入れられる内容だと思います。ただ、物足らなさがあるとすれば、毒気のない優等生的な芝居、そういったところにあるような気もします。ひたすら美輪明宏を美化する内容に気持ち悪さを感じる向きもあるかもしれません。

最近の野田秀樹の舞台はあまり観てませんので、たいしたことは言えませんが、化け物や両性具有、また「もうそうするしかない=妄想するしかない」といった言葉遊びなどは昔の、たとえば『小指の思い出』や『半身』あたりを思い起こさせます。そういった意味では夢の遊眠社時代の作品に近いような感じも受けました。

最後に、やはり特筆すべきは宮沢りえの驚異的なパワーと存在感、そして古田新太や井上真央、瑛太、浦井健治、池田成志らの的確な演技とチームワークで、こうした役者の才能の引き出し方の抜群の上手さは野田秀樹の芝居の面白さだなと感じます。


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20世紀最後の戯曲集20世紀最後の戯曲集

2013/10/18

エドワード二世

新国立劇場で『エドワード二世』を観てきました。

シェイクスピアと同時代を生きた劇作家クリストファー・マーロウの代表作として知られる『エドワード二世』の日本では約半世紀ぶりとなる上演だそうです。

エドワード二世は中世イギリス(イングランド)の実在の王で、イギリス王室史上最も愚かな王として歴史に名を残しています。賢王として名高かった父エドワード一世の死後、追放されていた同性の愛人ギャヴィストンを呼び戻し、寵臣として重要な地位を与え、家臣たちから反感を買います。王の愛情を取り戻したい王妃イザベラは愛人モーティマーと謀ってギャヴィストンを惨殺。やがて追い込まれたエドワード二世は幽閉され、秘密裏に殺されたと言われています。

マーロウの戯曲はそうした史実(または通説)に添ったもので、エドワード二世をオトコに溺れ、政治に疎く、意志薄弱で、無能な王として描いています。今回の舞台は新訳により、現代的な解釈や言葉で演出されているようでした。

戯曲を読んでいないので何とも言えないのですが、話の筋からすると、この『エドワード二世』は本来悲劇なんだろうと思うのです。でも、これは演出の意図するものなのか、エドワード二世役の柄本佑の演技に因るものなのか、本公演は喜劇的な要素の強いものになっていました。良いか悪いかは別として、それはそれで説得力がありました。柄本佑の個性的なカラーが強烈で、王のキャラや芝居のトーンも全部彼に持っていかれた感じです。

『エドワード二世』というと、イギリスの映画監督で同性愛者であるデレク・ジャーマンが独自のゲイ的な視点でエドワード二世を現代に甦らせていますが、ジャーマン版ではエドワード二世の愛の強さと抑圧されたゲイの悲劇、そして王妃イザベラの愛憎や裏切りが強く表に出ていました。それに対し、今回の舞台はエドワード二世の王としての不適格ぶりと、イザベラと重臣たちによる権力闘争という構図が強調されていたように思います。みんながみんな策略をめぐらし、欺瞞に満ちています。誰が正しくて誰が正しくないかということがなく、登場人物たちへの感情移入は容易くありません。エドワード二世の苦悩も滑稽なものとしか思えず、イザベラの深い哀しみでさえ権力欲と裏返しに映ります。

これは予想できていたことですが、デレク・ジャーマンの映画とはアプローチが全く異なり、あのイメージでいるときっと戸惑うことでしょう。ジャーマン版はあくまでもゲイを擁護する立場に立ち、ゲイに寄った脚色をしているので、同性愛の描写は恐らく本公演の方がオリジナルに近いのだと思います。ただ、異端を排除していこうというか、ホモフォビアな意識が底を逃れているというか、同性愛に対して嘲笑的であるというか、同性愛が重要なキーワードでありながら、それを正面から向き合わず、笑いにしてはぐらかしているような、戯れ言にすることで敢えて避けているような印象を受けました。愛する者を次々と失う王への憐みや同情は感じられません。

舞台のミニチュア

舞台は金色の壁に囲まれただけの何もない空間で、衣装はスーツ。時折、王が座る椅子が舞台に現れるところなども含め、デレク・ジャーマンの映画を意識しているようです。ただ、ポール・スミスやキャサリン・ハムネットを身にまとい、スタイリッシュで現代的なデレク・ジャーマン版とは違い、どこかヤクザっぽいところがいかにも日本的。しかしそのヤクザっぽさが、チンピラなギャヴィストンや、まるでヤクザの抗争のような政権内の対立をうまく表していたと思います。途中、幕の変わり目や場面転換などにいわゆるブレヒト幕が使われ、面白い効果を上げていました。

延々とハイテンションの芝居はどうかと思いますが、役者は実力派が揃い、手堅さを感じました。特に最後に真っ赤なスーツに身を包んで登場する御年86歳の西本裕之(『ムーミン』のスナフキンの声の人)が圧巻。一瞬で場をさらってしまうのはさすがです。エドワード二世とともに重要な役であるイザベラ(映画ではティルダ・スウィントンが演じた役)を演じた中村中の凛とし威厳のある佇まいも強烈な印象を残します。これが初めての本格的な舞台だそうですが、並みいるベテラン俳優に引けを取らない存在感があります。ただ、この男性だけの芝居、ひいては同性愛色の強い芝居に彼女をキャスティングした意図はなんだったのか、彼女がイザベラを演じる意味は何なのか、そのあたりを考えると中村中を十分に生かしきれていないのではないかという気もしないでもありませんでした。


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2012/10/21

ふるあめりかに袖はぬらさじ

赤坂ACTシアターで坂東玉三郎主演の『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を観てきました。

ご存じ有吉佐和子原作で、杉村春子の当たり役だった作品。杉村春子による文学座公演の初演が1972年で、今年は40周年とのこと。玉三郎も1988年から杉村春子が演じたお園を演じていて、今回が10回目の公演になるそうです。

玉三郎も当初は新劇の役者さんたちと『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を上演してきましたが、2007年には念願の歌舞伎公演を行っています。自分は残念ながら本公演は観ておらず、翌年シネマ歌舞伎で拝見したのですが、あまりの面白さに2度も観に行きました。

さて今回は、その歌舞伎版以来の公演で、南座、御園座と巡業して、亀遊役に壇れいを迎えての最終公演となります。

もともとは杉村春子のために書かれた舞台なので、流れ流れた年増芸者で、話好きで、世話好きで、酒飲みで、男にだらしがなくて、といかにも杉村春子が得意としそうなキャラを念頭においたような役。玉三郎はきれいすぎて、どちらかというとお園には不似合いなのですが、玉三郎は玉三郎らしいアプローチで、愛嬌のある“お園”を創りだしています。杉村本人は玉三郎のお園に最初は反対したそうですが、その舞台を見て太鼓判を押したともいわれています。

玉三郎は流石に慣れたもので、申し分のない演技で、時に新劇的だったり、時に世話物的だったりと“玉三郎のお園”ができあがっているなと感じました。珍しく台詞を言い間違えたり、言いよどんだりしたところがありましたが、観に行ったのが楽前だったので、長い公演の疲れだったのでしょうか。でも、存分に玉三郎のお園を楽しく拝見することができました。

前回の歌舞伎版では七之助がとても素晴らしかった亀遊を、今回は壇れいが演じるというのが話題ですが、壇れいの品の良さが邪魔をしてどうしても女郎に見えないというのはありましたが、薄幸の花魁の切なさや恋心、何より消え入りそうな儚さを難なく演じて、さすが巧いなと思いました。ただやはり歌舞伎と違って、女性が女性を演じるとリアルで、なんか生々しいもんですね。

ラストの演出が歌舞伎版と異なるなど、若干演出上の違いはあったようですが、基本的には同じ本なので、それほどの差異はなかったのように思います。ただ感じたのは役者さんの個性というか存在感の薄さ。役者のアクというか存在感が、玉三郎や壇れいを除くと平板というか、ちょっと寂しい印象を受けました。玉三郎のお気に入りらしい藤吉も、あの幕末の世に渡米して医者になろうという大志を抱いているほどの強さや熱さが残念ながら感じられませんでした。

歌舞伎版はそれぞれの役者さんの個性が強く、ほんのちょい役なのに海老蔵が出てくるだけで場の空気が変わるような存在感があったし、岩亀楼主人の勘三郎や思誠塾岡田の三津五郎なんかも、主役の玉三郎と渡り合う主張の強いいい芝居をしていたと思います。確かに歌舞伎版はオールスターキャストの贅沢な配陣でしたし、それぞれの役者の格を重んじる歌舞伎という舞台の特殊性故なのかもしれません。今回の舞台は、やはり玉三郎を“主演女優”にした企画という性格が強く、前面に玉三郎が出ていて、他の役者が一歩引いているような印象さえ受けました。特に後半は玉三郎の独壇場。もう少し玉三郎と対等に渡り合える役者がいれば、舞台にグッと厚みが出ただろうなと思います。

考えてみると、自分が玉三郎の舞台を見るのは、歌舞伎座さよなら公演の『助六』以来。この間、歌舞伎公演は東京では新橋演舞場を中心に行っていますが、玉三郎は“鹿鳴館事件”があってから演舞場とは犬猿の仲という話なので、東京で歌舞伎はル・テアトル銀座でお正月公演をやっただけ。あとは東京では舞踊公演や、去年の『牡丹亭』と今回の公演といった一般公演のみ。今年、人間国宝に選ばれた現役最高峰の歌舞伎女形の割には、ちょっと残念な気もします。

来年、新・歌舞伎座ができたら、玉三郎の歌舞伎をたくさん観られるのだろうとは思うのですが、当たり役といわれた役をいきなり封印したり、また一説には引退説までささやかれている人ですから、どこまで熱心に打ち込んでくれるのか、まだまだ予断を許しません。歌右衛門や雀右衛門や芝翫らの跡を継ぎ、歌舞伎で立女形として歌舞伎界を引っ張っていくつもりがあるのかどうか、ここ2年ばかりの玉三郎の行動を見ていると、ちょっと不安が残ります。

今回の『ふるあめりかに袖はぬらさじ』も、もしかしたら最後になるのでは?という一抹の不安があり、チケットを慌ててとりました。玉三郎が敬愛してやまない杉村春子は88歳になってもお園を演じていますが、はたして玉三郎はそこまでしてお園を演じるだろうかと思うのです。80歳を過ぎても下着姿で舞台の上に立ち、ブランチを演じてしまう女優魂の塊のような杉村春子や、老醜といわれながらも舞台に立ち続けた歌右衛門のように、玉三郎に“もう美しくない玉三郎”、“老けた玉三郎”を曝してまで舞台に立つ意志や覚悟はあるのか、そこがずっと気になっています。

お園は年を重ねても、ますます味の出てくる、いい役だと思います。一生続けられる芝居だと思うのです。またいつか玉三郎のお園が観られる日を楽しみにしていたいと思います。


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2012/03/23

サド侯爵夫人

世田谷パブリックシアターで『サド侯爵夫人』を観てきました。

原作は三島由紀夫。演出は狂言師で、俳優としての舞台歴も多い野村萬斎。サド侯爵夫人ルネに蒼井優、その母モントルイユ夫人に白石加代子、サン・フォン伯爵夫人に麻実れい、ルネの妹アンヌに美波、シミアーヌ男爵夫人に神野三鈴、家政婦に町田マリーととても豪華。

舞台はパリのモントルイユ夫人邸。夫サド侯爵にどこまでも貞節を貫こうとする妻ルネと執拗に別れを迫る母モントルイユ夫人の二人の痛烈な対立を、1772年、1778年、1790年の歳月に分けて描きます。

女優陣は魅力的だし、演出が野村萬斎、それに三島の戯曲ということで、非常に楽しみにしていた舞台でした。ただ、先に観た人の感想や劇評を聞いたり読んだりする限り、評判があまり芳しくない様子。ちょっと不安な気持ちを抱えながら三軒茶屋へ向かいました。その日はちょうど千秋楽だったので、舞台は完成され、落日の緊張と興奮で、さぞや役者さんたちも素晴らしい演技を見せてくれるだろうと期待して。

舞台はシンプル。円形の木目の床があり、まわりを中世の城の丸い塔を思わせる石造りの壁が囲っています。

一幕目の前半は麻実れい演じるサン・フォン伯爵夫人と神野三鈴演じるシミアーヌ男爵夫人の二人のやり取りが続きますが、悪と善(偽善)を対照的にあぶり出し、芝居の導入部としては非常に面白く拝見しました。特に「サドとは私なのです」と自身をサド侯爵と重ね合わせ、悪徳を讃える麻実れいがさすがの貫禄で、とても様になっていて、ただただカッコいい。

そこに白石加代子演じるモントルイユ夫人、そして蒼井優演じるルネが登場します。期待を裏切らない怪演を見せる白石加代子、ベテラン女優の中で奮闘する蒼井優…。『サド侯爵夫人』の、その重厚で、流麗で、修辞的で、そして膨大な台詞は、考えるまでもなく役者さん泣かせだと思います。この饒舌な台詞と格闘し、言葉を乗りこなさなければならないのだから大変です。出演者たちはそんな困難な作業に立ち向かい、それぞれ自分の言葉として発し、努力したあとが伝わってくるような熱さを舞台からは感じました。

決して悪くはないのです。ただ、全体のトーンがまとまってない気がしてなりませんでした。カラーの違う役者さんの演技のぶつかり合いが舞台の魅力ですが、どうもそれがうまく噛み合っていない。それぞれ演じ手の持ち味はよく出ていたと思うのですが、それがアンサンブルを奏でるまでになっていないのです。役者のトーンがバラバラなので統一感に欠けた印象を受けました。

それを演出の問題というのは酷かもしれませんが、過剰な白石加代子の演技が生かされず、逆に一人だけ浮いてしまい、悪く言えば舞台を壊しているようにさえ感じました。ルネを演じるのに申し分ないと思われる蒼井優という存在も、彼女の中に秘めるエロスの部分というか、背徳的な部分を引き出せないため、実は夫の生贄にさえなっていたルネの告白が重みのあるものとして伝わってきませんでした。

また、白石加代子と麻美れいという個性的で圧倒的な女優の前で、若手の女優たちがその存在感をアピールできたかというと、それはNOに近かったように思います。折角美しい音色を奏でても、コントロールを失ったオーケストラの中ではインパクトのある楽器の響きに掻き消されてしまいます。

“言葉による緊縛”と野村が語るように、演じる者だけでなく観る者も、責め苦のように延々と続く饒舌な会話劇の中に身を投じ、圧倒的な台詞の虜となり、そこに身を委ねなければなりません。その緊縛を快楽と感じるか苦痛と感じるか。残念ながら今回の舞台は、快楽となるまでにはいかなかったような気がします。


サド侯爵夫人・わが友ヒットラー (新潮文庫)サド侯爵夫人・わが友ヒットラー (新潮文庫)

2011/11/09

天守物語

新国立劇場で『天守物語』を観てきました。

<【美×劇】-滅びゆくものに託した美意識->の第3弾。今回は新国立劇場の演劇総監督・宮田慶子の演出ではなく、俳優でもある白井晃の演出。劇場も中劇場を使っています。

『天守物語』というと、玉三郎版がつとに有名で、映画にもなり、歌舞伎としても再演され、ある意味、鏡花の舞台としてはひとつの決定版として高く評価をされているので、その対比が興味をそそるところです。

その白井晃=篠井英介版の『天守物語』は、中劇場の奥行きのある舞台機構を巧く使い、シンプルな正方形の舞台上だけで物語が展開します。その抽象的かつ現代的な舞台が、不思議と鏡花の幻想的な雰囲気とマッチしていて、なかなか面白いなと思いました。舞台の奥にはセリのようなステップ(段)があって、亀姫の登場・退場シーンで効果的に使われ、また後半の殺陣の場面ではダイナミックさを生んでいました。

富姫は篠井英介が女形で演じるわけですが、もともとは花組芝居で女形をしていた人だけあり、その立ち居振る舞いは立派。女形が富姫を演じるということで、どうしても玉三郎と比較してしまうのですが、玉三郎の美しさや気品には適わないものの、玉三郎とは異なる凛とした佇まいというか風格があって、富姫に対する思い、情熱はその演技からもひしひしと伝わってきました。
 
平岡祐太の図書之助は予想外と言ったら失礼ですが健闘していたと思います。涼しく、かつ勇ましく、そして純粋な図書之助がよく出ていました。ただどうしてもそのルックスが災いしてか、富姫の恋愛感情が本来の図書之助像に対してでなく、母性本能をくすぐる年下の可愛い男性に対するものに映ってなりませんでした。

残念なのは、自分が見たのが二日目ということもあってか、まだ台詞が馴染んでいないからなのか、全体を通じて鏡花の幽玄の世界があまり感じられなかったこと。鏡花の美しい言葉もどこか表面的。原作の言葉で語られているのに何か現代的。やはり鏡花の世界観は、比べるのが酷かもしれませんが、何十年も鏡花の世界を追い求め、自分の血とし肉としてきた玉三郎版には敵わないのでしょうか。確かに、まだ二日目だったので、もう少しこなれてきたら面白いんじゃないかと思います。

冒頭に現代の男性3人(篠井、平岡、近江之丞桃六役の人だと思う)が現れ、舞台の途中でも現代の男が奥のほうを通り過ぎるのですが、その演出の意図が分かりませんでした。何か意味があるのでしょうが、あえて挿入するほどのものだったか不明です。

とまぁ、好き勝手なこと書いてますが、玉三郎の『天守物語』と比較してしまうからいけないわけで、玉三郎の舞台を見ていなければ、十分楽しめる舞台だと思います。それと、原作も戯曲ですから、先に原作を読んでいると、台詞がどう芝居で演じられ、語られるか見る楽しみもあるのではないでしょうか。


【天守物語】
新国立劇場にて
2011年11月20日(日)まで


夜叉ヶ池・天守物語 (岩波文庫)夜叉ヶ池・天守物語 (岩波文庫)









泉鏡花 (ちくま日本文学 11)泉鏡花 (ちくま日本文学 11)

2011/10/09

朱雀家の滅亡


パソコンがおかしくなってしまい、買いなおしたりしてる間にすっかりアップが遅くなってしまいました。

先日、新国立劇場で“2011/2012シーズン 【美×劇】-滅びゆくものに託した美意識-”の幕開けとなる三島由紀夫原作の『朱雀家の滅亡』を観てきました。

時は太平洋戦争末期。盲目的なまでに「天皇」へ忠誠心を捧げる朱雀家の当主を中心に、息子とその許嫁、そして内縁の妻とが織りなす華麗で壮大な滅びの物語です。

天皇(“お上”)を絶対崇拝し、忠誠的な愛を誓う当主を中心とした朱雀家のバランスが、息子の出征により一気に崩れます。息子が海軍士官として南の島に赴くのは、父に対する複雑な気持ちと反動の裏返しでしょう。これまで仕え、見守るだけだった女中おれい(実は息子の実母)は生身の女を吐き出し、舌鋒鋭く罵しります。前半は絶対的な当主との建前の緊張感、後半は堕ちた当主対女たちとの本音の緊張感で最後までぐいぐいと引っ張ります。

原作はギリシア悲劇の古典、エウリピデスの『ヘラクレス』をベースにしているとのことですが、浅学菲才のため『朱雀家の滅亡』のどの部分が『ヘラクレス』 に影響されていて、どのような趣向が凝らされていたのか分かりませんが、三島由紀夫が自決の3年前(1967年)に書き下ろした戯曲ということで、天皇に 殉じた男と前線に出征し英霊となる息子の二人の言葉一つ一つに、三島の天皇に対する思いが隠されているような気がしました。

朱雀家当主役の國村隼の存在感が凄く、滅びの美学と孤独を見事に体現して圧倒的でした。おれい役の香寿たつきも3幕目は鬼気迫る演技で狂気の中にデカダンスさえ漂い、素晴らしかったと思います。若手の二人はベテラン勢の前では力量のギャップが如何ともし難いと感じましたが、それでも三島の芝居に果敢に挑戦している姿は評価に値するでしょう。

三島の豊饒かつ流麗な台詞に酔いしれるには少々激しい芝居ですが、とても見応えのある舞台でした。


サド侯爵夫人 朱雀家の滅亡 (河出文庫)サド侯爵夫人 朱雀家の滅亡 (河出文庫)

2011/03/06

南へ

NODA・MAPの舞台『南へ』を観てきました。

歌舞伎を観るようになってから、歌舞伎での野田秀樹というのは何度か経験しましたが、いわゆる本来のというか、演劇としての野田秀樹の芝居をナマで観たのは実に「夢の遊民社」以来。『小指の思い出』とか『野獣降臨』とか『半神』とか、懐かしい思い出です。

さて、今回の『南へ』は、昨年の『ザ・キャラクター』『表に出ろいっ!』に続き、“信じる”ことをテーマに掲げた三部作の最終章。妻夫木聡と蒼井優という人気俳優を主役にし、しかも2ヶ月公演という長丁場で、すごい力の入れようです。

前のニ作品を観ていませんから、三部作がどうのという話ができませんし、野田秀樹の芝居自体、約20年ぶりぐらいですから(汗)、たいそうなことを書けないのですが、久しぶりに観た野田秀樹の芝居は、“言葉遊び”が鳴りを潜めたようですが、スピード感と台詞量は相変わらず半端ないなと思いました。それにテーマの選び方も野田秀樹“らしい”というか、「この国の歴史は天皇を利用した天皇詐欺の歴史だ」とストレートに言ってしまう批判精神や歴史観の面白さ、納得感は、「野田秀樹の芝居を観て面白かった、満足した」ということと今もセットになっているなと感じました。

肝心の出演陣ですが、蒼井優の巧さが抜きん出ていて、野田秀樹の芝居と相性がいいのか、既に野田秀樹の色に染まっていて、ベテランの舞台俳優・女優と比べても全く遜色なく、素晴らしかったと思います。妻夫木聡は無難に野田秀樹の芝居をこなしていて、まずまず及第点。舞台の上でも爽やかな好青年という感じでした。ほかにも渡辺いっけい、高田聖子、銀粉蝶、藤木孝など、個性ある役者さんが揃ってましたが、その中でも観測員役のチョウソンハという役者さん、恥ずかしながら初めて名前を知りましたが、勢いがあって、とても印象に残りました。

2010/11/26

やけたトタン屋根の上の猫

昨日、新国立劇場でテネシー・ウィリアムズの『やけたトタン屋根の上の猫』を観てきました。

テネシー・ウィリアムズというと、一般ウケする『ガラスの動物園』や文学座のレパートリーとしても有名な『欲望という名の電車』は比較的上演されますが、なぜか『やけたトタン屋根の上の猫』は滅多に上演される機会がなく、今回とても楽しみにしてました。しかも主役がベルリン映画祭で主演女優賞を受賞したばかりの寺島しのぶというホットなキャスティング。チケットもものの数分で完売という人気ぶりでした。

で、お芝居はどうだったかというと、とてもいいんです、とてもいいんですけど、「だけど」がつくというか。期待の寺島しのぶのマーガレット(マギー)が、ちょっと僕のイメージするマギーと違うというか……。

第一幕は寺島しのぶの独壇場で、膨大な台詞を喋るんですが、テンションばかり高くて、もう少し繊細さが欲しかったな、と。 たぶん演出からして、そういうアプローチだったのでしょう。「こんな喜劇的な話だったけ」と思わせるところもしばしば。義姉との応酬は最早コメディでした。<“触らぬもの”状態のゲイの夫から愛を取り戻そうともがく妻>という本来のマーガレットの設定がよく見えないというか、逆に<義父の遺産を得ようと必死で、傷ついたゲイの夫に無神経な妻>という感じに僕には映ってしまいました。マギーの安易な行動が夫の“親友”スキッパーの破滅のきっかけとなり、それが結局は夫婦の不和の原因となり、二人の間に影を落としてるのに、それが感じられなかったのが残念でした。

映画版の『熱いトタン屋根の猫』はプロダクション・コードがあって、オリジナルにあるゲイ的な要素は直接的に描かれていませんが、マギーのアプローチは原作に近いと自分は思っているのです。映画版を観たテネシー・ウィリアムズは激怒した言われていますが、エリザベス・テイラーといい、ポール・ニューマンといい、戯曲の持つ雰囲気が出ていて、あれはあれで成功していると思います。寺島しのぶには、あのエリザベス・テイラーのような魅力が欠けてたような気がします。

ポール・ニューマンが映画で演じたブリックは北村有起哉が演じています。もう少し失望感とか無力感が出ていても良かったかなとも思いましたが、第二幕の父親との“会話”なんて、息もつけない程のものすごい緊張感。T・ウィリアムズ的な絶望の世界を体現していて素晴らしかったです。ブリックの母親役で銀粉蝶が出てて、彼女が台詞を話しだすと、寺島しのぶの影が薄くなるほど存在感があって、さすが舞台女優は違うなと感心しました。

と、偉そうなこと書いてますが、やっぱりテネシー・ウィリアムズはいい。こういう世界、好きだなぁとあらためて思いました(笑)。ただ、あまりに彼は絶望の淵をあからさまに描くので、そうしたものに慣れてない人は直視できないというか、いたたまれない気分になるのだと思います。ブリックと父親がお互いの心の叫びをぶつけ合うシーンなんて、それを直視しなければならない観客は逃げ場さえなくて、どう見ても落ち着かない様子でした。それがテネシー・ウィリアムズの作品がなかなか上演されない理由なのかなとも少し思いました。

2010/10/13

ヘッダ・ガーブレル

先日、新国立劇場で大地真央主演の舞台『ヘッダ・ガーブレル』を観てきました。

別に大地真央のファンなんかじゃないんですよ。
宝塚だって一度も観たことないし、何を隠そう、ミュージカルって嫌いなんです。

この『ヘッダ・ガーブレル』というお芝居、高校のとき読んでハマった大好きな戯曲。一度ナマの舞台で観たいなとか思っていて、去年、小沢真珠主演の舞台というのもあったんですが、ちょっと自分の思い描くイメージではなくてパスしたところ、今回、大地真央が主演ということで飛びつきました。

主人公のヘッダという女性、まぁ、ほんとに身勝手で嫌なオンナ。いいとこのお嬢さんで、美人で、ちやほやされて自由奔放に育ったから、プライドだけは高いし、男の扱いも心得てるし。そんなお嬢さんが、格下の学者と結婚して、男はヘッダに不自由な思いをさせてはいけないと、親戚に借金までして、長々と新婚旅行に行って、お城みたいな屋敷まで買って、家具も揃えて。でも、ヘッダは退屈だとか何だとか不満たらたら。

こんな高慢ちきで狡猾な女を、さあ誰が演じるか。
ヘッダ役は難役として有名で、海外でもイザベル・ユベールとかイングリッド・バーグマンとか、ケイト・ブランシェットとかケリー・マクギリスとか、それなりの演技派女優が過去に舞台で演じてきてます。

大地真央って、とても冷たそうで、気位が高くて、普段の彼女から浮かぶイメージにはそんな印象すらあるのに、演じる役はオードリー・ヘップバーンみたいな役だったり、頭の切れるスマートな女性とか、そんなのばっかり。今回よくもまぁ、こんな役を引き受けたなと思うんですが、彼女もミュージカルとかお姫様みたいな役ばかりじゃいけないと思っていたんでしょうかね。

でも、そんな大地真央、劇評がとてもよくて、実際、抑えた演技の中にも気迫がこもって、とても良かったです。第一幕の最後なんて、目に涙を湛えながらの熱演でビックリしました。いくつか劇評を読むと、大地真央の迫真の演技の割りに、まわりの共演者が今ひとつみたいな声もあったんですが、自分が観に行った日はちょうど楽日ということもあって、みなさん熱が入っていて、とても良かったと思います。 今後、大地真央がどんな舞台に挑戦するか、ちょっと楽しみになりました。