2010/10/30

錦秋十月大歌舞伎

先日、新橋演舞場で「十月大歌舞伎」を観てまいりました。今月は夜の部です。

まずは『盛綱陣屋』。

それぞれの主人が敵味方に分かれたため、戦わざるを得なくなった佐々木盛綱・高綱兄弟の悲劇を描いた義太夫狂言です。舞台は源頼家と北條時政が争った鎌倉時代に設定されてますが、もとは豊臣と徳川が争った大阪冬の陣を題材にしていて、モデルは真田兄弟なのだとか。

冒頭、盛綱(仁左衛門)の子が高綱の子・小四郎を捕らえ手柄をあげるのですが、そこに頼家方から和田兵衛秀盛(團十郎)が小四郎を返せとやってきます。盛綱は自分の判断では返せないと伝えると、和田兵衛は時政に直談判するため屋敷をあとにします。盛綱は悩んだ挙句、小四郎に切腹するよう説得してほしいと母(小四郎にとっては祖母)に頼みます。当初、高綱が時政方に寝返るよう小四郎を生かしておこうと考えていたのですが、子への情愛で寝返るのは武将としては恥であり、高綱の名誉、そして家の名誉のためにも小四郎は切腹させるべきと考えたのです。なんで幼子を切腹させなければならないのか、今の世の常識では想像もできないことですが、武士の世の中とはかくあるものだったのでしょう。仁左衛門が母・微妙(秀太郎)に語る一言一言の言葉の重さが胸に迫ります。夜が更けると、小四郎の母・篝火(魁春)が心配のあまり、盛綱の屋敷を覗きに来ます。微妙は小四郎に父のためにと切腹を迫りますが、小四郎は頑なに拒否。そこに高綱、討ち死にの知らせがやってきます…。

実は討ち死にしたのは高綱の影武者で、小四郎が盛綱に捕えられて切腹をするのも、和田兵衛が盛綱を訪れるのも、全て高綱の計略という、非常に巧妙なトリックが『盛綱陣屋』には隠されています。なるほどそういうことだったのか、と最後に明らかになるのですが、親子の情、兄弟の情、武士の情けを描きながら、戦国の世の厳しさ、酷さがしっかりと語られていました。仁左衛門の丁寧な演技、そして秀太郎や魁春、孝太郎、團十郎といった確かな芝居があったからこそ、ここまで見応えある舞台に仕上がったのだと思います。

重厚な時代物につづいては、ホッと息のつける『どんつく』。
『どんつく』は本名題を「神楽諷雲井曲毬(かぐらうたくもいのきょくまり)」といって、その名にあるように太神楽という曲芸師が主役の舞踊もの。今月の一座が総出演で、それぞれに見事な曲芸や軽妙な踊りを見せるという賑やかで楽しい狂言でした。当代三津五郎と巳之助の親子の息の合った舞踊の巧さとひょうきんな味わいと、團十郎のおおらかで飄々とした江戸の粋が劇場を沸かせていました。

最後は、義太夫狂言で『艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)』。通称『酒屋』。
酒屋のダメ息子・半七はお園という妻のいる身でありながら、外に子を作り、お園は実家に連れ戻されるのですが、一度は嫁にやった娘だからとお園は父に連れられ再び酒屋にやってきます。そこで次々驚くような事実が明らかにされるのですが、舞台の半分近くがみんなで泣き崩れているような重いお話で、最後に見るには正直ちょっとしんどかった。ただ、お園と半七を一人二役で演じた福助は神妙な面持ちで芝居をしていてとても感心したし、途中の“くどき”もお園の心情が細かな仕草に表現され、とても良かったと思います。大阪が舞台の話ということでか、福助以外は関西の役者さんというのも、それらしさを出していたのかもしれません。ただ、『どんつく』のあと帰ってしまったお客さんも多く、空席もちらほら。内容も暗いお話だし、『どんつく』の前にやればよかったのにと、ちょっとそんな気もしました。

2010/10/21

円山応挙 - 空間の創造

三井記念美術館で開催中の『円山応挙 - 空間の創造』展に行ってきました。

円山応挙の展覧会って、都内では4年ぐらい前の江戸東京博物館以来じゃないかと思うんですが、自分は4年前の展覧会には行けずじまいでしたので、応挙オンリーの展覧会というのは今回初めて。それだけにちょっと楽しみにしていました。

展覧会のサブタイトルに『空間の創造』とあるように、応挙は平面的な絵画の世界に“奥行きのある立体的な世界”を描き出し、“空間の画家”と呼ばれているのだそうです。恥ずかしながら、普段、応挙の絵を見ていて、奥行きや立体感といったところに感じ入ったり、注目したことがなかったのですが、入ってすぐの展示コーナーで“空間の画家”としての応挙をまずは実感します。

応挙は若いころ、西洋の遠近法の手法で描いた風景画で、“覗きからくり箱”で覗くと立体的に見える“眼鏡絵”という絵を多く描いていました。最初のコーナーには、その“眼鏡絵”が展示されています。“覗きからくり箱”はありませんでしたので、実際にはどんな風に見えたかは分かりませんが、確かに江戸時代の日本画には見られない遠近法で描かれた奥行きの感のある絵に、後年の応挙の掛け軸や屏風絵などと異なる様に戸惑いつつも、応挙はこういう絵を描くことで腕を磨いていたんだなと、その努力と熱心さに深く感心します。

「眼鏡絵(三十三間堂・通し矢)」
※展示は11/7まで

三井記念美術館は、入り口すぐの展示スペースが「展示室1」で、通路のような細い展示室を抜けると、広めの「展示室4」があって、また通路のような展示室や小間のような展示室の先に、最後の「展示室7」があるのですが、今回の展覧会はその「展示室4」と「展示室7」に、屏風絵や襖絵といった大型の絵が展示され、そのほかの展示室には掛け軸や絵巻など小ぶりの作品が展示されています。

まず「展示室4」で目を引くのは「雲龍図屏風」で、六曲一双の大きな屏風に二頭の荒れ狂う龍が堂々と描かれています。ほかの屏風絵がどちらかというと“静”を表現している中、他を圧倒する存在感があります。

「雲龍図屏風」(重要文化財)
※展示は11/7まで

最近、琳派とか若冲とか、少し濃い目の日本画を観る機会が多かったので、こうしてじっくり観る応挙はちょっと淡白に思えて自分でもビックリ。しかし、「雪梅図襖」や「竹雀図屏風」などをジーっと観ていると、日本画の祖ともいわれる雪舟以来、綿々と受け継がれてきた日本画の伝統を確実に身につけ、しかも研究熱心であった応挙の丁寧かつ生真面目な表現の世界に心を打たれます。(「展示室4」は展示替えがあります)

「雪梅図襖(部分)」(重要文化財)
※展示は11/7まで

最後の「展示室7」は広い空間をたっぷり使い、三井記念美術館所蔵の国宝「雪松図屏風」と、大乗寺の「松に孔雀図襖」が展示されています。

大乗寺は兵庫県の山陰側にあるお寺で、応挙一門が障壁画を描いた寺として知られています。今回はその大乗寺から重要文化財の貴重な襖絵が貸し出されています。応挙というと必ず引き合いに出される大乗寺の障壁画ですが、これを実際のお寺の中で観たら、どれだけ感動するだろうと考えるだけで、ちょっと身震いします。

「松に孔雀図襖」(部分)

応挙のパトロンが三井家だったという関係で、三井家には数多くの応挙の作品があったとされています。応挙の傑作中の傑作として名高いこの「雪松図屏風」も三井家からの依頼により製作されたものだそうで、金地に墨絵の松と真っ白な雪が印象的な見事な屏風絵です。数ある応挙の作品の中で唯一の国宝ですが、それも十分うなづけます。

「雪松図屏風」(国宝)

「雪松図屏風」と「松に孔雀図襖」は展示替えなく、最後まで展示されます。


【円山応挙 - 空間の創造】

三井記念美術館にて
11/28(日)まで

2010/10/13

ヘッダ・ガーブレル

先日、新国立劇場で大地真央主演の舞台『ヘッダ・ガーブレル』を観てきました。

別に大地真央のファンなんかじゃないんですよ。
宝塚だって一度も観たことないし、何を隠そう、ミュージカルって嫌いなんです。

この『ヘッダ・ガーブレル』というお芝居、高校のとき読んでハマった大好きな戯曲。一度ナマの舞台で観たいなとか思っていて、去年、小沢真珠主演の舞台というのもあったんですが、ちょっと自分の思い描くイメージではなくてパスしたところ、今回、大地真央が主演ということで飛びつきました。

主人公のヘッダという女性、まぁ、ほんとに身勝手で嫌なオンナ。いいとこのお嬢さんで、美人で、ちやほやされて自由奔放に育ったから、プライドだけは高いし、男の扱いも心得てるし。そんなお嬢さんが、格下の学者と結婚して、男はヘッダに不自由な思いをさせてはいけないと、親戚に借金までして、長々と新婚旅行に行って、お城みたいな屋敷まで買って、家具も揃えて。でも、ヘッダは退屈だとか何だとか不満たらたら。

こんな高慢ちきで狡猾な女を、さあ誰が演じるか。
ヘッダ役は難役として有名で、海外でもイザベル・ユベールとかイングリッド・バーグマンとか、ケイト・ブランシェットとかケリー・マクギリスとか、それなりの演技派女優が過去に舞台で演じてきてます。

大地真央って、とても冷たそうで、気位が高くて、普段の彼女から浮かぶイメージにはそんな印象すらあるのに、演じる役はオードリー・ヘップバーンみたいな役だったり、頭の切れるスマートな女性とか、そんなのばっかり。今回よくもまぁ、こんな役を引き受けたなと思うんですが、彼女もミュージカルとかお姫様みたいな役ばかりじゃいけないと思っていたんでしょうかね。

でも、そんな大地真央、劇評がとてもよくて、実際、抑えた演技の中にも気迫がこもって、とても良かったです。第一幕の最後なんて、目に涙を湛えながらの熱演でビックリしました。いくつか劇評を読むと、大地真央の迫真の演技の割りに、まわりの共演者が今ひとつみたいな声もあったんですが、自分が観に行った日はちょうど楽日ということもあって、みなさん熱が入っていて、とても良かったと思います。 今後、大地真央がどんな舞台に挑戦するか、ちょっと楽しみになりました。

2010/10/11

上村松園展

先日、東京国立近代美術館で開催中の『上村松園展』を観てきました。

松園の絵は割と観る機会がありますし、昨年も日本橋高島屋で『上村松園・松篁・淳之 三代展』を観ていますが、全期間で代表作約100点が揃うという展覧会は過去最大なのだそうで、これは見逃す手はありません。

上村松園は、ご存知のように明治・大正・昭和と活躍した美人画の大家。当時の絵師・画家はほとんど男性ですが、その男尊女卑激しい旧態依然とした画壇で孤軍奮闘し、日本画の中の美人画にこだわり続け、地位を確立していきます。美人画で評価の高い同時代の日本画家に鏑木清方や少しあとには伊藤深水などがいますが、男性の描く美人画が男性の理想や夢といった、ある種“グッとくる”仕草や表情、艶かしさなどリアル感が少なからずあるのに対し、松園の描く美人画は女性の清廉さ、優しさといった内面の美しさが描かれているように思います。そのあたりが、松園の絵が圧倒的に女性に人気がある由縁かもしれません。

「牡丹雪」

展示会場は、鈴木松年や幸野楳嶺に師事を受けていた初期の作品から、絶筆の作品まで、時折りスケッチ画も交えながら、基本的に年代順に展示されています。

「人生の花」

わずか15歳のとき、内国勧業博覧会に出品した絵が一等褒状を受賞し、しかも英国王室が買い上げたというように、10代の頃に描いた美人画は既に完成に域に達していたことにまず驚かされます。今で言えば中学生ぐらいの小娘が、しかもまだ師匠につき手ほどきを受けているような少女が、いわばデビュー作でいきなり名誉ある賞と評価を受けたわけですから、周りからの僻みややっかみは相当なものだったと想像できます。母親や師匠らの支えがあったとしても、その中で日本画家として歩み始めた松園は、なかなか“女だてら”の強者だったのでしょう。明治期の古い因習の残る時代に、今で言うシングルマザーとして子どもを育てたことからも彼女の意志の強さが分かります。

「舞仕度」

松園の美人画は、人形のように美しく、凛として、純粋で、かわいいものばかり。女性から見た理想の女性像なのかもしれませんが、それは一方で表現に乏しく、画一的で、退屈でもあります。松園の10代、20代の美人画は、どちらかというと表情や仕草の美しさが前に出て、それだけで終わってしまっているようなところがありました。しかし、年を重ねるごとに絵の中に物語が生まれ、美しさプラスアルファのものが現れてきたように感じます。

「人形つかい」

そんな松園も40歳前後の頃、画題の挑戦、迷い、そしてスランプに陥った時期があったようで、松園の作品で最も知られる「花がたみ」「焔」「序の舞」はちょうどその時代に描かれています。

「花がたみ」

「焔」

「序の舞」

松園は女性の悲哀や情緒といったより内面の部分を描きこみたいと考え、そこで慣れ親しんだ謡曲や古典に画題を求めるようになります。「花がたみ」はそんな挑戦により生まれた一つの傑作でした。やがてその挑戦は「焔」へと結びつきます。「焔」について「このような凄艶な絵を描いたか私自身も不思議に思った」と松園が語っているとおり、この絵は松園唯一の“凄艶な絵”となります。そして、もがき苦しんだ末の到達点として、「序の舞」が生まれます。「優美なうちにも毅然として犯しがたい女性の気品を描いた」という「序の舞」は、松園が最も気に入っていた作品だといわれます。

「母子」

終生、美人画だけを描き続けた松園。継続は力なりといいますが、これまで徹底した“継続”を見ると、彼女のこの“力”の源は何なのか、何がここまで徹底して“美”を追い求めさせたのか、結婚もせず、子育てもせず、家事もせず、画業だけに専念し続けたそのこだわりの真髄に興味が湧いてきます。松園の絵の素晴らしさももちろんですが、すごい女性がいたものだなとあらためて感じさせられた展覧会でした。


【上村松園展】
東京国立近代美術館にて
10/17(日)まで

もっと知りたい上村松園―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)もっと知りたい上村松園―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

2010/10/09

ゴッホ展

国立新美術館で開催中の『ゴッホ展』に行ってきました。

初日がちょうど金曜日で、夜間延長で8時まで開館だったので、 幸い仕事も早めに終わりそうだったし、土日は混むだろうしと思い、早速拝見してきました。会期後半になると、夜間延長とはいえ混雑するのでしょうが、やはり初日ということもあってか、一枚一枚、絵の真ん前でゆっくり堪能できるぐらいの空き具合でした。

今回の『ゴッホ 展』は生誕120年記念ということで、オランダの国立ファン・ゴッホ美術館とクレラー・ミュラー美術館から貸与された絵画を中心に、ゴッホの油絵35点、 素描等約30点のほかに、ゴッホが影響を受けたミレーやクールベ、モンティセリから、シスレーやスーラ、ゴーギャン、そして浮世絵まで、同時代の画家の作品約60点が展示されています。数字から察すると、半分がゴッホ以外の作品、ゴッホの作品も半分が素描などで、ゴッホの油絵は展示作品の約1/4。正直、 「あれ?」という感じですが、タイトルに「こうしてわたしはゴッホになった」とあるように、ゴッホの画風が確立していく過程を見る上では、よい構成なんではないかと思いました。

「アイリス」

今回の『ゴッホ展』に出品されている作品は、かれこれ5年前に同じファン・ゴッホ美術館とクレラー=ミュラー美術館から作品を借りて東京国立近代美術館で開催された『ゴッホ展』と作品が被らないようにしているのか、代表作の「夜のカフェテラス」や「黄色い家」も来てませんし、「種まく人」も別バージョンが来ています。それでも、「灰色のフェルト帽の自画像」や「アイリス」、それにオリジナルの「アルルの寝室」(先日の『オルセー美術館展』のものとは別のもの)といった重要な作品が来日しています。(個人的には「カラスのいる麦畑」 が観たかったのですが…)

会場に入るとすぐに、ゴッホの初期の油絵と最晩年の油絵が並べて展示されています。その製作年の差は僅か6年。6年の間にこんなに画風が変わったんですよという前置きをして、ゴッホ展がスタートします。

「秋のポプラ並木」

基本的に年代順にゴッホの絵画が並べられ、ちらちら同時代の画家の参考絵画が並べられているという構成なので、前半はいわゆるゴッホの独特な画風の絵というのではなく、バルビゾン派やオランダのハーグ派に影響を受けた自然主義的な油絵や素描が続きます。特にバルビゾン派の代表的な画家ミレーの農民の風俗を描くというポリシーに強く影響されていたようで、農民の姿を描いたものや、またミレーの絵の模写なども展示されています。特にミレーの代表作「種まく人」にはこだわっていたようで、ゴッホが何度もこの絵に取り組んでいたのはご存知のとおりです。

「種まく人」

1886年にゴッホはパリに移り住むのですが、パリで出会った印象派の明るい色調、浮世絵の大胆な構図、そして芸術家たちとの交流は、彼に決定的なものを与えたようです。それまでのどちらかというと地味な色使いから劇的に色調が明るくなり、何の変哲もなかった構図が特色を帯びていくのが、目にも明らかになっていきます。特に、1887年の油絵を眺めていると、その前年と1887年以降の絵画の大きな変化に驚かされます。

「ゴーギャンの椅子」

後半のコーナーでは、ゴーギャンとの淡い蜜月にスポットを当て、ゴーギャンに触発された描いたといわれる絵やゴーギャンの作品の展示、また“アルルの部屋”が会場内のコーナーに再現されていたりもします。この頃のゴッホの絵には、毎日が前向きで、絵を描くことが楽しくてしょうがないんだろうなという希望を感じさせます。

「アルルの寝室」

やがて“耳切り事件”があり、その後しばらく療養所での生活を余儀なくされますが、この頃になると、絵に対するゴッホの思いが少し変化を見せていくのが絵からも伝わってきます。決して勢いのない絵ではないのに、明るくない絵ではないのに、なぜか溢れんばかりの情熱というか、輝きというか、それらが“耳切り事件”の前と後では違ってきます。最後のコーナーは、そんな最晩年の絵が並べられています。

「サン=レミの療養院の庭」

今回のゴッホ展は、ゴッホが絵画に無心に情熱を傾けた過程、パリで印象派と出会い、ゴッホの画風が一気に花開いた過程、そしてゴーギャンとの共同生活の末、不安定な精神状態の中でさらなる探求を続けていく過程、それぞれの転機にスポットが当たられているように感じました。「こうしてゴッホになった」という視点は、図らずも彼が破綻していくプロセスもクローズアップしたのです。ゴッホを語る上で避けることはできないことですが、そのことがただ単にゴッホの絵を並べ展示する展覧会とは少し異なる後味を残したように感じました。


【没後120年 ゴッホ展】
国立新美術館にて
12/20(月)まで

もっと知りたいゴッホ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)もっと知りたいゴッホ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)