ラベル 東京ステーションギャラリー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 東京ステーションギャラリー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019/10/05

岸田劉生展

東京ステーションギャラリーで開催中の『没後90年記念 岸田劉生展』を観てきました。

大正から昭和初期にかけての日本の近代洋画を代表する画家にして、その独創性ゆえ孤高の画家とまで評された岸田劉生の回顧展です。

10年前にも損保ジャパン日本興亜美術館(当時は損保ジャパン東郷青児美術館)で没後80年の記念展が開催されましたが、そのときは自画像や肖像画中心だったので、初期から38歳で若くして亡くなるまでの画業を一堂に観るという点では久しぶり(少なくとも東京では)の回顧展なのではないでしょうか。

10年後は没後100年なので、きっと大規模な回顧展がまたあるのでしょうが、それまでこれだけの作品を観られることは多分ないんじゃないかと思います。

劉生というと「麗子像」を思い浮かべる人も多いでしょうが、短い人生の中で激しく画風が変遷した画家だったことがよく分かる展覧会でした。


会場の構成は以下のとおりです:
第一章:「第二の誕生」まで:1907~1913
第二章:「近代的傾向…離れ」から「クラシックの感化」まで:1913~1915
第三章:「実在の神秘」を超えて:1915~1918
第四章:「東洋の美」への目覚め:1919~1921
第五章:「卑近美」と「写実の欠除」を巡って:1922~1926
第六章:「新しい余の道」へ:1926~1929

最初に劉生が10代の頃に描いた水彩画が展示されていました。当時、水彩画の専門誌『みずゑ』が創刊され、水彩画ブームが起きていたのだそうです。劉生の水彩画はお世辞にも上手いとはいえないものの、絵を描くのが好きなんだなということが伝わってきます。

岸田劉生 「B.L.の肖像(バーナード・リーチ像)」
大正2年(1913) 東京国立近代美術館蔵

白馬会の洋画研究所で黒田清輝に師事するとめきめきと腕を上げます。外交派の表現で描かれたものがあったり、ホイッスラー作品を思わせるものがあったりしますが、やがて文芸・美術雑誌『白樺』に感化され、ゴッホやセザンヌ、ゴーギャンといったポスト印象派に影響された鮮烈な表現が見られるようになります。

岸田劉生 「自画像」
大正2年(1913) 東京国立近代美術館蔵

岸田劉生 「自画像」
大正2年(1913) 豊田市美術館蔵

没後80年の展覧会が自画像と肖像画が中心だったように、劉生は生涯において自画像を多く描いています。特に22〜23歳(1913〜14年)の頃に集中し自画像だけで30点にのぼるといわれます。友人を描いた肖像画も多く、手当たり次第に友人を捕まえてはモデルをさせ、一日も2人描くこともあったことから、友人からは“首狩り”や“千人斬り”と揶揄されたとか。もちろんそれは画技の研鑽と写実の追求のためだったのでしょうし、ずらりと並ぶ自画像や肖像画からも劉生の筆致がどう変わっていったかが具に分かります。

岸田劉生 「高須光治君之肖像」
大正4年(1915) 愛知県美術館蔵

この頃、劉生はデューラーなど北方ルネサンスに傾倒していきます。暗い背景に明暗のコントラストを効かせた擬古的な肖像画は近代洋画の路線から逆行するようにも思えますが、それまで試行錯誤してきた写実や技巧を突き詰めたら、近代絵画に行きつく前の基本に戻ったということなのでしょう。このあたりから劉生の独創性が際立っていきます。

岸田劉生 「麗子肖像(麗子五歳之像)」
大正7年(1918) 東京国立近代美術館蔵

岸田劉生 「麗子微笑」
大正9年(1920) ポーラ美術館蔵(展示は9/23まで)

そして「麗子像」。まだ幼い頃の麗子像は北方ルネサンスの影響下にある感じがしますが、一方で劉生は東洋美術に関心を深め、内なる美を求めていきます。麗子の顔がだんだんと横につぶれたようなになり、時に妖しく、時にグロテスクに、異質のリアリズム、いわゆるデロリが現れます。匿くされたところに深さや神秘さ、厳粛さがあるとした劉生の言うところの「卑近美」です。少し目が潤んでいる麗子像があったのですが、長時間モデルをさせられた麗子が足が痺れて泣きそうなのに父はキャンバスに集中して気づいてくれなかったというエピソードが紹介されてました。

岸田劉生 「壺の上に林檎が載って在る」
大正5年(1916) 東京国立近代美術館蔵

劉生の作品を観ているとこだわりが強いと言うか、絵に多くを求めすぎているのではないかという気がしてきます。静物も素直でないところがあって、壺の上に林檎が乗ってたり、テーブルの上の果物がわざとらしく並べてあったり、良く言えば哲学的、悪く言えば考えすぎて意味不明な感じがします。

岸田劉生「黒き土の上に立てる女」
大正3年(1914) 似鳥美術館蔵

風景画は代々木時代の赤土の大地の風景が全く風光明媚ではないのに生命力や力強さがありとても興味を引くのですが、逆に自然豊かな湘南の風景に面白味を感じませんでした。それまで劉生の作品からひしひしと伝わてきた強い意思や実験精神があまり見られなかったからかもしれません。

東洋の美の追求のため劉生は初期浮世絵や宋元画を研究していたようですが、やがて自ら日本画を描き始めます。作品は南画や淡彩の水墨が多く、油彩画とは違った色彩や軽妙さが面白い。ただ、日本画の基礎があるわけではないので、やはりそこは同時代の日本画家とは一緒に比べられないし、今まで追求していたものはどこに行ったのだろうと考えずにはいられません。

岸田劉生 「道路と土手と塀(切通之写生)」(重要文化財)
大正4年(1915) 東京国立近代美術館蔵

画壇から距離を置き、京都で遊び呆けていた劉生は劉生が兄と慕った武者小路実篤に呼び戻され、再び油彩画に熱心に取り組んだようですが、38歳で惜しくもこの世を去ります。亡くなる直前新たな展開を見せた油彩画が興味深く、もう少し生きていれば、どんな作品を描いていたんだろうと思わずに入られませんでした。


【没後90年記念 岸田劉生展】
2019年10月20日(日)まで
東京ステーションギャラリーにて



もっと知りたい岸田劉生 (アート・ビギナーズ・コレクション)

2018/10/05

横山華山展

東京ステーションギャラリーで開催中の『横山華山展』を観てきました。

江戸時代後期に活躍した絵師でありながら、なかなか作品を観る機会の少ない横山華山の初の本格的な回顧展です。

横山華山を紹介するのに「知られざる絵師」とするのは少々疑問があって、東博や千葉市美術館、國學院大学博物館でも立派な屏風を観たことがありますし、府中市美術館の毎年恒例の江戸絵画展でも何度か目にしてますし、江戸絵画をよく観る人なら、横山華山の名前ぐらいは聞いたことはあるのではないでしょうか。

ただ、どのような作品を描いているのかとなると、そのイメージがなかなか浮かばないのも事実。知名度の低さと作品を観る機会の少なさもあって、名前は聞いたことはあるけど、どういう絵師なのかがよく分からないというのが実際のところではないでしょうか。そういう意味で、本展は華山の実像を明らかにする大変有意義な展覧会だと思います。


会場の構成は以下のとおりです:
蕭白を学ぶ-華山の出発点
人物-ユーモラスな表現
花鳥-多彩なアニマルランド
山水-華山と旅する名所
風俗-人々の共感
描かれた祇園祭-

会場の一番最初に展示されていた「牛若弁慶図」は僅か9歳のときの作品。華山の早熟さにまず驚きます。華山は福井の生まれとされますが、養子に入った京都の家は江戸時代中期に活躍したの奇想の絵師・曾我蕭白のパトロンだったようで、華山は幼い頃から蕭白の画に親しんでいたといいます。蕭白が亡くなった年に華山が生まれた(異説あり)というのも何か因果めいたものを感じます。

横山華山 「四季山水図」
個人蔵 (展示は10/14まで)

蕭白作品に倣った複数の「四季山水図」や「蝦蟇仙人図」、「寒山拾得図」が展示されているのですが、蕭白ばりの濃厚かつ緻密な表現を再現しつつ、蕭白とはまた違う味わいがあるのが面白いところ。蕭白ほど狂気じみてないというか、ギチギチしてないといか、観てて疲れないのがいいですね(笑)。“毒気のない蕭白”と表現された方がいましたが、まさにそのとおりだと思います。

蕭白の「蝦蟇仙人図」と華山が模写した「蝦蟇仙人図」が並べて展示されていて、仙人の不自然な姿態を修正したり、蝦蟇に動きを与えたり、華山なりのアレンジが施されていて、2人の違いが分かって興味深かったです。

[写真右] 曽我蕭白 「蝦蟇仙人図」 ボストン美術館蔵
[写真左] 横山華山 「蝦蟇仙人図」 個人蔵

蕭白自体が独自の特異な画風ですが、華山もどの流派にも属さない自由さが光ります。華山は円山四条派の呉春にも影響を受けているそうで、人物表現、特に唐子や唐美人は円山派の流れを強く感じます。

「唐子図屏風」は華山青年期の代表作。金地に木や岩を墨で描き、さまざまに遊ぶ子どもたちは鮮やかに彩色し、顔には西洋風の陰影表現が見られます。唐子は応挙風なのに犬が応挙のモフモフした犬と全然違うのも面白いし、鶏はどこか若冲風。並んで展示されていた「唐子遊戯図屏風」は肥痩のある衣文線とのびやかな筆致が印象的です。

横山華山 「唐子図屏風」
個人蔵

今回こうして華山をまとめて観てみて、人物画や風俗画、花鳥画などとても多彩で、また何を描かせても巧いとういか、手慣れているというか、想像以上に高い技量を持っていることに驚きました。とりわけ軽妙洒脱な風俗描写、豊かな人物表現は特筆すべきものがあります。

横山華山 「夕顔棚納涼図」
大英博物館蔵

「夕顔棚納涼図」は久隅守景の「夕顔棚納涼図屏風」に似て夕顔棚を見ながら夫婦2人が涼む図で、月も描かれず子どももいず、褌・腰巻き姿の夫婦ののんびりした光景にほっこりします。

「紅花屏風」がまた素晴らしい。祇園祭の屏風祭のため京都の紅花問屋が制作を依頼したという作品で、華山は6年の歳月をかけたという力作。紅花の種まきから収穫、紅餅作り、荷造りや出荷までが描れていて、紅花の紅色が映えて綺麗なのもさることながら、総勢200人という人々の表情や動き、村の様子がとても楽しくて、賑やかな話し声まで聞こえてきそう。いつまでも観ていられる感じがします。

横山華山 「紅花屏風」
山形美術館・長谷川コレクション蔵 (展示は10/14まで)

そして「祇園祭礼図巻」が実に良い。割とぎっしり作品が展示されていた上の階に対し、下の階はスペースを広く取っていて、そこに30mにもおよぶ長大な「祇園祭礼図巻」が上下巻全て展示されています。祇園祭の前祭や後祭の山鉾、稚児社参、八坂神社の還幸祭など祇園祭の全貌が事細かに描かれているのですが、そこに描かれる一人一人の表情の豊かさ、躍動感が素晴らしく、今にも動き出しそうなぐらい生き生きとしています。もう見事としか言い様がありません。特に四条河原の納涼の賑わいは岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風」に匹敵する面白さ。夜の場面だけモノクロームの世界になっているのもユニークですね(四条河原の納涼の場面は若干の彩色あり)。絵巻には現在は行われていない行事や200年近く休み山になっている山鉾なども描かれており、また綿密な取材に基づく下絵の展示もあって、資料性も高いと思います。

横山華山 「祇園祭礼図巻」
個人蔵

展示品にはボストン美術館や大英博物館など海外の美術館所蔵の作品も多く、明治・大正期に海外に作品が多く流出したことが分かります。ビグローやフェノロサが収集した作品というのもあり、明治時代にはそれなりに評価されていたことも伺えます。江戸後期の江戸絵画の中でも近代性という点で興味深いものがありました。

ここ数年、東京ステーションギャラリーの展覧会によって発掘・評価されたという画家が続けて出ています、本展を契機に横山華山の再評価が進むことは必至でしょう。期待以上に面白い展覧会でした。


【横山華山】
2018年11月11日
東京ステーションギャラリーにて


もっと知りたい曾我蕭白―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)もっと知りたい曾我蕭白―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

2017/07/15

不染鉄展

東京ステーションギャラリーで開催中の『幻の画家 不染鉄展』を観てまいりました。

不染鉄(ふせん てつ)、初めて名前を聞く画家です。どうしてここまで優れた技術を持つ画家が評価されることもなく長く忘れられていたのか。とても不思議に思うほど、大変素晴らしい展覧会でした。今年一番の衝撃かもしれません。

回顧展は21年前に奈良県立美術館で一度あったきり。なので東京で展覧会が開かれるのも初めて。また東京ステーションギャラリーの雰囲気に合うんですね、これが。

不染鉄の経歴が面白いのですが、10代の頃に日本美術院の研究会員となって本格的に絵の勉強を始めるも、伊豆大島に移り住み、一転漁師に。その後、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学し、首席で卒業。帝展に入選するなど一定の評価を得ていたようですが、戦後は画壇からは距離を置き、学校で教鞭をとったり、校長先生をしてたりしていたようです。


第1章 郷愁の家

比較的初期とされる作品は朦朧体や片ぼかしで描かれた作品が多く、横山大観や菱田春草といった日本美術院の画家の影響を強く感じます。煙るような筆触が何とも言えない雰囲気を創り出していて、朦朧体の作品の中でも個人的にかなり好み。夜道を三味線弾きが歩いてたり、暗闇の中フクロウが枝に止まってたり、詩情溢れる画面作りや懐かしい田舎の風景、また俯瞰的な構図という方向性はこの頃既に固まっていたのかもしれません。特徴的な丸っこい家屋は牛田雞村を思い起こさせます。雞村も日本美術院院友で年齢もほぼ同じなので、何らかの形で繋がりがあったのでしょうか。

不染鉄 「林間」
大正8年(1919)年頃 奈良県立美術館蔵

画風が変わるのは伊豆大島へ移って以降。興味深いのは、画風が変わるだけでなく、不染の思い出が作品に投影されるようになり、それが彼のスタイルになっていくところ。繊細な筆致で描かれた農村や漁村の風景からは自然とともに生きる人々の暮らしが見え、郷愁を誘います。不染が育った小石川や房総、伊豆大島などを描いた作品には、「母はランプの下でしきりにはたををっていた事などを覚えております」(原文ママ)のように画中に思い出が綴られたものが多く、これがまた心に沁みます。

奈良の田園、京都の水郷、下田の海辺を描いた3巻からなる「思出之記」にも人々の慎ましい暮らしぶりがこまごまと描かれ、思わず引き込まれずにいられません。軒先で洗濯を干していたり、家の中では針仕事をしてたり、庭先で母親が魚を捌くのを小さな子どもが見ていたり、そうした生活の風景を見つめる不染の眼差しが温かい。


第2章 憧憬の山水

初期にも大正期に流行した新南画の影響を受けたと思しき作品がありましたが、南画への関心は高かったようで、「雪景山水」や「萬山飛雪」など印象的な南画作品がありました。特に「雪景山水」は幾重もの山並みのところどころに胡粉が使われ、雪の白さを際立たせているのが面白い。南画ではありませんが、「凍雪山村之図」では屋根の雪の白さを胡粉で表現し、家の中の灯りの温かみを強調していて、うまいなと思います。

当時暮らしていた奈良の風景を描いた絵巻「南都覧古」がまた面白くて、「町と申しましてもすっかり田舎です」とか「こうして描いているうちに実際の景色と地理のようなものにとらわれてきて固苦しくなってきます」とか、ちょっと山口晃的なところもあって笑えます。


第3章 聖なる塔・富士

一つフロアーを下りたところにあったのが「薬師寺東塔の図」。薬師寺東塔のバックに奈良の町並み、そして若草山を縦一列に描いていて、ほぼ同構図の作品が複数あったので、この構図にこだわりを持っていたのが分かります。そのなかでひと際大きかった「薬師寺東塔之図」(個人蔵)は写実的な塔に対し、森や木立は点描風に描かれ、秀逸。

不染鉄 「薬師寺東塔の図」
昭和45年(1970)年頃 個人蔵

富士山を描いた作品も複数あるのですが、そのなかでも最も大きく、インパクトが強いのが「山海図絵」。伊豆の海や漁村の風景から雪を頂いた富士の高嶺までを俯瞰で描いた作品。海には魚やカニ、サメの姿があったり、真ん中のあたりには汽車が走っていたり(窓に映る人の姿も)、不染の農村や漁村を描いた風景画と富士山図が合わさったユニークで不思議で魅力的な傑作です。

「山海図絵」やほかの縦の構図に富士山を描いた作品を観て思い出したのが、駿河湾から浅間神社そして富士山までを縦に描く富士山曼荼羅図の伝統的な構図。薬師寺から若草山を望む作品も春日神社やその周辺そして若草山を描く春日社寺曼荼羅図が頭に浮かびます。恐らくこうした参詣曼荼羅図が着想の源にあったのかもしれません。

不染鉄 「山海図絵(伊豆の追憶)」
大正14年(1925) 木下美術館蔵


第4章 孤高の海

昭和30年代になると不染は海をテーマにした作品を繰り返し描いています。大海原に浮かぶ一艘の舟と大きな岩山の孤島。島は伊豆大島をモデルにしてるといいますが、大海原に屹立する姿はまるで蓬莱山のようです。そのモノトーンの色調と、画面から伝わる物寂しさや孤独感が心の奥にドーンと響いて来るというか、しばらく絵の前から動けなくなりました。こんな日本画があったという驚きもさることながら、深遠な思想すら感じられるその水墨の世界に心打たれました。

不染鉄 「南海之図」
昭和30年(1955)頃 愛知県美術館蔵

夜の海の中に家並みが描かれる幻想的な「海」や、絵の外にまで波や魚がビッシリ描きこまれた「思い出の岡田村」、巨大な廃船と漁村の小さな家並みの対比が圧倒的な「廃船」など、非常に印象的な作品が多くあります。

不染鉄 「廃船」
昭和44年(1969)頃 京都国立近代美術館蔵

第5章 回想の風景

不染鉄は小石川にある光圓寺の住職の子ということもあってか、お寺や仏像を描いた作品も残していて、雨の中のお寺から覗く阿弥陀如来を描いた「静雨(静光院)」や無数の無縁仏を描いた「春風夜雨」が印象的。光圓寺のイチョウの大木を描いた作品には小さなお地蔵さんが描かれていて、それがまたなんかとてもいい。

不染鉄 「落葉浄土」
昭和49年(1974)頃 奈良県立美術館蔵

晩年は奈良のお土産の絵を描いたり、焼き物の下絵を描いたり、扁額に絵を描いたり、制作活動の幅も広がっていたようです。知られざる画家というと、どこか辺鄙な山や島に籠ったり、交流を遮断して創作に打ち込むという姿が浮かびますが、不染鉄はそういう意味での孤高の画家という感じではないようですね。2時間近く観てたのですが、とても離れ難く、後を引く展覧会でした。


【没後40年 幻の画家 不染鉄展】
2017年8月27日(日)まで
東京ステーションギャラリーにて


「朦朧」の時代―大観、春草らと近代日本画の成立「朦朧」の時代―大観、春草らと近代日本画の成立

2016/10/04

動き出す!絵画 ペール北山の夢

東京ステーションミュージアムで開催中の『動き出す!絵画 ペール北山の夢 -モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち-』を観てまいりました。

まずペール北山って誰?というところから興味を覚えた展覧会なのですが、ペール北山こと北山清太郎は、明治から大正にかけて、美術雑誌を発刊したり、フュウザン会など美術団体の運営に携わり、日本の近代洋画の発展を裏で支えた人なのだとか。その献身的な姿は、ゴッホやセザンヌらを援助したモンマルトルの画材商ペール・タンギーになぞらえ、“ペール北山”と呼ばれるようになったといいます。

本展ではそのペール北山が発刊した美術雑誌で日本に紹介された印象派などの西洋画や、所縁のある明治・大正の青年画家たちの作品を紹介しています。作品はいずれも国内の美術館や個人コレクター等から集められていますが、その作品のセレクションが素晴らしく、明治・大正の美術運動に情熱を燃やした芸術家たちの熱い想いが伝わってくるようです。


1章 動き出す夢 ペール北山と欧州洋画熱

ペール北山の美術専門誌『現代の洋画』など明治時代の美術叢書で取り上げられ、日本の若き芸術家たちが憧れた画家の作品を展観。作品は基本的に印象派とポスト印象派で、ルノワールやドガ、ゴッホ、ピサロ、セザンヌから、ムンクやボナール、ピカソまで。なかなかの優品揃い。

フィンセント・ファン・ゴッホ 「雪原で薪を集める人びと」
1884(明治17)年 吉野石膏株式会社蔵(山形美術館に寄託)

ゴッホの「雪原で薪を集める人びと」はまだ暗い色調が中心だった初期の作品ですが、一日の仕事を終えた農民の姿が主役とはいえ、雪原の白さと夕陽の鮮やかな赤がとても印象に残ります。「泉による女」もいかにもルノワールな裸婦画。「泉による女」と同じ大原美術館の所蔵のアマン=ジャンの「髪」も印象的でした。こちらは児島虎次郎が大原孫三郎(大原美術館の創設者)に購入してもらった作品の一枚とか。

ピエール=オーギュスト・ルノワール 「泉による女」
1914(大正3)年 大原美術館蔵

会場には実際にゴッホの「雪原で薪を集める人びと」やルノワールの「泉による女」などを紹介した美術雑誌なども展示されています。


2章 動き出す時代 新帰朝者たちの活躍と大正の萌芽

次に国内の洋画家の作品で、先日観た中村屋サロン美術館の『日本近代洋画への道』と同じく、渡欧し西洋絵画の技術を身につけ、最新の西洋美術の表現を日本に紹介していった画家たちの作品を中心に展観。藤島武二や南薫造、津田青楓、中村彝、萬鉄五郎、岸田劉生など、どの作品も新しい美術の流れを生み出そうとする清新の気に溢れています。

斎藤豊作 「秋の色」
明治45年(1912)

日本で白馬会だ外光派だとやってる頃には既に西洋ではポスト印象派の時代になり、フォービスムやキュビズムが出てきているわけで、特に明治後半にヨーロッパに渡った若い画家たちの作品を観ると、早くも黒田清輝らの外光派は過去のものと切り捨て、新しい西洋画を日本に広めようという意気込みを感じます。

マティス風の作品やセザンヌ風の作品、ルノワール風の作品、新印象派風の点描画など、西洋の画家を模範としているものもあれば、すでに自分の画風を確立しているものもあって、バラエティに富んでます。

中村彝 「麦藁帽子の自画像」
明治44年(1911) 株式会社中村屋蔵

中村彝が小さめの作品だけど、肖像画と静物が2点ずつ並んでて、これがとても素敵なんです。特に「帽子を被る少女」の真んまると大きな美しい瞳。渡辺与平の「ネルの着物」の華奢な夫人も良い。ちょっと困ったような何とも言えない表情が印象的です。個人的に特に好きだったのが山脇信徳。ブルーのトーンの冷たさと寂寥感がタイトルにもマッチしていて凄くいい。山脇はもう1作あって、こちらは暖色で秋か冬の夕陽を思わせる暖かな雰囲気。

山脇信徳 「雨の夕」
明治41年(1908) 高知市蔵


3章 動き出す絵画 ペール北山とフュウザン会、生活社

ここではペール北山が事務局を務め、展覧会開催に尽力したというヒュウザン会(のちのフュウザン会)の作品を中心に紹介。フュウザン会とは反アカデミズム的な芸術家の集まりで、近代洋画を観ているとその名をよく聞きます。こうしてまとめて観ると、その拠り所になっていたのがポスト印象派(かつての“後期印象派”)で、ナビ派風な表現主義的な作品もあれば、ムンクを思わせる作品もあり、ゴッホに感化された作品もあれば、マティスやピカソに影響された作品もあって、当時としては前衛的な色合いが強かったんだろうなと感じます。

萬鉄五郎 「雲のある自画像」
明治45~大正2年(1912-13) 岩手県立美術館蔵

萬鉄五郎 「女の顔(ボアの女)」
明治45/大正元年(1912) 岩手県立美術館蔵

フュウザン会の活動自体は1年余りと短いのですが、展覧会に出品した画家や彫刻家には岸田劉生や高村光太郎、木村荘八、斎藤与里、萬鉄五郎、川上凉花などがいて、日本の美術運動の表現主義的な流れの先駆けとして興味深いものがあります。

個人的には作品が複数あった萬鉄五郎や、川上凉花の「あざみ」、木彫家の川上邦世の作品などが印象に残りました。中村彝はルノワールに傾倒していた中村らしい裸婦画も良かったのですが、となりに展示されていた死の前年に描いたという「カルピスの包み紙のある静物」がいい。解説を読むと悲しいんだけど、マティス的な雰囲気もして、中村彝のこういう作品は観たことがなかったのである意味新鮮でした。

斎藤与里 「木陰」
明治45/大正元年(1912) 加須市蔵

フュウザン会の解散のきっかけは斎藤与里と岸田劉生の対立だったわけですが、斎藤と岸田がそれぞれ制作したフュウザン会の展覧会会場の装飾画が対照的なタッチで、二人の方向性の違いがよく出ていてとても面白いと思います。

 
岸田劉生 「日比谷の木立」
明治45/大正元年(1912) 下関市立美術館蔵


4章 動き出した先に 巽画会から草土社へ

ここでは巽画会や草土社の中心メンバーとなる岸田劉生や木村荘八、椿貞雄らの作品を紹介。岸田と木村は前の章でも作品の傾向が近かったので、同じ方向の画家たちで固まってきたというところなのかもしれません。このあたりになると岸田劉生も独自の画風を確立していて、郊外の風景を題材にした作品を描けば、それに触発される画家が現れるなど、美術運動の中でもリーダー格になっていたことが分かります。

岸田劉生 「童女図(麗子立像)」
大正12年(1923) 神奈川県立近代美術館蔵

木村荘八 「壺を持つ女」
大正4年(1915) 愛知県美術館蔵


エピローグ 動き出す絵 北山清太郎と日本アニメーションの誕生

最後にペール北山こと北山清太郎が手掛けたという日本の初期のアニメーション作品を紹介。解説や年表などを見ると北山清太郎は日本のアニメーションの草分けとしてかなりの作品を残しているのですね。会場では北山清太郎のアニメーション作品や現存する日本最古のアニメーション作品という「なまくら刀」などを観ることができます。

**********

ちょうど同時期に開催されている中村屋サロン美術館で開催してる『日本近代洋画への道展』と併せて観ると、日本の近代洋画の流れも分かり、とても良いと思います。東京国立近代美術館の常設展にも中村彝作品が複数出ていました。


【動き出す!絵画 ペール北山の夢 -モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち-】
2016年11月6日(日)まで
東京ステーションギャラリーにて


日本初のアニメーション作家 北山清太郎 (ビジュアル文化シリーズ)日本初のアニメーション作家 北山清太郎 (ビジュアル文化シリーズ)

2016/03/05

ジョルジョ・モランディ展

東京ステーションギャラリーで開催中の『ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏』を観てまいりました。

およそ半世紀に及ぶ創作活動の中で、ずーっと同じような静物画ばかりを描き、次から次へと新しい芸術運動が生まれても画風が揺らぐことなく、頑に自分のスタイルを守りつづけたモランディ。

若い頃はモランディの良さがよく分かりませんでした。 どれも一緒で、なんか退屈で。でもこの年になり、安らぎとか静けさといったものを好むようになってきたからなのか、モランディの作品も心にすーっと落ちてくるようになってきました。

時代が変わっても変わらないテーマ、安定した構図、落ち着いた色彩や陰影。静謐な空間から伝わる柔らかな調べにも音が加わったり重なったり、その変奏がとても心地いい。

本展は、モランディの特徴的な手法である「ヴァリエーション=変奏」に焦点を当てていて、イタリアのモランディ美術館を中心に、国内外の美術館や個人蔵の作品など、油彩画53点を含む約100点の作品が集められています。モランディの本格的な展覧会としては日本では約17年ぶりなのだそうです。

会場は作品のモティーフや“変奏”のパターンをテーマに11のパートに分かれています。

ジョルジョ・モランディ 「静物」
1946年 国立近代美術館(ローマ)蔵

作品は1920年代前後のものからあるのですが、それ以前の活動初期にはデ・キリコの形而上絵画や未来派などの影響を受け、作風もそれに近いものがあったようです。今回の出品作の中でも早い時期の作品は形而上絵画期を抜け出した頃のものと解説されていましたが、やはりまだ形而上絵画の残影はありますし、当時傾倒していたセザンヌに影響されてるのかなと感じるところもあります。

ジョルジョ・モランディ 「静物」
1948年 トリノ市立近現代美術館、グイド・エド・エットーレ・デ・フォルナリス財団蔵

ジョルジョ・モランディ 「静物」
1949年 モランディ美術館蔵

モランディの静物画には同じ瓶や壷、器、水差し、扁壺、ココアの缶などが繰り返し登場します。同じ器で同じ構図だから制作年が近いのかと思いきや、10年ぐらい年数の開きがあるものがざらにありますし、中には30年ぐらいずっと同じ物が描いていたりして驚きます。

わざわざ表面の色を塗り替えたり、溶接してくっつけたり、自分のイメージに合わせて作り替えたりしてるんですね。モランディの作品でたびたび見かける逆三角形の蓋のようなものは実は漏斗(じょうご)で、金属製の円筒に溶接して自作したものだといいます。

ジョルジョ・モランディ 「静物」
1951年 モランディ美術館蔵

ジョルジョ・モランディ 「静物」
1951年 モランディ美術館蔵

変奏といっても、リズムが変わるわけでもなく、がらりと転調するわけでもなく、オーケストラが加わるわけでもありません。それはとてもシンプルで禁欲的で、しかしその微細な変化の中でも、配置を変え、構成を変え、光を変え、色調を変え、ひたすらストイックに、常に理想を求めているのが分かります。静かに見つめ続ける先に見えてくるもの。晩年の水彩などはより平面的で奥行きがなくなり、輪郭線も消失し、抽象に近づいているのが興味深い。

ジョルジョ・モランディ 「7つの器のある円形の静物」
1945年 モランディ美術館蔵

静物画のエッチングも複数あって、これは油彩画とはかなり雰囲気が異なります。とても緻密で、強い陰影や多彩なパターンなど、静物画とはまた違った魅力があります。レンブラントの銅版画の技法を研究したりしたのだそうです。

ジョルジョ・モランディ 「風景」
1921年 モランディ美術館蔵

静物画以外に、花の静物画や風景画もあります。モランディは海外はおろかイタリア国内にもほとんど旅をしていないそうで、風景画に描かれる景色はアトリエから見える光景や、せいぜい町のまわりの丘の景観だけ。彼の静物画に似て、やはり同じ景色の変奏、単純化された表現です。花の静物画は、後年は花も造花になり、褪色したり埃でくすんだり、逆にその色調やニュアンスにモランディの面白さを感じます。

ジョルジョ・モランディ 「花」
1952年 ミラノ市立ボスキ・ディ・ステファノ邸美術館蔵

会場の途中に、最後の静物画で描いたという瓶や逆さじょうごの写真があるのですが、もう20年も30年も描きつづけたおなじみの瓶や器なわけで、埃か錆か 汚れて汚いんだけど、これをずーっと大切に、それを何度も何度も描いてきたんだと思うと、なんだかとっても愛おしく思えてきます。なんかグッときます。


【ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏】
2016年4月10日(日)まで
東京ステーションギャラリーにて


ジョルジョ・モランディジョルジョ・モランディ