2017/05/28

ブリューゲル「バベルの塔」展

東京都美術館で開催中の『ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展』を観てまいりました。

ピーテル・ブリューゲルは16世紀フランドルを代表する画家。ブリューゲルといっても、親子で同じ名前で、しかも2人とも画家なので、父はピーテル・ブリューゲル1世とかピーテル・ブリューゲル(父)、息子はピーテル・ブリューゲル2世とかピーテル・ブリューゲル(子)とか呼ばれます(まぁ普通にブリューゲルといえば父の方を指しますが)。それで、今回の「バベルの塔」は父・ブリューゲル1世の作品。現存するブリューゲル1世の油彩の真作は世界に40点ほどしかないといわれていて、その最高傑作が「バベルの塔」なのです。

父ブリューゲルの「バベルの塔」があまりに人気なので、息子のブリューゲル2世もいくつか「バベルの塔」を描いてるんですが、本家の「バベルの塔」は実際には2つあって、ロッテルダムのボイスマン美術館のものと、オーストリアのウィーン美術史美術館のものがあります。その絵のサイズからそれぞれ「小バベル」「大バベル」と呼ばれていて、今回展示されているのはボイスマン美術館の「小バベル」。オランダでは国宝クラスの作品です。

そんな人気作なので、ほんとは混雑を避けて観に行きたかったのですが、なかなか行けず、やっと時間ができたのがゴールデンウィーク。とりあえず混雑は避けようと金曜日の夜間開館を狙ったところ、GWとはいえ夜間は思ったほど混んでなく行って正解でした。連休中の夜間開館は穴場だったかも。

枝葉の刺繍の画家 「聖カタリナ」「聖バルバラ」
1500年頃 オランダ文化遺産庁より、
ボイスマンス・ファン・ベーニンゲン美術館に寄託

最初のフロアーはネーデルラントの絵画や彫刻を紹介。ネーデルラントやフランドルの有名画家や有名作品がウリの展覧会というと、だいたい同時代の風俗画が一緒に展示されるというのが常ですが、本展は古くは15世紀後半からのネーデルラントの宗教画が多く展示されていたのが珍しいし、またこの時代の彫刻を観る機会というのも滅多にないので興味深かったです。会場入口近くにあったアルント・ファン・ズヴォレの「四大ラテン教父」の写実的な木彫彫刻はとても素晴らしかった。

ただ、やはりイタリアの宗教画とは違い、名の知れた画家がいるわけでなく、優れた作品だろうとは思うのですが、ルネサンスの作品のように面白みがあるわけでもなく、マイナー過ぎてちょっと退屈。その中で印象に残ったのが“枝葉の刺繍の画家”の対幅の「聖カタリナ」と「聖バルバラ」。画家の名前が不明のため、枝葉を刺繍のような筆致で描くことからそう呼ばれているだけなのですが、その名の通り草木や衣服の模様の精緻な描写、美しい色彩には目を見張ります。

ヒエロニムス・ボス 「放浪者(行商人)」
1500年頃 ボイスマンス・ファン・ベーニンゲン美術館蔵

ヒエロニムス・ボス 「聖クリストフォロス」
1500年頃 ボイスマンス・ファン・ベーニンゲン美術館蔵

一つ上の階は、ブリューゲルに大きな影響を与えたヒエロニムス・ボスとその模倣者の作品。こちらは殊のほか充実していて面白かったです。ボスあってのブリューゲルということがよく分かります。

ボスも現存する作品がとても少ない画家で、以前はボスの絵とされた作品も近年の科学的調査の結果、実は模倣者の作品だったということも分かってきたとか。ボスの真作と断定されているものは油彩で25点、素描で10点ほどに過ぎないといい、その内の真作2点が本展に出品されています。

「放浪者(行商人)」は背中の籠に猫の皮と柄杓が結びつけられてたり、樹の上から梟が男を見ていたり、後ろの小屋には白鳥の看板が掛けられ、屋根には水差しが付いていたり、あちこちに不思議なものが描かれています。水差しや白鳥の看板は娼館であることを示唆しているとありました。男は後ろから声をかけられ、驚いてるのか、去ろうとしてるのか、表情も面白い。

「聖クリストフォロス」もこれまた可笑しな絵で、杖から生えた新芽は子どもがキリストであることを、枝に吊るされた魚はキリストの磔刑を意味しているといいます。樹の上に変な家があったり、奥の方には熊が吊るされていたり、火事が見えたり、見るもの全てが不思議。ボスの絵は描かれているもの一つ一つが何か暗示や寓話に思えてきますし、あそこにも変なのある、ここにも変なのあると観ていて飽きません。

ピーテル・ブリューゲル1世 「大きな魚は小さな魚を食う」
ボイスマンス・ファン・ベーニンゲン美術館蔵

ピーテル・ブリューゲル1世 「アントウェルペンのシント・ヨーリス門前のスケート滑り」
ボイスマンス・ファン・ベーニンゲン美術館蔵

ボス風の油彩画や版画に続いて、ブリューゲルの版画作品が並びます。ブリューゲルの版画というと、2010年の『ブリューゲル 版画の世界』が思い出されますが、本展では22点。作品は多くありませんが、「大きな魚は小さな魚を食う」や「聖アントニウスの誘惑」、『七つの大罪(原罪)シリーズ』や『七つの徳目シリーズ』など割と有名な作品もチョイスされていました。ボスやその摸倣者の作品と続けて観ると、ブリューゲルの版画作品が16世紀半ばに起きた“ボス・リバイバル”の流れの中で生まれたものであること、そしてその中でも傑出していることが分かります。

ピーテル・ブリューゲル1世 「バベルの塔」
1568年頃 ボイスマンス・ファン・ベーニンゲン美術館蔵

そして最後のフロアーは『バベルの塔』。“小バベル”というのでもっと小さな絵かと思いましたが、横75cm×縦60cmとそこそこの大きさはあります。ただ想像以上に絵が細かくて、単眼鏡で見ても何だかよく分からないのと、展示がフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』みたいに1列目は立ち止まらず、じっと観たい人は仕切りの後ろというパンダ状態なので、肉眼で細かなところを観るのは不可能。それでも単眼鏡で覗くと覗かないとでは大違いで、単眼鏡で覗くとまるで3Dのように『バベルの塔』の世界が浮かび上がるから不思議です。同じフロアーでは映像やパネルでも観ることができるので、細かなところはそちらで観るしかないですね。


近くの東京藝術大学では期間中、バベルの塔を最先端技術で立体化した『Study of BABEL』も開催されています。1/150の立体模型というバベルの塔は圧巻です。こちらも忘れずに。



【ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展】
2017年7月2日(日)まで
東京都美術館にて

【Study of BABEL】
2017年7月2日(日)まで
東京藝術大学にて(入場無料)


ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展公式ガイドブック (AERAムック)ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展公式ガイドブック (AERAムック)


謎解き ヒエロニムス・ボス (とんぼの本)謎解き ヒエロニムス・ボス (とんぼの本)

2017/05/23

よみがえる画家-板倉鼎・須美子展

目黒区美術館で開催中の『よみがえる画家 板倉鼎・須美子展』を観てきました。

狂乱の時代のパリに生きた知られざる日本人画家、板倉鼎と須美子の画業を振りかえる展覧会です。2年前に松戸市立博物館で回顧展が開かれたとき、その評判の良さに気になっていたのですが、東京でも展覧会をやっていると聞き、早速伺ってきました。

板倉鼎は大正13年に東京美術学校を卒業し、パリへ留学。サロンに入選するなど将来を嘱望されるも、28歳の若さでパリで客死します。妻・須美子は鼎のモデルを務めるかたわら自らも絵筆を執るようになり、鼎とともに美術展に出品。鼎が亡くなったあと帰国しますが、後を追うように亡くなります。

これから日本に戻り、活躍の場を広げていこうという矢先に亡くなったこともあり、その名は知られることなく長く忘れられていたのですが、松戸市立博物館での回顧展をきっかけに注目を集めるようになったというわけです。

板倉鼎 「木影」
大正11年(1922) 松戸市教育委員会蔵

まずは板倉鼎の作品から。美校在学中に帝展に初入選にしたりしてるので、確かにそれなりに上手いのですが、特徴といったものはあまり感じられません。美校では岡田三郎助の指導を受けていたそうで、外光派風の表現が目に付きます。

作品としては風景画や静物画も多いのですが、身近にギターを弾く女性がいたのでしょうか、ギターを弾く女性を描いた人物画が複数ありました。柔らかな木漏れ日の中、ギターを演奏する2人の女性を描いた「木影」はちょっとルノワールを思わせる温かみがあります。片脚を椅子に掛けてマンドリンを練習する姿が印象的な「七月の夕」は黒田清輝や岡田三郎助などの流れにある作品だなということを感じます。

板倉鼎 「七月の夕」
大正13年(1924) 松戸市教育委員会蔵

板倉鼎が須美子と結婚したのは美校を卒業した翌年。このとき須美子はまだ17歳。会場には鼎の自画像も展示されていましたが、都会的なイケメンという感じです。結婚前の須美子が取り上げられた雑誌も展示されていて、こちらはオシャレ系女子という雰囲気。2人は当時最先端の“モブ・モガ”だったんだろうなと思います。

板倉鼎 「土に育つ」
大正15年(1926) 松戸市教育委員会蔵

2人は結婚後、ハワイとアメリカを経由してパリへ旅立ちます。パリに移ってからの鼎の作風はそれまでの写実的な描法からモダンなスタイルへがらりと変貌を遂げます。鼎が師事したロジェ・ビシエールという画家はよく知らないのですが、鼎の通ったアカデミー・ランソンはナビ派のポール・ランソンが設立した私塾で、モディリアーニや梅原龍三郎も通ったところなんですね。その後の鼎の作品を観ると、なるほどなと思うのですが、どういう経緯でアカデミー・ランソンに学んだのかは気になるところです。

板倉鼎 「金魚」
昭和3年(1928) 松戸市教育委員会蔵

パリ時代の鼎の作品で強く惹かれたのが静物画。1927年頃には既に平面的で、色面を強調した静物画が見られます。描かれているものは花だったり、果物だったり、カタツムリだったりあるのですが、圧倒的に多いのは金魚の水槽。ベランダに置かれたテーブルとテーブルの上の水槽、そして遠くには風景という構図がだいたいのパターンで、最初は変な絵だなと思って観てたのですが、不思議とその世界に惹き込まれていきました。

板倉鼎 「休む赤衣の女」
昭和4年(1929) 個人蔵

作品の中に、“乳白色”で描かれたものがあって、同じ時代にパリで脚光を浴びていた藤田嗣治を意識したんだろうかと思ったりもしました。「リラ、アネモネ等」や「巴里にて」、「休む赤衣の女」など、いくつかの作品からはキュビズムの影響も感じます。とりわけアンドレ・ロートやレンピッカといったソフト・キュビズムの洗礼をパリで受けたのかなという印象を受けました。鼎が師事したロジェ・ビシエールのことを調べると、ブラックの立体派の影響を受けたとあり、またロートに師事した黒田重太郎もビシエールに学んだいたことがあるようで、なるほどという感じがします。

板倉鼎 「黒椅子による女」
昭和3年(1928) 松戸市教育委員会蔵

会場の後半は妻・須美子をモデルにした鼎の作品と、須美子自身の作品が展示されています。やはり鼎らしさが一番出てくるのは須美子を描いた作品で、いろいろと挑戦しているなと感じる作品もあるのですが、「画家の像」などはとても素直に描いている気がして好感が持てます。デッサンも残されていて、一見バランスの悪そうに見える絵もデッサンでは構図を練っている様子が窺えます。

板倉鼎 「画家の像」
昭和3年(1928) 松戸市教育委員会蔵

須美子の作品は、ちょっとメルヘンチックで個人的に好みではありませんが、絵を描く愉しさが伝わってくるようです。作品はパリに来る前に滞在したハワイを描いたものがほとんどで、余程ハワイが居心地良くて、楽園みたいなイメージが強烈だったんだろうなと感じます。

板倉鼎・須美子「午後 ベル・ホノルル」
昭和2~3年(1927-28) 松戸市教育委員会蔵

会場の最後に二人のプライベートフィルムが上映されています。小さな赤ちゃんを抱いていたり幸せそうな2人の姿はとても微笑ましいのですが、2人の悲しい結末を知ってるだけに見ていて辛いものがあります。


【よみがえる画家-板倉鼎・須美子展】
2017年6月4日(日)
目黒区美術館にて


板倉鼎 その芸術と生涯板倉鼎 その芸術と生涯

2017/05/15

海北友松展


京都国立博物館で開催中の『海北友松展』に行ってまいりました。

河原町のホテルをチェックアウトし、祇園から建仁寺、法観寺とぶらぶら散歩し、京博に着いたのが8時半。東博の特別展に朝並ぶときはだいたい開館1時間前ぐらいに行くことが多いので、いつもの癖で早く来たら、まだ5人しかいませんでした(笑)。でもバスが着くたびに、あれよあれよと列が伸び、開館時には長蛇の列。そんなに人気の絵師でもないのにと正直ビックリ。


海北友松(かいほう ゆうしょう)は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師。絢爛豪華なイメージのある桃山画壇の中にあって、水墨の名手として名を馳せます。しかし、同時代の狩野永徳や長谷川等伯に比べると、知名度はかなり落ちますし、海北友松と聞いてパッとその作品が浮かぶ人は相当の日本美術通なんじゃないでしょうか。わたし自身も過去に東博の『妙心寺展』や『栄西と建仁寺展』で友松の作品は観ていますが、ほんとそのぐらいで、実際それ以上のことは知りません。

それなのに何故ここまで大勢の人が朝も早くから行列をつくるのか。開幕早々テレビで紹介されたりしたので、その影響もあるかもしれませんが、ここ数年、桃山画壇をテーマに取り組んでいる京博の展覧会ということで関心を集めたのもあるでしょうし、京都ツウの人なら建仁寺のあの「雲龍図」の絵師ということで興味を覚えた人もいるでしょう。絶賛ツイートをいくつか見たので、口コミもあるのかもしれません。

そんな海北友松ですが、過去に回顧展はあったものの、ここまで大規模な展覧会は初めて。出品数76点の内、57点が友松の作品(期間中展示替えあり)で、友松の代表作はほぼ網羅されています(出品されていない主要作も図録に掲載されています)。大画面の屏風や障壁画も多く、大変見応えがあり、充実した内容になっていました。

海北友雪筆・海北友竹賛 「海北友松夫妻像」
個人蔵 (重要文化財)


会場は、一階の仏像コーナーを除き、平成知新館の全フロアーを使っています。まずは3階から。
第一章 絵師・友松のはじまり -狩野派に学ぶ-
第二章 交流の軌跡 -前半生の謎に迫る

海北友松 「菊慈童図屏風」
由加山蓮台寺蔵

海北友松は浅井長政の家臣・海北綱親の五男(三男説も)として生まれ、父が討死にしたのをきっかけに東福寺に入り、後に狩野派を学んだといわれます。狩野元信の弟子とも、永徳(友松より10歳年下)の弟子ともいわれますが、狩野派から独立したのは永徳の死がきっかけとされています。そのとき既に友松は60歳近く。作期の分かる最も古いものは60歳の頃なので、非常に遅咲きの絵師なわけです。

狩野派在籍中、または初期作品は何れも無款で、友松と決定づけるものはなく、友松の他の作品との類似性に拠るところが大きいようです。もちろん狩野派の弟子の身分では落款など残せませんし、その作風も狩野派風の域を出ません。現存最初期の作品という「菊慈童図屏風」や、かつて狩野山楽の作品とされていたという「山水図屏風」はいかにも狩野派という筆ぶり。牧谿猿がかわいい「柏に猿図」は狩野派というより等伯を思わせます。

海北友松 「柏に猿図」
サンフランシスコ・アジア美術館蔵


つづいて2階。
第三章 飛躍の第一歩 -建仁寺の塔頭に描く-
第四章 友松の晴れ舞台 -建仁寺大方丈障壁画-
第五章 友松人気の高まり -変わりゆく画風-

友松の持ち味が発揮されるのは60代後半、狩野派臭が薄れ、独自の画風を確立する頃からで、その後の傑作の連発は正に怒涛の嵐。友松は83歳で亡くなるので当時の平均寿命からするとかなり長生きですが、晩年にこれだけの作品を残したことはほんと奇跡だと思います。老いてますます冴えわたる墨技と老練な筆から滲み出る枯淡の趣は驚くばかり。

海北友松 「松竹梅図襖(松に叭々鳥図)」 (重要文化財)
慶長2年(1577) 禅居庵蔵

独立後の友松は、秀吉の知遇を得て屏風絵の依頼を受けたり、伏見城の障壁画の制作に携わるなど、徐々に頭角を現したようです。そうした中で抜擢されたのが焼失した建仁寺の復興事業で、まずは塔頭を手始めに、大方丈の障壁画を手掛けるに至ります。

建仁寺塔頭の作品は、大胆に余白をとらえた構図だったり、没骨法による水墨表現だったり、狩野派的なものからの脱却を図ろうとしていることが窺えます。その画面から受ける静寂さ、空気感は、永徳の死後、装飾性の強い桃山的な画風を引き継いだ京狩野とは真逆の、非常に禅的なもの、幽玄的なものを感じます。

海北友松 「雲龍図」 (重要文化財)
慶長4年(1599) 建仁寺蔵

建仁寺といえば、「雲龍図」。友松を代表する作品です。画面全体が暗黒の闇と化し、渦巻く雲の中から現れる龍は迫力満点。ダイナミックな画面構成と墨気の凄まじさに圧倒されます。解説には、鼻の描写は元信や永徳の、神獣としての不気味さは牧谿の龍図に学んだ可能性があるとありますが、友松がかつて籍を置いた東福寺の法堂天井には室町時代の画僧・明兆による蟠龍図が描かれていたといわれるので、もしかしたら友松の龍図の源泉には明兆の蟠龍図があるのではないかとも思いました。

海北友松 「竹林七賢図」 (重要文化財)
慶長4年(1599) 建仁寺蔵

海北友松 「飲中八仙図屏風」 (重要文化財)
慶長7年(1602) 京都国立博物館蔵

今回の展覧会の収穫の一つが友松の人物画。『栄西と建仁寺展』で観た友松の“袋人物”が強く印象に残ってるのですが、本展ではさまざまな人物画に触れられ、大変興味深かったです。友松の人物表現、特に線の肥痩には狩野派の流れを感じますが、筆勢はより力強く、それでいてしなやかさ。そして人物が堂々と大きく描かれているのも面白い。中には馬を“袋人物”風に描いた「野馬図屏風」というユニークな作品もありました。

画題は中国の故事に因んだものが多く、中でも「琴棋書画図」は複数展示されています。「琴棋書画図」は狩野派のお家芸的な画題なので、もともと友松も得意としていたのかもしれませんが、その作品はちょっと一風変わっています。霊洞院蔵の「琴棋書画図屏風」は琴・碁盤・書・画は描かれているのに、琴を弾く人も碁を打つ人も書や画を見る人も誰もいません。妙心寺蔵の「琴棋書画図屏風」では碁盤の上に琴を乗せ、その上で居眠りする始末。前期展示のため残念ながら未見ですが、「婦女琴棋書画図屏風」は高士を女性に置き換えていたりします。こうしたユーモアも友松らしさなのかもしれません。

海北友松 「婦女琴棋書画図屏風」 (重要文化財)
MIHO MUSEUM蔵 (展示は4/30まで)

狩野派というと真体・行体・草体の三体画法ですが、友松の草体では掛幅の「瀟湘八景図」と「楼閣山水図屏風」が印象的。「瀟湘八景図」は破墨を用いた典型的な草体画という感じがしますが、「楼閣山水図屏風」は減筆の舟や楼閣の描写がアクセントになり、なんとも言えない情趣を感じます。

海北友松 「楼閣山水図屏風」 (重要文化財)
MOA美術館蔵


そして1階。
第六章 八条宮智仁親王との出会い -大和絵金碧屏風を描く-
第七章 横溢する個性 -妙心寺の金碧屏風-
第八章 画龍の名手・友松 -海を渡った名声-
第九章 墨技を楽しむ -最晩年期の押絵制作-
第九章 豊かな詩情 -友松画の到達点-

海北友松 「浜松図屏風」
慶長10年(1605) 宮内庁三の丸尚蔵館蔵

海北友松というと墨画のイメージが強いのですが、意外なことに大和絵風の屏風もいくつか残しています。「浜松図屏風」は過去に何度か観ていますが、これまでどうしても建仁寺の「雲龍図」と同じ絵師ということが結びつきませんでした。ただ今回並んで展示されていた「扇面貼付屏風」と併せて観て思うのは、大和絵や琳派の絵師の手慣れた作品と違って、よくよく見ると微妙なバランスの悪さやデザイン的にこなれていないところもあって、そこはやはり還暦を過ぎた老齢の絵師がいきなり脚光を浴びたばかりに、なんとか作ってみました的なところもあるのかなと、そんなことを考えたりしました。

海北友松 「花卉図屏風」 (重要文化財)
妙心寺蔵

その点、「花卉図屏風」は狩野山楽らと制作した“妙心寺屏風”の一具だけあり、岩や樹木の描写にも狩野派的なものを思わせ、狩野派が得意とした濃彩華麗な桃山時代らしい金碧屏風という感じがします。

同じ妙心寺の「寒山拾得・三酸図屏風」が秀逸。なんとも憎めないユニークな人物の表情と友松らしい略体の衣文の描写も実に巧いのですが、全体から漂うおおらかな雰囲気がとてもいい。恐らく個性の強い山楽の屏風と並んでも決して負けなかったのじゃないでしょうか。

海北友松 「寒山拾得・三酸図屏風(左隻)」 (重要文化財)
妙心寺蔵

そしてふたたびの雲龍図。晩年に手掛けた雲龍図を、朝鮮の高官が友松の雲龍図を所望したというエピソードとともに紹介しています。神獣たる龍を操るかのように自在に筆を運ぶ友松の墨技の妙。照明が落とされた空間で観る雲龍図は何か畏怖のようなものさえ感じます。闇の中、蝋燭の灯りだけで観る雲龍図はこんな風に見えたのだろうかと、そんなことを思いながら観ていました。

海北友松 「雲龍図屏風」 (重要文化財)
北野天満宮蔵

最後の部屋には、約60年ぶりにアメリカから里帰りした「月下渓流図屏風」が展示されています。全体を淡墨の微妙な濃淡だけで表し、渓谷を流れる水は月明かりに照らされたように明るく、土筆やタンポポなど花々はそこだけスポットが当てられたように着色され、どこか神秘的で、幻想的な世界が広がります。山深い渓谷の空気感と静寂さ。京博はこれを等伯の「松林図屏風」と比肩する作品と評価していますが、その評価は別としても、展覧会の締めくくりに相応しい傑作です。

海北友松 「月下渓流図屏風」
ネルソン・アトキンズ美術館蔵

海北友松の作品の素晴らしさ、こんなに凄い絵師だったのかという衝撃もあるのですが、それよりも何よりも、日本美術に余程関心がないと知らないような絵師に光を当て、ここまで深く掘り下げていることにとても感動しました。友松の作品をただ展観するというのではなく、正統な評価を与える意義深い展覧会だったと思います。


【開館120周年記念特別展覧会 海北友松】
2017年5月21日まで
京都国立博物館蔵


聚美 Vol.23 (Gakken Mook)聚美 Vol.23 (Gakken Mook)

2017/05/13

快慶展

奈良国立博物館で開催中の『快慶 日本人を魅了した仏のかたち』を観てまいりました。

GWに行ったのですが、平日だったので、夜間開館の日だったら少しはゆっくりできたんでしょうけど、スケジュールはツメツメ。朝一で西宮で『勝部如春斎展』を観て、天王寺で『木×仏像』を観て、奈良に着いたのが14時(お昼も電車の中。笑)。まず先に興福寺の『阿修羅 - 天平乾漆群像展』と奈良博の“なら仏像館”へ。

『阿修羅 - 天平乾漆群像展』では東博や興福寺国宝館の展示と違い、アイドル化されてしまった「阿修羅像」が本来の位置におさまり、やっと落ち着いて観ることができたなという感じがします。こうして観ると、あくまでも八部衆の一つであることも実感。また、本尊「阿弥陀如来像」や「四天王像」など鎌倉彫刻の存在感が強いことにも気づきます。「四天王像」は先に観た『木×仏像』や『快慶展』の「四天王立像」とのつながりも興味深いところです。

そして『快慶展』に入ったのがちょうど15時。当然のことながらこれだけの快慶仏を観たのは初めて。現在確認されている快慶仏の内、8割以上の37点(一部展示替えあり)が出品されています。ほかにも断定されていないものの快慶の可能性が高い仏像も多くあり、快慶の弟子や慶派仏師の仏像も含めると展示品の3/4が仏像。端正な仏像がずらり並ぶ様は壮観です。正直ここまで濃い内容だとは思っていませんでした。

展覧会の内容も、快慶仏の時代毎の特徴や、運慶や重源との関係、弟子への継承など多角的に捉えていて、大変興味深く、また素晴らしいものでした。絵画的ともいわれる快慶仏の美しさ、繊細さ、力強さにただただ見惚れるばかり。たっぷり2時間、ただただ至福のひとときでした。


第1章 後白河院との出会い

会場に入ると、京都・金剛院の「金剛力士立像(阿形・吽形)」がお出迎え。快慶仏と決定付けるものはないようですが、寺伝では快慶の作とされているそうです。誇張された筋骨隆々の上半身はいかにも快慶的。

まずは無位時代といわれる初期の快慶仏から。醍醐寺の「弥勒菩薩坐像」とボストン美術館蔵の「弥勒菩薩坐像」が向かい合わせに置かれ、その美しさにいきなり呆然となります。醍醐寺の「弥勒菩薩坐像」は醍醐寺に行ったときに拝見していますが、お堂の中で間近で観られなかったこともあり、ここまで美しいお姿とは知りませんでした。装飾的な宝冠や光背も素晴らしい。金泥塗による仏像の金色表現としては最初期のものといいます。

快慶 「弥勒菩薩坐像」 (重要文化財)
鎌倉時代・建久3年(1192) 醍醐寺蔵

ボストン美術館の「弥勒菩薩坐像」は興福寺伝来の仏像で、岡倉天心の手に渡り、天心の死後、アメリカへ流出したもの。こちらは金泥塗りではなく漆箔(漆を塗った上に金箔を貼ったもの)で、いまも全身がきれいな金色に輝いてます。肉体表現は瑞々しく、照明のせいか瞳がうるんで見えました。

快慶 「弥勒菩薩立像」
鎌倉時代・文治5年(1189) ボストン美術館蔵

泉涌寺塔頭・悲田院の「阿弥陀如来坐像」は金泥塗に精緻な截金文様も美しく、穏やかな表情が印象的。快慶の出自は不明ですが、法性寺の住僧だったという説があるそうで、現在の泉涌寺の土地の一部はかつて法性寺の寺域だったことから、快慶の歩みを探る上でも貴重な仏像という話です。

金剛院の「執金剛神立像」と「深沙大将立像」は会場入口の「金剛力士立像」と違い、墨書銘から快慶作と判明しているもの。ただ、古典の彫像に倣ったものだそうで、「金剛力士立像」のような肉体の極端な誇張はありません。とはいえ「深沙大将立像」の写実的表現は素晴らしく、迫力のある形相もインパクト大。膝頭には深沙大将の特徴である象の頭が付いています。

「千手観音坐像」 (重要文化財)
鎌倉時代・12~13世紀 清水寺蔵

清水寺奥院の秘仏「千手観音坐像」は2003年に243年ぶりに公開され話題となった仏像。正面と左右に合わせて3つの顔があることから「三面千手観音」とも呼ばれます。これも快慶の名を記すものはないのですが、その像容から快慶の作風が強く認められ、また一門の複数の仏師の関与が想定されるそうです。光背には三十三応現身を配し、端正な佇まいはただ美しいというよりも、神聖なオーラが漂っています。


第2章 飛躍の舞台へ -東大寺再興-

快慶は、平家の兵火により焼失した東大寺の復興に慶派仏師の一人として参加します。最初に展示されているのが快慶の抜擢に深く関係しているといわれる重源の坐像。東大寺の国宝「重源上人坐像」ではなく、それを忠実に模した兵庫・浄土寺に伝来する像ですが、再現性は極めて高く、そしてリアル。

同じく浄土寺の「阿弥陀如来立像」は像高2.3mあり(もっとあるように見えたけど)、今回の展覧会の中では最大の仏像。その昔は“お練り供養”といい、この大きな阿弥陀様を台車に載せて練り歩いたのだとか。浄土寺は重源が建立した寺で、快慶作の国宝「阿弥陀三尊像」(本展には出品されてません)があることでも有名です。

快慶 「孔雀明王坐像」 (重要文化財)
鎌倉時代・正治2年(1200) 金剛峯寺蔵 (展示は5/7まで)

「孔雀明王坐像」は金剛峯寺孔雀堂の本尊。数年前にサントリー美術館で開催された『高野山の名宝展』にも出品されていました。孔雀に乗ったそのお姿や孔雀の羽を象った光背などその特徴のある像容は一度見たら忘れられません。「四天王立像」は『高野山の名宝展』では4躯とも出品されていましたが、本展では「広目天像」(快慶作)と「多聞天像」のみ。“大仏殿様四天王像”とされる四天王像の中では最古とされ、再建時の東大寺大仏殿に安置された四天王像の雛型ともいわれます。ちなみに大仏殿の四天王像の像高は金剛峯寺の「四天王立像」の約10倍というので13mぐらいあったのでしょう。『木×仏像』に展示されていた天王寺の「四天王立像」や『阿修羅 - 天平乾漆群像展』で観た「四天王像」もこの“大仏殿様四天王像”のひとつ。

同じく金剛峯寺の「深沙大将像」のワイルドな肉体感も素晴らしい。金剛院の「深沙大将像」とは違い、躍動感のある造形の中にも快慶独特の形式美を感じます。引き締まった筋肉はボディビルダーのよう。こちらも膝頭に象の顔が付いているほか、お腹には人面が浮き上がっています。

快慶 「四天王立像のうち広目天」 (重要文化財)
鎌倉時代・12世紀 金剛峯寺蔵

「僧形八幡神坐像」は快慶の無位時代の代表的作例。光背や手にした錫杖、また彩色も当初のままといいます。衣文線や衣の皺の表現がとても自然で、彩色も絵画的。まるで本物の布地を羽織っているかのようでした。快慶の写実的表現の極みという感じがします。

快慶 「僧形八幡神坐像」 (国宝)
鎌倉時代・建仁元年(1201) 東大寺蔵

東大寺の「地蔵菩薩立像」も衣文の表現が素晴らしい。肩から斜めに着た法衣の上に袈裟をかけたスタイルで、衣の模様も非常に丁寧かつ細密。眉目秀麗な顔立ちも美しい。「地蔵菩薩立像」の襞のラインが非常に自然なのに対し、東大寺の「阿弥陀如来立像」はきれいに左右対称の流麗な線が印象的。目元も涼しげで、快慶らしい形式美を強く感じる仏像です。

快慶 「阿弥陀如来坐像」 (重要文化財)
鎌倉時代・建仁3年(1203)  東大寺蔵


第3章 東国への進出

関東にもいくつか作例が知られる運慶と違い、関東近辺で確認されている快慶仏は僅か2件だけといいます。広島・耕三寺の「阿弥陀如来坐像」は元は伊豆山に伝来したものとか。高い宝髻や面相が運慶の「大日如来坐像」(真如苑)を彷彿とさせ、一瞬大日如来かと思ってしまいました。手も阿弥陀定印ではなく、法界定印を結んでいます。快慶の「大日如来坐像」も2躯展示されていて、肩からかけた衣の表現、少し開けた眼の表現がそれぞれ酷似しています。

快慶 「阿弥陀如来坐像」 (重要文化財)
鎌倉時代・建仁元年(1201) 耕三寺蔵


第4章 勧進のかたち -結縁合力に拠る造像-

ここでは4躯の阿弥陀如来立像があって、その内、京都・遣迎院と大阪・八葉蓮華寺は快慶作。どちらもスラリとした美しい姿形ですが、八葉蓮華寺の方が丸顔。知恩院の「阿弥陀如来立像」は遣迎院のものに似て、精緻な截金の装飾も素晴らしい。断定はされていないけど、これも快慶仏と見るのが濃厚なようです。京都・浄土宗蔵の「阿弥陀如来立像」は顔の感じが少し異なり、ちょっと男前。浄土宗の開祖・法然の一周忌に造像されたものと推測され、快慶の弟子・行快とする説が有力とのこと。

快慶 「阿弥陀如来立像」 (重要文化財)
鎌倉時代・建久5年(1194)頃 遣迎院蔵


第5章 御願を担う -朝廷・門跡寺院の造像-

「不動明王座像」がこの章と次の章で3躯あって、二つは快慶作、一つは断定されていないものの恐らく快慶仏だろうとのこと。醍醐寺と正壽院の「不動明王坐像」は初期の作例。メトロポリタン美術館蔵の「不動明王坐像」は青蓮院旧蔵とされ、晩年の作だろうとありました。いずれも目をキッと見開き、口をグワッとかみしめた表情が共通。醍醐寺の面相は忿怒というにはちょっとかわいい感じもするのですが、青蓮院旧蔵の方はさすがに表現も上という気がします。筋肉もより引き締まり、姿形は洗練されています。青蓮院の快慶作・兜跋毘沙門天も凛々しいお姿。

快慶 「不動明王坐像」 (重要文化財)
鎌倉時代・建仁3年(1203) 醍醐寺蔵

感動したのはメトロポリタン美術館蔵の「地蔵菩薩立像」。その気品を兼ね備えた瑞々しく優美な表現に、しばし目が釘付けになりました。像高50cmほどの比較的小さな仏像ですが、着衣の文様と彩色は極めて丁寧で、美仏といっていい傑作だと思います。

快慶 「地蔵菩薩立像」
鎌倉時代・12~13世紀 メトロポリタン美術館蔵


第6章 霊像の再生 -長谷寺本尊再興-

奈良・長谷寺の現在の本尊・十一面観世音菩薩立像は室町時代の制作ですが、鎌倉時代初期に快慶が造像したもの(火災で焼失)をもとにしているといいます。昨年、長谷寺に行った際に拝見しましたが、像高10mを超える大変大きな仏像で、国宝・重文指定の木造の仏像では最大なんだそうです。快慶の弟子・長快による「十一面観音立像」は、その長谷寺の十一面観音立像を模したといわれる作品。長谷寺の十一面観音立像がお堂の構造上、足元から見上げる方法でしか見られず、その全貌を目にすることができないので、かつての快慶の十一面観音立像を想像させるに十分のものがあります。

長快 「十一面観音立像」 (重要文化財)
鎌倉時代・13世紀 パラミタミュージアム蔵


第7章 安阿弥様の追求

最後のコーナーは、快慶仏で最も多く残る阿弥陀如来立像の変遷をまとめています。快慶は自らを安阿弥陀仏と称していたことから、快慶の阿弥陀如来立像は“安阿弥様(あんなみよう)”と呼ばれます。像高3尺(約90cm)前後、来迎印を結ぶものが多いのも特徴。比較的早い時期の作例から晩年の作例まで揃い、初期、中期、後期で像容の変化も割と分かりやすいようです。

快慶 「阿弥陀如来立像」 (重要文化財)
鎌倉時代・建仁3年(1203) 西方寺蔵

年代を知る上で一番特徴的なのは着衣の衣文線で、初期のものは襟はV字でたるみがないのですが、だんだんと右胸下にたるみが現れ、晩年のものになると左右両方にたるみが作られます。この章には7躯の阿弥陀如来像(快慶6躯、行快1躯)がありますが、解説を見たあとにまた最初の章に戻って安阿弥様の快慶仏を観直すことで、初期の端正な造形とシンプルで均整のとれた美しい衣文の表現から、晩年の深みを増した面相や複雑で写実的な肉体や衣文の表現へ、快慶が阿弥陀如来像の理想形を追求している様子がより実感できます。こうして見ると、正に快慶のライフワークといった感じです。

快慶 「阿弥陀如来立像」 (重要文化財)
鎌倉時代・嘉禄3年(1227)頃 極楽寺蔵

春に奈良で『快慶展』、秋に東京で『運慶展』と聞いたときは、なんで一度にやってくれないの~と思いましたが、一緒にやっていたら大混雑必至だったでしょうし、さすがにいっぺんに観るのは大変ですから、分けて正解だったかもしれないですね。もうここまで快慶仏が集まる展覧会なんて開催されないでしょうし、たぶん今後数十年語り継がれるレベルの展覧会だと思います。

第二会場(?)もありますよ!


  
『快慶展』と興福寺の『阿修羅 - 天平乾漆群像展』を見たら、スタンプラリーも忘れずに。あとは秋の運慶展。


【快慶 日本人を魅了した仏のかたち】
2017年6月4日(日)まで
奈良国立博物館にて


ペンでなぞるだけ写仏 一日一仏 心を整え、運を磨く。ペンでなぞるだけ写仏 一日一仏 心を整え、運を磨く。


心やすらぐ 国宝仏像なぞり描き心やすらぐ 国宝仏像なぞり描き