2019/10/05

岸田劉生展

東京ステーションギャラリーで開催中の『没後90年記念 岸田劉生展』を観てきました。

大正から昭和初期にかけての日本の近代洋画を代表する画家にして、その独創性ゆえ孤高の画家とまで評された岸田劉生の回顧展です。

10年前にも損保ジャパン日本興亜美術館(当時は損保ジャパン東郷青児美術館)で没後80年の記念展が開催されましたが、そのときは自画像や肖像画中心だったので、初期から38歳で若くして亡くなるまでの画業を一堂に観るという点では久しぶり(少なくとも東京では)の回顧展なのではないでしょうか。

10年後は没後100年なので、きっと大規模な回顧展がまたあるのでしょうが、それまでこれだけの作品を観られることは多分ないんじゃないかと思います。

劉生というと「麗子像」を思い浮かべる人も多いでしょうが、短い人生の中で激しく画風が変遷した画家だったことがよく分かる展覧会でした。


会場の構成は以下のとおりです:
第一章:「第二の誕生」まで:1907~1913
第二章:「近代的傾向…離れ」から「クラシックの感化」まで:1913~1915
第三章:「実在の神秘」を超えて:1915~1918
第四章:「東洋の美」への目覚め:1919~1921
第五章:「卑近美」と「写実の欠除」を巡って:1922~1926
第六章:「新しい余の道」へ:1926~1929

最初に劉生が10代の頃に描いた水彩画が展示されていました。当時、水彩画の専門誌『みずゑ』が創刊され、水彩画ブームが起きていたのだそうです。劉生の水彩画はお世辞にも上手いとはいえないものの、絵を描くのが好きなんだなということが伝わってきます。

岸田劉生 「B.L.の肖像(バーナード・リーチ像)」
大正2年(1913) 東京国立近代美術館蔵

白馬会の洋画研究所で黒田清輝に師事するとめきめきと腕を上げます。外交派の表現で描かれたものがあったり、ホイッスラー作品を思わせるものがあったりしますが、やがて文芸・美術雑誌『白樺』に感化され、ゴッホやセザンヌ、ゴーギャンといったポスト印象派に影響された鮮烈な表現が見られるようになります。

岸田劉生 「自画像」
大正2年(1913) 東京国立近代美術館蔵

岸田劉生 「自画像」
大正2年(1913) 豊田市美術館蔵

没後80年の展覧会が自画像と肖像画が中心だったように、劉生は生涯において自画像を多く描いています。特に22〜23歳(1913〜14年)の頃に集中し自画像だけで30点にのぼるといわれます。友人を描いた肖像画も多く、手当たり次第に友人を捕まえてはモデルをさせ、一日も2人描くこともあったことから、友人からは“首狩り”や“千人斬り”と揶揄されたとか。もちろんそれは画技の研鑽と写実の追求のためだったのでしょうし、ずらりと並ぶ自画像や肖像画からも劉生の筆致がどう変わっていったかが具に分かります。

岸田劉生 「高須光治君之肖像」
大正4年(1915) 愛知県美術館蔵

この頃、劉生はデューラーなど北方ルネサンスに傾倒していきます。暗い背景に明暗のコントラストを効かせた擬古的な肖像画は近代洋画の路線から逆行するようにも思えますが、それまで試行錯誤してきた写実や技巧を突き詰めたら、近代絵画に行きつく前の基本に戻ったということなのでしょう。このあたりから劉生の独創性が際立っていきます。

岸田劉生 「麗子肖像(麗子五歳之像)」
大正7年(1918) 東京国立近代美術館蔵

岸田劉生 「麗子微笑」
大正9年(1920) ポーラ美術館蔵(展示は9/23まで)

そして「麗子像」。まだ幼い頃の麗子像は北方ルネサンスの影響下にある感じがしますが、一方で劉生は東洋美術に関心を深め、内なる美を求めていきます。麗子の顔がだんだんと横につぶれたようなになり、時に妖しく、時にグロテスクに、異質のリアリズム、いわゆるデロリが現れます。匿くされたところに深さや神秘さ、厳粛さがあるとした劉生の言うところの「卑近美」です。少し目が潤んでいる麗子像があったのですが、長時間モデルをさせられた麗子が足が痺れて泣きそうなのに父はキャンバスに集中して気づいてくれなかったというエピソードが紹介されてました。

岸田劉生 「壺の上に林檎が載って在る」
大正5年(1916) 東京国立近代美術館蔵

劉生の作品を観ているとこだわりが強いと言うか、絵に多くを求めすぎているのではないかという気がしてきます。静物も素直でないところがあって、壺の上に林檎が乗ってたり、テーブルの上の果物がわざとらしく並べてあったり、良く言えば哲学的、悪く言えば考えすぎて意味不明な感じがします。

岸田劉生「黒き土の上に立てる女」
大正3年(1914) 似鳥美術館蔵

風景画は代々木時代の赤土の大地の風景が全く風光明媚ではないのに生命力や力強さがありとても興味を引くのですが、逆に自然豊かな湘南の風景に面白味を感じませんでした。それまで劉生の作品からひしひしと伝わてきた強い意思や実験精神があまり見られなかったからかもしれません。

東洋の美の追求のため劉生は初期浮世絵や宋元画を研究していたようですが、やがて自ら日本画を描き始めます。作品は南画や淡彩の水墨が多く、油彩画とは違った色彩や軽妙さが面白い。ただ、日本画の基礎があるわけではないので、やはりそこは同時代の日本画家とは一緒に比べられないし、今まで追求していたものはどこに行ったのだろうと考えずにはいられません。

岸田劉生 「道路と土手と塀(切通之写生)」(重要文化財)
大正4年(1915) 東京国立近代美術館蔵

画壇から距離を置き、京都で遊び呆けていた劉生は劉生が兄と慕った武者小路実篤に呼び戻され、再び油彩画に熱心に取り組んだようですが、38歳で惜しくもこの世を去ります。亡くなる直前新たな展開を見せた油彩画が興味深く、もう少し生きていれば、どんな作品を描いていたんだろうと思わずに入られませんでした。


【没後90年記念 岸田劉生展】
2019年10月20日(日)まで
東京ステーションギャラリーにて



もっと知りたい岸田劉生 (アート・ビギナーズ・コレクション)

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