2017/10/27

長谷川等伯障壁画展

永青文庫で開催中の『重要文化財 長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽斎』を観てまいりました。

永青文庫に来たのは『春画展』以来かな? 今回は新宿駅から早稲田行のバス(早77)で終点まで行き、そこから歩いたのですが、新宿駅からバス(白61)で椿山荘 の方までぐるっと回るより、こっちの方が早いですね。(乗り換えがスムーズであれば、JRで目白駅まで行って、そこからバスが一番早いようですが)

さて、南禅寺天授庵は南禅寺の三門のすぐ横にある塔頭。庭園が見事なことでも有名ですね。南禅寺に行ったとき天授庵にも寄ったことがありますが、長谷川等伯の障壁画なんて観た記憶ないぞと思ったら、普段は非公開なんだそうです。

天授庵の創建は南北朝時代に遡りますが、応仁の乱で荒廃し、細川幽斎により再興されたとのこと。幽斎と等伯の関係は明らかではありませんが、等伯は細川家や幽斎と交流のある利休とも繋がりがあり、障壁画に等伯の落款はないものの、その筆法や画風から等伯の作とほぼ断定されているといいます。

今回は前・後期に分けてではありますが、等伯の水墨障壁画32面全てが公開されるというのが話題。2010年に東京国立博物館で開催された『長谷川等伯展』でも全ては展示されなかったので貴重な機会です(昨年の東博の『禅展』でも一部公開されています)。

長谷川等伯 「船子夾山図(『禅宗祖師図』の内)」(重要文化財)
慶長7年(1602年) 天授庵蔵 (※展示は10/29まで)

等伯の天授庵方丈障壁画は4階の展示室にあります。前期(9/30~10/29)は方丈の室中の「禅宗祖師図」16面を公開。「禅宗祖師図」は、北面の襖絵「船子夾山図」4面、西面の襖絵「五祖・六祖図」と「趙州頭戴草鞋図」8面、南面の襖絵「南泉斬猫図」と「懶瓚煨芋図」4面で構成されていて、方丈と同じ並びで展示されています。

天授庵方丈障壁画は等伯64歳の頃の作と解説にありました。有名な智積院の金碧障壁画(旧祥雲寺障壁画)から10年。60代の等伯は水墨の障壁画を多く残していて、「禅宗祖師図」は中国画の伝統的画題ということもあり、禅画的な枯淡な趣を強く感じます。

いかにも等伯らしい素早く力強い墨線、狩野派とは違う岩や樹木の表現が印象的です。特に猫をグワッと首根っこから掴んだ「南泉斬猫図」は物凄いインパクト。禅画で有名な画題ですが、目を丸くして慌てふためく猫の表情は一度観たら忘れられません。この後の猫の運命を知っているだけに猫好きとしては辛いものがありますが…。「懶瓚煨芋図」も面白いですね。牛の糞を燃やして芋を焼き、鼻水を垂らしながら食べるという。もうよく分かりません(笑)

長谷川等伯 「南泉斬猫図・懶瓚煨芋図(『禅宗祖師図』の内)」(重要文化財)
慶長7年(1602年) 天授庵蔵 (※展示は10/29まで)

ちなみに後期(10/31~11/26)は上間二之間の襖絵「商山四皓図」8面と下間二之間の襖絵「松鶴図」8面、および幽斎の弟・紹琮を描いた等伯最晩年の「玉甫紹琮像」、『等伯画説』が公開されます。

2、3階は幽斎に因んだ美術品や史料が並びます。国宝の「柏木莵螺鈿鞍」はその名の通り、木菟(ミミズク)が螺鈿で装飾されているようなのですが、経年のためか実際に使用されたためか、装飾が剥落しているところがあって、ちょっと分かりませんでした。さらりと明智光秀宛の織田信長の書状が展示されているのもビックリ。幽斎は和歌や能にも通じていたそうで、幽斎自作の和歌集や和歌を揮毫した扇面などもあって、戦国武将としての顔だけでなく、文化人としての顔も余すことなく伝えていて興味深いものがありました。


【秋季展 重要文化財 長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽斎】
2017年11月26日まで
永青文庫美術館まで


別冊太陽166 長谷川等伯 (別冊太陽 日本のこころ 166)別冊太陽166 長谷川等伯 (別冊太陽 日本のこころ 166)

2017/10/22

鈴木春信展

千葉市美術館で開催中の『ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信』を観てまいりました。

錦絵創始期を代表する浮世絵師・鈴木春信。同じ千葉市美術館で昨年開催された『初期浮世絵展』の最後の章に登場するのが鈴木春信だったように、春信の時代から浮世絵は色彩豊かな錦絵に大きく発展していきます。

本展は、海外の浮世絵コレクションとしては質・量ともに最大級のボストン美術館が所蔵する春信作品を中心に約150点で構成(一部、千葉市美術館所蔵作品の展示もあり)。春信の浮世絵は実にその8割以上が海外にあるのだそうです。今回初めて展覧会に出品される作品も多く、貴重な春信作品が観られるまたとない機会です。

春信の浮世絵というと、細身の可憐な美人画や、中性的な表情の若い男女の色恋といったイメージがありますが、洒落っ気のある見立絵ややつし絵、洗練された江戸風俗を描いた作品もとても多くて、春信の表現力の豊かさに魅了されます。


会場の構成は以下のとおりです:
Prologue 春信を育んだ時代と初期の作品
Chapter 1 絵暦交換会の流行と錦絵の誕生
Chapter 2 絵を読む楽しみ
Chapter 3 江戸の恋人たち
Chapter 4 日常を愛おしむ
Chapter 5 江戸の今を描く
Epilogue 春信を慕う

鈴木春信 「風流やつし七小町 かよひ」
宝暦(1751-64)末期

まずは延享(1744-48)から宝暦(1751-64)にかけての奥村政信や石川豊信など春信の一世代前の浮世絵が展示されています。この頃は墨摺絵に紅や緑などの色版を重ねただけの紅摺絵が普及した時代。まだ技術も発達していないので構図もシンプルですが、宝暦年間のものになると、工夫もされてきて同じ紅摺絵でも色数が増えてきます。

まだ駆け出しの春信は細判の役者絵をよく手掛けていたようです。春信は浮世絵の技術を誰に学んだのか謎の部分も多いのですが、役者絵については役者絵で人気の鳥居清満の影響が指摘されています。「風流やつし七小町 かよひ」は春信の紅摺絵時代の作品。春信らしい女性のスタイルがこの頃完成されたと解説されていました。

鈴木春信 「座鋪八景 鏡台の秋月」
明和3年(1766)頃

鈴木春信 「風流江戸八景 駒形秋月」
明和5年(1768)頃

今回、春信の作品をあらためて観て、“見立て絵”や“やつし絵”というものがとても多いのに気づきます。“見立て絵”も“やつし絵”も古典的な題材や歴史上の出来事・人物を当世風に見立てて描いたものをいいますが、“やつし絵”は“やつす”という言葉から連想されるように、ちょっと俗っぽく描いたものを指したりします。ある程度の古典や歴史の教養、ウィットや趣向を楽しむ知的さが必要なわけで、このあたりに当時の江戸の人々のエスプリを感じます。

「座敷八景」は中国画の伝統的な画題である「瀟湘八景」を座敷の風景に見立てたシリーズ。展示されていた「鏡台の秋月」は「瀟湘八景」の「洞庭秋月」にあたりますが、洞庭湖も満月も描かれていません。実は鏡台の鏡を満月に、着物の波千鳥を湖に見立てているわけですが、その遊び心というか、なんて洒落てるんだろうと驚きます。

「風流江戸八景 駒形秋月」も 同じ「洞庭秋月」を見立てたもの。隅田川を洞庭湖に見立ててるわけですが、女性の着物が秋ではなく梅の文様だったりするのはなぜでしょう。それにしても春信の描く女性と若衆は判別がしずらい。この若衆は髪型や帯でそれと分かるけど、若衆でも着飾ってたり振袖姿だったりすることもあるので混乱します。

鈴木春信 「見立三夕 西行法師」
明和3~4年(1766-1777)頃

こちらの左は若衆。オシャレな振袖に身を包み、三味線を手にし、おそらく色子(男娼)だと分かります。西行の<心なき身にもあはれは知られけり しぎたつ沢の秋の夕ぐれ>を見立てています。

鈴木春信 「見立玉虫 屋島の合戦」
明和3~4年(1766-67)頃

鈴木春信 「山吹の枝を差し出す娘(見立山吹の里)」
明和3~4年(1766-67)頃

「見立玉虫 屋島の合戦」は源平の屋島の戦いを当世風に描いたもの。対になった作品(千葉市美の所蔵品)には弓矢を持った若衆が描かれていて、那須与一が扇の的を射抜く場面を見立てたもので、女性が玉虫御前だと分かります。矢には恋文と思われる矢文が付いていたり、着物の柄も帆掛け船になっていたり、那須与一に見立てた若衆のそばには茄子畑が描かれていたり、いろいろ気付きだすととても面白い。

「山吹の枝を差し出す娘」は江戸の人なら誰でも知っていただろう太田道灌のエピソードを描いたもの。玄関が縄暖簾なので、店先なのでしょう。「ごめんなさい、今日は品切れました」とでも言ってるのでしょうか。

鈴木春信 「いばらき屋店先(見立渡辺綱と茨城童子)」
明和4~5年(1767-68)頃

「いばらき屋店先」は一見恋仲の男女を描いたただの絵にも見えますが、渡辺綱と茨木童子を見立てたものなんだとか。謡曲「茨木」が有名ですが、茨木童子は渡辺綱に腕を斬られる鬼女。片腕を袖に隠しているのは渡辺綱に斬られた腕を表しているとのこと。ちょっとこれはハイレベル。

鈴木春信 「鷺娘」
明和3~4年(1766-67)頃

錦絵は、裕福な趣味人の間で流行した絵暦がだんだんとお金と手間をかけて、版画技術のレベルが上がった結果生まれたといわれています。そのため、中には少数の摺りでないとできないような工芸的な細工が施されたものもあって、「鷺娘」は雪や綿帽子の白い部分に“きめ出し”がされていたり、振り袖に菱文の“空摺り”がされていたり、非常に手が込んでいます。これは現物を観て初めて分かる素晴らしさ。

鈴木春信 「寄菊 夜菊を折り取る男女」
明和6~7年(1769-70)頃

「寄菊 夜菊を折り取る男女」は要するに花の枝を折って盗もうとする男女なのですが、とても色がきれい。特に漆黒の闇の黒と春信を特徴づける独特の黄色。昨年、目黒区美術館で開催された『色の博物誌』でも紹介されていましたが、春信の浮世絵は植物性のものが主で、褪色しやすいのですが、今回のボストン美術館所蔵の浮世絵は摺られたばかりのような発色の美しさに驚きます。

小松軒 「大江山酒呑童子」
明和2年(1765)絵暦

小松軒 「頼光一行と衣を洗う女」
明和2年(1765)絵暦

今回の展示でとても興味深かったのが、絵暦交換会の流行を先導した趣味人の一人という小松軒の作品。浮世絵制作はあくまでも趣味で、本職は薬屋らしいのですが、ちょっと度が越えているというか、当時の多色摺でここまで細密な作品は珍しいのでは。“絵暦”なので、和暦の月や数字が隠れていたりするのですが、その凝り様もハンパありません。

鈴木春信 「浮世美人寄花 笠森の婦人 卯花」
明和6年(1769)頃

「浮世美人寄花 卯花 笠森の婦人」は春信と同時代にアイドル並の人気だったという笠森稲荷の水茶屋・鍵屋の娘お仙を描いたもの。鍵屋の娘お仙や浅草の柳屋の娘お藤は浮世絵でたびたび描かれる美人の代名詞ですが、印象的だったのが歌麿の「おきたとお藤」で、すっかり年を取ったお藤と歌麿の時代に評判だったという難波屋のおきたが新旧美人風に描かれています。

喜多川歌麿 「おきたとお藤」
寛政5~6年(1793-94)頃

最後には春信の影響を受けた浮世絵作品が並び、つづいて千葉市美の所蔵品展『江戸美術の革命 -春信の時代-』が続きます。円山応挙の障壁画や伊藤若冲、曽我蕭白に加え、鶴亭など南蘋派がいくつか出ています。浮世絵では大阪の月岡雪鼎の墨摺版本が出ていて、これがなかなか良い。『鈴木春信展』と『江戸美術の革命 -春信の時代-』を観てたら、優に2時間を超えていました。


【ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信】
2017年10月23日(月)まで
千葉市美術館にて

※2017年11月3日(金・祝)~2018年1月21日(日) 名古屋ボストン美術館に巡回


鈴木春信 決定版: 恋をいろどる浮世絵師 (別冊太陽 日本のこころ 253)鈴木春信 決定版: 恋をいろどる浮世絵師 (別冊太陽 日本のこころ 253)

2017/10/15

運慶展

東京国立博物館で開催中の『運慶展』を観てまいりました。

春に奈良博で『快慶展』を観て、そして待望の『運慶展』。現在、運慶と確認もしくは推定されている仏像は31躯あるといいますが、その内の22躯(出品リスト上は19躯)が集結というこれ以上望めないレベル。さすがに見応え十分です。

会場には運慶の仏像以外にも、父・康慶や運慶の息子ら慶派の仏像もあって、運慶前後の慶派の流れが分かるのもいい。しかも運慶の仏像に限っては、全て全方位展示という贅沢さ。お寺に行ってもここまで間近で観られませんし、まして後ろ姿を拝むことなどできませんが、本展では隅々までじっくりと観ることができます。これも広いトーハクの平成館だからできること。

展示方法については賛否両論いろいろ声が聴こえてきます。ライティングにより仏像が立体的に浮かび上がり効果的だという人もいれば、照明が過剰すぎるという人もいます。ここ数年のトーハクの特別展の傾向ですが、展覧会がエンタテイメント化していることも、これでいいのだろうかと思うこともあります。それでもこれだけの運慶の仏像が観られるのですから、ありがたいことです。


第1章 運慶を生んだ系譜-康慶から運慶へ

最初に登場するのが円成寺の「大日如来坐像」。運慶の最初期の作品で、これがデビュー作ともいわれます。一般的な制作期間が3ヶ月ぐらいのところ、1年弱というかなり長い時間をかけ丁寧に造られたとか。表情や均整のとれた引き締まった体躯は瑞々しく、抑揚のある深い彫り、智拳印を結ぶ腕の力強さは新しい時代の彫刻という印象を受けます。

運慶 「大日如来坐像」(国宝)
平安時代・安元2年(1176) 円成寺蔵

運慶の「仏頭」は想像以上に大きくて驚きます。江戸時代に焼失した興福寺西金堂の本尊・釈迦如来立像の焼け残ったものですが、頭部だけでも1m近くあり、いわゆる丈六像(約4.8m)だったのではないかといわれています。

父・康慶の「四天王像」は、今年の春に拝見した興福寺仮講堂の『興福寺国宝特別公開2017 阿修羅~天平乾漆群像展』では“康慶一派”となっていましたが、本展では“康慶作”として紹介。力強い造形や躍動感は運慶に引き継がれていったことがよく分かります。踏まれてた邪鬼の表情も見もの。康慶の国宝「法相六祖坐像」も写実の追求、流れるような衣文の表現が素晴らしく、運慶に繋がるものを強く感じます。


第2章 運慶の彫刻-その独創性

本展では運慶の仏像は制作年順に並べられているのですが、次に来るのが伊豆・願成就院の「毘沙門天像」。運慶は源頼朝の義父・北条時政に請われ、興福寺再建の最中に東国へ下ったといい、願成就院の仏像は関東で運慶が最初に手がけたとされます。願成就院には運慶真作の仏像が5躯ありますが、今回は「毘沙門天像」のみ出陳。東大寺南大門の金剛力士像のように大きく腰をひねらせた動きのある姿が印象的です。忿怒の異形の姿というより若武者のような勇ましさを感じます。

運慶 「大日如来坐像」(重要文化財)
鎌倉時代・12〜13世紀 光得寺蔵

運慶 「大日如来坐像」(重要文化財)
鎌倉時代・12〜13世紀 真如苑真澄寺

運慶の「大日如来坐像」は現存する3点が全て出ています。2011年に金沢文庫で開催された『運慶展』でも3点が揃い比較展示されていましたが、いずれも造形が共通しているのが興味深い。とりわけ足利・光得寺の「大日如来坐像」は高さ30cmほどの小像ですが、肩にかかる髪や装身具など細緻な彫刻的表現が見事。仏像を360度ぐるりと観られる貴重な機会ではありますが、光得寺の「大日如来坐像」はこれまた見事な厨子と一つでさらに傑作だと思うので、別々に展示されていたのがちょっと残念でした。

運慶と息子・湛慶の合作とされる岡崎・瀧山寺の「聖観音菩薩立像」は寺外初公開の美仏。鮮やかな色彩は明治時代の補彩といいますが、艶かしく肉感的な肢体、写実的かつ細緻な衣文の表現、宝冠など豪華な装身具など、これも運慶なのかと驚くほどの美しさ。像内には頼朝の遺髪と歯が納められているということからも、ただの仏像でないことが分かります。ちなみに来年1月から金沢文庫で開催される『運慶 鎌倉幕府と霊験伝説』には瀧山寺の三尊のひとつ「梵天立像」が出陳されるそうです(前回の金沢文庫の『運慶展』には「帝釈天立像」が出陳されていました)。

運慶 「八大童子立像(写真は制多伽童子・恵光童子)」(国宝)
鎌倉時代・建久8年(1197)頃 金剛峯寺蔵

誰もが認める運慶の傑作といえば、高野山・金剛峯寺の「八大童子立像」。本展ではその内、運慶作とされる6躯が出陳されてます。ガラスケースに収まり並ぶ様はまるで高級宝飾店のショーケースのよう。みずみずしい童子の肉体性、今にも動き出しそうなリアルな表現の完成度の高さには唸らずにいられません。極めつけは玉眼の目で、何かを訴えかけるような目の表情は人間そのものです。

運慶 「無著・世親菩薩立像」(国宝)
鎌倉時代・建暦2年(1212)頃 興福寺蔵

本展の一番の見どころが《四天王像が北円堂安置とみる仮説による再現》。興福寺南円堂の「四天王像」はもともと北円堂にあったとする説が現在有力ですが、その仮説に基づき、現・南円堂の「四天王像」と北円堂の「無著・世親菩薩立像」を一つのスペースに再現展示しています。「四天王像」の写実を超えたダイナミックな表現、「無著・世親菩薩立像」の圧倒的な造形力。本来中心にあるべき「弥勒如来坐像」の出陳がなく写真だけというのが残念ですが、台座も入れれば軽く2mを超える大きな仏像が居並ぶ威圧感は凄く、いずれも興福寺で過去に拝見していますが、こうした空間で観ると、そのインパクトに圧倒されます。ただ、北円堂は南円堂より一回り小さいはずなので、これだけ大きな仏像があったとすると、かなり圧迫感があるのではないかと思います。

現・南円堂の「四天王像」は運慶の息子たちの手によるものとする説がありますが、運慶がどこまでタッチしてたかは不明で、図録には持国天像と多聞天像は運慶作の可能性があると書かれていたり、先日拝聴した某運慶研究者の講演では多聞天像は運慶の創意が見られるとしていたりします。今後の研究の動向に注目したいところです。

無著と世親は興福寺の宗派である法相宗の教義を大成させた高名な学僧の兄弟。『運慶展』を観た日に興福寺・多川貫首の講演も拝聴したのですが、「無著・世親菩薩立像」は美術史的にいわれる老・壮の違いではなく到達した仏のレベル(唯識の修道階位)の差であるという興味深い話がありました。北円堂の創建時(奈良時代)に安置されていた羅漢2躯を南都焼討後の復興時に法相宗の唯識教学に基づき、羅漢を無著と世親に充てたのではないかとのことでした。


第3章 運慶風の展開-運慶の息子と周辺の仏師

興福寺の「天燈鬼立像・龍燈鬼立像」はいつもは四天王像に踏まれている邪鬼を取り上げたユニークな仏像。運慶の息子・康弁の現存する唯一の作品とされる「龍燈鬼立像」は運慶が関わっているのではないかという話もあるようです。個人的に大好きな仏像で、春に興福寺でも拝見しましたが、今回は周りをぐるりと見られるのが嬉しい。誇張した筋肉や玉眼の表現は間近で観て初めて気づく素晴らしさ。かわいいお尻も必見です。「天燈鬼」までふんどししてるとは知りませんでした。

「天燈鬼立像 龍燈鬼立像」(国宝)
鎌倉時代・建保3年(1215) 興福寺蔵

海往山寺の「四天王像」もまた素晴らしい。40cmにも満たない小像ですが、保存状態も良く、精緻な彫刻的表現、鮮やかな彩色が見事。いわゆる大仏殿様四天王像で、運慶一門の手によるものとされているようです。

そして最後に伝・浄瑠璃寺の「十二神将立像」。最近の調査で運慶の没後の作である可能性が高くなったというニュースも記憶に新しいところ。現在トーハク(5躯)と静嘉堂文庫美術館(7躯)に分蔵されていて、12躯全て揃って展示されるのは42年ぶりだそうです。東博所蔵の方はときどき総合文化展(常設展)で公開されていたり、静嘉堂文庫美術館所蔵の方も昨年『よみがえる仏の美』で修理を終えたばかりの4躯が公開されましたが、やはり12躯が勢揃いした姿を観られなんて仏像ファンには感涙ものでしょう。頭に十二支の象徴が付いていたり(付いてないのもある)、申神の顔が猿ぽかったり、巳神の足が妙に筋肉質だったり、それぞれ干支をイメージさせるのも面白い。

運慶 「十二神将立像(写真は未神・辰神)」(重要文化財)
鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館蔵

今回の『運慶展』と奈良博の『快慶展』を観て思うのは、運慶には快慶にないものがあり、快慶には運慶にはないものがあることで、快慶が「静」とすれば、運慶は「動」、快慶は洗練された様式美に魅力があるとすれば、運慶は重厚な造形力にその本質があるように感じました。運慶とはどんな仏師だったのか。分かってるようで分からなかった運慶の魅力を存分に堪能できる展覧会でした。混雑しなければ何度も足を運びたいところです。


【興福寺中金堂再建記念特別展「運慶」】
2017年11月26日(日)まで
東京国立博物館・平成館にて


芸術新潮 2017年 10 月号芸術新潮 2017年 10 月号


運慶への招待運慶への招待

2017/10/07

江戸の琳派芸術

出光美術館で開催中の『江戸の琳派芸術』を観てまいりました。

出光美術館で琳派は何度も観てると思うのですが、江戸琳派をテーマにした展覧会は実に16年ぶりなんだそうです。

江戸琳派なので酒井抱一と鈴木其一が中心。光琳は数点あるけど宗達はなし。なんと出光美術館所蔵の抱一・其一作品のほぼ全てが展示されているそうです。

抱一や其一に代表される江戸琳派は宗達・光琳とはまた違う華やかさ、色彩美があり、その洗練された画風が大きな魅力でもあります。さすがにここまで江戸琳派が揃うと壮観。出光美術館の琳派作品の充実ぶりにあらためて感心しました。


会場の構成は以下のとおりです:
1 光琳へのまなざし - 〈江戸琳派〉が〈琳派〉であること
2 〈江戸琳派〉の自我 - 光琳へのあこがれ、光琳風からの脱却
3 曲輪の絵画 - 〈江戸琳派〉の原点
4 〈琳派〉を結ぶ花 - 立葵図にみる流派の系譜
5 師弟の対話 - 抱一と其一の芸術

酒井抱一 「風神雷神図屏風」
江戸時代・19世紀 出光美術館蔵

まずは“琳派といえば”的な抱一の「風神雷神図屏風」。隣には、光琳の「風神雷神図屏風」の裏に描かれた抱一の「夏秋草図屏風」の草稿が展示されていました。草稿なので銀地ではないし、彩色もあっさりとしていますが、逆にみずみずしい印象を受けます。雷神の裏には雨に打たれた夏の草花、風神の裏には嵐になびく秋の草花を描くという風流人・抱一らしい発想だと思うと同時に、本来四季を表した絵ではない「風神雷神図屏風」に夏と秋という季節的な意味をプラスしたというところがが素晴らしいなと思います。

酒井抱一 「紅白梅図屏風」
江戸時代・19世紀 出光美術館蔵

琳派は画風の継承というより、画題やモチーフ、デザイン性といったピンポイントなところを流用しつつさらに展開させるという自由さがあると思うのですが、伝・光琳の「紅白梅図屏風」と並んで展示されていた抱一の「紅白梅図屏風」は光琳のエッセンスを咀嚼することで抱一ならではの洗練された作品になってると感じます。ただ、抱一画に先立つ作品として鈴木芙蓉の「紅白梅図屏風」がパネルで紹介されていて、抱一は芙蓉の作品を参考にしてるのではないかとありました。

酒井抱一 「八橋図屏風」
江戸時代・19世紀 出光美術館蔵

「八橋図屏風」も光琳の「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館所蔵)をもとにしていますが、実は燕子花の数が光琳は約130輪なのに対し抱一は80輪だったり、一隻の横幅がそれぞれ45㎝も長かったり、光琳の屏風よりすっきりとした印象があります。抱一の「八橋図屏風」は絹地に描かれていこともあって、色彩の質感もずいぶん違って見えます。ただ摸倣するのではなく、どうアレンジするかいろいろ考えていたのでしょう。

酒井抱一 「燕子花図屏風」
享和元年(1801) 出光美術館蔵

抱一は姫路藩・酒井家に生まれ、若い頃は吉原に遊び、俳諧を嗜むという風雅を地で行く趣味人で、浮世絵など当時の文化に親しみました。今でいえば、都会人であり、現代人であり、そうした環境で磨かれたセンスは雅趣というものは、抱一作品の端々から伝わってくる気がします。

「燕子花図屏風」の軽妙なフレーミング、自ら詠んだ俳句を揮毫した短冊と色紙を貼り交ぜた「糸桜・萩図」の風情。初期の浮世絵作品「遊女と禿図」も、遊女とかむろのバランスが悪いのはご愛嬌ですが、一端の浮世絵師という印象を受けます。

鈴木其一 「蔬菜群虫図」
江戸時代・19世紀 出光美術館蔵

鈴木其一 「藤花図」
江戸時代・19世紀 出光美術館蔵

抱一のもとで磨かれた確かな腕に、さらにグラフィカルなデザインセンスや色彩感覚を身につけたのが其一。愛嬌のある表情が可笑しい「三十六歌仙図」や、琳派というよりもっと博物学的なリアリティを感じる「蔬菜群虫図」。其一が描いた薄の表装に光琳の富士図の扇面を貼った掛軸装のやまと絵的な風情も見事。「秋草図屏風」や「藤花図」は銀地、銀箔が変色してなければ、どんなに美しかったか。

酒井抱一 「十二ヵ月花鳥図貼付屏風」(※写真は左隻)
江戸時代・19世紀 出光美術館蔵

抱一の「十二ヵ月花鳥図貼付屏風」が一双まるまる展示されているのも贅沢。抱一の十二ヵ月花鳥図は人気だったようで複数の作品が知られていますが、その表現は一様でないといいます。解説には「おそらく多くの需要に応えるべく抱一の工房・雨華庵の画家たちが動員されたと思われる」とありました。七月に描かれた向日葵と朝顔とカマキリは抱一というより其一的な匂いがすると以前から気になっていたのですが、もしかしたら弟子時代の其一が担当していた可能性もあるかもしれませんね。抱一の晩年の作品のいくつかは其一が抱一名義で描いていたとする説がありますが、「青楓朱楓図屏風」なんかも其一の画風に妙に近い気がします。どうでしょう。

酒井抱一 「青楓朱楓図屏風」
文政元年(1818) 個人蔵

其一の作品ではいかにも其一らしい「四季花木図屏風」や、個人的にも大好きな「桜・楓図屏風」が出ているのですが、あまりお目にかかることのない「月次風俗図」全十二図が出品されているのが嬉しいところ。「月次風俗図」は四角や丸、扇面など3つの形式の画面に、菜の花に鷽替、梅に鼠、曽我兄弟の仇討ち、雨中の楓、鮎の群れ、砧打、柿に菊、ほおずきに麦藁蛇など、月ごとの季節にちなんだ行事や自然、風俗などが描かれています。もとは押絵貼屏風だったようで、発注主の好みもあるのか、其一にしては割と瀟洒な表現が印象的です。

鈴木其一 「四季花木図屏風」
江戸時代・19世紀 出光美術館蔵

一時期あれだけ多かった琳派の展覧会も少し落ち着き、あらためて琳派の作品に対峙するいい機会かもしれません。去年サントリー美術館で開催された『鈴木其一展』に出品されていない作品も多いので、其一ファンは必見だと思います。


【江戸の琳派芸術】
2017年11月5日(日)まで
出光美術館にて


別冊太陽244 江戸琳派の美 (別冊太陽 日本のこころ 244)別冊太陽244 江戸琳派の美 (別冊太陽 日本のこころ 244)