2013/03/31

ラファエロ展

国立西洋美術館で開催中の『ラファエロ展』に行ってきました。

展覧会を観てから既に3週間以上が経ってしまい、そろそろ3月も終わりだと気づき、慌てて書き上げました(汗)

意外なことにラファエロの展覧会って、日本では今回が初めてなんだそうですね。ダ・ヴィンチやミケランジェロとともに盛期ルネサンスの三大巨匠とよばれるだけあり、ラファエロの作品は美術館からの借用が難しく、大規模な展覧会を開くことはヨーロッパでさえも極めて困難なのだそうです。本展では、そのラファエロの貴重な油彩画や素描など計23点が集められているほか、ラファエロの原画による版画やタペストリー、工芸作品なども公開しています。

観に行ったのが開幕の翌週で、普通ならまだそんなに混まない時期だと思うのですが、本展は会期の早い段階から混雑が始まっていて、朝から大変な行列でした。ラファエロの人気の高さをあらためて痛感しました。

会場に入ると、まずは栗原類に似ているとウワサのラファエロの自画像がお待ちかね。ラファエロの署名はないのですが、ラファエロの他の自画像との類似点からラファエロによる真筆とされているそうです。

ラファエロ・サンツィオ 「自画像」
1504-1506年 ウフィツィ美術館蔵


Ⅰ. 画家への一歩

ラファエロは父ジョヴァンニがイタリアの小国ウルビーノの宮廷画家だったということもあり、父とその工房から絵を学び、早くから芸術的才能を開花させます。しかし、ラファエロが8歳のときに母を、11歳のときには父を亡くし、大きな後ろ盾を失います。その後は父の工房を引き継いだとも、他の宮廷画家の下で修行をしたとも、同じくルネサンスを代表する画家ペルジーノの助手として働いたともいわれています。17歳のときには独立した画家として注文を受けていたことが記録から分かっているそうです。いずれにしてもラファエロの早熟の天才ぶりが分かるエピソードです。

ラファエロ・サンツィオ 「聖セバスティアヌス」
1501-1502年 アカデミア・カッラーラ美術館蔵

「聖セバスティアヌス」はラファエロの初期の代表作の一つですが、18歳頃の作品というから驚きです。ラファエロの師ともいわれるペルジーノの影響が指摘されていて、その完成度の高さからペルジーノとの共作とする説もあります。聖セバスティアヌスを描いた絵は、多くが柱に縛りつけられ、裸体に矢を射られた姿ですが、ラファエロの「聖セバスティアヌス」は射抜かれた矢をちょこんと持ち、なんとも穏やかな表情なのが印象的です。写真だと分かりづらいのですが、金の首飾りや刺繍の細かな描写は目を見張る素晴らしさです。

初期のコーナーには、あまりの素晴らしさにナポレオンが持ち帰り分断してしまったというラファエロ17歳のときの作品(工房との共同作)「父なる神、聖母マリア」をはじめ、ラファエロの若かりし頃の作品や、父ジョヴァンニ・サンティの作品、師ペルジーノの作品などが展示されています。
 

Ⅱ. フィレンツェのラファエロ ― レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとの出会い

ラファエロはフィレンツェに足繁く通い、同時代の先輩画家ダ・ヴィンチやミケランジェロの作品に触れ、強い影響を受けます。ここではラファエロがフィレンツェ時代に描いた作品を展示しています。

ラファエロ・サンツィオ 「聖ゲオルギウスと竜」
1504-1505年 ルーヴル美術館蔵

「聖ゲオルギウスと竜」は、異教徒を象徴する竜を聖ゲオルギウスが退治するという人気のモチーフで、ラファエロもこの画題の作品を何枚か残しています。動きのある構図はダ・ヴィンチの、空間表現はペルジーノの影響があると解説にはありましたが、聖ゲオルギウスが戦士にしては優しげな顔をしているのがラファエロ的な感じがします。

ラファエロ・サンツィオ 「無口な女(ラ・ムータ)」
1505-1507年 マルケ州国立美術館蔵

ダ・ヴィンチの「モナリザ」を参考にして描いたといわれる作品。モナリザに比べると、多少薹が立った女性ではありますが、微妙な陰影の表現や構図にラファエロがいかにダ・ヴィンチを研究していたかが分かります。女性の表情から、この女性がどんな暮らしをしていて、どんな人生を送ってきたか、そんな深い部分まで伝わってくるような表現力に舌を巻きます。ちなみに、「無口な女」という題名は18世紀になってつけられたものだそうです。

ラファエロ・サンツィオ 「大公の聖母」
1505-1506年 パラティーナ美術館蔵

本展の目玉作品で、もちろん日本初公開のラファエロの代表作。ラファエロは聖母子像を多く描き、“聖母子の画家”とも呼ばれていますが、本作はその中でも最高傑作といわれています。最近のX線調査で、実は黒の背景は後年塗られたものであることが明らかになったそうです。17世紀に黒い背景の聖母子像が流行し、そのときに黒く塗りつぶされてしまったのではないかとのことでした。そのため、現在見れらるキリストの髪の一部や光輪は後年加筆されたものなのだそうです。制作当初の背景は、現在のテクノロジーをもってしても復元が困難のようですが、この作品はこの作品で黒い背景が聖母子を引き立たせ、何か神聖で厳かな気持ちにさせるものがあります。それにしても美しい作品でした。

この作品のタイトルも当初のものとは異なり、18世紀末に本作の持ち主であったトスカーナ大公フェルディナンド3世が亡命中も肌身離さず大切にしていたということから、「“大公の”聖母」と呼ばれるようになったとか。ウフィツィ美術館所蔵の本作の素描画も展示されていて、聖母子を描く制作過程が窺い知れて興味深いものがありました。


Ⅲ. ローマのラファエロ ― 教皇をとりこにした美

ラファエロは20歳代半ばにして、ローマ教皇ユリウス2世に招かれてローマに上り、ヴァチカン宮殿にあるローマ教皇の居室のフレスコ壁画の制作を引き受けます。さすがに壁画は持ってこれないので、会場では壁画制作のための素描やラファエロの原画をもとにしたタペストリ、またローマ時代に描いた肖像画などが展示されています。 

ラファエロ・サンツィオ 「ベルナルド・ドヴィーツィ枢機卿の肖像」
1516-1517年 パラティーナ美術館蔵

今回の出展作で、個人的に一番強い印象を受けたのがこの「ベルナルド・ドヴィーツィ枢機卿の肖像」。まず何と言っても衣服の細かでリアルな質感に驚きます。顔の大きさ(小ささ)に比べ、身体の大きさや腕の長さのバランスに少し違和感を感じますが、それも引っ括めて強烈な存在感を放っていました。先日エル・グレコ展で観た「聖ヒエロニスム」と構図、腕の置き方、赤い衣服、黒の背景とが似ている気もします。エル・グレコはラファエロのこの絵を見ていたのでしょうか?あるいはラファエロもエル・グレコも参照した有名な作品でもあったのでしょうか…。

ラファエロ・サンツィオ 「エゼキエルの幻視」
1510年 パラティーナ美術館蔵

ラファエロは、8歳年上で既にローマで名声を得ていたミケランジェロからも大きな影響を受けています。どちらかというと聖母子など慈愛に満ちた女性の美しさを描いているラファエロですから、同時代のボッティチェリやジョルジョーネの方が参考になりそうな気もしますが、そこを敢えてミケランジェロを研究していたというのが面白いところです。「エゼキエルの幻視」は、四大預言者の一人エゼキエルが空を割って神が現れる姿を見たという旧約聖書の挿話を描いたもの。40cm程度の小さな作品ですが、ラファエロらしくないというか、ミケランジェロを思わせる筋肉隆々の男性が目を引きます。ラファエロは古代彫刻に着想を得た作品も残していますから、そうした造形美に関心があったのでしょう。本作が贋作であるという話が数年前にありましたが、その後どうなったのでしょうか?

ラファエロ・サンツィオ 「友人のいる自画像」
1518-1520年 ルーヴル美術館蔵

ラファエロは38歳の若さでこの世去ります。この作品は、その最晩年に描いた作品のひとつ。ラファエロ(後ろ)と一緒にいる男性は、ラファエロが一番信頼していたという弟子のジュリオ・ロマーノともいわれています。ロマーノの肩に手をかける仕草や振り返ってラファエロを見る視線に二人の親密さを感じます。ラファエロは自画像からも分かるようにかなりの美形で、女性関係も派手だったようですから、二人が何か性的な関係だったということはないでしょうが、男性二人の親しげな様子が描かれている肖像画というのもあまり見かけない気がします。ラファエロの死因は多忙な仕事や無理がたたっての熱病とも、享楽的な生活が災いしての性病ともいわれています。

この時代のラファエロは教皇や貴族の宮殿の壁画制作が中心だったため、その作品が一般の人々の目に触れることはほとんどなかったようです。しかし、ラファエロは版画家と組み、彼の原画をもとにした銅板画を販売。その版画は大変な人気を博し、ヨーロッパ中にラファエロの名が知られることになったようです。本展では、ライモンディなどの版画家によるラファエロ原画の版画も多く展示されています。


Ⅳ. ラファエロの継承者たち

古典主義を完成させたとして高く評価され、その後の西欧美術において理想的な美の規準として高く評価されたラファエロ。ここではラファエロ工房の弟子をはじめ、ラファエロから影響を受けた同時代の画家の作品やラファエロが原画とされる工芸品などが展示されています。


どの作品も非常に優美で、穏やかで、柔らかで、癒し系的なラファエロの美の世界。ルネサンスの王道であるラファエロの作品がこれだけまとまって日本で観られるとは正に夢のようです。今年はダ・ヴィンチも来るし、ミケランジェロも来るし、スゴい年です。


【ラファエロ展】
2013年6月2日(日)まで
国立西洋美術館にて


誰も知らないラファエッロ (とんぼの本)誰も知らないラファエッロ (とんぼの本)


もっと知りたいラファエッロ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)もっと知りたいラファエッロ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)


ラファエロ (e-MOOK 宝島社ブランドムック)ラファエロ (e-MOOK 宝島社ブランドムック)


2013/03/26

フランシス・ベーコン展

東京国立近代美術館で開催中の『フランシス・ベーコン展』に行ってきました。

ピカソと並ぶ20世紀最大の現代美術の巨匠フランシス・ベーコンの日本では30年ぶりとなる回顧展です。

ベーコンって、日本でどういう立ち位置にあったか、どういう評価のされ方をしてきたのか、詳しくは知りませんが、30年前の展覧会以降、ベーコンが日本でほとんど顧みられることがなかったことを考えると、人気も評価も決して高くなかったのではないかと思います。ちょうど30年ほど前、自分がアートにハマりだした頃、東近美で展覧会が開かれたのと前後していたということもあるのでしょうが、美術手帖などではよくベーコンが紹介されていました。ただその後、ベーコンが亡くなったときにいくつかの雑誌で特集や記事を読んだ覚えはありますが、それ以外にベーコンについて多く語られることはあまりなかった気がします。花村萬月の単行本でベーコンの絵を表紙に使ったなんてこともありましたが、ベーコンの伝記的映画『愛の悪魔』が公開されたときも、さして話題にもなりませんでした。

ベーコンの絵は、たとえばピカソの分かりにくさとはまた異なる分かりにくさがあります。その絵の気持ち悪さ、怖さ。決して美しくも、楽しくも、親しみやすくもない。そして一部ホモセクシャル的な描写への蔑視もあったかもしれません。海外では高い評価を得ていながらも、日本ではなかなか受け入れられませんでした。

本展は初日に拝見し、また“ベーコンナイト”なるイベントにも参加しましたが、若い人たちが大変多かったのが印象的でした。かつてイタリアの映画監督で同じく同性愛者を公言していたパゾリーニの回顧映画祭が開かれたときのことを思い出しました。長い間あれだけ日本で低く評価され、客が入らないといわれたパゾリーニが、ふたを開けたら予想を超える大盛況。あのときも観客の大半は若い人たちでした。こうした展覧会で若い、新しいアートファンにベーコンが紹介され、受け入れられることは感動的ですらあります。

フランシス・ベーコン 「スフインクス-ミュリエル・ベルチャーの肖像」
1979年 東京国立近代美術館蔵

さて、今回の展覧会は33作品と出展数だけ見ると少なく感じられるのですが、その価値は総額数百億円という破格のものなのだとか。ここ数年のベーコンの作品価値の高騰は異常なほどで、ベーコンが展覧会の開催の困難な画家の一人といわれている所以でもあります。本展はそんな世界的に再評価されているフランシス・ベーコンの歩んだ軌跡を追いながら年代ごとにその作品を紹介しています。


1 移りゆく身体 1940s-1950s

現存する初期作品から画家として注目を集め始める1950年代までの作品を集めた最初のコーナーは、「こちら/あちら」「聖/俗」「スフィンクス」「ファン・ゴッホ」の4つのコーナーにさらに分けられています。

フランシス・ベーコンは1909年にアイルランドに生まれます。画家を志すまではいろいろとあったようですが、20歳のときにロンドンでインテリア・デザイナーの仕事をはじめ、ほどなくして油彩画を描き始めます。初期の作品はベーコンがことごとく破壊し、今ではほとんど残っていないといいます。その後の作品も、気に入らないものは買い戻してでも破棄したほど。生前ベーコンは、1944年以降の作品しか展覧会での展示を認めなかったそうです。

フランシス・ベーコン 「人物像習作 II」
1945-46年 ハダースフィールド美術館蔵

ツイードのジャケットを着た半裸の男性らしき人が、シュロの葉の中に頭を突っ込んでいます。こちらに向けた顔は叫んでいるようにも見え、その後のベーコンの作品でたびたび登場する黒い傘が不思議な効果を出しています。一見、シュールレアリスムのようにも、それぞれのパーツが何か意味ありげにも見えますが、ベーコンが何を描き、何を訴えたいのか、まだどこか頭でっかちになっているようにも思えます。

フランシス・ベーコン 「人体による習作」
1949年 ヴィクトリア・ナショナル・ギャラリー蔵

写真だと分かりづらいのですが、ベーコンの油彩画はとても薄塗りです。“ベーコンナイト”でキュレーターの保坂さんもおっしゃってましたが、ベーコンは絵は下手だけど、油絵の使い方はとても上手いのだそうです。本作は解説にはエクトプラズムが引き合いに出されていましたが、カーテンを開け、冥界に踏み込んでいるのか、ただ単にセックスをするため部屋に入っていくのか(もしくは出ていくのか)。1950年代頃までの作品にはこうしたボーッとした心霊写真的な、幻視的な作品が多くあります。

フランシス・ベーコン 「走る犬のための習作」
1954年頃 ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵

ベーコンは正式な美術教育を受けたことがなく、また著名な画家に師事したこともなく、ほぼ独学で油絵を習得します。ベーコンにデッサン力がどれほどあったのか分かりませんが、美術教育を受けていないことをコンプレックスに感じていたともいわれています。確かにベーコンの絵を観ていると、デフォルメ云々の前に身体のバランスの悪さが目に付くことがありますが、この「走る犬のための習作」は変に誇張することなく走るという動作や筋肉の動きを(ベーコンにしては)巧く捉えた珍しい作品です。まるで犬の亡霊が夜の町を徘徊しているようです。

フランシス・ベーコン 「叫ぶ教皇の頭部のための習作」
1952年 イエール・ブリティッシュ・アート・センター蔵

「叫び」はベーコンの一つの重要なキーワードで、ニコラ・プッサンの「嬰児虐殺」に描かれた叫ぶ母親の顔やロシアの映画監督エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」の有名なオデッサの階段のシーンで叫ぶ乳母などがそのイメージソースになっているといいます。また、本展で展示されていた「肖像のための習作」(2作品あり)に象徴されるように、ベーコンの描く人物の多くは囲いの中に閉じ込められていて、その中で叫ぶ姿からは、何か閉所恐怖症的な息苦しさや恐怖を感じます。

ちなみに、ベーコンの作品タイトルでよく「習作」というのがありますが、これは原題に「Study」という言葉が使われていて、特に準備段階の作品という意味での「習作」ではなく、完成された作品ということだそうです。

フランシス・ベーコン 「肖像のための習作Ⅳ」
1953年 ヴァッサー大学フランシス・リーマン・ロープ・アート・センター蔵

ベーコンが無宗教だというのは有名な話で、キリスト教には深い興味を持っていなかったといわれていますが、ベラスケスの「教皇インノケンティウス10世の肖像」をモチーフにした作品を45点以上も制作しています。本作は、友人をモデルに人物像を描いていたところ、教皇の肖像へと変化してしまい、2週間で完成させた8作品の教皇像の内の一作だそうです。教皇は嘆き悲しんでいるのか、悩み苦しんでいるのか、はたまた叫びを上げているのか。イスにも囲いにも見える黄色の線は定規を使って引いたかのように真っ直ぐきれいなのに対し、教皇はまるで幽霊が消えていなくなる瞬間のように儚げです。解説によると、教皇とは最高位に当たる人間、つまり“父”なる存在であり、ベーコンはそれに対し「因習的な良識や価値観の転覆」を狙ったのではないかとありました。ベーコンと実父の関係が複雑であったことからも、“父殺し”を読み解く批評家もいるようです。

フランシス・ベーコン 「スフインクスⅢ」
1954年 ハーシュホーン美術館蔵

ベーコンはエジプト旅行で受けた印象をもとにスフィンクスを主題とする作品を残しています。本展では1953~1954年に描かれた作品4点の内3点が展示されています。この時代のベーコンの作品同様、半透明の、スフィンクスなのか人物なのか(もしくは合体か)不明確さがあります。後年描いた「スフインクス-ミュリエル・ベルチャーの肖像」は女性とスフィンクスが正しく合体されていたりします。ミュリエル・ベルチャーはベーコンが通った“コロニールーム”の女主人で、男勝りで威厳のある女性だったとされ、ベーコンにとってはスフィンクス的な存在だったのかもしれません。

フランシス・ベーコン 「ファン・ゴッホの肖像のための習作Ⅴ」
1957年 ハーシュホーン美術館蔵

「ゴッホは誰よりも重要な存在」とベーコンが語っているように、彼はゴッホに強い影響を受け、またゴッホの絵をモチーフにした作品も手がけています。本展ではその内の2点が展示されていました。この「ファン・ゴッホの肖像のための習作Ⅴ」の基となったゴッホの「タラスコンへの道を行く画家」は残念なことに第二次世界大戦で焼失してしまったそうで、ベーコンは写真を見て本作を描いたようです。

こうしたゴッホのオマージュ的作品はベーコンの転換期となり、ベーコンの作品に色彩感が強まり、より明るい色を使うようになります。また、比較的薄塗りだったものが部分的に厚く塗られたり(それでもそんなに厚くない)、筆のタッチも荒々しいところを感じるようになります。この時期以降、さらに薄塗りと厚塗りの配置、その塗り方(指で塗ったり、布を使ったり、絵具に砂を混ぜたり、時に絵具を投げつけたりもする)、色の選び方が絶妙になり、偶然性を超えた天分をその作品から強く感じようになります。

会場の途中にはフランシス・ベーコンのドキュメンタリーの3分ほどのダイジェスト版が流れています。


2 捧げられた肉体 1960s

世界的に注目されるようになったベーコン。これまでの作品とは大きく印象が変わる1960年代の作品を展示しています。

フランシス・ベーコン 「ジョージ・ダイアの三習作」
1969年 ルイジアナ近代美術館蔵

1964年以降、ベーコンは主題のひとつとして頭部をメインに描いた作品を発表するようになります。ジョージ・ダイアは元“こそ泥”で、ベーコンのアトリエに盗みに入ったことがきっかけで肉体関係を結んだといわれる恋人。10年近い恋愛関係の末、1971年10月、パリのグラン・パレでの大回顧展の開幕直前にパリのホテルで自殺(ドラッグの過剰摂取による中毒死とも)します。本作はそんな二人の関係を物語るように、どこか暴力的で、破壊的で、激しい感情が強く込められているかのようです。醜く歪んだその姿からは恋人への賛美を見出だすことすら困難です。しかし、ダイアはベーコンの作品のモデルとして、またアイコン的存在として、最もイマジネーションを掻きたてたとされ、ダイアの自殺後もベーコンは彼をモチーフにした作品を描き続けます。

ベーコンとダイアの愛憎入り混じった関係はジョン・メイブリー監督のイギリス映画『愛の悪魔/フランシス・ベイコンの歪んだ肖像』に詳しいので、ぜひご覧ください。ベーコン・ファンは必見です。

フランシス・ベーコン 「裸体」
1960年 フランクフルト近代美術館蔵

ベーコンが描く人物はほとんど男性で、女性を描いたものは少ないそうで、本作はその珍しい例として紹介されていました。全裸の女性が挑発的なポーズをとった一見官能的ではありますが、顔は相変わらず崩れ、ソファー(?)で誰かを誘うような動作はどこか痛々しくもあります。本作はマティスの絵の影響も指摘されています。


3 物語らない身体 1970s-1992

1971年のグラン・パレでの回顧展は大成功を収めますが、ダイアの死の影響なのか、その後の恋人の影響なのか、1970年代のベーコンの作品は複雑化し、その画風に変化が生じます。ここでは1970年代以降、最晩年までの作品を追います。

1970年代以降に特に増えるのが大型の三幅対(トリプティク)で、この章の会場は三幅対を中心に構成されていました。三幅対は祭壇画などキリスト教絵画でよく見られる形式ですが、ベーコン自身はフランスの映画監督アベル・ガンスのサイレント映画で、3面のスクリーンに異なる映像を映した大作『ナポレオン』を観て思いついたとも語っています。三幅対の一幅がそれぞれ縦約2m横約1.5mなのは、ベーコンのアトリエの大きさに準じた大きさなのだそうです。

フランシス・ベーコン 「三つの人物像と肖像」
1975年 テート蔵

三幅対ではありませんが、一枚のキャンバスに3つの人物(というより最早フリークス的クリーチャー)を描いた作品。左側の人物はジョージ・ダイアとされていますが、右側の背中をこちらに向けた人物や下側の歯をむき出しにした肉塊(解説によるとギリシャ神話で神の裁きを伝える復讐の女神)は見た目は誰か何か分からず、またそれぞれがとても複雑で不可思議な動きをしているのが特徴的です。映画評論家の滝本誠氏がベーコンの作品を“肉の心理的風景”と評していましたが、まさにそんな感じです。私たちは描かれた対象物やその動きに意味や共通点を探し、何かしら理屈を語りがちですが、それさえも拒む、というより意味のない行為にしてしまうところにベーコン作品の面白さがあるような気がします。それがさらに観る者の好奇心を掻き立てるわけですが。

フランシス・ベーコン 「三幅対」
1991年 ニューヨーク近代美術館蔵

男性の下半身に顔写真を切り貼りしたような奇妙な肢体。右側にはベーコンの顔が、左側には当時の(最後の)恋人ともベーコンの友人ともアイルトン・セナともいわれる男性の顔が描かれ、それぞれ片足を暗闇の中に踏み入れています。真ん中には絡み合うような肉体の塊り。逞しい脚や露な男性器から性的なメッセージも強く感じさせます。同じような黒の矩形を描き込んだ三幅対は他にも多く存在しますが、この作品はベーコンが亡くなる数ヶ月前に描かれた作品ということもあり、向こうの世界、つまり“死”と関連づけて考えられてもいます。


本展の展示作品数は決して多くありませんが、それぞれの作品に圧倒的な力があり、作品数の少なさを全く感じさせません。作品が少ないから、あまり時間がかからないかと思いきや、会場を出たときは2時間近くも経っていました。これだけまとまった数のベーコン作品を観られる機会はそうはないと思います。数年後には語り草になるような展覧会じゃないでしょうか。フランシス・ベーコンの美しい毒にあたってみるのも悪くないと思います。


【フランシス・ベーコン展】
2013年5月26日(日)まで
東京国立近代美術館にて



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2013/03/24

三月花形歌舞伎


新橋演舞場で三月花形歌舞伎≪夜の部≫を観てまいりました。

歌舞伎座の改築工事に伴い、歌舞伎公演のメイン会場となっていた新橋演舞場も、新歌舞伎座の開場に伴いその役割もひとまず終了。これからも今までのように花形歌舞伎などの興行はあるのでしょうが、まずはお勤めご苦労様でしたといったところ。

さて、今月の夜の部は『一條大蔵譚』と『二人椀久』。終演も7時半ぐらいで少々物足らなかったのですが、来月から始まる杮葺落公演の準備などを考えると無理も言えません。

夜の部は染五郎が出ずっぱり。團十郎と勘三郎という二大看板が亡くなり、また新しい歌舞伎座が開場するというこのタイミングで、次なる世代を担う筆頭の歌舞伎役者として期待も大きいものがありますが、今月はその期待に十分応える活躍ぶりでした。

まずは『一條大蔵譚』。染五郎初役の大蔵卿。叔父の吉右衛門に指導を仰いだそうですが、染五郎の持ち味がよく出た大蔵卿になっていました。もともとコメディセンスのある役者なので、阿呆姿も様(?)になっていて非常に楽しめました。まだ吉右衛門や菊五郎のような“芸”や“味”の域に達するにはもちろん時間が必要でしょうが、染五郎らしい愛嬌と軽妙さが出ていたと思います。

鬼次郎とお京の夫婦を演じた松緑・壱太郎のコンビは初めて見た気がしますが、壱太郎は初々しい中にも所作や台詞回しもしっかりしていて、芝雀や吉弥というベテランに交じっても遜色なく、将来がますます楽しみに感じました。ただ少し鼻声で息が苦しいのか(花粉症?)、所作の最中も口が少し半開き気味だったのが気になりました(最前列だったので、ちょっと目についてしまいました)。

つづいての『二人椀久』は染五郎と菊之助の長唄舞踊。富十郎と雀右衛門のコンビで有名ですが、自分はこの2人の舞踊はテレビでしか観たことがないので実際の舞台は今回初めて。菊之助は富十郎と一度組んでますから、富十郎から直接アドバイスも受けてるでしょうし、恐らく生前の雀右衛門に指導も仰いだのではないかと思います。今や若手女形では独走状態の菊之助に釣り合う相手といえばこれも染五郎しかなく、人気実力とも若手トップの2人の連れ舞いですからつまらないわけがありません。

でも、菊之助の色っぽさ、艶っぽさはなんでしょう。玉三郎の持つ妖しさとも異なる妖艶さがあり、特にここ数年、その妖艶さは明らかに増しています。このまま女形だけをやっていて欲しいと思うのは私だけではないはず・・・。

間違いなくこの『二人椀久』は染五郎と菊之助のコンビでこれからも磨かれ、進化していくのだろうなと感じた三月の花形歌舞伎でした。

2013/03/20

ルーベンス展

渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで開催中の『ルーベンス展』で、“ブロガー・スペシャルナイト”なるものがありましたので参加して参りまいりました。

当日は、Bunkamura ザ・ミュージアムのチーフキュレーターの宮澤政男さんとTBSの小林悠アナウンサーの対談があったのですが、すいません、仕事の都合で遅刻して途中からしか話を聞けませんでした(汗)

宮澤さんはベルギーに10年も住んでらして、ルーベンスが暮らしていた「ルーベンスハウス」でツアーガイドをしていたこともあるという方。Bunkamura ザ・ミュージアムは以前にもベルギーの美術をテーマにした展覧会を何度か企画していますが、これも宮澤さんがかかわってるんでしょうね。

TBSの小林アナは大学で美術史を学んだこともあるとかで、ちゃんと下調べもしていたのでしょうが、ルーベンスの作品やルネサンスにも詳しく、さすがアナウンサー、聞き上手、話し上手で、二人のやりとりも楽しく、あっという間のギャラリートークでした。

ご存じのように、ルーベンスは17世紀バロック絵画の巨匠。宮澤さん曰く、「美術史上、天才と呼べる数少ない画家の一人で、同じ天才でもダヴィンチとは全く違うタイプ」なのだとか。同時代には同じオランダにレンブラントがいて、イタリアにはカラヴァッジョがいて、フランスにはラ・トゥールがいて、スペインにはベラスケスがいて、美術史的にも天才だらけのとても濃厚な時代ですが、その中でもルーベンスは、画家としての才能はもちろんのこと、母国語以外にイタリア語やフランス語、ドイツ語など複数の言語を自在に操り、歴史や文学に精通し、政治活動にも携わり和平交渉に奔走したり、裕福で家族思いで、マルチな天才だったのだそうです。

ペーテル・パウル・ルーベンス(工房) 「自画像」
1622-28(?)年頃 ウフィツィ美術館蔵

さて、会場に入ると、最初に登場するのがルーベンスの自画像。本作はルーベンスが描いた自画像の工房による模写だそうです。ルーベンスの肖像は人気が高かったということからも、ルーベンスが当時どれだけスター的な存在だったかがうかがえます。


イタリア美術からの着想

ルーベンスは若くして親方画家(聖ルカ組合)の資格を得ますが、22歳のときにさらなる研鑽を積むためにイタリアへ旅立ちます。ここではイタリア時代の作品や、ルネサンスや古代彫刻などから受けた影響などを探ります。

ペーテル・パウル・ルーベンス 「聖ドミティッラ」
1606-07年頃 アッカディア・カッラーラ所蔵

ローマ皇帝ドミティアヌスの姪でキリスト教に改宗したことにより流刑となり焼き殺された聖女ドミティッラを描いた作品。ローマの教会堂の祭壇画背作の際に制作された習作で、本展に出展されていたルーベンス作品の中でも最も初期の作品の内の一つでした。

ペーテル・パウル・ルーベンス 「毛皮をまとった婦人像」
1629-30年頃 クィーンズランド美術館蔵

本作はルーベンスが50代のときの作品ですが、ヴェネチア派ルネサンスの巨匠ティツィアーノの婦人画の模写だそうです。ルーベンスの女性像は肉感的な傾向があり、本作もティツィアーノのオリジナルに比べると、若干肉づきがよくなっています。ルーベンスが2番目の妻をモデルに描いたという代表作「毛皮ちゃん(エレーヌ・フールマン)」(本展未出品)はこのティツィアーノの作品からインスピレーションを受けたのだといいます。

本展の目玉作品のひとつが、ルーベンスの傑作「ロムレスとレウスの発見」で、構図の面白さ、視線の妙、狼の毛や幼子の肌の柔らかさ、細かな部分のユニークな描写(狼の足元の蟹やカタツムリなどもいる)など観るべきところの多い作品でした。この作品は、人物などをルーベンスが、風景を専門画家のヤン・ウィルデンスが担当したと考えられているそうです。

ルーベンスの「ロムレスとレムスの発見」を囲む
宮澤政男さんと小林悠アナウンサー


ルーベンスとアントワープの工房

ルーベンスは母の死をきっかけにアントワープに戻り、ネーデルラント大公の宮廷画家として確固たる地位を築きます。やがて多忙を極めたルーベンスは、1610年代には工房での活動を本格化します。


ルーベンスの工房は規模とその効率的な制作方法が際立っていて、大量の注文をこなすために、多くはルーベンスが示した手本に基づいて工房の画家たちが制作していたといいます。実際にはルーベンスが加筆することで一定の質を保っていたようですが、顧客によっては質的に劣る工房によるレプリカを販売していたこともあるのだとか。そのため、いわゆるルーベンスの作品と呼ばれるものには、ルーベンスの自筆作品、工房で制作した作品にルーベンスが手を加えた作品、工房の画家たちだけの作品、そしてルーベンス作品の複製画が存在するようです。

写真右: ペーテル・パウル・ルーベンス 「復活のキリスト」
1616年頃 パラティーナ美術館蔵
写真左: ペーテル・パウル・ルーベンス(工房) 「アッシジの聖フランチェスコ」
1630年代中頃 ストラスブール美術館蔵

今回の展覧会でとても印象に残った作品のひとつがこの「復活のキリスト」。埋葬されたキリストが復活をする場面で、左手には旗を高く掲げ、天使が月桂冠を被せようとしています。キリスト像というと、痩せた身体と深く思慮する表情が頭に浮かびますが、ルーベンスの描くキリストは堂々たる体躯で、その身体からは光が放たれています。ルーベンスはキリストを死に対する勝利者として描いたといい、神々しさと同時に強いパワーが伝わってくるようです。誇張された筋肉の描写や光と影のバランスにバロックらしさを感じる作品です。

写真右: ペーテル・パウル・ルーベンス 「ヘクトルを打ち倒すアキレス」
1630-35年頃 ポー美術館蔵

今回の出展作品で個人的に一番のお気に入りだったのは、この「ヘクトルを打ち倒すアキレス」。トロイア戦争でギリシャのアキレスとトロイの王子ヘクトルが一騎打ちをする場面を描いた作品で、クオリティの高さから大部分をルーベンス自らが描いたと考えられているそうです。もともとはタペストリーのための原画なので、左右の彫像や上部の天使などデザイン化されています。構図といい、色の美しさといい、躍動感といい、素晴らしい作品でした。


ルーベンスと版画制作

先日観たラファエロ展でもラファエロが原画を手がけた版画が展示されていましたが、ルーベンスも版画製作に熱心で、工房の画家と同じように版画職人をかかえていて、ルーベンス作品の版画を数多く制作していました。工房で多くの注文を捌いていたとはいえ、版画は大量生産でき、より広い層に販売できるため、収入源としても、ルーベンスの名を広めるためにも、当時は有効な手段だったのかもしれません。ルーベンスの品質管理と指示は徹底していて、キレた職人によるルーベンス暗殺未遂事件が起きたほどだったとか。

写真左: ルーベンス原画 「キリストの磔刑(槍の一突き)」
写真右: ルーベンス原画 「キリスト降架」

ルーベンスといえば、テレビアニメ『フランダースの犬』でその名を知ったという方も多いと思います。最終回でルーベンスに憧れていたネロはアントワープ大聖堂で念願のルーベンスの絵を観ますが、その作品が「キリスト降架」で、本展ではその版画が展示されています。版画のためオリジナルの作品とは左右反転しています。

写真左: ルーベンス原画 「聖母マリアの被昇天」
写真右: ルーベンス原画 「ご訪問」

ルーベンスは聖母被昇天を題材にした作品をいくつか手がけているようで、その作品の一つの版画も展示されていました。『フランダースの犬』には、先の「キリスト降架」と「キリスト昇架」(未出品)は観覧料を払わないと観ることができなかったのですが、大聖堂の「聖母被昇天」は誰でも観ることができたので、ネロは毎日のように大聖堂に通い、時が経つのも忘れてその絵に見入るという場面があります。本展に出展されている「聖母マリアの被昇天」はネロが観た作品とは異なりますが、聖母の美しさ、舞い上がるようなふわりとした柔らかさ、何よりも光に包まれて昇天していく情景はこの作品からも伝わってきます。ちなみにネロが見たアントワープ大聖堂の「聖母被昇天」の原画は昨年の『マルリッツハイス美術館展』に出展されていました。



専門画家たちとの共同制作

ギャラリートークの中で、ルーベンスは人物画を得意だったけれども、風景画などはあまり得意ではなく、そのため人物はルーベンスが描いて、風景など周辺は工房の弟子たちが描いたという話もされていました。ここでは、ルーベンスとほかの画家たちがコラボレートした作品を展示しています。見もののひとつは、ルーベンスと静物画や動物画で定評のあったフランス・スネイデルス、そして工房との合作による「熊狩り」で、熊が人を襲う絵なんてルネサンスやバロックの絵画では観た記憶がないのでちょっと衝撃的です(笑)。

(※このあとは写真撮影不可だったため写真はありません)


工房の画家たち

ルーベンスの工房は教育機関的な役割も果たしていて、工房からは優秀な画家たちが巣立っていきます。ここではヴァン・ダイクやディーペンベークなど、ルーベンスの工房で活動した経験を持つ画家たちの作品を展示しています。特に、アントーン・ヴァン・ダイクの「悔悛のマグダラのマリア」はヴァン・ダイクらしい上品な雰囲気をたたえつつ、劇的な描写が印象的な作品です。マリアの目に浮かぶ涙はまるで玉が浮き上がったかのような立体感があり、これは実物ではないと分からない素晴らしさ。ヴァン・ダイクはルーベンスの工房には4年ぐらいしかいなかったようですが、ルーベンスが最も信頼していた弟子だったといい、工房での修業のあと、イタリアに渡り、その後イギリスの宮廷画家(主に肖像画家)としても活躍します。


同じバロック期のオランダ・フランドル絵画でもレンブラントとルーベンスはアプローチが大きく異なります。ダイナミックさと滑らかさ、華やかさと豊かさがハーモニーとなって繰り広げられるルーベンスの作品の数々を一堂に観られる格好の展覧会だと思います。


※会場内の写真は主催者の許可を得て撮影したものです。

【ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア】
Bunkamuraザ・ミュージアムにて
2013年4月21日(日)まで

開館時間: 10:00-19:00(入館は18:30まで)
※毎週金・土曜日は21:00まで開館(入館は20:30まで)
※会期中無休
主催:Bunkamura、毎日新聞社、TBS
http://www.bunkamura.co.jp/
後援:外務省、イタリア大使館、オーストラリア大使館、ベルギー大使館、ベルギー・フランダース政府観光局、フランダースセンター

巡回先:
北九州市立美術館本館 2013年4月28日(日)~6月16日(日)
新潟県立近代美術館(予定) 2013年6月29日(土)-8月11日(日)



ルーベンス ネロが最後に見た天使 (e-MOOK 宝島社ブランドムック)ルーベンス ネロが最後に見た天使 (e-MOOK 宝島社ブランドムック)


バロック美術の成立 (世界史リブレット)バロック美術の成立 (世界史リブレット)

2013/03/05

エル・グレコ展

東京都美術館で開催中の『エル・グレコ展』に行ってきました。

来年で没後400年を迎えるスペイン絵画の巨匠エル・グレコの、日本では約25年ぶりとなる大回顧展です。

エル・グレコの作品を多数所蔵するスペインのプラド美術館やエル・グレコ美術館、さらにはトレドの教会群の所蔵作品など、世界各国から51点もの作品が集められています。エル・グレコの最高傑作「無原罪のお宿り」や代表作の数々。とてもクオリティの高い、よくぞここまで集めてくれたという、まさに大回顧展にふさわしい展覧会でした。

エル・グレコ、本名ドメニコス・テオトコプーロス。スペインの画家というイメージがありますが、生まれはギリシャのクレタ島。エル・グレコとはイタリア語で「ギリシャ人」という意味で、通り名として使っていたんですね。エル・グレコの作品にはどれもギリシャ語の本名でサインがされていました。

エル・グレコはイコン画を制作する職業画家として活動を始めたといいます。2階の会場にはエル・グレコがクレタ島時代に描いたビザンチン様式の貴重なテンペラ画「聖母を描く聖ルカ」が展示されていました。これがエル・グレコ?と目を疑うような作品ですが、この画家がどのようにして「無原罪のお宿り」に行き着くのか、その軌跡を追うのもこの展覧会のひとつの楽しみだと思います。


Ⅰ-1 肖像画家エル・グレコ

エル・グレコの作品の85%は宗教画だといいますが、最も成功したのは肖像画家としてだそうです。まずは肖像画家としてのエル・グレコの魅力に迫ります。

エル・グレコ 「芸術家の肖像」
1595年頃 メトロポリタン美術館蔵

会場の入口にはエル・グレコの肖像画として有名な作品が展示されていました。ただ実際にはこの人物がエル・グレコだという明確な証拠はないのだそうです。「観る人の内面までも見通すかのような透徹したまなざし」と解説にありましたが、どこか疲れたきったようにも、何かを語りかけてくるかのようにも見える気がします。

エル・グレコ 「燃え木でロウソクを灯す少年」
1571-72年頃 コロメール・コレクション蔵

いわゆる肖像画という括りからは外れるのかもしれませんが、人物画という意味でとても印象に残ったのがこの「燃え木でロウソクを灯す少年」。エル・グレコがローマ時代に描いた一枚です。カラヴァッジオを彷彿とさせる光と影の劇的な効果に、これがエル・グレコなのかと驚きました。恐らくエル・グレコがローマにいた時代には既にバロック美術の萌芽があったのでしょう。その先駆けといってもいいような作品です。

エル・グレコ 「白貂の毛皮をまとう貴婦人」
1577-1590年頃 グラスゴー美術館蔵

エル・グレコの描く肖像画は貴族や聖職者などいわゆる地元の名士のような人たちばかりなのですが、本作は数少ない女性の肖像画の一つとして紹介されていました。スペインに渡ってすぐの頃の作品だそうですが、当時のスペインでは女性の肖像画が描かれることは非常に稀だったようです。どこか東洋的な美女を思わせる黒い髪や黒い瞳、白い肌、そしてこちらに目を向けるきりっとした視線が印象的です。後年、エル・グレコはマニエリスムの傾向が強くなりますが、こうした作品を観ると、このままこうした作品を手掛けていれば、バロック絵画の先駆者的な存在としても成功したのではないだろうかと感じます。

エル・グレコ 「フリアン・ロメロと守護聖人」
1600年頃 プラド美術館蔵

肖像画のコーナーで個人的に一番インパクトを受けたのが、この作品。フリアン・ロメロはレパントの海戦などで名を遺したスペインの英雄。彼を見守る守護聖人については諸説あるようですが、解説には聖ユリアヌスとありました。イタリアで身につけた表現力や自然主義の影響を感じつつも、身体の大きさに比べて異様に小さな顔や、守護聖人の不自然な頸の曲げ方や体のひねり方、そして視線にエル・グレコらしさを見ることができます。


Ⅰ-2 肖像画としての聖人像

エル・グレコといえば、やはりキリスト教絵画。当時の西欧美術はキリスト教絵画と切っても切れない関係にあったのは当然ですが、イタリアでルネサンスに触れ、ティツィアーノの下で学んだともいわれる人が、どうしてここまでキリスト教絵画に執着したのか。それは信仰なのか。興味は尽きないところですが、まずはエル・グレコに特徴的な半身聖人像から観ていきます。

エル・グレコ 「聖ヒエロニスム」
1600年頃 王立サン・フェルナンド美術アカデミー蔵

「聖ヒエロニスム」は2作出展されていましたが、この「聖ヒエロニスム」はとりわけ優れていると評価されているそうです。バランスを欠いた上半身や顔の大きさ、誇張された不自然さがエル・グレコらしくて面白いです。


Ⅰ-3 見えるものと見えないもの

エル・グレコというと、やはり神秘主義的な宗教画がすぐに頭に浮かびます。展覧会の解説によると、現在ではそうした神秘主義的な解釈は否定されているようです。ただ、そうしたどこか狂信的にすら思える神秘主義的な宗教画はエル・グレコの最大の魅力で、その幻視的な作品傾向はこのコーナーからもはっきりとうかがえます。

エル・グレコ 「悔悛するマグダラのマリア」
1576年頃 ブタペスト国立西洋美術館蔵

エル・グレコ 「聖アンナのいる聖家族」
1590-95年頃 メディナセリ公爵家財団タベラ施療院蔵

エル・グレコは同じテーマを何度も何度も描いているようで、「悔悛するマグダラのマリア」と「聖アンナのいる聖家族」はそれぞれの主題の代表作として紹介されていました。「悔悛するマグダラのマリア」はスペインに渡る前後の作品とされていますが、それから20年近く経って描いた「聖アンナのいる聖家族」とでは人物描写や衣の色彩や質感、そして独特の雲の描写に大きな変化が現れているのが分かります。

エル・グレコ 「フェリペ2世の栄光」
1579-82年頃 エル・エスコリアル修道院蔵

エル・グレコはスペインで宮廷画家になることを目指すのですが、スペイン王フェリペ2世に依頼され描いた「聖マウリティウスの殉教」(本展には出展されていません)が国王の不興を買い、その道は閉ざされてしまいます。この「フェリペ2世の栄光」も「聖マウリティウスの殉教」と同じくフェリペ2世が建てたエル・エスコリアル修道院に収蔵された作品。上半分に天上の世界を、下半分に現世と地獄を描き、カトリック信仰の崇高さを現しています。黒い衣を着た人はフェリペ2世だそうです。


Ⅱ クレタからイタリア、そしてスペインへ

エル・グレコは20代の半ばでヴェネチアに渡り、ヴェネチア派ルネサンスの巨匠ティツィアーノに弟子入りしたといわれています。その後ローマに移り、古典からルネサンスに至るまでの技術を身につけ、活動の幅を広げますが、30代半ばで今度はスペインに渡ります。ここではその過渡期にある作品を紹介しています。

エル・グレコ 「受胎告知」
1576年頃 ティッセン= ボルネミッサ美術館蔵

「受胎告知」も何度も描いているようですが、この作品はスペインに渡る前後のものとされています。色彩にエル・グレコらしさを感じますが、プロポーションは後年のものとは大きく異なっていて、まだデフォルメは見られません。


Ⅲ トレドでの宗教画:説話と祈り

どうしてエル・グレコはスペインに渡ったのか、その理由は定かではないようです。ただ、トレドの地でエル・グレコの作品は大きな変化を遂げます。イタリアで学んだルネサンスの自然主義に加え、カトリックの宗教的主題が融合し、歪曲した肉体や超自然的な光という斬新な表現を宗教画に用い、独自の様式を追求します。ここではエル・グレコの作品の中で最も多いといわれる祈念画を中心に紹介しています。

エル・グレコ 「聖衣剥奪」
1605年頃 サント・トメ教区聖堂蔵

この「聖衣剥奪」は、エル・グレコの代表作のひとつであるトレド大聖堂の「聖衣剥奪」を自ら描き直したレプリカ。当時ヨーロッパ随一の権威を持っていたトレド大聖堂からの依頼により描いたものの、聖像の教令に反しキリストの位置より上に群集を描いているということで書き直しを命じられるのですが、彼はそれを拒否し、裁判にまでなったそうです。こうしてエル・グレコは教会の後ろ盾も失くしてしまうのですが、それでも同じ絵を後年描いていることから、この作品は相当自信があったのかもしれません。


Ⅳ 近代芸術家エル・グレコの祭壇画:画家、建築家として

宗教画に並々ならぬこだわりを持つエル・グレコは、トレドやその周辺の教会や修道院のために数多くの祭壇画を制作し、また時には聖堂の設計にも携わっていたようです。ここではそうした祭壇画などを紹介しています。

エル・グレコ 「聖マルティヌスと乞食」
1599年頃 台湾・奇美博物館蔵

本作は、トレドのサン・ホセ礼拝堂に描いた祭壇画を自ら描き直したレプリカで、物乞いに自らのマントの与えたという聖マルティヌスの話を描いた作品。馬は普通なのに対し、人物の肉体はいびつでアンバランス。コントラストも際立っています。エル・グレコは50代を過ぎた頃から描き方に変化が現れ、写実が求められた時代に、遠近法を無視した、不明瞭なマニエリスム化と超越的な幻視的な作品傾向が極端になっていきます。

エル・グレコ 「無原罪のお宿り」
1607-13年 サン・ニコラス教区聖堂蔵

エル・グレコの最晩年の代表作にして、最高傑作の「無原罪のお宿り(御宿り)」。縦3.5メートルの大画面に天上からの光に包まれたマリアと天使や女神たちが描かれた崇高な一枚です。マリアが天上に召されるような、構図的には「聖母被昇天」によく見られるものですが、聖母を象徴する月や太陽、鏡、純潔の象徴である白ユリやバラが描かれ、華麗かつダイナミックな作品になっています。肉体は長く引き延ばされ、体のねじれも不自然であることはよく指摘されていますが、祭壇画が高いところに飾られることを念頭に置いて意図的に描かれたといわれています。会場の天井の高さはそれほど高くないので、本来の祭壇画の高さには飾られていませんが、腰をかがんで下から見上げると、不思議とマリアの顔が丸みを帯び、より神々しさが際立ちます。エル・グレコはこの作品を描いた数ヵ月後に亡くなったといわれています。

「無原罪のお宿り」は日本初来日だそうで、この機会を逃すと、わざわざトレドまで観に行かなくてはならなくなります。今年一番の展覧会のひとつだと思いますので、お見逃しなく。


【エル・グレコ展】
東京都美術館にて
2013年4月7日(日)まで


もっと知りたいエル・グレコ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)もっと知りたいエル・グレコ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)


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