シェイクスピアと同時代を生きた劇作家クリストファー・マーロウの代表作として知られる『エドワード二世』の日本では約半世紀ぶりとなる上演だそうです。
エドワード二世は中世イギリス(イングランド)の実在の王で、イギリス王室史上最も愚かな王として歴史に名を残しています。賢王として名高かった父エドワード一世の死後、追放されていた同性の愛人ギャヴィストンを呼び戻し、寵臣として重要な地位を与え、家臣たちから反感を買います。王の愛情を取り戻したい王妃イザベラは愛人モーティマーと謀ってギャヴィストンを惨殺。やがて追い込まれたエドワード二世は幽閉され、秘密裏に殺されたと言われています。
マーロウの戯曲はそうした史実(または通説)に添ったもので、エドワード二世をオトコに溺れ、政治に疎く、意志薄弱で、無能な王として描いています。今回の舞台は新訳により、現代的な解釈や言葉で演出されているようでした。
戯曲を読んでいないので何とも言えないのですが、話の筋からすると、この『エドワード二世』は本来悲劇なんだろうと思うのです。でも、これは演出の意図するものなのか、エドワード二世役の柄本佑の演技に因るものなのか、本公演は喜劇的な要素の強いものになっていました。良いか悪いかは別として、それはそれで説得力がありました。柄本佑の個性的なカラーが強烈で、王のキャラや芝居のトーンも全部彼に持っていかれた感じです。
『エドワード二世』というと、イギリスの映画監督で同性愛者であるデレク・ジャーマンが独自のゲイ的な視点でエドワード二世を現代に甦らせていますが、ジャーマン版ではエドワード二世の愛の強さと抑圧されたゲイの悲劇、そして王妃イザベラの愛憎や裏切りが強く表に出ていました。それに対し、今回の舞台はエドワード二世の王としての不適格ぶりと、イザベラと重臣たちによる権力闘争という構図が強調されていたように思います。みんながみんな策略をめぐらし、欺瞞に満ちています。誰が正しくて誰が正しくないかということがなく、登場人物たちへの感情移入は容易くありません。エドワード二世の苦悩も滑稽なものとしか思えず、イザベラの深い哀しみでさえ権力欲と裏返しに映ります。
これは予想できていたことですが、デレク・ジャーマンの映画とはアプローチが全く異なり、あのイメージでいるときっと戸惑うことでしょう。ジャーマン版はあくまでもゲイを擁護する立場に立ち、ゲイに寄った脚色をしているので、同性愛の描写は恐らく本公演の方がオリジナルに近いのだと思います。ただ、異端を排除していこうというか、ホモフォビアな意識が底を逃れているというか、同性愛に対して嘲笑的であるというか、同性愛が重要なキーワードでありながら、それを正面から向き合わず、笑いにしてはぐらかしているような、戯れ言にすることで敢えて避けているような印象を受けました。愛する者を次々と失う王への憐みや同情は感じられません。
舞台のミニチュア
舞台は金色の壁に囲まれただけの何もない空間で、衣装はスーツ。時折、王が座る椅子が舞台に現れるところなども含め、デレク・ジャーマンの映画を意識しているようです。ただ、ポール・スミスやキャサリン・ハムネットを身にまとい、スタイリッシュで現代的なデレク・ジャーマン版とは違い、どこかヤクザっぽいところがいかにも日本的。しかしそのヤクザっぽさが、チンピラなギャヴィストンや、まるでヤクザの抗争のような政権内の対立をうまく表していたと思います。途中、幕の変わり目や場面転換などにいわゆるブレヒト幕が使われ、面白い効果を上げていました。
延々とハイテンションの芝居はどうかと思いますが、役者は実力派が揃い、手堅さを感じました。特に最後に真っ赤なスーツに身を包んで登場する御年86歳の西本裕之(『ムーミン』のスナフキンの声の人)が圧巻。一瞬で場をさらってしまうのはさすがです。エドワード二世とともに重要な役であるイザベラ(映画ではティルダ・スウィントンが演じた役)を演じた中村中の凛とし威厳のある佇まいも強烈な印象を残します。これが初めての本格的な舞台だそうですが、並みいるベテラン俳優に引けを取らない存在感があります。ただ、この男性だけの芝居、ひいては同性愛色の強い芝居に彼女をキャスティングした意図はなんだったのか、彼女がイザベラを演じる意味は何なのか、そのあたりを考えると中村中を十分に生かしきれていないのではないかという気もしないでもありませんでした。
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