2012/03/14

ジャクソン・ポロック展

東京国立近代美術館で開催中の『ジャクソン・ポロック展』に行ってきました。

今年で生誕100年になるという、アメリカの抽象絵画を代表するポロックの日本初の回顧展です。

ポロックは、アメリカのモダンアートは言うに及ばず、20世紀美術における最重要の画家の一人。アメリカでは1940年代に入ると抽象表現主義が隆盛し、その後のポップアートやミニマルアート、ネオダダへと繋がっていくわけですが、ポロックは、ウイレム・デ・クーニング、アーシル・ゴーキー、マーク・ロスコ、バーネット・ニューマン、クリフォード・スティルらとともにその抽象表現主義の第一世代と呼ばれ、まずその筆頭に名前の上がる画家です。

さて、本展は約60点のポロックの作品を年代ごとに4つのパートに分け、構成されています。

Chapter1 1930-1941年 初期 自己を探し求めて
Chapter2 1942-1946年 形成期 モダンアートへの参入
Chapter3 1947-1950年 成熟期 革新の時
Chapter4 1951-1956年 後期・晩期 苦悩の中で

「誕生」 1941年頃
テートギャラリー(英)所蔵

ポロックは1912年、アメリカ、ワイオミング州の生まれ。子どもの頃は西部各地を転々とし、18歳のとき芸術家を志してニューヨークにやってきます。初期の作品にはそうした家庭環境や彼の不安定な精神状態を反映したような作品も見受けられます。この頃は、アルバート・ピンカム・ライダーといった象徴主義や1930年代アメリカで人気を集めていたリージョナリズムの流れを汲んだ作品を手掛ける一方、ピカソのキュービズム、リベラやオロスコといったメキシコ壁画運動、またネイティブ・アメリカン・アートに大きな影響を受けたといいます。この「誕生」はそうした強い影響のもとで制作された一枚で、ポロックの転換点となる作品として評価されているそうです。

「ポーリングのある構成II」 1943年
ハーシュホーン美術館蔵

ミロを思わせるような作品も展示されていましたが、この頃のポロックはピカソへの関心が非常に高く、ライバル視していたようです。やがて、ポロックのトレードマークとなる、床に広げたキャンバスに流動性の塗料を流し込む“ポーリング”(流し込み)という技法を用いはじめ、徐々に注目を集めるようになります。

 「トーテム・レッスン2」 1945年
オーストラリア国立美術館蔵

1940年代後半から1950年頃がポロックの絶頂期といわれています。1947年頃からポロックは“オールオーヴァーのポード絵画”に着手します。オールオーヴァーとは、画面を同じようなパターンで埋め尽くし、平面性を重視する構造の絵画作品で、オールオーヴァーの構成とポーリングの技法を融合させることで、ポロックは抽象表現主義の一つの頂点に達成します。

「ナンバー11, 1949」 1949年
インディアナ大学美術館蔵

会場の途中では、ポロックの制作風景をとらえた映像が流されています。10年ぐらい前に俳優のエド・ハリスが製作・監督・主演を務めた『ポロック 2人だけのアトリエ』という映画がありまして、映画でもエド・ハリスの演じるポロックがポーリングするシーンがあるのですが、それとそっくりだったのには驚きました。もちろん本家はこちらの本人なのですが、エド・ハリスは映画化を決めてから約10年に渡り実際に絵の勉強をしたといいますから、こうした映像を観て、相当熱心に研究をしたんだろうなとあらためて感心しました。

「ナンバー7, 1950」 1950年
ニューヨーク近代美術館蔵

ポーリングやドリッピング(滴らし)という手法は、無秩序に、いわば偶然性を利用して絵具をキャンバス上に流し込んだり、撒き散らしたりするんだろうとばかり思っていたのですが、ポロックの制作風景の映像を観ると、それは非常に緻密にコントロールされたものであることが分かります。ポロックの映像を観たあと彼の絵を観ると、その線や点が筆の軌跡となってリアルに伝わってくるような錯覚にとらわれます。それはまるで脳の中の無数のシナプスから発せられる信号のようで、自分の脳がポロックの絵とシンクロしているような奇妙な感覚に陥りました。

「インディアンレッドの地の壁画」 1950年
テヘラン現代美術館蔵

本展の一番の目玉が、この「インディアンレッドの地の壁画」。アメリカの美術評論家ウィリアム・ルービンが所有していたものを、76年にイランのパーレビ王妃が購入。その後、テヘラン現代美術館の所蔵作品となるものの、32年前にイラン革命が起きてからイラン国外に出たことのないという、“門外”不出の作品です。保険評価額が200億円だそうで、ポロックの作品中、最上級の1点といわれています。

【参考】  「ナンバー5, 1948」 1948年
(※この作品は本展には出展されていません)

ポロックの作品では、2006年に「ナンバー5, 1948」が絵画取引史上最高の1億4000万ドル(当時のレートで約165億円)で落札されたことが話題になりました(その後、この記録はピカソの作品に塗り替えられます)。もし、この「インディアンレッドの地の壁画」が市場に出たら、さらにその上を行くかもしれないのです。あくまでも“かも”の話ですが。その「インディアンレッドの地の壁画」は183cm×244cmと今回出展されている作品の中でもとりわけ大きく、その大きな画面から放たれる力強さ、エネルギーにはただただ圧倒されます。無秩序で雑多な線と色の組み合わせも、計算され、制御された偶然性の集まりだと思うと、そのダイナミックさも非常に繊細なものに見えてきます。 

「カット・アウト」 1948-58年
大原美術館蔵

この「カットアウト」は、ポロックの死後もアトリエに残されていた作品を、妻のリー・クラズナーが彼の別の作品を裏に貼り付けて完成させたものだそうです。ちなみに、ポロックの妻リー・クラズナーも画家で、上述した映画『ポロック 2人だけのアトリエ』は、ポロックと彼女の夫婦愛の物語として描かれています。

「ナンバー11, 1951」 1951年
ダロス・コレクション(スイス)蔵

1951年、ポロックは方向転換し、黒一色のブラック・ポーリングと呼ばれるシリーズに取り組みます。ただ、ブラック・ポーリングは評判が悪く、ポロックの凋落などと評されたりします。「黒と白の連続」といった個人的には非常に好みの作品もあったのですが、それまでの絶頂期の作品に比べると、確かに面白みに欠けるものが多いようです。このブラック・ポーリングは長く続かず、複数の色彩を取り入れた作品を再び発表しています。

「緑、黒、黄褐色のコンポジション」 1951年
DIC川村記念美術館蔵

ポロックは10代から飲酒癖があり、アルコール依存症を治すため精神科に通うなどしていて、しばしば精神状態が不安定な時期もあったようです。映画でもそのようなシーンがたびたび登場し、特に晩年はポロックを苦しませます。ブラック・ポーリングの出現もアルコール中毒による精神不安に起因しているのではないかともいわれています。そして1956年、ポロックは飲酒運転による自動車事故で44歳の若さで亡くなります。


会場を出たスペースに、ポロックのアトリエを再現したコーナーが設けられています。床一面が絵具で汚れ、会場の途中で観たポロックのオールオーヴァーの制作風景が甦ります。出展数は約60点とちょっと少ない気もしましたが、初期から晩年まで網羅なく取り上げ、まだ話題作、代表作も多く、非常に充実した良い展覧会でした。


【生誕100年 ジャクソン・ポロック展】
2012年5月6日(日)まで
東京国立近代美術館にて


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