2013/03/05

エル・グレコ展

東京都美術館で開催中の『エル・グレコ展』に行ってきました。

来年で没後400年を迎えるスペイン絵画の巨匠エル・グレコの、日本では約25年ぶりとなる大回顧展です。

エル・グレコの作品を多数所蔵するスペインのプラド美術館やエル・グレコ美術館、さらにはトレドの教会群の所蔵作品など、世界各国から51点もの作品が集められています。エル・グレコの最高傑作「無原罪のお宿り」や代表作の数々。とてもクオリティの高い、よくぞここまで集めてくれたという、まさに大回顧展にふさわしい展覧会でした。

エル・グレコ、本名ドメニコス・テオトコプーロス。スペインの画家というイメージがありますが、生まれはギリシャのクレタ島。エル・グレコとはイタリア語で「ギリシャ人」という意味で、通り名として使っていたんですね。エル・グレコの作品にはどれもギリシャ語の本名でサインがされていました。

エル・グレコはイコン画を制作する職業画家として活動を始めたといいます。2階の会場にはエル・グレコがクレタ島時代に描いたビザンチン様式の貴重なテンペラ画「聖母を描く聖ルカ」が展示されていました。これがエル・グレコ?と目を疑うような作品ですが、この画家がどのようにして「無原罪のお宿り」に行き着くのか、その軌跡を追うのもこの展覧会のひとつの楽しみだと思います。


Ⅰ-1 肖像画家エル・グレコ

エル・グレコの作品の85%は宗教画だといいますが、最も成功したのは肖像画家としてだそうです。まずは肖像画家としてのエル・グレコの魅力に迫ります。

エル・グレコ 「芸術家の肖像」
1595年頃 メトロポリタン美術館蔵

会場の入口にはエル・グレコの肖像画として有名な作品が展示されていました。ただ実際にはこの人物がエル・グレコだという明確な証拠はないのだそうです。「観る人の内面までも見通すかのような透徹したまなざし」と解説にありましたが、どこか疲れたきったようにも、何かを語りかけてくるかのようにも見える気がします。

エル・グレコ 「燃え木でロウソクを灯す少年」
1571-72年頃 コロメール・コレクション蔵

いわゆる肖像画という括りからは外れるのかもしれませんが、人物画という意味でとても印象に残ったのがこの「燃え木でロウソクを灯す少年」。エル・グレコがローマ時代に描いた一枚です。カラヴァッジオを彷彿とさせる光と影の劇的な効果に、これがエル・グレコなのかと驚きました。恐らくエル・グレコがローマにいた時代には既にバロック美術の萌芽があったのでしょう。その先駆けといってもいいような作品です。

エル・グレコ 「白貂の毛皮をまとう貴婦人」
1577-1590年頃 グラスゴー美術館蔵

エル・グレコの描く肖像画は貴族や聖職者などいわゆる地元の名士のような人たちばかりなのですが、本作は数少ない女性の肖像画の一つとして紹介されていました。スペインに渡ってすぐの頃の作品だそうですが、当時のスペインでは女性の肖像画が描かれることは非常に稀だったようです。どこか東洋的な美女を思わせる黒い髪や黒い瞳、白い肌、そしてこちらに目を向けるきりっとした視線が印象的です。後年、エル・グレコはマニエリスムの傾向が強くなりますが、こうした作品を観ると、このままこうした作品を手掛けていれば、バロック絵画の先駆者的な存在としても成功したのではないだろうかと感じます。

エル・グレコ 「フリアン・ロメロと守護聖人」
1600年頃 プラド美術館蔵

肖像画のコーナーで個人的に一番インパクトを受けたのが、この作品。フリアン・ロメロはレパントの海戦などで名を遺したスペインの英雄。彼を見守る守護聖人については諸説あるようですが、解説には聖ユリアヌスとありました。イタリアで身につけた表現力や自然主義の影響を感じつつも、身体の大きさに比べて異様に小さな顔や、守護聖人の不自然な頸の曲げ方や体のひねり方、そして視線にエル・グレコらしさを見ることができます。


Ⅰ-2 肖像画としての聖人像

エル・グレコといえば、やはりキリスト教絵画。当時の西欧美術はキリスト教絵画と切っても切れない関係にあったのは当然ですが、イタリアでルネサンスに触れ、ティツィアーノの下で学んだともいわれる人が、どうしてここまでキリスト教絵画に執着したのか。それは信仰なのか。興味は尽きないところですが、まずはエル・グレコに特徴的な半身聖人像から観ていきます。

エル・グレコ 「聖ヒエロニスム」
1600年頃 王立サン・フェルナンド美術アカデミー蔵

「聖ヒエロニスム」は2作出展されていましたが、この「聖ヒエロニスム」はとりわけ優れていると評価されているそうです。バランスを欠いた上半身や顔の大きさ、誇張された不自然さがエル・グレコらしくて面白いです。


Ⅰ-3 見えるものと見えないもの

エル・グレコというと、やはり神秘主義的な宗教画がすぐに頭に浮かびます。展覧会の解説によると、現在ではそうした神秘主義的な解釈は否定されているようです。ただ、そうしたどこか狂信的にすら思える神秘主義的な宗教画はエル・グレコの最大の魅力で、その幻視的な作品傾向はこのコーナーからもはっきりとうかがえます。

エル・グレコ 「悔悛するマグダラのマリア」
1576年頃 ブタペスト国立西洋美術館蔵

エル・グレコ 「聖アンナのいる聖家族」
1590-95年頃 メディナセリ公爵家財団タベラ施療院蔵

エル・グレコは同じテーマを何度も何度も描いているようで、「悔悛するマグダラのマリア」と「聖アンナのいる聖家族」はそれぞれの主題の代表作として紹介されていました。「悔悛するマグダラのマリア」はスペインに渡る前後の作品とされていますが、それから20年近く経って描いた「聖アンナのいる聖家族」とでは人物描写や衣の色彩や質感、そして独特の雲の描写に大きな変化が現れているのが分かります。

エル・グレコ 「フェリペ2世の栄光」
1579-82年頃 エル・エスコリアル修道院蔵

エル・グレコはスペインで宮廷画家になることを目指すのですが、スペイン王フェリペ2世に依頼され描いた「聖マウリティウスの殉教」(本展には出展されていません)が国王の不興を買い、その道は閉ざされてしまいます。この「フェリペ2世の栄光」も「聖マウリティウスの殉教」と同じくフェリペ2世が建てたエル・エスコリアル修道院に収蔵された作品。上半分に天上の世界を、下半分に現世と地獄を描き、カトリック信仰の崇高さを現しています。黒い衣を着た人はフェリペ2世だそうです。


Ⅱ クレタからイタリア、そしてスペインへ

エル・グレコは20代の半ばでヴェネチアに渡り、ヴェネチア派ルネサンスの巨匠ティツィアーノに弟子入りしたといわれています。その後ローマに移り、古典からルネサンスに至るまでの技術を身につけ、活動の幅を広げますが、30代半ばで今度はスペインに渡ります。ここではその過渡期にある作品を紹介しています。

エル・グレコ 「受胎告知」
1576年頃 ティッセン= ボルネミッサ美術館蔵

「受胎告知」も何度も描いているようですが、この作品はスペインに渡る前後のものとされています。色彩にエル・グレコらしさを感じますが、プロポーションは後年のものとは大きく異なっていて、まだデフォルメは見られません。


Ⅲ トレドでの宗教画:説話と祈り

どうしてエル・グレコはスペインに渡ったのか、その理由は定かではないようです。ただ、トレドの地でエル・グレコの作品は大きな変化を遂げます。イタリアで学んだルネサンスの自然主義に加え、カトリックの宗教的主題が融合し、歪曲した肉体や超自然的な光という斬新な表現を宗教画に用い、独自の様式を追求します。ここではエル・グレコの作品の中で最も多いといわれる祈念画を中心に紹介しています。

エル・グレコ 「聖衣剥奪」
1605年頃 サント・トメ教区聖堂蔵

この「聖衣剥奪」は、エル・グレコの代表作のひとつであるトレド大聖堂の「聖衣剥奪」を自ら描き直したレプリカ。当時ヨーロッパ随一の権威を持っていたトレド大聖堂からの依頼により描いたものの、聖像の教令に反しキリストの位置より上に群集を描いているということで書き直しを命じられるのですが、彼はそれを拒否し、裁判にまでなったそうです。こうしてエル・グレコは教会の後ろ盾も失くしてしまうのですが、それでも同じ絵を後年描いていることから、この作品は相当自信があったのかもしれません。


Ⅳ 近代芸術家エル・グレコの祭壇画:画家、建築家として

宗教画に並々ならぬこだわりを持つエル・グレコは、トレドやその周辺の教会や修道院のために数多くの祭壇画を制作し、また時には聖堂の設計にも携わっていたようです。ここではそうした祭壇画などを紹介しています。

エル・グレコ 「聖マルティヌスと乞食」
1599年頃 台湾・奇美博物館蔵

本作は、トレドのサン・ホセ礼拝堂に描いた祭壇画を自ら描き直したレプリカで、物乞いに自らのマントの与えたという聖マルティヌスの話を描いた作品。馬は普通なのに対し、人物の肉体はいびつでアンバランス。コントラストも際立っています。エル・グレコは50代を過ぎた頃から描き方に変化が現れ、写実が求められた時代に、遠近法を無視した、不明瞭なマニエリスム化と超越的な幻視的な作品傾向が極端になっていきます。

エル・グレコ 「無原罪のお宿り」
1607-13年 サン・ニコラス教区聖堂蔵

エル・グレコの最晩年の代表作にして、最高傑作の「無原罪のお宿り(御宿り)」。縦3.5メートルの大画面に天上からの光に包まれたマリアと天使や女神たちが描かれた崇高な一枚です。マリアが天上に召されるような、構図的には「聖母被昇天」によく見られるものですが、聖母を象徴する月や太陽、鏡、純潔の象徴である白ユリやバラが描かれ、華麗かつダイナミックな作品になっています。肉体は長く引き延ばされ、体のねじれも不自然であることはよく指摘されていますが、祭壇画が高いところに飾られることを念頭に置いて意図的に描かれたといわれています。会場の天井の高さはそれほど高くないので、本来の祭壇画の高さには飾られていませんが、腰をかがんで下から見上げると、不思議とマリアの顔が丸みを帯び、より神々しさが際立ちます。エル・グレコはこの作品を描いた数ヵ月後に亡くなったといわれています。

「無原罪のお宿り」は日本初来日だそうで、この機会を逃すと、わざわざトレドまで観に行かなくてはならなくなります。今年一番の展覧会のひとつだと思いますので、お見逃しなく。


【エル・グレコ展】
東京都美術館にて
2013年4月7日(日)まで


もっと知りたいエル・グレコ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)もっと知りたいエル・グレコ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)


エル・グレコの世界エル・グレコの世界


美の旅人 スペイン編1 (小学館文庫)美の旅人 スペイン編1 (小学館文庫)

2013/02/23

琳派から日本画へ -和歌のこころ・絵のこころ-

山種美術館で開催中の『琳派から日本画へ -和歌のこころ・絵のこころ-』を観て参りました。

昨今の琳派ブームを決定付けた(?)2008年の東京国立博物館の『大琳派展』とほぼ同時期に、山種美術館でも『琳派から日本画へ』という展覧会が開催されていました。

そのときは近代の日本画家が琳派をどのように作品に活かしたかという視点から俵屋宗達と酒井抱一、そして速水御舟と下村観山らの作品を中心にした構成になっていましたが、その第2弾(?)にあたる本展は副題にあるように、“和歌”と“装飾性”の視点から琳派と近代日本画を捉えています。

琳派がその後の日本画にどう受け継がれていったか、というありがちでな観点ではなく、「料紙装飾の華麗な平安古筆」が、江戸時代の琳派の造形にどう影響を与え、それが近代日本画にどう引き継がれていったか、という山種美術館らしいアプローチで、琳派と日本画を多角的に検証し、紹介しています。

会場は2つの章で構成されています。
第1章 歌をかざる、絵をかざる ―平安の料紙装飾から琳派へ―
第2章 歌のこころ、絵のこころ ―近代日本画の中の琳派と古典―

第1章はさらに「料紙装飾の世界」と「琳派の世界」から成っています。

第1会場に入ったところには、俵屋宗達と本阿弥光悦の合作「新古今集鹿下絵和歌巻断簡」(展示は3/3まで)が展示されていました。もとは一巻の巻子本だったのですが、残念なことに戦後二分割されて、前半部はさらに分断され、後半部はアメリカのシアトル美術館が購入します。山種美術館蔵の断簡はかつての巻頭部分にあたるもので、西行法師の和歌が散らし書きされています。ちなみに所在不明の断簡を除いた全巻はシアトル美術館のウェブページで観ることができます(→ こちら)。

俵屋宗達[絵]・本阿弥光悦[書] 「新古今集鹿下絵和歌巻断簡」
17世紀(江戸時代) 山種美術館蔵(展示は3/3まで)

料紙装飾の展示としては、ほかにも古今集や和漢朗詠集の断簡や本阿弥光悦の「摺下絵古今集和歌巻」、また大らかな書体と美しい料紙の里村紹巴の「連歌懐紙」(展示は3/3まで)などが印象に残りました。

今回の展示の注目作品のひとつが俵屋宗達の「源氏物語図 関屋・澪標」(展示は3/3まで)。これは静嘉堂文庫美術館が所蔵する国宝指定の宗達の「源氏物語図 関屋・澪標図屏風」とほぼ同一構図で、静嘉堂本が金地に描かれていているのに対し、本展出品作は素地に金泥引きで、山並みにたらし込みが用いられている点以外はディテールはほぼ一緒という作品です。宗達の落款はあるけれども、果たして真筆か否か不明ということで、作家名は「俵屋宗達(款)」となっていましたが、静嘉堂本との関係や宗達自身の手によるものか工房作かなど非常に興味を掻き立てるものがあります。

酒井抱一 「秋草鶉図」 (重要美術品)
19世紀(江戸後期) 山種美術館蔵(展示は3/3まで)

琳派ファンにはお馴染みの抱一の「秋草鶉図」。月は銀泥で描かれたものが経年劣化で変色したといわれていましたが、実は意図的に黒くしてあるということが最近になって分かったのだそうです。パッと見では美術史家も研究者も、墨なのか銀の変色か分からないものなのですね。ちなみに鶉は秋の景物として和歌に古くから詠まれているそうで、また鶉の描写には土佐派の影響も指摘されているとのことでした。

琳派の作品としては、ほかにも尾形光琳の「四季草花図巻」や酒井抱一の「月梅図」、抱一の弟子・酒井鶯蒲の「紅白蓮・白藤・夕もみぢ図」など観るべきものが多くあります(いずれも展示は3/3まで)。また、尾形乾山の「八橋図」が、兄・光琳の「燕子花図」や「八橋図」と異なり、軽妙なざっくりとした描写で、捨てがたい味わいがあり、個人的に非常に好きでした。カテゴリー的には琳派ではないのかもしれませんが、柴田是真の漆絵「浪に千鳥」も印象的な作品です。鈴木其一と直接交流があったそうで、その影響も指摘されているようです。

菱田春草 「月四題」
1909-10年(明治42-43年)頃 山種美術館蔵

第2章も「琳派に学ぶ」、「歌・物語に学ぶ」に分けて作品を紹介しています。

こちらの近代日本画も、下村観山の「老松白藤」や菱田春草の「月四題」、松岡映丘の「春光春衣」など優品揃い。特に印象に残ったのは、西郷孤月の三幅の掛け軸「月・桜・柳」で、淡彩で表現された朦朧体の朧月と薄く霞のかかった桜と柳のあまりの美しさにしばらく足を止めて見入りました。解説によると画業の初期には橋本雅邦門下四天王の一人とされ、将来を嘱望されていたそうですが、その後いろいろあって、38歳の若さで夭折してしまったのだとか。機会があれば、この方の作品をもっと観てみたいと思いました。

川端龍子 「八ツ橋」
1945年(昭和20年) 山種美術館蔵(展示は3/3まで)

極めつけは川端龍子の「八ツ橋」でしょうか。戦争末期の相次ぐ空襲の中で1ヵ月半で完成させたという正に渾身の一作。龍子は画業の初期に光琳に傾倒していたことがあり、本作も光琳の「八橋図屏風」をモチーフにしているのは見て明らかです。それでも光琳的な意匠性を意識しながらも、「その花の向き多くの変化あって然も統一せしめたもの」と龍子が語るように、色の組み合わせや構図、また筆致の妙など龍子らしい勢いを感じさせ、独創的な、それでいてオマージュ的な作品になっていました。

深江芦舟 「蔦の細道図」 (重要文化財)
18世紀(江戸時代) 東京国立博物館蔵(展示は3/5から)

後期には、琳派の系譜の中で繰り返し描かれてきた伝・俵屋宗達の「槙楓図」や、同じく宗達、光琳と継承されてきた伊勢物語第9段の宇津山のくだりを描いた深江芦舟「蔦の細道図」や酒井抱一の「宇津の山図」も展示されます。光琳に師事した琳派の絵師・芦舟と光琳に私淑した抱一の作品を見比べるのも面白いかもしれません。

この日は、山種美術館近くの國學院大学院友会館で山下裕二先生の講演会「私の琳派感」があり、帰りにお話を伺って参りました。宗達や光琳、抱一、そして其一の比較から、会田誠の話まで。もちろん今回の展覧会の出展作についてのお話もあり、大変楽しく拝聴いたしました。

琳派は400年、和歌は1000年。長い日本の伝統の中で育まれた文化がどのように結びついているのか、なかなか興味深いテーマだったと思います。琳派好きとしては、『琳派から日本画へ』は今後もシリーズ化されるとうれしいですね。


『琳派から日本画へ -和歌のこころ・絵のこころ-』
2013年3月31日(日)まで
〔前期:2月9日(土)~3月3日(日)、後期:3月5日(火)~3月31日(日)〕
山種美術館にて


すぐわかる琳派の美術すぐわかる琳派の美術


俵屋宗達 琳派の祖の真実 (平凡社新書)俵屋宗達 琳派の祖の真実 (平凡社新書)


もっと知りたい俵屋宗達―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)もっと知りたい俵屋宗達―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)


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美術手帖 2008年 10月号 [雑誌]美術手帖 2008年 10月号 [雑誌]

2013/02/17

歌舞伎 -江戸の芝居小屋-

サントリー美術館で開催中の 『歌舞伎 -江戸の芝居小屋-』に行ってきました。3年の立て直し工事を終え、ようやく“新”歌舞伎座が開場するのを記念しての展覧会です。

しかし、この3年の間には、とてもとても悲しいことがありました。「歌舞伎座さよなら公演」のとき、新しい歌舞伎座がこのような試練を前にしているとは誰が想像したでしょうか。

中村富十郎、中村芝翫、中村雀右衛門という人間国宝で歌舞伎界の重鎮の三人の相次ぐ死。そして中村勘三郎、市川團十郎という歌舞伎の将来を担う二大看板の突然の訃報。これからの歌舞伎のことを考えると、暗澹たる気持ちになります。

しかし、歌舞伎400年の歴史の中では、こうした看板役者の死が人々を落胆させても、新しい役者が生まれ、新しい芝居が生まれ、歌舞伎が脈々と受け継がれてきたわけです。江戸時代には歌舞伎は幾度となく取締りの対象となり、それでも勢いが衰えるどころか、ますます隆盛を極めたのです。今回の展覧会は、新しく始まる歌舞伎に立ち会うにあたり、歌舞伎の歴史を振り返り、歌舞伎がその時代時代に密接に関わってきた文化や精神、空気を知るという意味で、格好の展覧会なのかもしれません。

「阿国歌舞伎図屏風」 (重要文化財)
桃山時代・17世紀 京都国立博物館蔵 (展示は2/27~3/11)

会場は、
第1章 劇場空間の成立
第2章 歌舞伎の名優たち
第3章 芝居を支える人々
で構成されています。

入口を入ると、“出雲の阿国”を描いた草紙や屏風、また初期の歌舞伎興行の様子を描いた洛中洛外図屏風などが展示されています。

“出雲の阿国”がどうのとか、女郎歌舞伎や若衆歌舞伎はなんたらとか、そういう説明はほとんどなく、割とあっさりした展示内容なので、歌舞伎の歴史にあまり詳しくない人は、歌舞伎の成り立ちなどちょっとは知っておいた方が楽しめるかも。

「歌舞伎図巻」(部分) (重要文化財)
江戸時代・17世紀 徳川美術館蔵 (展示は2/6~2/25)

自分は歌舞伎歴も浅く、まして歌舞伎の歴史になるとあまり詳しくありませんので、“出雲の阿国”が登場した当時は能舞台で演じられたとか、鳴り物(楽器)は能を踏襲していて、初期はまだ三味線を入れてなかったとか今回初めて知りました。

「歌舞伎図巻」は初期の女歌舞伎を描いたもので、舞台裏の様子にも焦点を当てていたりします。お客さんは老客男女、貴賤を問わず、南蛮人もいたり、また役者の胸にはロザリオがあったりと、当時の文化・流行の様子もうかがえて、非常に面白かったです。

伝菱川師宣 「上野花見歌舞伎図屏風」(左隻)
元禄6年(1693)頃 サントリー美術館蔵 (展示は2/27~3/31)

江戸初期の中村座など芝居小屋の内部の様子を描いた作品も多くありました。歌舞伎が江戸で上演されるようになった初期も舞台はまだ能舞台に近く、それでも花道や桟敷席など、だんだんと芝居小屋らしくなってきているのが分かります。芝居そっちのけで喧嘩をしている人がいたり、煙管を吸ったり、鍋(?)や舟盛りを食べながら芝居見物してたり、昔の土間席には屋根がなかったとか、江戸の賑やかな芝居小屋の雰囲気が伝わってきます。

猿若町の屋敷地図「呼子鳥和歌町三町全図」というユニークなものも展示されていました(展示は2/18まで)。江戸三座や人形浄瑠璃の芝居小屋が集まり一番賑やかだった頃の猿若町の地図で、猿若町のどこに役者が住んでいたかも分かる珍品。芝居小屋の並びや町の様子、團十郎や菊五郎、幸四郎などの屋敷の広さや役者の暮らす長屋と思しい通り…いろいろ面白いです。 

歌川国貞 「役者はんじ物 市川團十郎」
文化9年(1812) 千葉市美術館蔵 (展示は2/6~2/25)

浮世絵の役者絵も多く展示されていましたが、こちらはただ無作為に並んでいるという感じで、点数も少なく、ちょっと拍子抜け。おととし渋谷のたばこと塩の博物館で開催された『役者に首ったけ!』展に比べると、物足らなさが残ります。

歌舞伎界の名優が描いた絵なども展示されていましたが、こちらもおととし山種美術館で開催された『知られざる歌舞伎座の名画』でも同様のものが展示されていたので、ちょっと新鮮味に欠けました。もう一工夫欲しかったところ。それでも、九代目團十郎の直筆の俳句と絵による「俳句かるた」は一見の価値あり(展示は2/18まで)。どこぞやの日本画家の手になるものといわれても納得するレベルで、最早玄人の域でした。昔の歌舞伎役者は俳句を詠んだり絵を嗜んだり、どれだけ風流だったことか。そのセンスが役にも活かされたんでしょうね。

最後のコーナーには『助六』で六代目中村歌右衛門が実際に着用した豪華な墨絵白地の打掛が展示されていました。『助六』で揚巻は何度か衣装を替えますが、二度目に登場するときは七夕をモチーフにした短冊柄の帯で登場することになっていて、その時に着る打掛に歌右衛門は絵を描かせたそうです。いずれも日本画壇の重鎮の手によるものばかりで、自分が観に行ったときは山口蓬春と堅山南風の作品が展示されていました。ほかにも前田青邨や東山魁夷作の打掛も展示されます。(雀右衛門は片岡球子に描いてもらったのだそうな。それも観たかった。)

今回の展覧会は出展数だけ見ると、約240点と非常に多いのですが、展示替えが非常に多く、わずか2ヶ月足らずの会期中に7回の展示替えがあります。4回ぐらい来れば全作品観られるようですが、さすがにそうそう何度も足を運ぶことは難しいので、せめて前期・後期で出展作品を網羅できるような構成にしてもらえると、満足感も上がり、有り難かったかなと思います。


『歌舞伎座新開場記念展 歌舞伎 -江戸の芝居小屋-』
2013年3月31日(日)まで
サントリー美術館にて


一冊でわかる歌舞伎名作ガイド50選一冊でわかる歌舞伎名作ガイド50選


大江戸歌舞伎はこんなもの (ちくま文庫)大江戸歌舞伎はこんなもの (ちくま文庫)


2013/02/13

新春の国宝那智瀧図 仏教説話画の名品とともに

根津美術館で開催の『新春の国宝那智瀧図』展に行ってきました。

根津美術館所蔵の国宝「那智瀧図」が公開されるのは、3年前の根津美術館のリニューアルオープン記念展以来のこと。先日のNHK Eテレで放映された『日曜美術館』の特集『杉本博司 × 那智瀧図』を見て、久しぶりに「那智瀧図」を見たくなったのですが、なかなか時間が思うように作れず、ようやく最終日に駆け込みで観て参りました。

まず、第1室には、サブタイトルにもある“仏教説話”にまつわる作品が展示されています。ここでは4つのテーマに分けられていました。

「仏教説話画のはじまり 本生図と仏伝図」
「テーマの広がり 釈迦から羅漢まで」
「教化と勧進の絵画 巻子本と掛幅装」
「神聖化される伝記 聖徳太子と弘法大師」

釈迦や羅漢、祖師や聖徳太子などの絵伝、またお寺の縁起絵。もともとが仏教を広め、諭す手段として使われたものなので、その絵ひとつひとつに意味があり、また丁寧な解説パネルも手伝って、非常に分かりやすく楽しめました。

吉山明兆 「羅漢図」 (重要文化財)
南北朝時代 14世紀  根津美術館蔵

今回の展示で印象的だったのが、明兆の「羅漢図」。南北朝時代のものだそうですが、非常に色が鮮やかで保存状態がいいのに驚きました。もともとは京都・東福寺伝来の「五百羅漢図」の50幅連作のもので、そのうちの2幅が現在根津美術館所蔵になっているようです。中国から伝わった「五百羅漢図」を原本とした日本での最初期の羅漢図として貴重なものということです。人物描写や色の感じが増上寺所蔵の狩野一信の「五百羅漢図」を思わせ、もしかしたらこの作品の影響を受けているのかもしれないなと思いました。

「善光寺縁起絵」(3幅のうち) (重要文化財)
鎌倉時代 13~14世紀  根津美術館蔵

「善光寺縁起絵」は3幅からなり、三国伝来の霊像と伝えられる長野・善光寺の本尊・阿弥陀三尊像がどのようにして善光寺に辿り着いたのかを絵解きした縁起絵です。一幅目はお釈迦様の時代の天竺から百済へ阿弥陀三尊が渡来するまでを描き、二幅目は大和朝廷での崇仏廃仏の受難と聖徳太子による守屋征伐を、中央に飾られた三幅目では善光寺草創を描いています(上の写真は第三幅)。

そのほかにも、釈迦の前世での善行と現世で悟りを開くまでの物語の絵と経文を上下段に描いた「絵過去現在因果経」(重要文化財)や参詣するとどのような悪趣から救済されるかを描いた「矢田地蔵縁起絵巻」、聖徳太子伝説を描いた「聖徳太子絵伝」などが展示されていました。

「那智瀧図」(国宝)
鎌倉時代 13~14世紀  根津美術館蔵

第2室は「那智瀧図」だけが展示され、ゆったりとした空間の中で落ち着いて拝見することができました。

「那智瀧図」は縦160cmの絹本で、神体である瀧を描いた唯一の垂迹画とされています。一見、日本の伝統的な仏画の手法で描かれているように見えますが、中国の宗・元の水墨画の影響も指摘されているそうです。今は退色し、全体的にやや茶色がかっていますが、かつては岩肌の金泥や針葉樹の緑や紅葉が豊かな色調だったとのこと。それでも瀧の白さは眩いばかりに神々しく、崇高さが失われていないのに驚きます。山の右手上には丸い月が、滝の下部には杉が屋根を貫く拝殿や亀山上皇参詣の碑とされる卒塔婆があるのがかすかに分かります。

「那智瀧図」の展示はまた数年後のことかもしれませんが、公開の際には是非お見逃しなく。


【コレクション展 新春の国宝那智瀧図 仏教説話画の名品とともに】
2013年1月9日~2月11日まで(会期終了)
根津美術館にて

やまと絵 (別冊太陽 日本のこころ)やまと絵 (別冊太陽 日本のこころ)

2013/01/26

円空展

ちょっと個人的な事情で、展覧会に足を運ぶ時間が全然作れなくて、行ったら行ったでブログも更新できてなくてすいません。しばらくこんな状態が続くかもしれませんが…。

さて、先日東京に数年ぶりの大雪が降った日に、東京国立博物館で開催中の『飛騨の円空―千光寺とその周辺の足跡―』に行ってきました。

本展は、平成館の特別展示室ではなく本館の特別5室(本館入口を入って正面の小部屋)を使っての展覧会のため部屋も小さいのですが、狭い空間に約100体(作品数でいうと46点)の円空仏が所狭しと展示されており、とても密度の濃い展覧会でした。

東京国立博物館では過去にも、『仏像 一木にこめられた祈り』(2006年)や『対決-巨匠たちの日本美術』(2008年)で円空の仏像が取り上げられていました。そのときは円空と同じ江戸時代の僧侶で各地を行脚し、素朴な仏像を数多く残した木喰の仏像とともにの展示でしたが、今回は円空の仏像だけにスポットを当てています。

円空は、土地々々の木を素材にして、荒削りで手作り感のある、素朴で、いかにも庶民信仰的な風合いが特徴的です。

円空作 「不動明王および二童子立像」
江戸時代・17世紀 千光寺蔵

円空は西は奈良から北は北海道まで、生涯で12万点にも及ぶ仏像を彫ったといわれていますが、本展では岐阜・千光寺所蔵の円空仏61体を中心に、岐阜県高山市所在の100体を展示しています。粗彫りの円空仏が静かに居並ぶ空間は、かすかに針葉樹の香りがして、飛騨の森の中にいるような気分になりました。

円空作 「両面宿儺坐像」
江戸時代・17世紀 千光寺蔵

本展の目玉の一つが、ポスターにも取り上げられている「両面宿儺坐像」。宿儺(すくな)は一つの体に二つの顔があって、日本書紀では仁徳天皇の敵とされているそうですが、もとは飛騨の豪族ともいわれ、飛騨では悪龍を退治したという伝承も残り、救世観音の化身ともいわれているのだそうです。入念に刻み込まれた彫と円空仏にはあまり見られない光背を配し、丁寧に作られた様子がうかがわれます。

円空作 「金剛力士(仁王)立像 吽形」
江戸時代・17世紀 千光寺蔵

円空作 「千手観音菩薩立像」
江戸時代・17世紀 清峰寺蔵

円空仏は鉈一本で彫られたなんて話もありますが、こうしていろいろと円空の仏像を観ていると、荒削りではありますが、実はノミや彫刻刀などで丁寧に彫られていて、とても心のこもったものであることがよく分かります。立ち木にそのまま彫ったという「金剛力士(仁王)立像」のような、いかにも鉈彫り的な作品もありましたが、そんな大胆で、野性的な仏像ばかりでははなく、中には時間をかけて作ったのだろうと思うようなものも多くありました。

円空作 「三十三観音立像」
江戸時代・17世紀 千光寺蔵

円空の仏像は寺院や神社に納められるだけでなく、祠や民家にも祀られ、庶民の信仰の対象となっていたそうで、病気で苦しむ人がいれば薬師如来像を彫って与えたというエピソードが紹介されていました。この「三十三観音立像」も、近隣の人々が病気になると借り出しては回復を祈ったといいます。かつては50体以上あったのではないかといわれているそうですが、現存するのは31体だけで、あとは持ち出されたまま戻ってこないのだとか。恐らくはまだどこかの民家に眠っているのかもしれませんね。

円空作 「柿本人麿坐像」
江戸時代・17世紀 東山神明神社蔵

仏像だけではなく、「柿本人麿坐像」なんていうのもありました。神社に納められているということは何かの神様的なものなのでしょうか? ほかにも、とぐろを巻いた蛇に人の頭がついた宇賀神や迦楼羅(烏天狗)などあまり見かけない仏像(神像)もありました。宇賀神は雨乞いや招福を祈る神様で、烏天狗は火難除けの神様とされていて、いずれも庶民信仰の求めに応じて造られたものなのでしょう。いかにも円空的なユニークな狛犬も展示されていました。

円空作 「如意輪観音菩薩坐像」
江戸時代・17世紀 東山白山神社蔵

個人的にお気に入りのひとつが、この「如意輪観音菩薩坐像」。にっこりと微笑む優しげな面差しで、頬に添えた大きな手が何もかも包み込んでくれるような暖かさがあります。「十一面観音菩薩坐像および両脇侍立像」の観音様も大きな手が印象的でした。

狭い展示室なので、混むとかなり窮屈に感じるかもしれません。会期末で混む前にご覧になられることをお勧めします。


【飛騨の円空―千光寺とその周辺の足跡―】
2013年4月7日(日)まで
東京国立博物館特別5室にて

美術手帖 2013年 02月号 [雑誌]美術手帖 2013年 02月号 [雑誌]


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