2014/03/26

杉本文楽 曾根崎心中

世田谷パブリックシアターで『杉本文楽 曾根崎心中』を観てきました。

文楽の観劇歴はまだ2年足らずのひよっこですが、現代美術家の杉本博司氏がプロデュースしたとあり、2011年の杉本文楽を見逃した身としては是非観たいと思っておりました。

アート系のファンからは絶賛の評価を聞いていましたが、文楽ファンからはかなり手厳しい批判も耳に入っていたので、そのあたりを自分でも確かめてみたいというのもありました。

構成・演出・舞台美術・映像は杉本博司が手掛け、太夫には豊竹嶋大夫、豊竹呂勢大夫、竹本津駒大夫、三味線に人間国宝の鶴澤清治、鶴澤藤蔵、人形遣いに桐竹勘十郎などなど錚々たる顔ぶれ。文楽勢の力の入れようが分かります。

今回の杉本文楽のポイントとしては、
  • 『曾根崎心中』の初演時の台本を使い近松門左衛門の原文に忠実に舞台化したこと
  • 現代では行われなくなった“一人遣い”を採用したこと
  • 現在の文楽公演ではカットされている「観音廻り」を復活させたこと
  • 文楽に必須の“手摺り”をなくしたこと(下駄も履かない)
  • 杉本博司による舞台美術や映像、束芋のアニメーションが使われていること
などでしょうか。

従来の文楽では舞台に沿って“手摺り”があり、人形は横の動きに限定されるわけですが、杉本文楽は“手摺り”がないので縦の動きを可能とし、「観音廻り」では舞台奥から手前に向かい、お初が歩いてくるという演出を実現しました。NHKで放映した初演時のドキュメンタリーを観ていましたので、どんな感じかは多少分かっていましたが、私自身はなかなか面白いアイディアだなと思っています。ただ、会場のSPTは初演時の神奈川芸術劇場より舞台構造が小さく、縦の導線が思ったほど長くなかったのと、初演時にはあった「道行」での縦の動きが本公演ではありませんでした。(他に杉本氏所蔵の観音像が登場しなかったなど演出上の変更点はいくつかあるようです)

「観音廻り」の見どころは、やはり勘十郎による一人遣いの人形表現と、今回のために作曲された鶴澤清治による楽曲と、呂勢大夫が切々と謳いあげる近松オリジナルの詞章でしょう。お初は実は観音信仰が高く、仏に帰依する気持ちが『曾根崎心中』の浄土思想の根本にあるということで、この「観音廻り」の復活は非常に意味のあるものだと思うのですが、ただ残念なのは、そうした重要な事柄が一体どれだけの人に伝わっているのかということ。舞台は闇の中で進行するため、床本を見ることもできず、また文楽公演にあるような字幕もありません(字幕表示の是非は別として)。

「観音廻り」では舞台の背景に杉本博司による映像と束芋が手がけたアニメーションが流されます。演出としてはユニークな試みでしたが、思ったほどの映像体験でも、期待したほどの映像効果もなく、また話題のアニメーションも近松の雰囲気とは合わず浮いていました。そのあとの「生玉社の段」、「天満屋の段」、「道行」は筋としては『曾根崎心中』と同じで(本は違うのでしょうが)、先に挙げた点を除けば特に意表を突く演出はありません。全体的に照明は非常に計算され、高い効果を上げていると感じましたが、たとえば「生玉社の段」は手摺りや背景の書き割りもないため、人形遣いの動きが不安定で、緊張感のない場になってしまったのは否めません。

コクーン歌舞伎が伝統に縛られない現代的な演出やスタイリッシュなセットなどで従来の歌舞伎ファン以外の層に受け入れられ、歌舞伎であって歌舞伎とちょっと違うように、杉本文楽も文楽であって文楽とはちょっと違います。初演版の台本を使うとか一人遣いとか、杉本博司が古典回帰を狙ったのかといえば、それはまた違う話で、あくまでも杉本氏の表現手段のネタとしての『曾根崎心中』なのだなという印象です。

アイディアや演出はさすがユニークでよく考えてるなと思いましたが、冠に杉本の名が付いていようがいまいが、文楽の力は圧倒的で、近松の世界はやはり面白いなぁというのが率直な感想。文楽ファンから見れば、批判の対象となるところもいろいろあるのでしょうが、私はそこまでは思ってなく、文楽の間口を広げるためにも、こうした新しい試みはあってもいいのじゃないかと思います。今回の公演で初めて文楽に触れた人たちが、これから文楽に親しんでくれたなら、杉本文楽をやった意味もあるというもの。それと、できれば、本来の文楽公演で、あらためて「観音廻り」の復活上演をして欲しいですね。


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