2015/08/23

伝説の洋画家たち 二科100年展

東京都美術館で開催中の『伝説の洋画家たち 二科100年展』に行ってきました。

二科展というと昔は文展から分離した由緒ある展覧会で、洋画家の登竜門としてそれなりの位置づけだったわけですが、近年は芸能人が入選したりすることで話題になるぐらいですから、名もあるけれど、いい意味で門戸の広い展覧会なんだろうなという印象を持ってました。

そんなこともあり、ちょっとスルーしてたのですが、観に行かれた方の評判も割といいので、夏休みで時間もありましたし、ちょっと拝見してまいりました。

お盆休みの土曜日でさぞや混んでるかと思いましたが、館内はそれほどでもなく、もう10年近く前ですが、国立新美術館で開かれた『日展100年展』や、昨年の日本美術院再興100年記念の『世紀の日本画』などに比べると、お客さんの入りもいま一つでしょうか。それでも日本の洋画界を牽引してきた錚々たる画家の作品が並んでますし、西洋画のトレンドや技術を貪欲に吸収してきた日本の近代洋画の流れを見る上でもなかなか興味深い内容になっています。


第1章 草創期 1914-1919年

文展の日本画部門が新旧の二科に分かれ、新しい傾向の画家たちも受け入れられやすかったのに対し、洋画部門は一科制で旧態依然としていたことから、不満を抱いた一部の洋画家たちが公募展を立ち上げたのが二科展のはじまり。初期の二科展では坂本繁二郎や梅原龍三郎、山下新太郎、有島生馬ら、創設メンバーの作品が中心ですが、その中でも村山槐多や関根正二というまだ10代の若手画家や、また萬鉄五郎や東郷青児といった新しい傾向の画家が登場するところに二科展の気風を感じます。

村山槐多 「田端の崖」
大正3年(1914) 信濃デッサン館蔵

関根正二 「姉弟」
大正7年(1918) 福島県立美術館蔵

村山槐多は22歳で、関根正二は20歳で夭折してしまうわけですが、いまもこれだけ名を残しているのは二科展が彼らに光を当てたことも大きいのだろうと思います。二人は残された作品も少ないので、こうして揃って観られるのは貴重です。ほかにも岸田劉生や正宗得三郎、保田龍門といった後に大成する画家の初期作品が観られるのも有り難いですね。梅原龍三郎や山下新太郎のようにルノワールに感化された作品もあれば、萬鉄五郎や東郷青児のようにキュビズムを取り入れた作品もあって、同時代のものとして並んでいるのも面白いところ。

萬鉄五郎 「もたれて立つ人」
大正6年(1916) 東京国立近代美術館蔵


第2章 揺籃期 1920-1933年

作品数としても多く、また質的にも充実しているのが第2章。この頃になると海外に出る人も多く、また最新の情報にも貪欲になっているのか、キュビズムやシュルレアリスム、未来派といった前衛絵画など西洋の新傾向が時間のズレもなく日本の洋画界にも伝播しているのが分かります。

黒田重太郎 「一修道僧の像」
大正11年(1922) 個人蔵

フランスのキュビズムの画家アンドレ・ロートの作品が数作展示されていましたが、ロートの作品は“おだやかなキュビズム”と呼ばれ、日本人にも受け入れやすかったのか、黒田重太郎が師事したほか、古賀春江など多くの日本人画家に影響を与えたといいます。中には、ドニに師事したという矢部友衛のようにキュビズムの影響が濃厚な作品もありましたが、黒田重太郎の「一修道僧の像」はキュビズムでも然程厳格でなく、写実的なタッチと抑えたトーンが印象的です。

坂本繁二郎 「帽子をもてる女」
大正12年(1923) 石橋財団石橋美術館蔵

正宗得三郎 「パリのアトリエ」
大正12年(1923) 岡山県立美術館蔵

坂本繁二郎の作品は3点出品されていて、得意の馬の絵もいいのだけれど、フランス時代に描いた「帽子をもてる女」は個人的にも好きな作品。色の面で大胆に描いてるにもかかわらず、女性の存在感や個性、服や帽子の肌触りや穏やかな空気感まで伝わってくるようです。

フランス留学組では、正宗得三郎の「パリのアトリエ」が印象的。野山の風景の絵のイメージのある画家だったので、こんな洒落た絵も描いていたのかというのも新しい発見です。ルオーに師事したという伊藤廉の「窓に倚る女」は暗い色調とタッチがルオー的でこれも雰囲気があります。

東郷青児 「超現実派の散歩」
昭和4年(1929) 東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館蔵

佐伯祐三 「新聞屋」
昭和2年(1927) 個人蔵

“二科会のドン”東郷青児は3点あって、「ピエロ」はキュビズムの影響を匂わせるも、丸みを帯びた大柄なピエロの造形がユニーク。東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館でも数年前に観た「超現実派の散歩」は解説に「風紀取り締まりにより公開禁止となるが、一部修正を加えることで出品を認められた」とありましたが、こののんびりとした感じの絵のどこが風紀を乱したのでしょう(もちろん展示されてるのは修正後のものですが)。うーん気になる。

佐伯祐三は2点あって、ユトリロの影響を強く感じる「リュ・ブランシオン」と遺作の「新聞屋」。「新聞屋」はよくあるパリの抒情的な風景とも違い、佐伯らしい繊細なタッチでありながらも新鮮さと力強さを感じさせます。

木下孝則 「後向の裸女の習作」
大正14年(1924) 和歌山県立近代美術館蔵

初めて観た画家だと思うのですが、木下孝則の「後向の裸女の習作」も見入ってしまう素晴らしさ。独学で油彩を学んだとのことですが、完成度の高い写実的な表現力と品性さえ感じる落ち着いた画風が秀逸です。

古賀春江 「素朴な月夜」
昭和4年(1929) 石橋財団石橋美術館蔵

ほかにもメルヘン的だけどシュールで不思議な空間感覚が面白い古賀春江の「素朴な月夜」や、フォーヴィズムの色遣いと日本的な女性というミスマッチのインパクトが凄い長谷川利行の「女」など、やはり大正から昭和初期にかけての洋画は興味深い作品が多くあります。長谷川利行の「女」は「女人の裸体を獣肉の如く描き出した」と評されたといいます。なるほど。

長谷川利行 「女」
昭和7年(1932) 京都国立近代美術館蔵


第3章 発展、そして解散 1934-1944年

この時代、二科会の“顔”のような存在となるのが藤田嗣治。日本に活動の拠点を移し、昭和9年に二科会会員となって以降、藤田は洋画界のニュー・リーダーとしても重要な位置を占めたといいます。展示されていた「町芸人」と「メキシコに於けるマドレーヌ」は日本帰国直前の中南米旅行時の影響が色濃い作品で、1920年代の乳白色の作品とは異なる色彩豊かなリアルな表現が印象的。マドレーヌは藤田の四番目の妻で、約2年におよぶ旅にも伴い、一緒に来日しますが、この絵の描かれた翌年フランスに帰国。その後モルヒネ中毒で亡くなります。

藤田嗣治 「メキシコに於けるマドレーヌ」
昭和9年(1934) 京都国立近代美術館蔵

安井曾太郎 「玉蟲先生像」
昭和9年(1934) 東北大学史料館蔵

ここでは、安井曾太郎らしい写実とデフォルメが見事に折衷し、人柄まで伝わってくるような「玉蟲先生像」、いつもの田舎の民家の絵とは違って力強いタッチに惹き込まれる向井潤吉の「争へる鹿」、写実性の高さと描写力が素晴らしい宮本三郎の「家族席」が秀逸。

時代的には戦争の影も色濃く、作品的にも国威発揚の名の下、制作されたような作品もありますが、その中で何かに怯える家族を守るように堂々と屹立する松本竣介の「画家の像」が強く心に残ります。絵画も国家に役立つ思想感情を表現する必要があると叫ばれる中、美術への干渉に抗議して「生きてゐる画家」を寄稿した松本の姿とダブり、彼の気概を感じさせます。

松本竣介 「画家の像」
昭和16年(1941) 宮城県立美術館蔵


第4章 再興期 1945-2015年

最後に少しだけ戦後の二科展の出品作から。岡本太郎や山口長男、大沢昌助など。ここではサーカス団をモチーフにした岡田謙三の「シルク」が印象的。後年の抽象絵画とは異なる、どこかピカソの新古典主義あたりを思わせる画風で、時代的な新しさこそありませんが、フランスで学んだ成果が表れたような、そんな作品に感じます。

岡田謙三 「シルク」
昭和22年(1947) 横浜美術館蔵

日本を代表する洋画家の初期作品や出世作が多く、フランスを中心とした最先端の西洋画の技法を取り入れながらも独自の洋画を確立しようと試行錯誤する若き画家たちの姿に胸打たれる展覧会でした。


【伝説の洋画家たち 二科100年展】
2015年9月6日まで
東京都美術館にて


評伝 藤田嗣治〔改訂新版〕評伝 藤田嗣治〔改訂新版〕

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