2012/09/15

二条城展

江戸東京博物館で開催中の『二条城展』に行ってきました。

京都の二条城には2度ほど行っているのですが、国宝の二の丸御殿は広間や書院の内部には足を踏み入れられず廊下から見るようになっていて、室内の襖絵など障壁画も少し遠目に見る感じ。7年前に展示・収蔵館ができたそうで(自分が行った頃はまだなかった)、二条城内の襖絵など障壁画は保存のために徐々に模写絵に置き換え、現物は展示・収蔵館で展示するようにしているのだそうです。

自分が二条城に行ったとき(10年近く前)はまだ重要文化財の襖絵など障壁画がそのまま二の丸御殿の中にあって、室内は照明もなく暗かったとはいえ、こんな埃や外気にさらされたところに置いて劣化はしないのだろうかと心配になったのですが、保存に向けた作業もちゃんとされているようで少し安心しました。ただ、襖絵や障壁画はその室内にあってこそ、本来の意味や姿が分かるので、それはそれで難しいところもあります。ともかく今回は、こうして東京でまとめて観られるというまたとないチャンス。早速伺ってまいりました。

会場の構成は以下の通りです。

第1章 二条城創建-今日に響く徳川の天下
第2章 二条城大改築-東福門院和子の入内と寛永の行幸
第3章 寛永障壁画の輝き-日本絵画史最大の画派、狩野派の粋
第4章 激動の幕末-大政奉還の舞台として
第5章 離宮時代-可憐なる宮廷文化の移植
第6章 世界遺産二条城-文化財を守る・伝える

「東照大権現霊夢像 元和九年」
元和9年(1623年) 徳川記念財団蔵
(展示は8/26まで)

まずは二条城創建の歴史から。二条城は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として造営したもので、大坂の役では本陣としても使われます。その後、三代将軍家光により城の拡張・殿舎の整備が行われ、1626年(寛永3年)に二の丸に加え、本丸・天守が完成します(天守・本丸はその後焼失。現在の本丸御殿は明治時代に建てられたもの)。

ここでは、創建当時の瓦や唐門の欄間、家康の御影や二条城の大工頭・中井正清像、また当時の京の様子を描いた洛中洛外図屏風などが展示されています。

「東福門院和子像」
江戸時代 京都・光雲寺蔵

東福門院(和子)は二代将軍・秀忠の娘で、母はお江与の方(お江)。祖父は家康、母・お江与の伯父は信長というすごい血筋。政略結婚により後水尾天皇の中宮となりますが、このへんは昨年の大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』や宮尾登美子の小説『東福門院和子の涙』なんかでも有名ですね。

「東福門院入内図屏風」(重要文化財)
江戸時代・17世紀 三井記念美術館蔵

二条城が現在の規模になったのは、和子の入内と後水尾天皇の行幸に向けての拡張工事ということで、東福門院ゆかりの品々、後水尾天皇像や徳川秀忠像、また二の丸御殿や天守の絵図、城内図などが展示されています。

途中、変な音がするなと思ったら、二の丸御殿の“うぐいす張りの廊下”の床板を踏んだときの音が流れていました。

狩野甚之丞 「二の丸御殿 遠侍二の間 竹林群虎図」(重要文化財)
寛永3年(1626年) 二条城(京都市)蔵

つづいては本展一番の見もの、障壁画のコーナー。御用絵師集団・狩野派による“金碧障壁画・空間演出プロジェクト”で当時の城郭建築とともに現存する最大級のものがこの二条城・二の丸御殿。すぐ隣の天守や本丸が焼失にあった中、この二の丸だけが今も残っているというのはまさに奇跡なわけです。二条城には約3000面の障壁画があるとされ、その内の1016面が重要文化財に指定されているそうです。

狩野甚之丞 「二の丸御殿 遠侍勅使の間(下段) 檜図」(重要文化財)
寛永3年(1626年) 二条城(京都市)蔵

“遠侍(とおさぶらい)”は訪問者が最初に通される部屋で、御殿西側の一の間から三の間は通称“虎の間”といわれ、大名など武家用の控えの間。訪れる人を威圧するため、周囲には睨みを利かした虎の絵が描かれています。「竹林群虎図」には雌雄の虎が描かれていますが、雌虎の模様が虎っぽくないと思ったら、当時の日本では豹が雌の虎と考えられていたそうです。

一方、東側の“遠侍勅使の間”は将軍が朝廷からの使者を迎える部屋。勅使が通される部屋は、虎の猛々しい絵とは異なり、若松や青楓、芙蓉など初夏の花木図で飾られているそうです。「檜図」は永徳の甥・甚之丞の作とされていますが、その画風から永徳の末弟・長信の作ではないかという説があると解説にありました。

狩野山楽または探幽 「二の丸御殿 大広間四の間 松鷹図」(重要文化財)
寛永3年(1626年) 二条城(京都市)蔵

“式台”の次は“大広間”。松や鷲鷹、孔雀などが描かれ、将軍の威厳が感じられる部屋です。二条城に行くと、15代将軍慶喜が大政奉還を発表した一の間(48畳!)には慶喜や諸藩の重臣らを再現した人形が置かれ、幕府が幕を閉じた瞬間を感じることができます。出展されている「松鷹図」は将軍上洛のときの武器を収めた四の間に飾られている4面の大きな襖絵で、永徳ばりの堂々とした松に勇壮な鷹が描かれています。“大広間”の障壁画は探幽によるものとされていますが、この「松鷹図」はその画風から永徳の門人で、探幽らが江戸に移ったあとも京に残った山楽によるものともいわれています。

狩野尚信 「二の丸御殿 黒書院四の間 菊図」(重要文化財)
寛永3年(1626年) 二条城(京都市)蔵

“黒書院”は将軍が親藩や譜代大名らと内々に対面した部屋。尚信は探幽の5歳下の弟で、後の木挽町狩野派の祖といわれる人。天才肌の探幽の影に隠れがちですが、二の丸御殿の障壁画プロジェクトに取り掛かっているときはまだ10代というのに、これだけの作品を描いていたのですから、さすが狩野派です。

このコーナーにはほかに、将軍の寝室の“白書院”の襖絵や天井画、同じく狩野派御用絵師集団の手による名古屋城の「帝鑑図」や探幽の「鷹図」、また探幽ら狩野派のほか長谷川派や海北派らの絵師による合作「帝鑑図押絵貼屏風」という珍しい作品もありました。

邨田丹陵 「大政奉還 下図」
20世紀 明治神宮蔵

最後はいきなり幕末のコーナー。家光が上洛した以後、将軍の入城は途絶えていたそうなのですが、14代将軍家茂が230年ぶりに上洛してから二条城は再び歴史の表舞台に登場します。大坂で客死した家茂に代わって将軍職に就いた慶喜は、ここ二条城で40藩の重臣を集め大政奉還を宣言します。歴史の教科書で誰もが一度は見たことはある邨田丹陵の「大政奉還」の下図が展示されていて、そばには慶喜が一橋家に宛てた「大政奉還上意書」も展示されていました。

ここにはほかに、 徳川家茂像や徳川慶喜像、また二条城の貴重な古写真、江戸の町火消で、慶喜上洛の際に禁裏御守衛総督として随行した新門辰五郎の遺品などが展示されていました。

江戸幕府の幕開けから終焉までを見続けた国宝・二条城。狩野派による障壁画の主要な作品から江戸幕府ゆかりの品々まで、美術ファンのみならず歴史ファンも満足の展覧会だと思います。


【江戸東京博物館 開館20周年記念 二条城展】
江戸東京博物館1階展示室にて
2012年9月23日(日)まで


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