早いもので今年もあと2日。というか、最後の一日となりました。
今年もこの一年を振り返り、展覧会ベスト10を出してみました。
1位 『狩野山楽・山雪展』(京都国立博物館)
今年はダントツで『狩野山楽・山雪展』。ここ数年で観た展覧会、特に日本画の美術展の中では最も刺激的な展覧会でした。地方の展覧会には滅多に行かないのですが、今回だけはどうしても行きたくて、うまいこと関西出張のついで(展覧会のついでに仕事?)に観て参りました。一つ観てはアッパーカット、一つ観てはカウンターパンチというように、頭がクラクラするほどどの作品も素晴らしく、そして衝撃的でした。絵を観ている僅か数時間がこんなにも濃密に感じられる体験はそうそうあるものではありません。これだけの作品を集め、展覧会を企画してくれた京博に感謝!
2位 『フランシス・ベーコン展』(東京国立近代美術館)
アートにハマりはじめた高校生の頃、一番好きだったアーティストの一人がフランシス・ベーコン。念願の夢が叶ったような展覧会でした。ベーコンの絵の持つ魔力に圧倒されっぱなしで、都合3回観に行きました。珍しくイベントや講演会にも足を運びました。もうこんな贅沢な展覧会は二度とできないのかなぁ~。
3位 和様の書(東京国立博物館)
最初はほとんど興味がなく、スルーするつもりでいたのですが、評判の良さに足を運んだところ、“和様の書”の魅力にあっという間に引きこまれてしまいました。普段は“書”が展示されていても、読めないし何が書いてあるか分からないので、流して観るのがせいぜいだったのですが、こんなにも日本の文字が美しかったのか、料紙ってなんでこんなに綺麗なんだろうと見とれっぱなし。“書”の魅力、芸術的な価値を教えてくれた展覧会でした。あ~あんな字をスラスラ読めるようになりたい。
4位 上海博物館 中国絵画の至宝(東京国立博物館)
中国絵画のことは正直よく分からないのですが、室町から江戸にかけての水墨画や花鳥画などを観ていると、やはり中国絵画のことを知らなくてはとずーっと思っていて、そうした意味でもとても勉強になった展覧会でした。展示作品はいずれ劣らぬ貴重な作品ばかりで、どれも素晴らしく、なによりトーハクの一般入館料だけでこれだけの作品を鑑賞できたことが拍手ものでした。
5位 清雅なる情景 日本中世の水墨画(根津美術館)
これも同じ意味で、江戸時代の水墨画を観るためにも、日本に水墨画が輸入された頃の作品を観たいと常々思っていて、個人的にはとてもタイムリーな、満足度の高い展覧会でした。日本での水墨画の流れが体系的に展示されていて、とても分かりやすく、勉強になりました。
6位 夏目漱石の美術世界展(東京藝術大学美術館)
夏目漱石の小説は若い頃に読んだきりなので、展覧会でその文学と美術の関係に深く入り込めなかったことが悔やまれたのですが、文学世界の中から美術品を取り出して、リアルなものとして観せてくれたその企画力がとても面白かったです。
7位 竹内栖鳳展(東京国立近代美術館)
竹内栖鳳の作品はよく観ているし、前年も山種美術館で竹内栖鳳展を観てるので、正直新鮮さはなかったのですが、やはり栖鳳の全時代を網羅した物量と東近美の箱の大きさでしょうか。ビロード友禅といった貴重な作品も観られ、見応えのある展覧会でした。“獅子の間”(?)も圧巻でした。
8位 京都-洛中洛外図と障壁画の美(東京国立博物館)
大好きな又兵衛の舟木本をはじめ、洛中洛外図総覧といった感じのとても楽しい展覧会でした。大画面スクリーンでの4K映像や二条城を再現しての展示など見せ方も工夫されていて、新しい美術展のカタチを提示しているようなユニークさも◎でした。
9位 描かれた都 -開封・杭州・京都・江戸-(大倉集古館)
こちらも企画力が光る美術展でした。それぞれの都市を代表する都市景観図を紹介するにとどまらず、中国絵画が日本に与えた影響や過程も知ることができ、とても面白く拝見しました。ウワサの長谷川巴龍にはお口あんぐりでしたが(笑)
10位 アンドレアス・グルスキー展(国立新美術館)
本当は同じ国立新美術館で開催していた『アメリカン・ポップ・アート展』のついで感覚で観た展覧会だったのですが、グルスキーの写真のインパクトには驚きました。写真というよりコンセプチュアル・アートを観ているような。スケールの大きな作品を国立新美術館の天井の高い広い空間で観られたのも良かったんだと思います。
別枠 幸田文展(世田谷文学館)
美術展ではありませんが、個人的に一番好きな作家・幸田文を単独で取り上げた初の展覧会ということで、館内にいた時間でいえば、もしかしたら一番長く観ていたかもしれません。幸田文の作品にまつわる資料や愛用品などが集められ、ファンにはたまらない展覧会でした。
今年観た展覧会を振り返える季節になり、ツイートでは今年は不作だったかなぁ~というような声を耳にし(目にし)、そうかもな~と思って自分が観た展覧会を見直してみると、いやいやどうして、こんなにたくさん素敵な展覧会に今年も行ってるんだとあらためて痛感しました。
ベスト10には漏れましたが、サントリー美術館の『「もののあはれ」と日本の美』や、千葉市美術館の『琳派・若冲と花鳥風月』も日本画好きの自分には満足度の高い展覧会でした。日本民藝館の『つきしま かるかや』もとても印象に残ってます。先日観てきた『下村観山展』も迷ったのですが、後期も観てからと思い、今年は外しました。また、板橋区美術館の『狩野派 SAIKO!』や出光美術館の『江戸の狩野』などで今年は狩野派の面白さにも気づかされた年でもありました。
西洋画でも、ブリヂストン美術館の『カイユボット展』やBunkamura ザ・ミュージアムの『アントニオ・ロペス展』、国立西洋美術館の『ラファエロ展』も最後までベスト10に入れようかどうしようか悩むぐらい良かったです。
ちなみに、当ブログへのアクセス回数がでいうと、
1位 『フランシス・ベーコン展』
2位 『ラファエロ展』
3位 『夏目漱石の美術世界展』
4位 『ターナー展』
5位 『狩野山楽・山雪展』
6位 『ファインバーグ・コレクション展』
7位 『竹内栖鳳展』
8位 『エル・グレコ展』
9位 『アメリカン・ポップ・アート展』
10位 『川合玉堂展』
の順となりました。
今年もこんなつまらないサイトに足をお運びただきありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
2013/12/30
2013/12/29
川瀬巴水展
千葉市美術館で開催中の『川瀬巴水展』に行ってきました。
大正・昭和を代表する版画家・川瀬巴水。日本各地の美しい、郷愁を誘う風景を数多く描き、“昭和の広重”とも称され、海外でも人気が高いといいます。スティーブ・ジョブズが彼の作品を好んで蒐集していたのだそうで、近年あらためて注目を集めています。本展はその巴水の生誕130年を記念する回顧展で、約600点といわれる巴水の作品の内、半分近い約240点が紹介されています。
第1章 大正7年〜12年(1918〜23) 木版画家としての出発〜関東大震災まで
巴水が画家を志したのは25歳。実は家業を継ぐため画家の道を諦めていたところ、父親が事業を失敗。商才のない長男・巴水ではなく娘婿に家業を譲ったため、晴れて画家を目指したのだとか。しかし、鏑木清方の門を叩くも、修行をするには年を取りすぎているという理由で断られ、一度は洋画への転向も考えるのですが、再度清方を訪れ、ようやく弟子入りを許されます。当初は美人画や風景画を学んでいたといいますが、新版画の魅力に触れ、以降新版画の版元・渡邊庄三郎と組み、木版画家として活動を始めます。
版画の初作という「塩原三部作」は今村紫紅を思わせる縦長の風景画で、まだ山や木々の描写もざっくりとしていて、また同時期の「伊香保の夏」のように憂愁を感じるトーンも目立ちます。巴水作品の特徴の一つである“雨”は早くも最初期の作品から登場。「陸奥蔦温泉」は夜雨の侘しさが絵から伝わってきて秀逸です。
奥羽地方や近畿・四国、越後・越中などを取材し制作した「旅みやげシリーズ」、東京の身近な風景を切り取った「東京十二題」など、巴水の代名詞といえる叙情豊かな連作版画が次々と世に送り出されます。地方の作品はどれも絵になる場景や名所旧跡が描かれ旅情をそそりますが、東京を描いた作品は市井の人々の生活が感じられるような日常的な風景を描いたものが多いのも特徴。旅先で写生をしては東京に戻り版画を制作するという生活を亡くなるまで続けたといいます。
版元・渡邊庄三郎の版画、俗にいう“渡邊版”は、バレンの跡をわざと残す“ごま摺り”という手法を多用し、そのざらっとした風合いが巴水の版画の大きな特徴なのだとか(橋口五葉はそれが肌に合わなかったのか、渡邊庄三郎とは一度組んだきりだったとか)。「金沢下本多町」は土壁や土道の描写に“ごま摺り”が活かされていて、版画でここまで表現ができるのかと驚かされます。
第2章 大正12年〜昭和20年(1923〜45) 関東大震災後〜戦中まで
大正12年9月1日、関東大震災が起こり、巴水の家も渡邊庄三郎の店も全焼。巴水が清方への入門以来描き溜めていた貴重な写生帖も、渡邊の店にあった巴水の版木や作品も灰と化します。震災後に発表した「東京二十景」は震災後の新旧混在する東京の姿が描かれたものですが、震災前と変わらぬ東京の風景がとりわけ売れたのだそうです。
その中でも一番人気だったのが「芝増上寺」で3000枚、次が「馬込の月」で2000枚も売れたとありました。江戸を代表する名刹と昔ながらの郊外の風景に人々は在りし日の東京を懐かしんだのでしょうか。増上寺は巴水の生家のすぐそばにあり、彼の作品には幾度となく登場します。
巴水の作品で、やはり観るべきは昭和初期までの版画で、情景の美しさ、季節感や空気感、人々の日々の営みも生き生きと表現されていて、どれをとっても素晴らしいものがあります。特に雪や雨の描写は版画であることを忘れるぐらい、非常に繊細で、細密で、雪の降る日の静けさや、雨の日の湿潤が伝わって来るかのようです。
「社頭の雪(日枝神社)」や「芝公園の雪」など、雪の積もり具合や質感といった微妙で繊細な描写が秀逸です。雪景色にしても、降り続く雨の表現にしても、これは版画で版木を彫って、それを刷ってるのだと思うと、その細かくて、気の遠くなるような手の込んだ作業にあらためて感心します。
会場ではいくつかの作品で試摺や同図柄の水彩画も並べて展示されていました。こうして版画と水彩画と見比べると版画の面白さがよく分かります。バレンの軌跡を残したという摺りによる質感や繊細なグラデーションは水彩画にはない表現で、版画の方が一枚も二枚も上手です。
「The Miyajima Shrine in Snow」は海外からの観光客誘致のポスターために依頼を受けた作品で1万枚が摺られたそうです。しかし、だんだんと日本の雲行きは怪しくなり、やがて戦争が始まると全国を取材で回るのもままならず、写真などをもとに作品を制作することを余儀なくされます。
第3章 昭和20年〜昭和32年(1945〜57) 戦後
戦後、日本の版画は進駐軍関係者に人気を集めたといいます。しかし、日本の風景は一変。巴水の求める日本の原風景は姿を消していきます。この頃から、巴水の作品は想い出の中の風景でしかなくなっていきます。
巴水の戦後の作品が個人的に苦手な理由の一つは、構図も美しく、色数も増え、細密で議中的水準も高いのだけれど、どこか架空の風景のような、ジブリか何かアニメのセル画のような、実在感が感じられないところにあります。それは時代の空気なのでしょうか。
そんな作品でも、これは素晴らしいと思ったのが「時雨のあと(京都南禅寺)」で、紅葉の微妙なグラデーションも、開いた門から見える風景も、なにより水たまりの透明感の超絶的な表現力。これは巴水だけでなく、版元の職人たちの技術の高さを示す傑作だと思いました。
戦後の代表作「増上寺の雪」は9枚の版木を使い、42度摺りをした新版画の技術の粋を集めた作品。会場には摺りの過程がパネルで紹介されています。当時の技術のレベルの高さがよく分かります。
「平泉金色堂」は巴水の絶筆。色ざし(戻った校合摺に色指定する作業)を終え、完成を観ることなく巴水は亡くなります。雪に閉ざされ深閑とした木々の奥にある金色堂とお堂に向かう一人の男性。巴水は自分の死期を悟っていたのでしょうか。そんなことを感じさせる作品です。
同時開催として渡邊版新版画の作品展もあり、そちらも面白く拝見しました。伊東深水や橋口五葉など新版画を代表する作家に混じり、多くの外国人版画家の作品も展示されています。戦前にこんなに外国人版画家がいたとは知りませんでした。それにみんな上手い。とりわけフリッツ・カペラリの版画は大正ロマンを感じさせる垢抜けた画風で、もっと作品を見てみたいと思わせました。
【生誕130年 川瀬巴水展 − 郷愁の日本風景】
2014年1月19日(日)まで
千葉市美術館にて
川瀬巴水作品集
川瀬巴水木版画集
最後の版元 浮世絵再興を夢みた男・渡邊庄三郎
大正・昭和を代表する版画家・川瀬巴水。日本各地の美しい、郷愁を誘う風景を数多く描き、“昭和の広重”とも称され、海外でも人気が高いといいます。スティーブ・ジョブズが彼の作品を好んで蒐集していたのだそうで、近年あらためて注目を集めています。本展はその巴水の生誕130年を記念する回顧展で、約600点といわれる巴水の作品の内、半分近い約240点が紹介されています。
第1章 大正7年〜12年(1918〜23) 木版画家としての出発〜関東大震災まで
巴水が画家を志したのは25歳。実は家業を継ぐため画家の道を諦めていたところ、父親が事業を失敗。商才のない長男・巴水ではなく娘婿に家業を譲ったため、晴れて画家を目指したのだとか。しかし、鏑木清方の門を叩くも、修行をするには年を取りすぎているという理由で断られ、一度は洋画への転向も考えるのですが、再度清方を訪れ、ようやく弟子入りを許されます。当初は美人画や風景画を学んでいたといいますが、新版画の魅力に触れ、以降新版画の版元・渡邊庄三郎と組み、木版画家として活動を始めます。
川瀬巴水 「伊香保の夏」
大正8年(1919)
大正8年(1919)
版画の初作という「塩原三部作」は今村紫紅を思わせる縦長の風景画で、まだ山や木々の描写もざっくりとしていて、また同時期の「伊香保の夏」のように憂愁を感じるトーンも目立ちます。巴水作品の特徴の一つである“雨”は早くも最初期の作品から登場。「陸奥蔦温泉」は夜雨の侘しさが絵から伝わってきて秀逸です。
川瀬巴水 旅みやげ第一集「陸奥蔦温泉」
大正8年(1919)
大正8年(1919)
奥羽地方や近畿・四国、越後・越中などを取材し制作した「旅みやげシリーズ」、東京の身近な風景を切り取った「東京十二題」など、巴水の代名詞といえる叙情豊かな連作版画が次々と世に送り出されます。地方の作品はどれも絵になる場景や名所旧跡が描かれ旅情をそそりますが、東京を描いた作品は市井の人々の生活が感じられるような日常的な風景を描いたものが多いのも特徴。旅先で写生をしては東京に戻り版画を制作するという生活を亡くなるまで続けたといいます。
川瀬巴水 東京十二題「大根がし」
大正9年(1920)
大正9年(1920)
川瀬巴水 東京十二題「木場の夕暮」
大正9年(1920)
大正9年(1920)
版元・渡邊庄三郎の版画、俗にいう“渡邊版”は、バレンの跡をわざと残す“ごま摺り”という手法を多用し、そのざらっとした風合いが巴水の版画の大きな特徴なのだとか(橋口五葉はそれが肌に合わなかったのか、渡邊庄三郎とは一度組んだきりだったとか)。「金沢下本多町」は土壁や土道の描写に“ごま摺り”が活かされていて、版画でここまで表現ができるのかと驚かされます。
川瀬巴水 旅みやげ第二集「金沢下本多町」
大正10年(1921)
大正10年(1921)
第2章 大正12年〜昭和20年(1923〜45) 関東大震災後〜戦中まで
大正12年9月1日、関東大震災が起こり、巴水の家も渡邊庄三郎の店も全焼。巴水が清方への入門以来描き溜めていた貴重な写生帖も、渡邊の店にあった巴水の版木や作品も灰と化します。震災後に発表した「東京二十景」は震災後の新旧混在する東京の姿が描かれたものですが、震災前と変わらぬ東京の風景がとりわけ売れたのだそうです。
川瀬巴水 東京二十景「芝増上寺」
大正14年(1925)
大正14年(1925)
川瀬巴水 東京二十景「馬込の月」
大正14年(1925)
大正14年(1925)
その中でも一番人気だったのが「芝増上寺」で3000枚、次が「馬込の月」で2000枚も売れたとありました。江戸を代表する名刹と昔ながらの郊外の風景に人々は在りし日の東京を懐かしんだのでしょうか。増上寺は巴水の生家のすぐそばにあり、彼の作品には幾度となく登場します。
川瀬巴水 旅みやげ第三集「飛騨中山七里」
大正13年(1924)
大正13年(1924)
巴水の作品で、やはり観るべきは昭和初期までの版画で、情景の美しさ、季節感や空気感、人々の日々の営みも生き生きと表現されていて、どれをとっても素晴らしいものがあります。特に雪や雨の描写は版画であることを忘れるぐらい、非常に繊細で、細密で、雪の降る日の静けさや、雨の日の湿潤が伝わって来るかのようです。
川瀬巴水 「社頭の雪(日枝神社)」
昭和6年(1931)
昭和6年(1931)
川瀬巴水 東海道風景選集「相州前川の雨」
昭和7年(1932)
昭和7年(1932)
「社頭の雪(日枝神社)」や「芝公園の雪」など、雪の積もり具合や質感といった微妙で繊細な描写が秀逸です。雪景色にしても、降り続く雨の表現にしても、これは版画で版木を彫って、それを刷ってるのだと思うと、その細かくて、気の遠くなるような手の込んだ作業にあらためて感心します。
川瀬巴水 日本風景集Ⅱ関西篇「高野山鐘楼」
昭和10年(1935)
昭和10年(1935)
川瀬巴水 日本風景集Ⅱ関西篇「京都清水寺」
昭和8年(1933)
昭和8年(1933)
会場ではいくつかの作品で試摺や同図柄の水彩画も並べて展示されていました。こうして版画と水彩画と見比べると版画の面白さがよく分かります。バレンの軌跡を残したという摺りによる質感や繊細なグラデーションは水彩画にはない表現で、版画の方が一枚も二枚も上手です。
川瀬巴水 日本風景集東日本篇「松島双子島」
昭和8年(1933)
昭和8年(1933)
「The Miyajima Shrine in Snow」は海外からの観光客誘致のポスターために依頼を受けた作品で1万枚が摺られたそうです。しかし、だんだんと日本の雲行きは怪しくなり、やがて戦争が始まると全国を取材で回るのもままならず、写真などをもとに作品を制作することを余儀なくされます。
川瀬巴水 「The Miyajima Shrine in Snow」
昭和10年(1935)
昭和10年(1935)
第3章 昭和20年〜昭和32年(1945〜57) 戦後
戦後、日本の版画は進駐軍関係者に人気を集めたといいます。しかし、日本の風景は一変。巴水の求める日本の原風景は姿を消していきます。この頃から、巴水の作品は想い出の中の風景でしかなくなっていきます。
川瀬巴水 「明治神宮菖蒲田」
昭和26年(1951)
昭和26年(1951)
巴水の戦後の作品が個人的に苦手な理由の一つは、構図も美しく、色数も増え、細密で議中的水準も高いのだけれど、どこか架空の風景のような、ジブリか何かアニメのセル画のような、実在感が感じられないところにあります。それは時代の空気なのでしょうか。
川瀬巴水 「時雨のあと(京都南禅寺)」
昭和26年(1951)
昭和26年(1951)
そんな作品でも、これは素晴らしいと思ったのが「時雨のあと(京都南禅寺)」で、紅葉の微妙なグラデーションも、開いた門から見える風景も、なにより水たまりの透明感の超絶的な表現力。これは巴水だけでなく、版元の職人たちの技術の高さを示す傑作だと思いました。
川瀬巴水 「増上寺の雪」
昭和28年(1953)
昭和28年(1953)
戦後の代表作「増上寺の雪」は9枚の版木を使い、42度摺りをした新版画の技術の粋を集めた作品。会場には摺りの過程がパネルで紹介されています。当時の技術のレベルの高さがよく分かります。
「平泉金色堂」は巴水の絶筆。色ざし(戻った校合摺に色指定する作業)を終え、完成を観ることなく巴水は亡くなります。雪に閉ざされ深閑とした木々の奥にある金色堂とお堂に向かう一人の男性。巴水は自分の死期を悟っていたのでしょうか。そんなことを感じさせる作品です。
川瀬巴水 「平泉金色堂」
昭和32年(1957)
昭和32年(1957)
同時開催として渡邊版新版画の作品展もあり、そちらも面白く拝見しました。伊東深水や橋口五葉など新版画を代表する作家に混じり、多くの外国人版画家の作品も展示されています。戦前にこんなに外国人版画家がいたとは知りませんでした。それにみんな上手い。とりわけフリッツ・カペラリの版画は大正ロマンを感じさせる垢抜けた画風で、もっと作品を見てみたいと思わせました。
【生誕130年 川瀬巴水展 − 郷愁の日本風景】
2014年1月19日(日)まで
千葉市美術館にて
川瀬巴水作品集
川瀬巴水木版画集
最後の版元 浮世絵再興を夢みた男・渡邊庄三郎
2013/12/28
五線譜に描いた夢
東京オペラシティ アートギャラリーで開催の『五線譜に描いた夢 日本近代音楽の150年』に行ってきました。
家から近いことが災いして、いつでも行けると思っていたら、気づけば最終日前日。あわててオペラシティへ。
日本の近代音楽がどのように成立したのか。幕末・明治から、大正、昭和、そして現代へと、そこに携わった数多くの音楽家たちの涙ぐましい努力と情熱、そして文字通り五線譜に込めた思いや夢が、展示された楽譜や楽器、映像や演奏から伝わってきます。
Ⅰ 幕末から明治へ
西洋音楽自体はキリスト教の伝来とともに日本にも入って来ているようですが、実際的には幕末の開国とともに流入し、明治に入り国策として西洋音楽を輸入するようになります。
ここでは幕末に蘭学者の宇田川榕庵が翻訳した日本で最初の西洋音楽に関する書物や、ペリー来航時に随行した楽隊を描いた絵巻にはじまり、西洋音楽の導入に重要な役割を果たしたヘボンと賛美歌について、また「君が代」が音楽として成立するまでの経緯や、教育として西洋音楽を広めるために唱歌を作るにあたっての奮闘ぶりなどが紹介されています。
西洋の軍事事情に詳しかった薩摩が藩士を横浜に送り、軍楽隊を作ったとか、音楽の素養があるという理由だけで宮内省の雅楽の楽人に西洋音楽を学ばせたとか、当時の日本人たちがどれだけ西洋文化を取り入れようと努力しようとしたか、非常に興味深く思いました。ペリーが上陸したとき、楽隊が演奏した曲が「ヤンキードゥードゥル」(「アルプス一万尺」の原曲)だったというのも初めて知りました。「君が代」は今の形になるまでには何度か作曲しなおされていたり、その幻の演奏なども聴くことができました。
そのほかにも幸田露伴の妹で日本で最初の器楽曲を作曲した幸田延や、日本最初のピアノや純正調オルガンのことなど、興味は尽きません。
Ⅱ 大正モダニズムと音楽
大正時代になると、日本にも西洋音楽が根づき、世界で活躍する人々も現れます。
最初に登場するのが山田耕筰で、海外留学から帰国してのセンセーショナルなデビューの様子や、日本初の管弦楽団の結成、また山田耕筰が作曲した数々の童謡について、様々な資料や展示物から振り返っています。
そのほか、革新的な箏曲家・宮城道雄や、海外でも成功を収めたオペラ歌手・三浦環、また大正時代のオペラや演奏会事情や、竹久夢二の絵の装丁も人気だった“セノオ楽譜”、宮沢賢治が作曲した曲の自筆譜、マンドリンが趣味だったという萩原朔太郎に関する資料などが展示されています。
日本初のオペラの舞台美術に画家の山本芳翠や藤島武二が関わっていたり、作曲家・伊藤昇に送った坂口安吾の書簡や、島崎藤村が渡仏中に聴いた演奏会のチラシ帖など、美術や文学と音楽との交流の様子も見ることができます。
Ⅲ 昭和の戦争と音楽
昭和に入り、展示物から感じるのは、西洋音楽を貪欲に吸収し、西洋人・西洋文化と肩を並べようと必死になっていた流れが歪みはじめ、一気に暗い時代の渦に巻き込まれていくという姿。紀元2600年奉祝楽曲発表会が歌舞伎座で開催され、プロレタリア音楽運動への取り締まりが厳しくなり、やがて戦時下の音楽統制を目的する団体・日本音楽文化協会が結成されます。日本音楽文化協会の副会長には山田耕筰の名も。日本に西洋音楽を広めた立役者にもかかわらず、それを統制しなければならなかった彼の思いはどんなだったのでしょうか。「音楽は軍需品なり」という言葉がとても恐ろしかったです。
ベンジャミン・ブリテンが日本政府から紀元2600年の奉祝曲の作曲を依嘱されたものの、“レクイエム”という言葉に皇室への非難が含まれているとされ、演奏中止になったという「シンフォニア・ダ・レクイエム(鎮魂交響曲)」の貴重な自筆譜も展示されていました。
その一方、ラジオやレコードの普及、国民歌謡の誕生など現代に繋がっていくメディアが展示物にも登場。「東京行進曲」や「別れのブルース」といった戦前の流行歌のレコードも紹介されています。
Ⅳ 「戦後」から21世紀へ
シェーンベルク、オリヴィエ・メシアン、ジョン・ケージといった欧米の前衛音楽家が戦後日本の音楽界に与えた影響や、詩人で美術評論家の滝口修造を中心とした芸術家たちの集まり“実験工房”の活動、また武満徹や伊福部昭、團伊玖磨ら戦後の現代音楽家らの活躍等をプログラムや自筆譜、レコード、ポスターなどからその軌跡を振り返ります。
戦後のコーナーはいまひとつ掘り起しというか、ツッコミというか、物足らない感じもしましたが、総じて日本の近代音楽の流れを振り返るという点で非常に面白い展覧会でした。各コーナーに特集映像も流れていて、それも観ていたら2時間ぐらい経っていましたが、それでも観たりないぐらいの物量でした。
【五線譜に描いた夢 日本近代音楽の150年】
2013年12月23日まで(会期終了しました)
東京オペラシティ アートギャラリーにて
家から近いことが災いして、いつでも行けると思っていたら、気づけば最終日前日。あわててオペラシティへ。
日本の近代音楽がどのように成立したのか。幕末・明治から、大正、昭和、そして現代へと、そこに携わった数多くの音楽家たちの涙ぐましい努力と情熱、そして文字通り五線譜に込めた思いや夢が、展示された楽譜や楽器、映像や演奏から伝わってきます。
Ⅰ 幕末から明治へ
西洋音楽自体はキリスト教の伝来とともに日本にも入って来ているようですが、実際的には幕末の開国とともに流入し、明治に入り国策として西洋音楽を輸入するようになります。
ここでは幕末に蘭学者の宇田川榕庵が翻訳した日本で最初の西洋音楽に関する書物や、ペリー来航時に随行した楽隊を描いた絵巻にはじまり、西洋音楽の導入に重要な役割を果たしたヘボンと賛美歌について、また「君が代」が音楽として成立するまでの経緯や、教育として西洋音楽を広めるために唱歌を作るにあたっての奮闘ぶりなどが紹介されています。
西洋の軍事事情に詳しかった薩摩が藩士を横浜に送り、軍楽隊を作ったとか、音楽の素養があるという理由だけで宮内省の雅楽の楽人に西洋音楽を学ばせたとか、当時の日本人たちがどれだけ西洋文化を取り入れようと努力しようとしたか、非常に興味深く思いました。ペリーが上陸したとき、楽隊が演奏した曲が「ヤンキードゥードゥル」(「アルプス一万尺」の原曲)だったというのも初めて知りました。「君が代」は今の形になるまでには何度か作曲しなおされていたり、その幻の演奏なども聴くことができました。
そのほかにも幸田露伴の妹で日本で最初の器楽曲を作曲した幸田延や、日本最初のピアノや純正調オルガンのことなど、興味は尽きません。
Ⅱ 大正モダニズムと音楽
大正時代になると、日本にも西洋音楽が根づき、世界で活躍する人々も現れます。
最初に登場するのが山田耕筰で、海外留学から帰国してのセンセーショナルなデビューの様子や、日本初の管弦楽団の結成、また山田耕筰が作曲した数々の童謡について、様々な資料や展示物から振り返っています。
そのほか、革新的な箏曲家・宮城道雄や、海外でも成功を収めたオペラ歌手・三浦環、また大正時代のオペラや演奏会事情や、竹久夢二の絵の装丁も人気だった“セノオ楽譜”、宮沢賢治が作曲した曲の自筆譜、マンドリンが趣味だったという萩原朔太郎に関する資料などが展示されています。
日本初のオペラの舞台美術に画家の山本芳翠や藤島武二が関わっていたり、作曲家・伊藤昇に送った坂口安吾の書簡や、島崎藤村が渡仏中に聴いた演奏会のチラシ帖など、美術や文学と音楽との交流の様子も見ることができます。
ドビュッシー「鐘」 セノオ楽譜65番
1917年
1917年
Ⅲ 昭和の戦争と音楽
昭和に入り、展示物から感じるのは、西洋音楽を貪欲に吸収し、西洋人・西洋文化と肩を並べようと必死になっていた流れが歪みはじめ、一気に暗い時代の渦に巻き込まれていくという姿。紀元2600年奉祝楽曲発表会が歌舞伎座で開催され、プロレタリア音楽運動への取り締まりが厳しくなり、やがて戦時下の音楽統制を目的する団体・日本音楽文化協会が結成されます。日本音楽文化協会の副会長には山田耕筰の名も。日本に西洋音楽を広めた立役者にもかかわらず、それを統制しなければならなかった彼の思いはどんなだったのでしょうか。「音楽は軍需品なり」という言葉がとても恐ろしかったです。
ベンジャミン・ブリテンが日本政府から紀元2600年の奉祝曲の作曲を依嘱されたものの、“レクイエム”という言葉に皇室への非難が含まれているとされ、演奏中止になったという「シンフォニア・ダ・レクイエム(鎮魂交響曲)」の貴重な自筆譜も展示されていました。
その一方、ラジオやレコードの普及、国民歌謡の誕生など現代に繋がっていくメディアが展示物にも登場。「東京行進曲」や「別れのブルース」といった戦前の流行歌のレコードも紹介されています。
Ⅳ 「戦後」から21世紀へ
シェーンベルク、オリヴィエ・メシアン、ジョン・ケージといった欧米の前衛音楽家が戦後日本の音楽界に与えた影響や、詩人で美術評論家の滝口修造を中心とした芸術家たちの集まり“実験工房”の活動、また武満徹や伊福部昭、團伊玖磨ら戦後の現代音楽家らの活躍等をプログラムや自筆譜、レコード、ポスターなどからその軌跡を振り返ります。
LPレコード「オーケストラル・スペース」
企画構成:武満徹、一柳慧/デザイン:和田誠 1966年
企画構成:武満徹、一柳慧/デザイン:和田誠 1966年
戦後のコーナーはいまひとつ掘り起しというか、ツッコミというか、物足らない感じもしましたが、総じて日本の近代音楽の流れを振り返るという点で非常に面白い展覧会でした。各コーナーに特集映像も流れていて、それも観ていたら2時間ぐらい経っていましたが、それでも観たりないぐらいの物量でした。
【五線譜に描いた夢 日本近代音楽の150年】
2013年12月23日まで(会期終了しました)
東京オペラシティ アートギャラリーにて
渇いた太陽
テネシー・ウィリアムズ原作、浅丘ルリ子、上川隆也主演の『渇いた太陽』を観てきました。
原作は『青春の甘き小鳥』。ウィリアムズの代表作の一つで、ジェラルディン・ペイジ、ポール・ニューマン主演で映画化(監督:リチャード・ブルックス)もされている作品です。『渇いた太陽』というタイトルは映画版の邦題になります。
浅丘ルリ子が演じるのは往年の大女優アレクサンドラ。衰えていく若さと美貌、そして第一線を走り続けることの不安からハリウッドから失踪した彼女は酒とドラッグに溺れています。彼女はパームビーチのビーチボーイでハリウッドでの成功を夢見るチャンスを付き人に雇い、南部の町セントクラウドに行き着きます。そこはチャンスの故郷。彼はかつての恋人ヘブンリーと再会しようとするのですが…という物語。
浅丘ルリ子は過去にもこの作品の舞台化のオファーを受けていたそうですが、原作を読んで断っていたといいます。しかも2度も。かつて演じた『欲望という名の電車』でも、ウィリアムズ作品を演じる辛さから熱を出してしまったとも語っていました。そんな演じる側にも精神的な負担を強いるウィリアムズ作品に真っ向から挑む姿はさすが大女優、素晴らしいものがあります。原作では、ハリウッドで成功したとはいえ、そこそこ15年のキャリアの女優の話ですが、浅丘ルリ子は芸歴50年を超える大ベテラン。そこはやはり大女優の貫録と説得力がリアルに出て良かったのではないでしょうか。この役を演じるにはそれ相応の大女優然としたオーラがないと話になりません。
アルコール中毒、ドラッグ、セックス、性病、人種差別、リンチ…といったキーワードが散らばる本作。映画版は、ハリウッドのヘイズコードの問題でストーリーの変更を余儀なくされ、性病という問題を扱えず、ラストも原作とは全く違っていますが、本公演ではほぼ原作に沿った形で上演されているようです。だから、正直、目をつぶりたくなるようなシーンもあります。耳を覆いたくなるようなセリフもあります。そうした難役を難なくこなしてしまうところはスゴいなと思います。
相手役の上川隆也はさすが舞台出身の方だけに手堅いのですが、本来のチャンスが持っているアレクサンドラを利用して伸し上がろうとする野心と若さ故の無謀さ、周りが見えなくなるほどの自分本位さが出ていないというか、上川隆也という役者のもつイメージや年齢的なものが障壁となり、それらがストレートに伝わってこないという感じを受けました。商業的な所を考えると、彼のネームバリューと実力あっての配役だということは分かるのですが、ウィリアムズの芝居を求めるなら、彼はミスキャストだったと思います。
周りはそれなりに舞台経験のある実力派俳優が固めているものの、少々小粒感は否めません。その中では、フィンレーを演じたベテラン俳優・渡辺哲はさすが別格というか、浅丘ルリ子と上川隆也と演じて遜色なかったのは彼ぐらいかなと。ノニ伯母さんとミス・ルーシーの二役を演じた貴城けいも宝塚出身の人だけに巧いのですが、初老のノニ伯母さんはちょっと彼女には無理がありました。逆に芝居を安っぽくしてしまったように感じます。二役にする意味があったのでしょうか。
演出的には、やはり商業演劇のせいか、ウィリアムズを原作にしていながらあまりウィリアムズ臭が薄いというか、過激さや暴力性を抑えると、あれがギリギリのところなのかなと思いながら観ていました。最後に音楽ですが、なぜかモリコーネの映画音楽(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』)が流れるのですが、たぶん何か意図するところがあるのでしょうが、ウィリアムズ作品のイメージにも舞台の南部のイメージにもそぐわなく、しかも既成の音楽を使っているという有り物感がし、残念な気がしました。
それでも難しい題材の芝居を商業ベースにのせて公演した意義はなかなか大きいのではないでしょうか。またどなたかが再挑戦してくれることを楽しみにしたいと思います。
渇いた太陽 特別版 [DVD]
浅丘 ルリ子 咲きつづける
2013/12/27
声
青山スパイラルで鈴木京香の一人芝居『声』を観てきました。
1時間強の一幕もので、主人公の女性が電話越しの恋人に語りかけるというモノローグです。原作(戯曲)はジャン・コクトー。三谷幸喜がコクトーの芝居を演出するというので、もしや去年のチェーホフみたいになるのかと一抹の不安があったのですが、奇を衒うこともなく、鈴木京香という素材だけで正面から勝負したという感じでした。
恋人とは別れ話が持ち上がっていて、彼女は彼を引き止めたくて“いい女”を演じようとします。しかし、彼には別の女性の存在が見え隠れし…。
『声』の初演はコメディ・フランセーズだそうで、有名なところではロベルト・ロッセリーニ監督の映画『アモーレ』(第一部『人の声』)でのアンナ・マニャーニの怪演が知られます。ほかにも、何の因縁かロッセリーニをマニャーニから奪ったイングリッド・バーグマンもアメリカ復帰後にテレビ映画で演じています。日本での初演は杉村春子というぐらいですから、演技派女優の腕の見せどころといった芝居なんだと思います。それを今や日本を代表する演技派、鈴木京香がどう演じるかが見もの。
私自身はマニャーニ版とバーグマン版を観ていますが、マニャーニはマニャーニの、バーグマンはバーグマンの味があったように、鈴木京香は鈴木京香らしい色気と愛らしさといじらしさを感じさせる『声』でした。
二人の関係を元に戻したいと願うも、もう彼女の“声”が彼の心に届くことはない。そんな切ない女心を現代の等身大の女性として演じていたと思います。それは自立した現代的な女性。男性に依存しなくても生きていけるのかもしれません。でも、恋人という支えがないと崩れてしまう、そんな女性の弱さが伝わってきます。
今や携帯電話やメールの時代、もう長電話という言葉も懐かしい響きがあります。そうした前時代的な芝居を、現代的な女性が演じるという難しさ、違和感も少なからず感じもしました。ただそれが、昔も今も変わらない女性の強さと弱さを表現したのだと捉えれば、納得もできます。
戯曲に忠実ということもあり、三谷幸喜カラーはほとんど感じませんでしたが、開演前に流れてた楽しげのシャンソンや、劇中鈴木京香が時折見せるコケティッシュぶりは三谷幸喜らしさでしょうか。「悲劇と喜劇は裏表」とはいえ、喜劇ではないので三谷幸喜ファンには物足らなさもあるかもしれませんが、こういう芝居を時々挑戦してくれると演劇ファンとしては楽しみになってくるなと思います。
アモーレ 《IVC BEST SELECTION》 [DVD]
2013/12/18
下村観山展
横浜美術館で開催中の『下村観山展』に行ってきました。
横山大観、菱田春草らとともに日本美術院を興し、近代日本画の確立に大きく寄与した下村観山の没後140年を記念した展覧会です。
大観との合同の展覧会や日本美術院を取り上げた展覧会などで観山の作品を観る機会はよくありますが、こうして単独で、これだけの大きな規模で開催されるのは今までなかったのではないでしょうか? 前後期合わせ、約150点の作品や資料が公開され、しかも主立った代表作はほぼ出揃うようです(Wikipediaに記載されている代表作品で出展されないのは宮内庁三の丸尚蔵館所蔵作2点と東京国立博物館所蔵の「春雨」のみ)。
第1章 狩野派の修行
観山が絵画の修行を始めたのは9歳の頃で、最初は祖父の友人の絵師から手ほどきを受け、ほどなく狩野派最後の絵師・芳崖に入門します。この頃すでに狩野派特有の線描を会得し、早くから才能を開花させていたといいます。ここでは狩野派の下で学んだ10代半ばまでの若書きの作品を中心に展示しています。
多くは狩野派の粉本学習の模写で、まだ稚拙さや生硬さが残るものもありますが、羅漢図や許由図など水墨画の代表的な画題もしっかりと物にしていて、観山の早熟ぶりが窺えます。森狙仙の「狼図」の模写などは狙仙特有の毛の柔らかい感じも上手く再現していて見事でした。
会場に入ってすぐのところに展示されているのは釈迦の火葬の様子を描いた観山初期の代表作「闍維」。この頃から既に卓越した人物描写や物語性、豊かな色彩感が際立っています。
第2章 東京美術学校から初期日本美術院
観山は、岡倉天心が設立にかかわった東京美術学校に第一期生として入学しますが、既にひとかどの絵師だった観山は狩野派だけでなく大和絵の研究にも励んだといいます。古画を臨模する授業で制作したという「信実 三十六歌仙絵巻」の模写はその好例で、大和絵にも確かな腕を振るっていたことがよく分かります。
この頃の観山の特徴は古典的な作品と、朦朧体の描法に取り組んだ作品を並行して取り組んでいるところ。「日・月蓬莱山図」は右幅の日の出を観山、左幅の月の出を大観が描いた合作で、東洋画の伝統的な画題に写実味を加え、朦朧体によりどこか神聖な霊山の雰囲気を表現しています。
「春日野」も朦朧体を取り入れた作品で、藤の淡く鮮やかな色彩と鹿の可愛らしさが何とも心地よい気分にさせてくれます。松や藤、鹿をレイヤー状に配置した構図は後年の得意とした屏風絵を想起させます。
このほか印象的だったのは仏画で、「十六羅漢」や美校の課題制作で描いたという「観音菩薩半跏像」は確かな筆致にあらためて驚かされます。そのほか、以前東京国立博物館でも拝見した「修羅道絵巻」、歴史画を得意とした観山ならではの「蒙古襲来図」、また俯瞰的な構図と生き生きとした市井の描写が印象的な「辻説法」など、仏画、歴史画、花鳥図、また珍しいところでは美人風俗画など、様々な画風、画題を吸収し、チャレンジをしていたことが窺えます。
第3章 ヨーロッパ留学と文展第3章 ヨーロッパ留学と文展
岡倉天心の辞職とともに一度は離れた東京美術学校に教授として再度復帰した観山は、その後西洋の水彩画の研究のため文部省より遣わされヨーロッパに留学します。このコーナーの見どころは観山による西洋画の模写。絹に日本画材で描いたというラファエロの「椅子の聖母」はその完成度もさることながら、服の生地の皺の加減や陰影が日本画にはないもので、確実に何かを発見しているだろうなという跡を感じさせます。また、絹に水彩で描いたというミレイの「ナイト・エラント」も原画より女性が肉感的で、まるで油彩画のような仕上がり感があります。
帰国後の作品としては、複雑に交差した木々や人物の構図と紅葉や蔦の色とりどりの色彩が強く印象に残る「小倉山」が秀逸。軽妙洒脱な風俗画「朝帰り之図」や骸骨と美人の取り合わせが面白い「美人と舎利」もユニークです。後期には、文展に発表した作品で、昨年の東京国立近代美術館の『美術にぶるっ!』でも紹介され話題になった「木の間の秋」も展示されます。
第4章 再興日本美術院
文展を脱退し、大観や今村紫紅、安田靫彦らと日本美術院を再興した以降、晩年までの作品を展示。名実ともに近代日本画の大家として活躍をした時代の秀作の数々が並びます。
本展の目玉の一つが観山唯一の重要文化財の「弱法師(よろぼし)」。盲目の俊徳丸が袖に落ちる梅の花に仏の施行を思う謡曲『弱法師』を絵画化したものだそうです。沈む日輪と手を合わせる俊徳丸を両端に配置し、スケールの大きさと物語的な深さを表現しています。
個人的に観山で一番好きなのがこの「白狐」。特徴的なレイヤー状の構図も煩さを感じさせず、金銀泥を使いながらも落ち着いたトーンの色彩といい、琳派風の草木の描写といい、装飾的な白いキツネといい、大正時代特有の洗練された近代日本画という趣きで何度観ても飽きません。
「老松白藤図」は狩野派的な立派な松の老木に、琳派の装飾性や円山四条派の写実味をも感じさせる傑作。観山の持てる技術を結集させ、独自の画境を拓くことに成功した作品とありました。
“見ざる・言わざる・聞かざる”を“盲・聾・唖”に寓して描いたという「三猿」。この時代の観山の作品には、衣文を略筆体で描きつつも顔を丁寧に豊かな表情に仕上げた作品が多く見受けられました。「張果老」や「倶胝堅指」、また「寒山拾得」などいずれも大胆かつ巧みな線描と人間味溢れる柔和な表情が印象的です。
このほか、酔って気持ち良さそうに居眠りする李白が愛嬌ある「酔李白」、風の吹きすさぶ竹林に悠然と立つ姿がいい「隠士」、菱田春草の追悼展に出品したという「鵜図」。なんとも洒脱な味とおかしみのある「蜆子」、朦朧体による描写と構図の妙が魅力的な「冨士」と「錦の渡り」などが個人的には好きでした。川端龍子の「青獅子」を思わす青い親獅子と傍らで安心して眠る子獅子が可愛げな「獅子図屏風」も◎。
会場の最後には観山の絶筆「竹の子」が展示されていました。すでに体調もかなり悪かったようですが、しっかりとした筆運びといい、絶妙な色彩といい、とても若々しさを感じさせる一枚でした。
個人的に下村観山はとても観たかった画家の一人だったので、とても満足度の高い展覧会でした。近代日本画ファンは必見の展覧会だと思います。
※当ブログで紹介した作品には前期展示のものがあります。作品により展示期間が異なりますのでご注意ください。
【生誕140年記念 下村観山展】
2014年2月11日まで
横浜美術館にて
「朦朧」の時代: 大観、春草らと近代日本画の成立
横山大観、菱田春草らとともに日本美術院を興し、近代日本画の確立に大きく寄与した下村観山の没後140年を記念した展覧会です。
大観との合同の展覧会や日本美術院を取り上げた展覧会などで観山の作品を観る機会はよくありますが、こうして単独で、これだけの大きな規模で開催されるのは今までなかったのではないでしょうか? 前後期合わせ、約150点の作品や資料が公開され、しかも主立った代表作はほぼ出揃うようです(Wikipediaに記載されている代表作品で出展されないのは宮内庁三の丸尚蔵館所蔵作2点と東京国立博物館所蔵の「春雨」のみ)。
第1章 狩野派の修行
観山が絵画の修行を始めたのは9歳の頃で、最初は祖父の友人の絵師から手ほどきを受け、ほどなく狩野派最後の絵師・芳崖に入門します。この頃すでに狩野派特有の線描を会得し、早くから才能を開花させていたといいます。ここでは狩野派の下で学んだ10代半ばまでの若書きの作品を中心に展示しています。
多くは狩野派の粉本学習の模写で、まだ稚拙さや生硬さが残るものもありますが、羅漢図や許由図など水墨画の代表的な画題もしっかりと物にしていて、観山の早熟ぶりが窺えます。森狙仙の「狼図」の模写などは狙仙特有の毛の柔らかい感じも上手く再現していて見事でした。
下村観山 「闍維」
明治31年(1898年) 横浜美術館蔵
明治31年(1898年) 横浜美術館蔵
会場に入ってすぐのところに展示されているのは釈迦の火葬の様子を描いた観山初期の代表作「闍維」。この頃から既に卓越した人物描写や物語性、豊かな色彩感が際立っています。
第2章 東京美術学校から初期日本美術院
観山は、岡倉天心が設立にかかわった東京美術学校に第一期生として入学しますが、既にひとかどの絵師だった観山は狩野派だけでなく大和絵の研究にも励んだといいます。古画を臨模する授業で制作したという「信実 三十六歌仙絵巻」の模写はその好例で、大和絵にも確かな腕を振るっていたことがよく分かります。
[右幅] 下村観山 [左幅] 横山大観 「日・月蓬莱山図」
明治33年(1900年)頃 静岡県立美術館蔵 (展示は1/8まで)
明治33年(1900年)頃 静岡県立美術館蔵 (展示は1/8まで)
この頃の観山の特徴は古典的な作品と、朦朧体の描法に取り組んだ作品を並行して取り組んでいるところ。「日・月蓬莱山図」は右幅の日の出を観山、左幅の月の出を大観が描いた合作で、東洋画の伝統的な画題に写実味を加え、朦朧体によりどこか神聖な霊山の雰囲気を表現しています。
下村観山 「春日野」
明治33年(1900年) 横浜美術館蔵 (展示は1/14まで)
明治33年(1900年) 横浜美術館蔵 (展示は1/14まで)
「春日野」も朦朧体を取り入れた作品で、藤の淡く鮮やかな色彩と鹿の可愛らしさが何とも心地よい気分にさせてくれます。松や藤、鹿をレイヤー状に配置した構図は後年の得意とした屏風絵を想起させます。
このほか印象的だったのは仏画で、「十六羅漢」や美校の課題制作で描いたという「観音菩薩半跏像」は確かな筆致にあらためて驚かされます。そのほか、以前東京国立博物館でも拝見した「修羅道絵巻」、歴史画を得意とした観山ならではの「蒙古襲来図」、また俯瞰的な構図と生き生きとした市井の描写が印象的な「辻説法」など、仏画、歴史画、花鳥図、また珍しいところでは美人風俗画など、様々な画風、画題を吸収し、チャレンジをしていたことが窺えます。
第3章 ヨーロッパ留学と文展第3章 ヨーロッパ留学と文展
岡倉天心の辞職とともに一度は離れた東京美術学校に教授として再度復帰した観山は、その後西洋の水彩画の研究のため文部省より遣わされヨーロッパに留学します。このコーナーの見どころは観山による西洋画の模写。絹に日本画材で描いたというラファエロの「椅子の聖母」はその完成度もさることながら、服の生地の皺の加減や陰影が日本画にはないもので、確実に何かを発見しているだろうなという跡を感じさせます。また、絹に水彩で描いたというミレイの「ナイト・エラント」も原画より女性が肉感的で、まるで油彩画のような仕上がり感があります。
下村観山 「木の間の秋」
明治40年(1907年) 東京国立近代美術館蔵 (1/10から展示)
明治40年(1907年) 東京国立近代美術館蔵 (1/10から展示)
帰国後の作品としては、複雑に交差した木々や人物の構図と紅葉や蔦の色とりどりの色彩が強く印象に残る「小倉山」が秀逸。軽妙洒脱な風俗画「朝帰り之図」や骸骨と美人の取り合わせが面白い「美人と舎利」もユニークです。後期には、文展に発表した作品で、昨年の東京国立近代美術館の『美術にぶるっ!』でも紹介され話題になった「木の間の秋」も展示されます。
第4章 再興日本美術院
文展を脱退し、大観や今村紫紅、安田靫彦らと日本美術院を再興した以降、晩年までの作品を展示。名実ともに近代日本画の大家として活躍をした時代の秀作の数々が並びます。
下村観山 「弱法師」(重要文化財)
大正4年(1915年) 東京国立博物館蔵 (展示は12/20まで)
大正4年(1915年) 東京国立博物館蔵 (展示は12/20まで)
本展の目玉の一つが観山唯一の重要文化財の「弱法師(よろぼし)」。盲目の俊徳丸が袖に落ちる梅の花に仏の施行を思う謡曲『弱法師』を絵画化したものだそうです。沈む日輪と手を合わせる俊徳丸を両端に配置し、スケールの大きさと物語的な深さを表現しています。
下村観山 「白狐」
大正3年(1914年) 東京国立博物館蔵 (展示は12/20まで)
大正3年(1914年) 東京国立博物館蔵 (展示は12/20まで)
個人的に観山で一番好きなのがこの「白狐」。特徴的なレイヤー状の構図も煩さを感じさせず、金銀泥を使いながらも落ち着いたトーンの色彩といい、琳派風の草木の描写といい、装飾的な白いキツネといい、大正時代特有の洗練された近代日本画という趣きで何度観ても飽きません。
下村観山 「老松白藤図」
大正10年(1921年) 山種美術館蔵 (展示は1/8まで)
大正10年(1921年) 山種美術館蔵 (展示は1/8まで)
「老松白藤図」は狩野派的な立派な松の老木に、琳派の装飾性や円山四条派の写実味をも感じさせる傑作。観山の持てる技術を結集させ、独自の画境を拓くことに成功した作品とありました。
下村観山 「三猿」
大正13年(1915年) 横浜美術館蔵 (展示は1/28まで)
大正13年(1915年) 横浜美術館蔵 (展示は1/28まで)
“見ざる・言わざる・聞かざる”を“盲・聾・唖”に寓して描いたという「三猿」。この時代の観山の作品には、衣文を略筆体で描きつつも顔を丁寧に豊かな表情に仕上げた作品が多く見受けられました。「張果老」や「倶胝堅指」、また「寒山拾得」などいずれも大胆かつ巧みな線描と人間味溢れる柔和な表情が印象的です。
下村観山 「蜆子」
大正10年(1921年) 桑山美術館蔵
大正10年(1921年) 桑山美術館蔵
下村観山 「獅子図屏風」
大正7年(1918年) 水野美術館蔵 (展示は1/8まで)
大正7年(1918年) 水野美術館蔵 (展示は1/8まで)
このほか、酔って気持ち良さそうに居眠りする李白が愛嬌ある「酔李白」、風の吹きすさぶ竹林に悠然と立つ姿がいい「隠士」、菱田春草の追悼展に出品したという「鵜図」。なんとも洒脱な味とおかしみのある「蜆子」、朦朧体による描写と構図の妙が魅力的な「冨士」と「錦の渡り」などが個人的には好きでした。川端龍子の「青獅子」を思わす青い親獅子と傍らで安心して眠る子獅子が可愛げな「獅子図屏風」も◎。
下村観山 「竹の子」
昭和5年(1930年) 個人蔵 (展示は1/8まで)
昭和5年(1930年) 個人蔵 (展示は1/8まで)
会場の最後には観山の絶筆「竹の子」が展示されていました。すでに体調もかなり悪かったようですが、しっかりとした筆運びといい、絶妙な色彩といい、とても若々しさを感じさせる一枚でした。
個人的に下村観山はとても観たかった画家の一人だったので、とても満足度の高い展覧会でした。近代日本画ファンは必見の展覧会だと思います。
※当ブログで紹介した作品には前期展示のものがあります。作品により展示期間が異なりますのでご注意ください。
【生誕140年記念 下村観山展】
2014年2月11日まで
横浜美術館にて
「朦朧」の時代: 大観、春草らと近代日本画の成立