2019/11/10

画家「呉春」 − 池田で復活(リボーン)!

大阪・池田の逸翁美術館で開催中の『画家「呉春」 − 池田で復活(リボーン)!』に行ってきました。

呉春の名をカタカナで表した意表をつく発想と『ゴジラ』を思わせるユニークなフォントのインパクト。呉春の展覧会がここまで話題を集めたことはなかったのではないでしょうか。

春に『四条派のへの道 呉春を中心として』を観て、夏に『円山応挙から近代京都画壇へ』を観て、つい先日『桃源郷展 − 蕪村・呉春が夢みたもの』を観て、今までこんなに呉春に触れたことがあっただろうか、というぐらいに呉春づいています。

今年は呉春の生誕や没後のキリのいい年でもないのに何でこんなにあちこちで呉春を観られるのでしょうか。ここ数年の近代京都画壇の再評価の中で、四条派の祖である呉春にも注目が集まっているのかもしれません。とにもかくにもこれだけ呉春をまとめて観られるというのは嬉しいことです。

さて、そのゴシュンこと呉春は30歳の終わりから7年あまり池田で活動した所縁の深い画家ということで、池田の逸翁美術館は呉春コレクションがとても充実しています。本展は呉春の、いわゆる池田時代の作品を中心に展示していて、呉春にとって池田の地がいかに転機となり飛躍していったのか、その画業の変遷を追うという内容になっています。

呉春 「寒山孤鹿・観月人物図」
天明年間(1781〜1788) 逸翁美術館蔵

呉春が池田に移り住んだのは天明元年(1781年)。呉春はこの年、里から戻る途中の妻を海難事故で亡くし、父を仕事先の江戸で亡くします。妻と父を相次いで亡くし憔悴した呉春に池田の地を勧めたのは師・蕪村だといいます。その頃に描かれたとされる「朱買臣図」が最初に展示されていました。比較的大きめの軸いっぱいに描かれた薪を背負い本を読む朱買臣。朱買臣は妻に愛想を尽かされ離縁してしまうのですが、読書に没頭する朱買臣に、絵に打ち込む呉春の姿が重なるようです。

呉春 「寒林落日図」
天明年間(1781〜1788) 逸翁美術館蔵

蕪村は呉春のことを、篤実な人物で絵は並ぶ者がいないと言いベタ誉めだったといいます。呉春も蕪村から学んだものはとても大きかったようで、「松上仙人図」や「寒山孤鹿・観月人物図」などは蕪村の南画に通じる味わいがありますし、「寒林落日図」の木々に群がる鴉も蕪村を意識しているんだろうと思います。黄石公が張良に兵書を授ける「張良・黄石公図」の二人の顔の近さや、酒に酔った馬上の杜甫と従者を描く「酔杜馬上図」の師を支える従者の優しさなどからは、師・蕪村と呉春の関係が重なって見えてきたりもします。そんな蕪村も呉春が池田に移って2年後に亡くなります。

池田時代の呉春作品には蕪村を思わせる柔らかな皴法が見られますが、「松上仙人図」や「松林渓流図」など松葉や樹木の葉を色の薄い絵具で面取りし薄墨の線で形付けていく描き方は池田時代の呉春の特徴でもあるそうで、呉春らしさもこの頃形成されていったようです。

呉春「牛若丸句画賛」
天明年間(1781〜1788) 逸翁美術館蔵

機知に富んだ軽妙な味わいだったり、肩の力の抜けた即興的な作品も呉春の魅力のひとつ。蕪村にももちろんそうした作品はありましたが、蕪村があくまでも俳画の延長線だとしたら、呉春は職業画人的な巧さがあります。高士が小舟の上から無理な姿勢で梅の枝を折ろうとする「梅渓山水図」、少ない筆致でさらっと描いた「青鷺画賛」、牛若丸が大天狗との別れを惜しむ「牛若丸句画賛」、自作の句と一緒に季節々々の風物・風俗をユーモラスに描いた「十二か月京都風物句図巻」など、呉春の面白さだなと感じます。

呉春 「白梅図屏風」(重要文化財)
寛政元年〜2年(1789〜1790)頃 逸翁美術館蔵

蕪村の死後、呉春は応挙に急激に近づきます。応挙を特徴づける付立や外隈で表現した作品、また鶴や雪の積もった松など応挙的なモチーフなども散見されます。席画でしょうか、応挙と呉春の合作もありました。

その池田時代の集大成とも、呉春の最高傑作とも呼ばれるのが「白梅図屏風」。独特の浅葱色の背景が空の白む夜明けを演出してるかのようで、墨の濃淡やかすれは朝靄に包まれたような幻想的な雰囲気を作り出し、とても味わい深いものがあります。地の浅葱色に染められた粗めの布は絹ではなく葛布を染めたものとされていたが、芭蕉布の可能性が近年高まっていると解説されていました。

「白梅図屏風」は応挙と梅見に行った際のスケッチをもとにしたともいわれ、応挙の「雪松図屏風」や「藤花図屏風」を彷彿とさせる構図と空間、幹や枝の付立描法など応挙の影響を強く感じさせます。一方で背景を染めた夜の表現はどこか蕪村の「夜色楼台図」を彷彿とさせます。蕪村の辞世の句「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」との関連も指摘されていました。

円山応挙・呉春 「蕉葉雷神図」
寛政元年〜7年(1789〜1795)頃 逸翁美術館蔵

蕪村の抒情性に応挙の写生を取り入れた呉春の画風は後に四条派と呼ばれ、明治に入ってからの京都画壇では四条派(もしくは影響を受けた)の画家たちが軒並み活躍します。会場の解説パネルに、「応挙由来の写生は本草学や解剖学など実証主義的な学問が普及するにつれ、写生的な描写は基礎的なものになり目新しさが感じられなくなったが、四条派は写生的な描写の中に抒情的な要素も含まれ新しい時代の要請に応えることができた」とあり、近代京都画壇で四条派が主流となった理由として一番納得できた気がします。

コラム的な解説パネルは会場の所々にあって、これが呉春を理解する上でとても役立ちました。師・蕪村や池田の人々との交流も語られ、呉春の妻や父の相次ぐ死、そして蕪村の死、呉春がどういう思いで池田で過ごしたのかも伝わってきます。


【2019展示Ⅳ 池田市制施行80周年記念 画家「呉春」─池田で復活(リボーン)!】
逸翁美術館にて
2019年12月8日(日)まで



応挙・呉春・蘆雪―円山・四条派の画家たち

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