さて、今年も残すところわずか。
この一年を振り返り、今年の展覧会ベスト10を考えてみました。
1位 『蕭白ショック!! 曽我蕭白と京の画家たち』(千葉市美術館)
東博の『ボストン美術館展』と合わせ、蕭白の作品を存分に観ることができたのは今年の最大のトピックでした。正直、とびきり好きな絵師というほどではなかったのですが、この『蕭白ショック!!』で完全にやられました。
2位 『月岡芳年展』(太田記念美術館)
ここ数年、国芳はもういいから芳年を見せてくれと叫び続け、念願叶っての大回顧展。血みどろ絵だけでない、芳年の魅力をたくさん発見できた展覧会でした。楽しかったぁ~。
3位 『美術にぶるっ! 第Ⅰ部 MOMATコレクションスペシャル 』/『美術にぶるっ! 第Ⅱ部 実験場』(東京国立近代美術館)
量、質ともに圧倒された展覧会でした。「第2部 実験場」も非常に興味深かったし、「第1部」の近代日本画・洋画の、まるで美術の教科書を見てるかのような充実ぶりもさすが東近美と唸らずにいられませんでした。2回観に行きましたが、もう1回行きたいと思ってます。
4位 『船田玉樹展』(練馬区立美術館)
ほとんど無名の画家ですが、どうしてこの人があまり評価されてこなかったのか不思議なくらい素晴らしい作品の連続でした。練馬区立美術館はこうした埋もれてしまった画家たちを発掘してくれるから好きです。
5位 『ボストン美術館 日本美術の至宝』(東京国立博物館)
やはり今年の前半戦ではこれを抜きにしては語れません。日本画ファン垂涎の傑作がずらり。都合3回も足を運びました。もし泊まり込んでいいのなら、蕭白や光琳や等伯らの作品と寝食を共にしたかったぐらいです(笑)
6位 『白隠展』(Bunkamura ザ・ミュージアム)
後期展示もあるので来年に入れようかとも思ったのですが、ブログをアップしたので今年の展覧会でカウントしました。ちらりちらりと観ていた白隠の全貌がここにきてようやく明らかになったような気がします。
7位 『ジャクソン・ポロック展』(東京国立近代美術館)
10代の頃から好きだったポロック。日本でこんなにポロックの作品をたくさん観られるなんて夢のようでした。
8位 『福田平八郎と日本画モダン』(山種美術館)
“日本画モダン”という括りが面白かったですね。福田平八郎の作品はまとまった形で観たことがなかったので、あらためて福田平八郎の作品の魅力にとりつかれた展覧会でした。
9位 『中村正義展』(練馬区立美術館)
この中村正義も実像をほとんど知らなかった画家で、この展覧会で実際の作品を初めて観て、かなり激しいショックを受けました。こんなエキセントリックな日本画もあるんだと知ったという意味では、今年一番の刺激的な展覧会だったかもしれません。
10位 『マウリッツハイス美術館展』(東京都美術館)
フェルメールもそうですが、個人的にはレンブラントやルーベンスの充実したコレクションには唸らされました。同時期に開催された『ベルリン国立美術館展』(国立西洋美術館)とセットで観られたというのもボリューム感が増した気分になって良かったです。
もしかしたら、今年は今までで一番展覧会に足を運んだ年かもしれません。ずいぶんといろいろ観させていただいたので、その中から10本を選び出すのはかなり至難の業でした。ほかにも年末に観た『松本竣介展』や森美術館の『アラブ・エクスプレス展』、サントリー美術館の『御伽草子展』、国立西洋美術館の『吉川霊華展』などもベスト10に入れられるなら入れたかった展覧会でした。また、MOA美術館の『開館30周年記念所蔵名品展 岩佐又兵衛絵巻』 では長年観たかった岩佐又兵衛の「山中常盤物語絵巻」を観ることができたのが非常に良い思い出です。
ちなみに、昨年までの展覧会ベスト5/ベスト3はmixiの日記で振り返っていたので、参考までにmixi日記からちょっと引っ張ってきました。
2011年ベスト5
1位 『礒江毅=グスタボ・イソエ マドリード・リアリズムの異彩』(練馬区立美術館)
2位 『酒井抱一と江戸琳派の全貌』(千葉市美術館)
3位 『写楽展』(東京国立博物館)
4位 『五百羅漢展』(江戸東京博物館)
5位 『包む―日本の伝統パッケージ展』(目黒区立美術館)
2010年ベスト5
1位 『田中一村展』(千葉市美術館)
2位 『レンピッカ展』(Bunkamura ザ・ミュージアム)
3位 『若冲アナザワールド』(千葉市美術館)
4位 『長谷川等伯展』(東京国立博物館)
5位 『歌川国芳 奇と笑いの木版画』(府中市美術館)
2009年ベスト3
1位 『加山又造展』(国立新美術館)
2位 『山水に遊ぶ - 江戸絵画の風景250年展』(府中市美術館)
3位 『皇室の名宝展』(東京国立博物館)
2008年ベスト3
1位 『ヴィルヘルム・ハンマースホイ展』(国立西洋美術館)
2位 『大琳派展』(東京国立博物館)
3位 『木喰展』(そごう美術館)
来年も観たい展覧会が今から目白押しなので、できるだけ多く回り、またブログで紹介したいなと思っています。
拙いブログですが、1年間お付き合いいただきありがとうございました。皆様にとって来年が素晴らしい一年でありますように。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
2012/12/30
2012/12/29
白隠展
Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中の『白隠展 HAKUIN 禅画に込めたメッセージ』に行ってきました。
臨済宗中興の祖と称えられ、一万点に及ぶともいわれる禅画を残した江戸時代の禅僧、白隠慧鶴(はくいんえかく)の初の本格的な展覧会です。
白隠の作品はこれまでも美術展などで観ていますが、まとまった形で観たのは、2010年に東京国立博物館で開催された『細川家の至宝-珠玉の永青文庫コレクション-』ぐらい。細川家の美術コレクションは白隠から始まったともいわれ、白隠の作品だけでおよそ330点も所蔵しているそうです。このときはその内の15点が展示されていました。
今年、NHK-BSで放映された『大胆不敵な水墨画』で白隠の特集があり、そのときにニューヨークで白隠の展覧会が開催され、大変な好評を博したということが紹介されていました。どうして日本では白隠の展覧会が少ないのだろうと羨んでいた矢先の今回の白隠展のニュース。この日を大変心待ちにしていました。
そんな本展は、白隠研究で知られる禅宗史研究者の芳澤勝弘氏(花園大学教授)と美術史家の山下裕二氏(明治学院大学教授)を共同監修に迎えての渾身の企画。永青文庫所蔵の白隠コレクションを始め、全国から白隠の作品をかき集め、100点を超える傑作・代表作が一堂に会しています。
会場は、≪出山釈迦≫、≪観音≫、≪達磨≫、≪大燈国師≫、≪布袋≫、≪戯画≫、≪墨蹟≫とテーマごとに分けられ、とても見やすく構成されていました。
会場に入ると、まずは70代の作とも晩年の作ともいわれる「隻履達磨」がヌッとした顔でお出迎え。視線はどこか上の方を向いていて、物言いたげにも、素知らぬ顔をしているようにも、何か企んでいるようにも見え、いろいろと想像が広がります。白隠の達磨図はある意味白隠の自画像でもあるといわれていますが、解説によるとこの作品は数ある達磨図の中でも自画像的な要素が一番強いのだそうです。
達磨ほどではないのですが、白隠は多くの釈迦図を残していて、そのほとんどが出山釈迦図だそうです。出山釈迦図は長い苦行でも悟りを得られないと知り、山から下りてくる釈迦を描いたもので、そこには修業に明け暮れた若き日の白隠の姿が投影されているのだろうということでした。
白隠の描く観音はちょっと肉付きのいい中年女性みたいなところがあります。観音様ではありませんが、かつてテレビドラマの『西遊記』で高峰三枝子が演じたお釈迦様をふと思い出しました。白隠にとって観音は特別な画題だったのではないかと考えられているそうです。他の作品に比べて非常に丁寧に描かれていて、下書きの線が残っている物も少なく(白隠の作品は割と平気で下書きの線が残ってる)、絹本に描かれている物も多いそうです。山下先生によると白隠はマザコンだったのではないかとのこと。達磨や釈迦が白隠の自画像的な意味合いがあるのに対し、観音は母の記憶なのかもしれません。
白隠といえば、やはり達磨図。達磨は禅宗の初祖とされ、白隠の描いた達磨図は現存する物だけでも300点を超えるといわれています。本展では12点(入れ替え作品を含むと13点)の達磨図が展示されています。白隠は60代になってから禅画を量産したといいますが、60代の作品ですら“若書き”と解説されていました。中には、30代や40代の頃に描かれたとされる作品も数点展示されていて、後年の大胆な筆さばきやどっしりとした達磨像とは異なり、線も細く、達磨の表情もどこか卑屈で、神経質そうな感じさえ受けます。(上の作品は晩年のものです)
<直指人心、見性成佛>。「まっすぐに自分の心を見つめて、仏になろうとするのではなく、本来自分に備わっている物性を信じなさい」。白隠の複数の達磨図に書き添えされている定番の“賛”だそうです。白隠の作品は本来美術作品ではなく、布教目的の禅画であり、絵とともに必ずこうした“賛”が書き加えられています。さすがに読めないので、正直なところ、これまで書画の賛を注意して読んだことはほとんどなかったのですが、白隠の賛は奥の深い言葉や意味深な言葉、禅の公案などがあって、興味をかき立てらるものが多くあります。(図録の作品リストには展示作品の全ての賛が掲載されています)
大燈国師は高僧でありながらも、京・五条の橋の下で乞食とともに何十年も生活をしていたという禅僧で、後に名刹・大徳寺を開山したという大変偉いお坊さん。後半の≪墨蹟≫のコーナーに展示されていた白隠の書に「苦労して修行したのに、住職になった途端に貪欲になる…」というものがありましたが、白隠の思想の根底には大燈国師に通じるものがあるのでしょう。
見ているだけで楽しそうな気分が伝わってくる「すたすた坊主」。もともとはお金を恵んでもらっては水垢離や庚申待ちなど参詣や祈祷の代参をする願人坊主という乞食僧(実際には僧ではない)の一つで、半裸姿で家々の門前で面白おかしいことを言っては物乞いをしていたのだそうです。白隠はそこに、いつも大きな袋を持って物乞いをしていた乞食僧が実は弥勒菩薩の化身だったという布袋和尚の伝説を重ねて、すたすた坊主になってまで人の福を願って代参しているというようなことを賛に書いているそうです。
七福神(もしくは単独)を描いた作品も複数展示されていましたが、その中でも布袋を描いたものがが一番多くありました。布袋図も白隠の自画像的なところがあるようで、同じ自画像的要素の濃い達磨や出山釈迦が少々険しい顔つきをしているのに対し、人なつっこい表情で庶民的な布袋を自分として描いているのが面白いと思います。“アメとムチ”ではありませんが、自分の二面性を達磨と布袋で表しているのかもしれません。
すり鉢で鬼たちを「すり難い」と言いながらすり潰し、傍らで子どもが「鬼味噌を舐めてみたい」とせがむ。なんともブラックな作品。鍾馗は道教の影響を受けた神の一人で、かつては魔よけの神様として大変身近だったようです。鍾馗図のほかに、三国志の英雄・関羽を描いた作品も展示されていました。関羽も道教で神格化されていて、白隠の思想に対する道教の影響を強く感じさせます。
白隠の戯画も多数展示されていました。同じ禅僧で禅画や戯画を多く残した仙崖の作品がどちらかというと飄逸な味わいや機智を感じるのに対し、白隠の戯画はユーモラスなんだけど、そこからは社会(特に幕府や金持ち)への皮肉や禅的な教訓が強く見て取れます。あくまでも禅画の目的は禅の思想を伝えることであるというのが白隠のスタンスなのだと思います。
「百寿福禄寿」は「寿」の字を100通りの書体で書いた作品で、この賛には真ん中の福禄寿が「白隠に書かされたんだよ」というようなことが書かれているそうです。白隠の墨蹟は行や列が揃ってなかったり、最後の方の文字がスペースがなくなって小さくなっていたり、決して能筆ではありませんが、その自由な字体や筆の勢いからは白隠らしさが伝わってくるようです。
「両手をたたけば音がする。では片手ではどうか。それを聞いてこい。」という白隠の有名な禅問答“隻手音声”を描いた作品。冒頭で触れたニューヨークの白隠展ではこの“隻手の音”がテーマになっていました。「円相」という丸を描いただけの書画も展示されていましたが、ただ“絵”としてみるだけではなく、そこに隠されたメッセージ(それは容易に分かるものではありませんが)を読み解こうとする気持ち、そこから何かを見つけようとさせるところに白隠の作品の魅力があるのかもしれません。白隠の作品が海外で人気が高いのは、単にその画風だけではなく、こうした“禅”の精神との繋がりがあってのことのようです。
一度見たら忘れられないインパクトのある絵やメッセージ性の強い賛。ようやく日本でも白隠の評価が高まりつつあり、この白隠展はそれを決定づける大事な展覧会になる気がします。
【白隠展 HAKUIN 禅画に込めたメッセージ】
2013年2月24日(日)まで (※途中展示替えがあります)
Bunkamura ザ・ミュージアムにて
芸術新潮 2013年 01月号 [雑誌]
白隠 (別冊太陽 日本のこころ)
白隠-禅画の世界 (中公新書 (1799))
臨済宗中興の祖と称えられ、一万点に及ぶともいわれる禅画を残した江戸時代の禅僧、白隠慧鶴(はくいんえかく)の初の本格的な展覧会です。
白隠の作品はこれまでも美術展などで観ていますが、まとまった形で観たのは、2010年に東京国立博物館で開催された『細川家の至宝-珠玉の永青文庫コレクション-』ぐらい。細川家の美術コレクションは白隠から始まったともいわれ、白隠の作品だけでおよそ330点も所蔵しているそうです。このときはその内の15点が展示されていました。
今年、NHK-BSで放映された『大胆不敵な水墨画』で白隠の特集があり、そのときにニューヨークで白隠の展覧会が開催され、大変な好評を博したということが紹介されていました。どうして日本では白隠の展覧会が少ないのだろうと羨んでいた矢先の今回の白隠展のニュース。この日を大変心待ちにしていました。
そんな本展は、白隠研究で知られる禅宗史研究者の芳澤勝弘氏(花園大学教授)と美術史家の山下裕二氏(明治学院大学教授)を共同監修に迎えての渾身の企画。永青文庫所蔵の白隠コレクションを始め、全国から白隠の作品をかき集め、100点を超える傑作・代表作が一堂に会しています。
会場は、≪出山釈迦≫、≪観音≫、≪達磨≫、≪大燈国師≫、≪布袋≫、≪戯画≫、≪墨蹟≫とテーマごとに分けられ、とても見やすく構成されていました。
白隠 「隻履達磨」
龍嶽寺蔵
龍嶽寺蔵
会場に入ると、まずは70代の作とも晩年の作ともいわれる「隻履達磨」がヌッとした顔でお出迎え。視線はどこか上の方を向いていて、物言いたげにも、素知らぬ顔をしているようにも、何か企んでいるようにも見え、いろいろと想像が広がります。白隠の達磨図はある意味白隠の自画像でもあるといわれていますが、解説によるとこの作品は数ある達磨図の中でも自画像的な要素が一番強いのだそうです。
達磨ほどではないのですが、白隠は多くの釈迦図を残していて、そのほとんどが出山釈迦図だそうです。出山釈迦図は長い苦行でも悟りを得られないと知り、山から下りてくる釈迦を描いたもので、そこには修業に明け暮れた若き日の白隠の姿が投影されているのだろうということでした。
白隠 「蓮池観音」
個人蔵
個人蔵
白隠の描く観音はちょっと肉付きのいい中年女性みたいなところがあります。観音様ではありませんが、かつてテレビドラマの『西遊記』で高峰三枝子が演じたお釈迦様をふと思い出しました。白隠にとって観音は特別な画題だったのではないかと考えられているそうです。他の作品に比べて非常に丁寧に描かれていて、下書きの線が残っている物も少なく(白隠の作品は割と平気で下書きの線が残ってる)、絹本に描かれている物も多いそうです。山下先生によると白隠はマザコンだったのではないかとのこと。達磨や釈迦が白隠の自画像的な意味合いがあるのに対し、観音は母の記憶なのかもしれません。
白隠 「横向き達磨」
永青文庫蔵(※展示は1/21まで)
永青文庫蔵(※展示は1/21まで)
白隠といえば、やはり達磨図。達磨は禅宗の初祖とされ、白隠の描いた達磨図は現存する物だけでも300点を超えるといわれています。本展では12点(入れ替え作品を含むと13点)の達磨図が展示されています。白隠は60代になってから禅画を量産したといいますが、60代の作品ですら“若書き”と解説されていました。中には、30代や40代の頃に描かれたとされる作品も数点展示されていて、後年の大胆な筆さばきやどっしりとした達磨像とは異なり、線も細く、達磨の表情もどこか卑屈で、神経質そうな感じさえ受けます。(上の作品は晩年のものです)
白隠 「半身達磨」
萬壽寺蔵
萬壽寺蔵
<直指人心、見性成佛>。「まっすぐに自分の心を見つめて、仏になろうとするのではなく、本来自分に備わっている物性を信じなさい」。白隠の複数の達磨図に書き添えされている定番の“賛”だそうです。白隠の作品は本来美術作品ではなく、布教目的の禅画であり、絵とともに必ずこうした“賛”が書き加えられています。さすがに読めないので、正直なところ、これまで書画の賛を注意して読んだことはほとんどなかったのですが、白隠の賛は奥の深い言葉や意味深な言葉、禅の公案などがあって、興味をかき立てらるものが多くあります。(図録の作品リストには展示作品の全ての賛が掲載されています)
白隠 「大燈国師」
串本応挙芦雪館蔵
串本応挙芦雪館蔵
大燈国師は高僧でありながらも、京・五条の橋の下で乞食とともに何十年も生活をしていたという禅僧で、後に名刹・大徳寺を開山したという大変偉いお坊さん。後半の≪墨蹟≫のコーナーに展示されていた白隠の書に「苦労して修行したのに、住職になった途端に貪欲になる…」というものがありましたが、白隠の思想の根底には大燈国師に通じるものがあるのでしょう。
白隠 「すたすた坊主」
早稲田大学會津八一記念博物館蔵
早稲田大学會津八一記念博物館蔵
見ているだけで楽しそうな気分が伝わってくる「すたすた坊主」。もともとはお金を恵んでもらっては水垢離や庚申待ちなど参詣や祈祷の代参をする願人坊主という乞食僧(実際には僧ではない)の一つで、半裸姿で家々の門前で面白おかしいことを言っては物乞いをしていたのだそうです。白隠はそこに、いつも大きな袋を持って物乞いをしていた乞食僧が実は弥勒菩薩の化身だったという布袋和尚の伝説を重ねて、すたすた坊主になってまで人の福を願って代参しているというようなことを賛に書いているそうです。
七福神(もしくは単独)を描いた作品も複数展示されていましたが、その中でも布袋を描いたものがが一番多くありました。布袋図も白隠の自画像的なところがあるようで、同じ自画像的要素の濃い達磨や出山釈迦が少々険しい顔つきをしているのに対し、人なつっこい表情で庶民的な布袋を自分として描いているのが面白いと思います。“アメとムチ”ではありませんが、自分の二面性を達磨と布袋で表しているのかもしれません。
白隠 「鍾馗鬼味噌」
海禅寺蔵
海禅寺蔵
すり鉢で鬼たちを「すり難い」と言いながらすり潰し、傍らで子どもが「鬼味噌を舐めてみたい」とせがむ。なんともブラックな作品。鍾馗は道教の影響を受けた神の一人で、かつては魔よけの神様として大変身近だったようです。鍾馗図のほかに、三国志の英雄・関羽を描いた作品も展示されていました。関羽も道教で神格化されていて、白隠の思想に対する道教の影響を強く感じさせます。
白隠の戯画も多数展示されていました。同じ禅僧で禅画や戯画を多く残した仙崖の作品がどちらかというと飄逸な味わいや機智を感じるのに対し、白隠の戯画はユーモラスなんだけど、そこからは社会(特に幕府や金持ち)への皮肉や禅的な教訓が強く見て取れます。あくまでも禅画の目的は禅の思想を伝えることであるというのが白隠のスタンスなのだと思います。
白隠 「百寿福禄寿」
普賢寺蔵
普賢寺蔵
「百寿福禄寿」は「寿」の字を100通りの書体で書いた作品で、この賛には真ん中の福禄寿が「白隠に書かされたんだよ」というようなことが書かれているそうです。白隠の墨蹟は行や列が揃ってなかったり、最後の方の文字がスペースがなくなって小さくなっていたり、決して能筆ではありませんが、その自由な字体や筆の勢いからは白隠らしさが伝わってくるようです。
白隠 「隻手」
久松真一記念館蔵
久松真一記念館蔵
「両手をたたけば音がする。では片手ではどうか。それを聞いてこい。」という白隠の有名な禅問答“隻手音声”を描いた作品。冒頭で触れたニューヨークの白隠展ではこの“隻手の音”がテーマになっていました。「円相」という丸を描いただけの書画も展示されていましたが、ただ“絵”としてみるだけではなく、そこに隠されたメッセージ(それは容易に分かるものではありませんが)を読み解こうとする気持ち、そこから何かを見つけようとさせるところに白隠の作品の魅力があるのかもしれません。白隠の作品が海外で人気が高いのは、単にその画風だけではなく、こうした“禅”の精神との繋がりがあってのことのようです。
一度見たら忘れられないインパクトのある絵やメッセージ性の強い賛。ようやく日本でも白隠の評価が高まりつつあり、この白隠展はそれを決定づける大事な展覧会になる気がします。
【白隠展 HAKUIN 禅画に込めたメッセージ】
2013年2月24日(日)まで (※途中展示替えがあります)
Bunkamura ザ・ミュージアムにて
芸術新潮 2013年 01月号 [雑誌]
白隠 (別冊太陽 日本のこころ)
白隠-禅画の世界 (中公新書 (1799))
2012/12/24
十二月大歌舞伎
今年の歌舞伎の見納めに、新橋演舞場で十二月大歌舞伎≪夜の部≫を観てまいりました。
今月は何といっても『籠釣瓶花街酔醒』。菊五郎初役の次郎左衛門に、同じく初役の菊之助の八ツ橋。“時分の花”という言葉がピッタリの美しい八ツ橋でありました。
『籠釣瓶』はどちらかというと菊五郎劇団とは縁のない演目だったので、ちょっと不思議でした。菊之助の八ツ橋は分かるとして、菊五郎まで初役で次郎左衛門に挑戦するとは。でも、観ていて思ったのですが、これは菊之助に八ツ橋をやらせるために菊五郎が一肌脱いだのかなと。
勘三郎亡き今、次郎左衛門を演じられるのは初世中村吉右衛門が創り上げ播磨屋型を受け継ぐ吉右衛門と幸四郎だけ。そこに菊五郎が新しい解釈で『籠釣瓶』に挑んだような気がします。インタビューでも菊五郎は播磨屋型を真似てやるくらいなら最初からやらなくていいと語っています。
菊五郎自身もかつて八ツ橋を演じてるんですね。過去の上演記録を見ると、戦後、八ツ橋はほとんど歌右衛門の独擅場。特に、昭和40年以降は昭和の終わりまで歌右衛門ばかりなのですが、その中で2度(1度は菊之助時代)ほど菊五郎が八ツ橋を演じています。八ツ橋に音羽屋型があるのかよく知りませんが、今回は菊之助は父・菊五郎からではなく、玉三郎に教えを請うていたようです。
さて、今回の音羽屋の『籠釣瓶』ですが、播磨屋や中村屋とは少し違う音羽屋らしい『籠釣瓶』という印象でした。
菊五郎の次郎左衛門はあまり田舎臭さがありませんし、呆け方も大仰でなくバカっぽく見えません。次郎左衛門の遊郭での遊び方がきれいだと言われる場面がありますが、田舎者で遊び方も知らず、金払いはいいが真面目で羽目も外さない面白くない人という裏の意味もあるのだろうと今までは思っていました。しかし、菊五郎の次郎左衛門を見ると、この人は田舎者だけど実は粋なところがあって、スマートな遊び方をしてるのかもしれない思わせます。
見どころは「縁切りの場」で、愛想尽かしをされた次郎左衛門の目や表情からは屈辱に耐えかねて今にも爆発しそうな恐ろしさが感じ取れます。八ツ橋に恥辱を受け、同行の商人たちにも顔向けができず、意気消沈して郷に帰る次郎左衛門ではなく、よくも恥をかかせたな、絶対に仕返しをしてやるという復讐の念、そしてそこに潜む狂気がじわじわと伝わってきます。それは「大詰」で現実となるのですが、菊五郎の次郎左衛門は、“妖刀”籠釣瓶の魔力ではなく自分の意志で八ツ橋を惨殺したとのだとそう感じさせます。
菊之助の八ツ橋はテレビで見たときは、最後の海老反りもぎこちなく、ちょっと心配していたのですが、自分が観に行った日(22日)は少し自分のものになってきたのか、姿のいい海老反りでした。玉三郎の「縁切りの場」のような満座が凍りついてしまうようなピーンと張りつめた緊張感こそありませんでしたが、これから回を重ねていけば、当代一の八ツ橋になること必至でしょう。
立花屋おきつの萬次郎と長兵衛の彦三郎、栄之丞の三津五郎、釣鐘権八の團蔵と脇も申し分なく、また菊五郎劇団の女形の薄い部分を歌女之丞、芝喜松、芝のぶといった“客演”に助けられ、思った以上に面白かったです。
幕間のあとは三津五郎の『奴道成寺』。白拍子花子だと思ったものが実は狂言師左近だったという“道成寺”もの男バージョンですが、『娘道成寺』とはまた一味違う趣向と“奴”の芸達者ぶりに十分楽しませてもらいました。
今月は何といっても『籠釣瓶花街酔醒』。菊五郎初役の次郎左衛門に、同じく初役の菊之助の八ツ橋。“時分の花”という言葉がピッタリの美しい八ツ橋でありました。
『籠釣瓶』はどちらかというと菊五郎劇団とは縁のない演目だったので、ちょっと不思議でした。菊之助の八ツ橋は分かるとして、菊五郎まで初役で次郎左衛門に挑戦するとは。でも、観ていて思ったのですが、これは菊之助に八ツ橋をやらせるために菊五郎が一肌脱いだのかなと。
勘三郎亡き今、次郎左衛門を演じられるのは初世中村吉右衛門が創り上げ播磨屋型を受け継ぐ吉右衛門と幸四郎だけ。そこに菊五郎が新しい解釈で『籠釣瓶』に挑んだような気がします。インタビューでも菊五郎は播磨屋型を真似てやるくらいなら最初からやらなくていいと語っています。
菊五郎自身もかつて八ツ橋を演じてるんですね。過去の上演記録を見ると、戦後、八ツ橋はほとんど歌右衛門の独擅場。特に、昭和40年以降は昭和の終わりまで歌右衛門ばかりなのですが、その中で2度(1度は菊之助時代)ほど菊五郎が八ツ橋を演じています。八ツ橋に音羽屋型があるのかよく知りませんが、今回は菊之助は父・菊五郎からではなく、玉三郎に教えを請うていたようです。
さて、今回の音羽屋の『籠釣瓶』ですが、播磨屋や中村屋とは少し違う音羽屋らしい『籠釣瓶』という印象でした。
菊五郎の次郎左衛門はあまり田舎臭さがありませんし、呆け方も大仰でなくバカっぽく見えません。次郎左衛門の遊郭での遊び方がきれいだと言われる場面がありますが、田舎者で遊び方も知らず、金払いはいいが真面目で羽目も外さない面白くない人という裏の意味もあるのだろうと今までは思っていました。しかし、菊五郎の次郎左衛門を見ると、この人は田舎者だけど実は粋なところがあって、スマートな遊び方をしてるのかもしれない思わせます。
見どころは「縁切りの場」で、愛想尽かしをされた次郎左衛門の目や表情からは屈辱に耐えかねて今にも爆発しそうな恐ろしさが感じ取れます。八ツ橋に恥辱を受け、同行の商人たちにも顔向けができず、意気消沈して郷に帰る次郎左衛門ではなく、よくも恥をかかせたな、絶対に仕返しをしてやるという復讐の念、そしてそこに潜む狂気がじわじわと伝わってきます。それは「大詰」で現実となるのですが、菊五郎の次郎左衛門は、“妖刀”籠釣瓶の魔力ではなく自分の意志で八ツ橋を惨殺したとのだとそう感じさせます。
菊之助の八ツ橋はテレビで見たときは、最後の海老反りもぎこちなく、ちょっと心配していたのですが、自分が観に行った日(22日)は少し自分のものになってきたのか、姿のいい海老反りでした。玉三郎の「縁切りの場」のような満座が凍りついてしまうようなピーンと張りつめた緊張感こそありませんでしたが、これから回を重ねていけば、当代一の八ツ橋になること必至でしょう。
立花屋おきつの萬次郎と長兵衛の彦三郎、栄之丞の三津五郎、釣鐘権八の團蔵と脇も申し分なく、また菊五郎劇団の女形の薄い部分を歌女之丞、芝喜松、芝のぶといった“客演”に助けられ、思った以上に面白かったです。
幕間のあとは三津五郎の『奴道成寺』。白拍子花子だと思ったものが実は狂言師左近だったという“道成寺”もの男バージョンですが、『娘道成寺』とはまた一味違う趣向と“奴”の芸達者ぶりに十分楽しませてもらいました。
2012/12/14
松本竣介展
世田谷美術館で開催中の『松本竣介展』に行ってきました。
つい先だって、東京国立近代美術館の『美術にぶるっ!』展で松本竣介の絶筆「建物」を初めて観たのですが、心に深く響くものがあり、なにか暗闇の中に光に包まれた美しく厳かな教会か廟を見たかのような、そんな衝撃を受けました。偶然にも今年は松本竣介の生誕100年だそうで、ちょうど世田谷美術館で松本竣介展が始まったというので、早速、足を運んでみました。
松本竣介は戦前から戦後にかけて活躍した洋画家で、ようやく戦争が終わり、これからだという昭和23年に36歳の若さで亡くなっています。
東京に生まれ、その後少年時代を岩手で過ごしますが、13歳のとき、旧制中学の入学式当日に病に倒れ、命と引き換えに聴覚を失ったそうです。
やがて絵画に目覚めますが、盛岡時代に描いた初期の作品は、モネ風の作品やセザンヌ風の作品など、少し印象派の影響を感じさせるような作品も見られ、まだまだ自分の個性を絵に発揮できていないようでした。それでも絵に自分の生きる道を見つけ、一生懸命描いていたのでしょう。少年時代の松本の絵からは生き生きとした表現や絵に対するひたむきな様子を窺い知ることができます。
会場は、大きく第1会場と第2会場に分かれ、初期の作品から最晩年の作品まで、年代ごとに、またテーマ別に展示されています。
Ⅰ. 前期
前期のコーナーは、1927年から1933年までの盛岡時代の初期作品と、東京に上京し、技法や画法の実験を重ね、試行錯誤を繰り返しながらも、二科展に入選するなど評価を高めていった1935年から1941年までの作品を展示しています。
それぞれに「都会:黒い線」 、「郊外:蒼い面」、「街と人:モンタージュ」などのテーマに沿って作品が展示されています。
1935年(昭和10年)頃の松本竣介の絵からは、昭和初期の東京の躍動感や新しい時代の感性を何とか描き出そうという、そんな意気込みが感じられます。松本の絵は黒い線描が特徴的ですが、この頃の線は黒く太く、ルオーやモディリアーニの影響もあるようだと会場の解説には書かれていました。
この頃既に、松本は“建物”を好んで描いていたようです。やがて、都会の街並みや女性などいくつものイメージを重ね合わせてコラージュ的に配したモンタージュ技法という独自のスタイルを生み出します。東京の風景というよりも、どこの国とも知れぬ無国籍なムードが漂います。色もブルー系やグリーン系などで統一され、どこかシャガールの絵を思い起こさせます。
昭和戦前期の前衛芸術運動の影響なのか分かりませんが、松本竣介の絵が急激に研ぎ澄まされていくというか、どんどん抽象的なものへと変化していきます。この頃から松本は、同じテーマ、画法による作品を繰り返し制作しています。色面構成や独特の線描、イメージの合成に特徴を表す一方で、クレーやミロ―を彷彿とさせる抽象画も登場します。
この時代の作品で自分が好きだったのは、フロアーの島の壁に並んで展示されていた二枚の「黒い花」。同じ年に描かれた作品ですが、描かれているイメージや色も異なるのに「黒い花」とは何とも不思議な絵だなと強く印象に残りました。
Ⅱ. 後期:人物
さて第2会場に進むと、1940年(昭和15年)から亡くなる1948年(昭和23年)までの後期作品が展示されています。
戦争の足音が日増しに強くなる昭和15年あたりから、松本竣介の画風は大きく変化します。それまでの大都会の躍動を感じさせるリズミカルで現代的な表現性や、モンタージュ技法による抽象的な画面構成は鳴りを潜め、どこか物思うような、寂しげなリアリズム調の作品に大きく変化を遂げます。
ここではまず、この時代の人物画から見ていきます。 人物画は「画家の像」、「女性像」、「少年像」などに分けて展示されていました。
松本竣介は耳が不自由だったため兵役は逃れましたが、まわりの多くの画家仲間たちや同年代の若者たちが次々と戦地に赴きました。松本は国家総動員の時代に戦争に参加できない自分を責め、罪の意識に苛まれていたのでしょうか。スケッチ帖を片手に街をうろうろする姿は、もしかしたら非国民扱いさえ受けたかもしれません。そうした彼の内なる心情がキャンバスに現れたような、そんな作品が続きます。
松本は、話者が指で宙に書く文字を読んで日常会話をしていたそうですが、彼の描く人物画のいくつかは、その指の仕草が特徴的に描かれています。
人物画のフロアー横の小さなスペースに「童画」というコーナーがありました。これは松本竣介の息子が描いた絵(といっても幼児の落書き)をもとに松本が手を加えて作品にしたものなのですが、子どもの拙い線描も、どこかパウル・クレーにも通じるような抽象性と詩情性が浮き上がり、とてもユニークな作品になっていました。
Ⅲ. 後期:風景
次に風景画です。街の息吹も消え、静謐というよりも孤独感を感じさせるような、そんな風景画が並びます。ここでは、「市街風景」、「建物」、「街路」、「運河」、「鉄橋付近」、「Y市の橋」、「ニコライ堂」など松本竣介が繰り返し描いてきたテーマごとに分けて作品を展示しています。
この頃の松本竣介の作品は、モチーフが限定され、ある種パターン化されています。好んで描いたニコライ堂や横浜駅前の橋、鉄橋、駅や工場の建物など、同じモチーフ、同じ構図の絵を精力的に描いていたようです。こうした、都会の喧騒から隔絶されたような、人気のない風景画は「無音の風景」と称されたそうです。
資料展示でスケッチ帖なども展示されていましたが、最初のスケッチはかなりラフなもので、恐らくそれをもとにアトリエで構想を加えていったようです。実際にはないものが加わっていたり、配置を変えたり、これはかつてのモンタージュ技法の名残なのでしょうが、その辺は自由だったようです。またそれぞれの絵には、建物の形、ニコライ堂や東京駅のようなドーム型の屋根、煙突、荷車など特徴的なものが共通して見られます。
横浜駅前の橋の絵。鉄橋や工場、小屋、煙突、運河、橋…、松本竣介の好んだモチーフが全て描かれている代表的な作品ですが、戦後の焼け跡の風景には衝撃を覚えました。まるで橋へのレクイエムのようです。
資料展示には、国威発揚、戦意高揚のための“芸術制作”が画家にも強く求められていた時代に、“芸術の自立”を主張し発表した松本の論文「生きてゐる画家」や、友人・靉光の壮行会の写真など貴重な史料が展示されています。
松本竣介は“戦争画”の強要に抵抗した画家というイメージがあり、反戦的な芸術家の象徴のように自分は思っていました。しかし、会場にあった年表などを見ると、松本竣介も幾度か“戦争画”の展覧会やポスター展に作品を発表していたことが分かります。どういった作品なのか言及はありませんでしたが、彼は彼なりの“戦争画”を描いて時流に乗っていたのかもしれません。終戦直後に疎開先の息子に宛てた手紙が資料展示されていましたが、その中にも戦争に負けた悔しさや、幼い頃は自分も軍人になりたかったということが書かれていました。松本は障害故に戦争に参加できないことで自責の念の駆られていたともいいます。彼は、そんな自分に対するもどかしさや苦しさ、孤独、戦争の空しさや悲しさ、命の重さといったものを、自分の内なる声として描き続けてきたのだなと理解しました。
Ⅳ. 展開期
戦後、松本竣介の画風は再び大きく変わります。赤褐色の地色に大胆で荒々しい線描、抽象的な人物や建物。新たな造形への模索が始まります。
最後のコーナーは、戦後の僅か2年余りの時期のもので、作品数も多くありませんが、心の何かをぶつけるような強い表現力と独特のトーンに包まれていまし た。戦争が終わり、自由の時代が訪れたという喜びや輝きはその作品からは感じられません。どこか疲れたような、何か悟ったような、そんな風にも思えまし た。
1947年の暮れから松本は体調を崩していたのですが、周りから休養を勧められるも、制作活動を止めなかったといいます。最後の作品「彫刻と女」と「建物」の制作を終えると、そのひと月後に息を引き取ります。会場には絶筆の一つ「彫刻と女」と同時期に描かれたとされる「建物(青)」が展示されていまし た。もう一つの絶筆「建物」は、現在、東京国立近代美術館で開催中の『美術にぶるっ! 第Ⅰ部 MOMATコレクションスペシャル』に展示されています(但し、本展の図録には「建物」も掲載されています)。
生誕100年ということで、約120点の作品と数多くの資料が一堂に介した非常に充実した展覧会でした。第1会場は2階で、第2会場が1階なのですが、それぞれの会場を一度出てしまうと戻れないようなので、ご注意ください。
【生誕100年 松本竣介展】
2013年1月14日(月)まで
世田谷美術館にて
松本 竣介 線と言葉 (コロナ・ブックス)
青い絵具の匂い - 松本竣介と私 (中公文庫)
つい先だって、東京国立近代美術館の『美術にぶるっ!』展で松本竣介の絶筆「建物」を初めて観たのですが、心に深く響くものがあり、なにか暗闇の中に光に包まれた美しく厳かな教会か廟を見たかのような、そんな衝撃を受けました。偶然にも今年は松本竣介の生誕100年だそうで、ちょうど世田谷美術館で松本竣介展が始まったというので、早速、足を運んでみました。
松本竣介は戦前から戦後にかけて活躍した洋画家で、ようやく戦争が終わり、これからだという昭和23年に36歳の若さで亡くなっています。
東京に生まれ、その後少年時代を岩手で過ごしますが、13歳のとき、旧制中学の入学式当日に病に倒れ、命と引き換えに聴覚を失ったそうです。
やがて絵画に目覚めますが、盛岡時代に描いた初期の作品は、モネ風の作品やセザンヌ風の作品など、少し印象派の影響を感じさせるような作品も見られ、まだまだ自分の個性を絵に発揮できていないようでした。それでも絵に自分の生きる道を見つけ、一生懸命描いていたのでしょう。少年時代の松本の絵からは生き生きとした表現や絵に対するひたむきな様子を窺い知ることができます。
松本竣介 「盛岡の冬」
1931年 岩手県立美術館蔵
1931年 岩手県立美術館蔵
会場は、大きく第1会場と第2会場に分かれ、初期の作品から最晩年の作品まで、年代ごとに、またテーマ別に展示されています。
Ⅰ. 前期
前期のコーナーは、1927年から1933年までの盛岡時代の初期作品と、東京に上京し、技法や画法の実験を重ね、試行錯誤を繰り返しながらも、二科展に入選するなど評価を高めていった1935年から1941年までの作品を展示しています。
松本竣介 「母と子」
1936年頃 岩手県立美術館蔵
1936年頃 岩手県立美術館蔵
それぞれに「都会:黒い線」 、「郊外:蒼い面」、「街と人:モンタージュ」などのテーマに沿って作品が展示されています。
1935年(昭和10年)頃の松本竣介の絵からは、昭和初期の東京の躍動感や新しい時代の感性を何とか描き出そうという、そんな意気込みが感じられます。松本の絵は黒い線描が特徴的ですが、この頃の線は黒く太く、ルオーやモディリアーニの影響もあるようだと会場の解説には書かれていました。
松本竣介 「有楽町駅附近」
1936年 岩手県立美術館蔵
1936年 岩手県立美術館蔵
この頃既に、松本は“建物”を好んで描いていたようです。やがて、都会の街並みや女性などいくつものイメージを重ね合わせてコラージュ的に配したモンタージュ技法という独自のスタイルを生み出します。東京の風景というよりも、どこの国とも知れぬ無国籍なムードが漂います。色もブルー系やグリーン系などで統一され、どこかシャガールの絵を思い起こさせます。
松本竣介 「都会」
1940年 大原美術館蔵
1940年 大原美術館蔵
松本竣介 「青の風景(少年)」
1940年 岩手県立美術館蔵
1940年 岩手県立美術館蔵
昭和戦前期の前衛芸術運動の影響なのか分かりませんが、松本竣介の絵が急激に研ぎ澄まされていくというか、どんどん抽象的なものへと変化していきます。この頃から松本は、同じテーマ、画法による作品を繰り返し制作しています。色面構成や独特の線描、イメージの合成に特徴を表す一方で、クレーやミロ―を彷彿とさせる抽象画も登場します。
松本竣介 「茶の風景」
1940年 岩手県立美術館蔵
1940年 岩手県立美術館蔵
この時代の作品で自分が好きだったのは、フロアーの島の壁に並んで展示されていた二枚の「黒い花」。同じ年に描かれた作品ですが、描かれているイメージや色も異なるのに「黒い花」とは何とも不思議な絵だなと強く印象に残りました。
[左] 松本竣介 「黒い花」 1940年 個人蔵
[右] 松本竣介 「黒い花」 1940年 岩手県立美術館蔵
[右] 松本竣介 「黒い花」 1940年 岩手県立美術館蔵
Ⅱ. 後期:人物
さて第2会場に進むと、1940年(昭和15年)から亡くなる1948年(昭和23年)までの後期作品が展示されています。
戦争の足音が日増しに強くなる昭和15年あたりから、松本竣介の画風は大きく変化します。それまでの大都会の躍動を感じさせるリズミカルで現代的な表現性や、モンタージュ技法による抽象的な画面構成は鳴りを潜め、どこか物思うような、寂しげなリアリズム調の作品に大きく変化を遂げます。
ここではまず、この時代の人物画から見ていきます。 人物画は「画家の像」、「女性像」、「少年像」などに分けて展示されていました。
松本竣介 「立てる像」
1942年 神奈川県立近代美術館蔵
1942年 神奈川県立近代美術館蔵
松本竣介は耳が不自由だったため兵役は逃れましたが、まわりの多くの画家仲間たちや同年代の若者たちが次々と戦地に赴きました。松本は国家総動員の時代に戦争に参加できない自分を責め、罪の意識に苛まれていたのでしょうか。スケッチ帖を片手に街をうろうろする姿は、もしかしたら非国民扱いさえ受けたかもしれません。そうした彼の内なる心情がキャンバスに現れたような、そんな作品が続きます。
松本竣介 「水を飲む子ども」
1943年頃 岩手県立美術館蔵
1943年頃 岩手県立美術館蔵
松本は、話者が指で宙に書く文字を読んで日常会話をしていたそうですが、彼の描く人物画のいくつかは、その指の仕草が特徴的に描かれています。
人物画のフロアー横の小さなスペースに「童画」というコーナーがありました。これは松本竣介の息子が描いた絵(といっても幼児の落書き)をもとに松本が手を加えて作品にしたものなのですが、子どもの拙い線描も、どこかパウル・クレーにも通じるような抽象性と詩情性が浮き上がり、とてもユニークな作品になっていました。
Ⅲ. 後期:風景
次に風景画です。街の息吹も消え、静謐というよりも孤独感を感じさせるような、そんな風景画が並びます。ここでは、「市街風景」、「建物」、「街路」、「運河」、「鉄橋付近」、「Y市の橋」、「ニコライ堂」など松本竣介が繰り返し描いてきたテーマごとに分けて作品を展示しています。
松本竣介 「議事堂のある風景」
1942年 岩手県立美術館蔵
1942年 岩手県立美術館蔵
この頃の松本竣介の作品は、モチーフが限定され、ある種パターン化されています。好んで描いたニコライ堂や横浜駅前の橋、鉄橋、駅や工場の建物など、同じモチーフ、同じ構図の絵を精力的に描いていたようです。こうした、都会の喧騒から隔絶されたような、人気のない風景画は「無音の風景」と称されたそうです。
松本竣介 「鉄橋近く」
1944年 岩手県立美術館蔵
1944年 岩手県立美術館蔵
資料展示でスケッチ帖なども展示されていましたが、最初のスケッチはかなりラフなもので、恐らくそれをもとにアトリエで構想を加えていったようです。実際にはないものが加わっていたり、配置を変えたり、これはかつてのモンタージュ技法の名残なのでしょうが、その辺は自由だったようです。またそれぞれの絵には、建物の形、ニコライ堂や東京駅のようなドーム型の屋根、煙突、荷車など特徴的なものが共通して見られます。
松本竣介 「Y市の橋」
1943年 東京国立近代美術館蔵
1943年 東京国立近代美術館蔵
横浜駅前の橋の絵。鉄橋や工場、小屋、煙突、運河、橋…、松本竣介の好んだモチーフが全て描かれている代表的な作品ですが、戦後の焼け跡の風景には衝撃を覚えました。まるで橋へのレクイエムのようです。
松本竣介 「Y市の橋」
1946年 京都国立近代美術館蔵
1946年 京都国立近代美術館蔵
資料展示には、国威発揚、戦意高揚のための“芸術制作”が画家にも強く求められていた時代に、“芸術の自立”を主張し発表した松本の論文「生きてゐる画家」や、友人・靉光の壮行会の写真など貴重な史料が展示されています。
松本竣介は“戦争画”の強要に抵抗した画家というイメージがあり、反戦的な芸術家の象徴のように自分は思っていました。しかし、会場にあった年表などを見ると、松本竣介も幾度か“戦争画”の展覧会やポスター展に作品を発表していたことが分かります。どういった作品なのか言及はありませんでしたが、彼は彼なりの“戦争画”を描いて時流に乗っていたのかもしれません。終戦直後に疎開先の息子に宛てた手紙が資料展示されていましたが、その中にも戦争に負けた悔しさや、幼い頃は自分も軍人になりたかったということが書かれていました。松本は障害故に戦争に参加できないことで自責の念の駆られていたともいいます。彼は、そんな自分に対するもどかしさや苦しさ、孤独、戦争の空しさや悲しさ、命の重さといったものを、自分の内なる声として描き続けてきたのだなと理解しました。
Ⅳ. 展開期
戦後、松本竣介の画風は再び大きく変わります。赤褐色の地色に大胆で荒々しい線描、抽象的な人物や建物。新たな造形への模索が始まります。
松本竣介 「子ども」
1947年頃 岩手県立美術館蔵
1947年頃 岩手県立美術館蔵
最後のコーナーは、戦後の僅か2年余りの時期のもので、作品数も多くありませんが、心の何かをぶつけるような強い表現力と独特のトーンに包まれていまし た。戦争が終わり、自由の時代が訪れたという喜びや輝きはその作品からは感じられません。どこか疲れたような、何か悟ったような、そんな風にも思えまし た。
松本竣介 「彫刻と女」
1948年 福岡市美術館蔵
1948年 福岡市美術館蔵
1947年の暮れから松本は体調を崩していたのですが、周りから休養を勧められるも、制作活動を止めなかったといいます。最後の作品「彫刻と女」と「建物」の制作を終えると、そのひと月後に息を引き取ります。会場には絶筆の一つ「彫刻と女」と同時期に描かれたとされる「建物(青)」が展示されていまし た。もう一つの絶筆「建物」は、現在、東京国立近代美術館で開催中の『美術にぶるっ! 第Ⅰ部 MOMATコレクションスペシャル』に展示されています(但し、本展の図録には「建物」も掲載されています)。
松本竣介 「建物」
1948年 東京国立近代美術館蔵
(※この作品は本展には出展されていません)
1948年 東京国立近代美術館蔵
(※この作品は本展には出展されていません)
生誕100年ということで、約120点の作品と数多くの資料が一堂に介した非常に充実した展覧会でした。第1会場は2階で、第2会場が1階なのですが、それぞれの会場を一度出てしまうと戻れないようなので、ご注意ください。
【生誕100年 松本竣介展】
2013年1月14日(月)まで
世田谷美術館にて
松本 竣介 線と言葉 (コロナ・ブックス)
青い絵具の匂い - 松本竣介と私 (中公文庫)
2012/12/01
ジョルジュ・ルオー アイ・ラブ・サーカス
パナソニック汐留ミュージアムで開催中の『ジョルジュ・ルオー アイ・ラブ・サーカス展』に行ってきました。
ルオーのコレクションで知られるパナソニック汐留ミュージアムでは、時折ルオーの企画展を開いていますが、今回のテーマは“サーカス”。ルオーの絵画作品の中でサーカスがテーマのものは実は全体の1/3にもなるそうです。
たまたま10月にNHK Eテレの『日曜美術館』 でルオーの特集があり、ルオーが生涯描き続けたキリストとともに、もうひとつ彼の重要なモチーフであった道化師について触れられていて、ルオーのサーカスの絵が観られる本展をとても楽しみにしていました。
本展は、パナソニック汐留ミュージアムの所蔵作品をはじめ、国内外の美術館の所蔵作品や個人蔵の作品、またルオー財団の協力も得て、充実した素晴らしい展覧会になっていました。
ルオーは子どもの頃からサーカスが大好きだったそうで、画家になってからも、旅回りのサーカス団に深い関心を持っていて、そのうら哀切さを通して人間本来の姿を表現しようとしたのだとか。ルオーは終生、社会的弱者に目を向け、娼婦や踊り子、貧しい労働者といった底辺に暮らす人々を多く描いていますが、とりわけ道化師にはキリストにも似た何か神聖なものを見ていたのかもしれません。
展覧会は大きく分けて3つのパートで構成されています。
第1幕 悲哀-旅まわりのサーカス 1902-1910年代
第2幕 喝采-舞台を一巡り 1920-1930年代
第3幕 記憶-光の道化師 1940-195年代
30歳を過ぎた1902年頃から、ルオーの画風は大きく変わったといいます。素早く荒々しいタッチで、また水彩の作品も増えてきます。本展では早いものでは1902年頃の作品から展示されていて、まだその頃の作品は後年のルオーのような特徴的な人物描写や構図は目立たず、色の塗りも薄いものの、筆遣いや色調にルオーらしさを感じます。
「タバランにて(シャユ踊り)」はどこかロートレック的な構図で、輪郭線もまだ完成されていませんが、濃いブルーを主体とした画面にルオーらしさが宿ってます。
会場の途中に、パリのサーカスの歴史的資料を展示した小部屋があって、パリで人気のキャバレー“バル・タバラン”の解説も充実していました。
会場には、ところどころに≪女曲馬師≫や≪調教師≫、≪呼び込み≫、≪ピエロ≫、≪ルオーとボードレール≫など、コラム的な解説と小コーナーがあって、そのテーマに合わせた作品が展示されています。
こうしてルオーの描くサーカスを観ていくと、単なる絵のモチーフとかではなくて、ルオーが本当にサーカスとその人たちを愛していたんだなということが分かります。サーカスの表の楽しさだけではなく、その裏に隠された人間ドラマまでもが伝わってくるようです。
≪道化師≫の小コーナーには、1930年代を中心とした道化師の絵が展示されていました。会場の入口を入ったところにも初期の道化師の絵がありましたが、この頃になると、ただ物悲しいだけの表情にも安らぎというか温かみが現れ、どこか澄み切ったものが感じられるようになります。とっても厚塗りな絵も多いのですが、絵に独特の柔らかさが出てくるから不思議です。
会場の途中には、フランスの映画監督ジャン・ピエール・メルヴィルの初期の短編映画『ある道化師の24時間』が上映されていました。
「第2幕」の会場の一番奥には、ルオーの作品で最大級の油彩画という“カルトーネ”(タピストリーのための実物大下絵)が3点揃って展示されています。「傷ついた道化師」はかなり前に『美の巨人たち』(たぶん)で取り上げられたことがあり、舞台の最中にケガをした道化師とそれを助ける仲間たちという構図がとても印象に残っていました。同じく“カルトーネ”の「踊り子」は、旅回りのサーカス団らしい垢抜けない、筋肉質の“らしくない”踊り子で、彼女の人生の悲哀が凝縮されたような一枚です。
晩年のルオーの道化師は「愛と犠牲を体現するキリスト的な人物像と一体化」していきます。かつてのようなゴツゴツとした、荒削りの鋭さや勢い、物悲しさは消え、柔らかさや優しさが絵に溢れてきます。 「貴族的なピエロ」はどことなく微笑んでいるようにも見えます。会場にあった解説によると、道化師の服にボタンが4つついているのは特別な道化師なのだそうです。
パナソニック汐留ミュージアムは決して広い美術館ではないのですが、そこにルオーの作品だけでも約90点、サーカスなどの資料等を含めると約140点がビッシリと並んでいます。会場の雰囲気もサーカス風に模していて、いろいろと凝った演出がされていました。ルオーのサーカスに絞ったということで、非常に楽しく拝見できました。お勧めの展覧会です。
【ジョルジュ・ルオー アイ・ラブ・サーカス】
2012年12月16日(日)まで
パナソニック汐留ミュージアムにて
ジョルジュ・ルオー サーカス 道化師
ルオーのコレクションで知られるパナソニック汐留ミュージアムでは、時折ルオーの企画展を開いていますが、今回のテーマは“サーカス”。ルオーの絵画作品の中でサーカスがテーマのものは実は全体の1/3にもなるそうです。
たまたま10月にNHK Eテレの『日曜美術館』 でルオーの特集があり、ルオーが生涯描き続けたキリストとともに、もうひとつ彼の重要なモチーフであった道化師について触れられていて、ルオーのサーカスの絵が観られる本展をとても楽しみにしていました。
本展は、パナソニック汐留ミュージアムの所蔵作品をはじめ、国内外の美術館の所蔵作品や個人蔵の作品、またルオー財団の協力も得て、充実した素晴らしい展覧会になっていました。
ルオーは子どもの頃からサーカスが大好きだったそうで、画家になってからも、旅回りのサーカス団に深い関心を持っていて、そのうら哀切さを通して人間本来の姿を表現しようとしたのだとか。ルオーは終生、社会的弱者に目を向け、娼婦や踊り子、貧しい労働者といった底辺に暮らす人々を多く描いていますが、とりわけ道化師にはキリストにも似た何か神聖なものを見ていたのかもしれません。
ジョルジュ・ルオー 「女曲馬師(人形の顔)」
1925年頃 パナソニック汐留ミュージアム
1925年頃 パナソニック汐留ミュージアム
展覧会は大きく分けて3つのパートで構成されています。
第1幕 悲哀-旅まわりのサーカス 1902-1910年代
第2幕 喝采-舞台を一巡り 1920-1930年代
第3幕 記憶-光の道化師 1940-195年代
ジョルジュ・ルオー 「タバランにて(シャユ踊り)」
1905年 パリ市立近代美術館蔵
1905年 パリ市立近代美術館蔵
30歳を過ぎた1902年頃から、ルオーの画風は大きく変わったといいます。素早く荒々しいタッチで、また水彩の作品も増えてきます。本展では早いものでは1902年頃の作品から展示されていて、まだその頃の作品は後年のルオーのような特徴的な人物描写や構図は目立たず、色の塗りも薄いものの、筆遣いや色調にルオーらしさを感じます。
「タバランにて(シャユ踊り)」はどこかロートレック的な構図で、輪郭線もまだ完成されていませんが、濃いブルーを主体とした画面にルオーらしさが宿ってます。
会場の途中に、パリのサーカスの歴史的資料を展示した小部屋があって、パリで人気のキャバレー“バル・タバラン”の解説も充実していました。
ジョルジュ・ルオー 「白い馬に乗った女曲馬師」
1925-29年頃 ポンピドーセンター国立近代美術館蔵
1925-29年頃 ポンピドーセンター国立近代美術館蔵
会場には、ところどころに≪女曲馬師≫や≪調教師≫、≪呼び込み≫、≪ピエロ≫、≪ルオーとボードレール≫など、コラム的な解説と小コーナーがあって、そのテーマに合わせた作品が展示されています。
こうしてルオーの描くサーカスを観ていくと、単なる絵のモチーフとかではなくて、ルオーが本当にサーカスとその人たちを愛していたんだなということが分かります。サーカスの表の楽しさだけではなく、その裏に隠された人間ドラマまでもが伝わってくるようです。
ジョルジュ・ルオー 「道化師」
1937年または1938年 パナソニック汐留ミュージアム
1937年または1938年 パナソニック汐留ミュージアム
≪道化師≫の小コーナーには、1930年代を中心とした道化師の絵が展示されていました。会場の入口を入ったところにも初期の道化師の絵がありましたが、この頃になると、ただ物悲しいだけの表情にも安らぎというか温かみが現れ、どこか澄み切ったものが感じられるようになります。とっても厚塗りな絵も多いのですが、絵に独特の柔らかさが出てくるから不思議です。
会場の途中には、フランスの映画監督ジャン・ピエール・メルヴィルの初期の短編映画『ある道化師の24時間』が上映されていました。
ジョルジュ・ルオー 「踊り子」
1931-32年 ジョルジュ・ルオー財団蔵
1931-32年 ジョルジュ・ルオー財団蔵
ジョルジュ・ルオー 「傷ついた道化師」
1929-39年 個人蔵
1929-39年 個人蔵
「第2幕」の会場の一番奥には、ルオーの作品で最大級の油彩画という“カルトーネ”(タピストリーのための実物大下絵)が3点揃って展示されています。「傷ついた道化師」はかなり前に『美の巨人たち』(たぶん)で取り上げられたことがあり、舞台の最中にケガをした道化師とそれを助ける仲間たちという構図がとても印象に残っていました。同じく“カルトーネ”の「踊り子」は、旅回りのサーカス団らしい垢抜けない、筋肉質の“らしくない”踊り子で、彼女の人生の悲哀が凝縮されたような一枚です。
ジョルジュ・ルオー 「貴族的なピエロ」
1941-42年 アサヒビール株式会社蔵
1941-42年 アサヒビール株式会社蔵
晩年のルオーの道化師は「愛と犠牲を体現するキリスト的な人物像と一体化」していきます。かつてのようなゴツゴツとした、荒削りの鋭さや勢い、物悲しさは消え、柔らかさや優しさが絵に溢れてきます。 「貴族的なピエロ」はどことなく微笑んでいるようにも見えます。会場にあった解説によると、道化師の服にボタンが4つついているのは特別な道化師なのだそうです。
ジョルジュ・ルオー 「青いピエロたち」
1943年 個人蔵
1943年 個人蔵
パナソニック汐留ミュージアムは決して広い美術館ではないのですが、そこにルオーの作品だけでも約90点、サーカスなどの資料等を含めると約140点がビッシリと並んでいます。会場の雰囲気もサーカス風に模していて、いろいろと凝った演出がされていました。ルオーのサーカスに絞ったということで、非常に楽しく拝見できました。お勧めの展覧会です。
【ジョルジュ・ルオー アイ・ラブ・サーカス】
2012年12月16日(日)まで
パナソニック汐留ミュージアムにて
ジョルジュ・ルオー サーカス 道化師