本展は、昨年から福井県立美術館、山梨県立美術館を巡回し、好評を博した展覧会。山梨まで観に行こうと思っていたのですが、なかなか時間が作れず、東京でも開催すると聞いて、とても心待ちにしていました。
狩野芳崖といえば、幕末から明治前期にかけて活躍した狩野派最後の日本画家。“近代日本画の父”と評され、特に絶筆の「悲母観音」は近代日本画の幕開けを飾る記念碑的傑作として知られます。
本展ではその芳崖と、芳崖四天王と呼ばれた4人の高弟 - 岡倉秋水、岡不崩、高屋肖哲、本多天城 - の作品を中心に、芳崖とともに勝川院四天王と呼ばれた幕末狩野派の画家たち、さらには芳崖亡き後、日本画の革新に挑んだ横山大観、下村観山、菱田春草ら朦朧体四天王の3つの四天王の画業を紹介し、近代日本画の水脈を辿ります。
会場に掲示されている人物相関図
第1章 狩野芳崖と狩野派の画家たち -雅邦、立嶽、友信-
室町幕府の御用絵師にはじまり、豊臣秀吉や織田信長、江戸幕府と400年もの間、常に画壇の中心にあった狩野派も江戸幕府の崩壊とともに終焉を迎えます。長府藩狩野派の御用絵師の家に生まれ、木挽町狩野派に入門し塾頭として活躍した芳崖も、維新後は陶器の下絵を描くなど生活は一変したといいます。
出品作はいずれも明治10年代以降の作品なので、晩年の画風しか分かりませんが、会場の冒頭に展示されていた「壽老人」を観るだけでも、狩野派の画題や筆法をベースにしつつ、コントラスを強調した立体感ある表現など西洋画を意識した描き方がされていることに気づきます。ただ、芳崖は狩野派伝来の賦彩法に反した配色をして師と口論になったというエピソードもあるぐらいなので、もともと既成の画法に安住するのを嫌うというタイプだったのかもしれません。
[写真右から] 狩野芳崖 「壽老人」
明治10年代(1877-86) 泉屋博古館分館蔵
木村立獄 「韓信張良物語之図」「楼閣山水図」
富山市郷土博物館蔵 (展示は10/8まで)
明治10年代(1877-86) 泉屋博古館分館蔵
木村立獄 「韓信張良物語之図」「楼閣山水図」
富山市郷土博物館蔵 (展示は10/8まで)
「獅子図」は実際にライオンを写生して描いたといい、墨画山水図を踏まえつつも狩野派伝統の唐獅子とは程遠い西洋画のイメージ。最晩年の「岩石」は構図はまるで雪舟の「慧可断臂図」みたいなのですが、実感描写に近い岩の立体感や明暗の諧調は狩野派様式から逸脱し日本画が新しい領域に入っていることを感じます。「伏龍羅漢図」は西洋画材を使ったという明るく濃淡のある色彩と、何とも言えない羅漢の表情や身体表現がとても印象的。両隣りの雅邦の作品に比べても強烈なインパクトがあります。
[写真右] 橋本雅邦 「神仙愛獅図」
明治18~22年(1885-89)頃 川越市立美術館蔵 (展示は10/8まで)
[写真左] 狩野芳崖 「獅子図」
明治19年(1886)頃 東京国立近代美術館蔵 (展示は10/8まで)
明治18~22年(1885-89)頃 川越市立美術館蔵 (展示は10/8まで)
[写真左] 狩野芳崖 「獅子図」
明治19年(1886)頃 東京国立近代美術館蔵 (展示は10/8まで)
勝川院四天王とは木挽町狩野派の絵師・勝川院雅信(ただのぶ)の弟子である芳崖、橋本雅邦、木村立嶽、狩野勝玉のこと。雅信は、江戸末期の狩野派では評価の高い父・晴川院養信と違って凡才との声もあり、事実岡倉天心や芳崖や雅邦さえも雅信には批判的なのですが、何百人もいたという幕末の狩野派の中でも雅信率いる木挽町画塾から新時代に即応した画家が輩出されたというのは面白いと思います。
木村立嶽は新日本画的な山水図なども残している人ですが、本展の出品作はどちらかというと狩野派の伝統的な筆法で描かれた旧態的な作品。雅邦の「春景山水図」は漢画的な墨画山水画でありながら芳崖の傑作「江流百里図」(本展未出品)を思わせる奥行きのある立体空間と繊細な水墨の陰影が秀逸。「西行法師図」は西洋画を強く意識した構図や景観描写、彩色など、横山大観や下村観山といった次世代の日本画家に繋がる近代性を感じます。
[写真右から] 狩野芳崖 「柳下放牛図」
明治17年(1884) 福井県立美術館蔵 (展示は10/8まで)
狩野芳崖 「岩石」
明治20年(1887) 東京藝術大学蔵 (展示は10/8まで)
橋本雅邦 「秋景山水図」
明治20年(1887)頃 愛知県美術館蔵 (展示は10/8まで)
明治17年(1884) 福井県立美術館蔵 (展示は10/8まで)
狩野芳崖 「岩石」
明治20年(1887) 東京藝術大学蔵 (展示は10/8まで)
橋本雅邦 「秋景山水図」
明治20年(1887)頃 愛知県美術館蔵 (展示は10/8まで)
[写真右から] 橋本雅邦 「出山釈迦図」
明治18~22年(1885-89)頃 泉屋博古館分館蔵
狩野芳崖 「伏龍羅漢図」
明治18年(1885) 福井県立美術館蔵 (展示は10/8まで)
橋本雅邦 「維摩居士」
明治18年(1885)頃 茨城県近代美術館蔵 (展示は10/8まで)
明治18~22年(1885-89)頃 泉屋博古館分館蔵
狩野芳崖 「伏龍羅漢図」
明治18年(1885) 福井県立美術館蔵 (展示は10/8まで)
橋本雅邦 「維摩居士」
明治18年(1885)頃 茨城県近代美術館蔵 (展示は10/8まで)
第2章 芳崖四天王 -芳崖芸術を受け継ぐ者-
芳崖の「悲母観音」は後期展示(10/10~10/28)になりますが、前期では芳崖四天王の一人、岡倉秋水が「悲母観音」を模写した「慈母観音図」と、同じく四天王の高屋肖哲による模写が展示されています。
芳崖の没後、秋水のもとには「悲母観音」の模写画の依頼が複数あったようで、同様の作品が数点残っているといいます。芳崖の「悲母観音」には西洋顔料が使われていないのに対し、秋水の「慈母観音図」は西洋顔料を使って色彩の豊かさを表しているとも。肖哲の「悲母観音 模写」には画中に細かくメモ書きされているのが興味深い。
[写真右] 岡倉秋水 「慈母観音図」 大正7年(1918)頃 福井県立美術館蔵
[写真左] 高屋肖哲 「悲母観音図 模写」 金沢美術工芸大学蔵
[写真左] 高屋肖哲 「悲母観音図 模写」 金沢美術工芸大学蔵
なお、後期には芳崖の「悲母観音」のほかに、「不動明王」「仁王捉鬼図」といった芳崖最晩年の代表作も出品されます。
[写真左奥] 岡倉秋水 「老松双蝠」 福井市愛宕坂茶道美術館蔵
芳崖四天王は知られざる画家といっていいかもしれません。岡倉天心やフェノロサと所縁はあるものの日本美術院には参加せず、それぞれ独自の道を歩みます。岡倉秋水と岡不崩は過去にも作品を観ているのですが、高屋肖哲と本多天城は個人的に初めて観る気がします(忘れてるだけかもしれませんが)。
秋水の「老松双蝠」は松の大木をトリミングした構図と松を挟んで飛ぶ2羽の蝙蝠が印象的。「不動明王」と「龍頭観音図、雨神之図、風神之図」は「老松双蝠」の力強さとは対照的に、ちょっとコミカルな感じの表現が面白い。
[写真右] 岡不崩 「慈母観音図」 大正7年(1918)頃 福井県立美術館蔵
[写真左] 高屋肖哲 「悲母観音図 模写」 金沢美術工芸大学蔵
[写真左] 高屋肖哲 「悲母観音図 模写」 金沢美術工芸大学蔵
不崩は秋の草花や蝶が細密な筆致で描かれた「群蝶図」と「秋芳」。どちらかというと四条派の草花図の流れを感じます。後半生は本草学にのめり込んだというだけあり、『朝顔図説と培養法』など研究書も展示されていました。一方で、細い紙に雪舟風の山水画を描いた「山水画巻」は水墨の確かな筆技に只者ではないという感じを覚えます。
[写真左から] 高屋肖哲 「千児観音図 下絵」 大正14年(1925) 金沢美術工芸大学蔵
高屋肖哲 「観音菩薩図 下絵」 大正10年(1910) 金沢美術工芸大学蔵
高屋肖哲 「月見観音図」 大正13年(1924) 個人蔵
本多天城 「羅浮仙図」 個人蔵 (展示は10/8まで)
本多天城 「蓬莱山之図」 明治41年(1908)頃 個人蔵
高屋肖哲 「観音菩薩図 下絵」 大正10年(1910) 金沢美術工芸大学蔵
高屋肖哲 「月見観音図」 大正13年(1924) 個人蔵
本多天城 「羅浮仙図」 個人蔵 (展示は10/8まで)
本多天城 「蓬莱山之図」 明治41年(1908)頃 個人蔵
高屋肖哲は芳崖の死後、仏画に傾倒。大正期以降は画壇からも距離を置き、「観音図」を多く描いたそうですが、作品の多くは関東大震災で失われたといいます。「千児観音図 下絵」は芳崖の「悲母観音」をイメージソースにしてるであろう観音と無数の子どもが描かれていて、その印象的な構図と観音の美しさにハッとします。本画は見つかっていないそうなのですが、完成された作品はどんなに美しかったのだろうかと思います。
高屋肖哲 「武帝達磨謁見図」 昭和15年(1940) 浅草寺蔵 (展示は10/8まで)
「武帝達磨謁見図」は浅草寺に残された六曲一双の大きな屏風。達磨と武帝の禅問答を描いていて、武帝や女官は古画に基づく伝統的な筆致、達磨は達磨らしく描かれているのに対し、左隻の衝立の裏に隠れた男性2人が写実的に描かれているのが不思議。筆者自身を描いているのではないかという話もあるようです。
[写真右から] 本多天城 「山水」 明治35年(1902) 川越市立美術館蔵
岡不崩 「渓谷山水」 昭和3年(1928) 個人蔵 (展示は10/8まで)
本多天城 「日之出波濤図」 昭和20年(1940) 個人蔵
岡不崩 「渓谷山水」 昭和3年(1928) 個人蔵 (展示は10/8まで)
本多天城 「日之出波濤図」 昭和20年(1940) 個人蔵
本多天城の「山水」は水墨の山水と西洋画的な彩色が融合した意欲作。ただ、昭和以降の作品は最早芳崖の流れを感じる要素は薄く、南画的傾向もあって、近代日本画の潮流から取り残されたような印象を受けます。
第3章 芳崖四天王の同窓生たち -「朦朧体の四天王」による革新画風-
朦朧体四天王の4人と芳崖四天王の岡不崩、高屋肖哲、本多天城はともに東京美術学校第1期生(不崩は後に退学)で、世代的に同じにもかかわらず、作風にはかなり隔たりがあります。画題にしても構図にしても技術にしても、朦朧体四天王と比べてしまうと芳崖四天王の古さは否めません。
菱田春草 「四季山水」 明治29年(1896) 富山県水墨美術館蔵 (展示は10/8まで)
ここでは年代順に作品が並べられていて、朦朧体の変遷が分かるようになっています。春草の4幅の水墨画「四季山水」は明治29年の作品なのでまだ朦朧体ではありませんが、春草らしい淡彩の水墨の味わいは既にあり、朦朧体に向かう萌芽が感じられます。
[写真右から] 西郷弧月 「深山の夕」 明治33年(1900) 長野県信濃美術館蔵 (展示は10/8まで)
菱田春草 「温麗・躑躅双鳩」 明治34年(1901) 福井県立美術館蔵 (展示は10/8まで)
横山大観 「夕立」 明治35年(1902) 茨城県近代美術館蔵 (展示は10/8まで)
菱田春草 「温麗・躑躅双鳩」 明治34年(1901) 福井県立美術館蔵 (展示は10/8まで)
横山大観 「夕立」 明治35年(1902) 茨城県近代美術館蔵 (展示は10/8まで)
弧月の「深山の夕」は力強い筆線が印象的。弧月の作品はそう多くないのでこれは嬉しい展示。春草の「温麗・躑躅双鳩」、大観の「夕立」になると朦朧体もよく分かりますし、2人のアプローチの違いも興味深い。春草の「海辺朝陽」は『福井県立美術館所蔵 日本画の革新者たち展』でも印象的だった作品。まだ明治だというのにここまで斬新な作品を描いていたとは驚きです。
芳崖や雅邦の作品は観る機会もあると思いますが、芳崖四天王の作品を観る機会はそう多くないでしょうし、幕末の狩野派から日本美術院へ繋がる近代日本画の黎明を知る上でも絶好の展覧会だと思います。
※展示会場内の写真は特別に主催者の許可を得て撮影したものです。
【狩野芳崖と四天王 -近代日本画、もうひとつの水脈-】
2018年10月18日まで
泉屋博古館分館にて
狩野芳崖と四天王
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