2016/10/21

藤田嗣治展

府中市美術館で開催中の『藤田嗣治展 -東と西を結ぶ絵画-』を観てまいりました。

今年で生誕130年を迎える藤田嗣治。名古屋市美術館と兵庫県立美術館で先に開催され、好評を博した展覧会の巡回展です。

藤田嗣治の半生の映画化や戦争画の公開などもあって、最近何かと作品を観る機会が増えている藤田。とはいえ、個人的にはこうして回顧展という形で観たことがなかったので、とても楽しみにしていました。

本展は、国内の美術館の所蔵作品などを中心に、藤田の死後、夫人が所有していた作品が寄贈されたフランスのランス市美術館の作品も含め、初期から晩年まで約110点の作品を観ることができます。いつもより展示スペースを拡大し、かなり見応えがありました。


Ⅰ 模索の時代 1909年~1918年

父は後に陸軍軍医総監となる軍医、母方は親戚に大正を代表する演劇人・小山内薫や洋画家の岡田三郎助がいるという芸術一家。父の上司でもあった森鴎外の薦めもあって、藤田が画家の道に進んだというのは有名な話ですね。

藤田嗣治 「自画像」
1910年 東京藝術大学蔵

ちょっと生意気そうな面構えの「自画像」は昨年藝大美術館の『《舞踏会の前》修復完成披露展』でも公開されていた作品。藤田が学んだ当時の東京美術学校や日本の洋画界は黒田清輝を中心としたグループに圧倒されていて、藤田は黒田の推し進める洋画技法に反発していたといいます。とはいえ、この頃の藤田の作品を観ると、当時持て囃された典型的な“日本の”洋画スタイルの殻を破れているわけでも決してないことも分かります。

藤田嗣治 「スーチンのアトリエ」
1913年 ランス美術館蔵

藤田嗣治 「三人の娘」
1917年 ランス美術館蔵

パリに留学した藤田は、日本で学んだ油絵の技法がいかに古臭く、また不自由なものであったか痛感したと語っています。パリ時代の初期作品はまだ画風も固まらず、ユトリロやモディリアーニを意識したような作品があったり、キュビズムに影響された作品があったり、エジプト美術を取り入れた作品があったり、どれも暗中模索という感じ。でもそれは自分なりの新たな技法をいかに創造するかに余念がなかったということの裏返しなのでしょう。


Ⅱ パリ画壇の寵児 1919年~1929年

そして狂乱の時代。“乳白色の肌”を手に入れた藤田は一躍時代の寵児になります。日本からは日本画の技法の焼き直しだなどと批判も受けたようですが、乳白色の下地の上を走る流麗で繊細な墨の線はこの人のものであり、何と言っても美しいし、観ていて気持ちいいものがあります。

藤田嗣治 「五人の裸婦」
1923年 東京国立近代美術館蔵

「五人の裸婦」は藤田の出世作となった作品。昨年の『MOMATコレクション 藤田嗣治、全所蔵作品展示』にも展示されていて、その装飾画的で象徴的な女性たちの佇まいがとても印象に残っています。

この時代の作品はやはり藤田の絶頂期だけあって、どの作品も充実した日々に生まれた作品なんだなという感じを強く受けます。展示でも一番多いのは“乳白色の肌”の代名詞である裸婦画なのですが、静物画にしてもパリの街を描いた小品にしても乳白色のトーンは独特の味わいを醸し出しています。

藤田嗣治 「バラ」
1922年 ユニマットグループ蔵

「ギターを持つ少年と少女」や「動物群」など子どもや動物を描いた作品でも優しい色合いと繊細な筆のタッチは上手く活かされていて印象的です。20年代後半の裸婦画は女性がより肉づきが良くなり、肉感的というか官能的な感じがあったのも面白い。

藤田嗣治 「自画像」
1929年 名古屋市美術館蔵


Ⅲ さまよう画家 1930年~1937年

パリから日本に帰国する際に立ち寄った南米の風俗に触発され描いた作品は、それまでの乳白色のトーンから一変。濃厚な原色に彩られ、官能的だったり力強かったりと、描かれる女性たちも趣きを異にします。それは日本に帰国後の作品でも観られ、東洋的な容姿がやたらと強調されたりして、「日本を訪れた外国人が描いた絵のようだ」と揶揄されもしたそうです。

藤田嗣治 「カーナバルの後」
1932年 公益財団法人平野政吉美術財団蔵

この頃の作品は、風俗や民俗に藤田の興味が注がれていたり、キリスト教的主題の作品があったりして、確かに画風の振れ幅は大きいのだけれど、次なる芸術的高みへ何か挑戦をし続けているようにも見えます。フジタの代表作「秋田の行事」の下絵と思われる作品や、銀座コロンバンの天井壁画(現在は迎賓館が所蔵)も展示されています。


Ⅳ 戦争と国家 1938年~1948年

近年、東京国立近代美術館が戦争画を積極的に公開するようになり、藤田の戦争画にも注目が集まりましたが、本展ではその内の3点が展示されています。天井の高いゆったりとした空間に悲惨な戦争画が並ぶ光景は東近美で観るのとはまた違った印象を受けます。

父が軍医ということもあり、最初は義理で描いていたという話もあるようですが、創作に行き詰っていた藤田は戦争画に突破口を見い出し、のめり込んで行きます。ヨーロッパの伝統的な歴史画に比肩するものとして戦争画に高揚感を覚え、芸術的昇華を見ていたことは事実でしょう。しかし、「アッツ島玉砕」の絵の前には「脱帽」という看板が掲げられ、人々が絵に手を合わせて涙したというエピソードなどを聞くと、国威発揚としての戦争画の罪の大きさは計り知れないと感じます。

藤田嗣治 「アッツ島玉砕」
1943年 東京国立近代美術館蔵


Ⅴ フランスとの再会 1949年~1952年

戦争犯罪者として糾弾され、日本から追われるように出国した藤田はニューヨークを経て再びパリへ渡ります。ようやくかつての藤田らしさが戻り、描かれる女性や子供の顔にも優しい表情が現れます。ここでは素描も多く展示されていて、藤田のスケッチの確かさを知ることができます。

藤田嗣治 「美しいスペイン女」
1949年 豊田市美術館蔵


Ⅵ 平和への祈り 1952年~1968年

最後のコーナーでは藤田が晩年、力を注いだランスの大聖堂の祭壇画やステンドグラスなどの習作を中心に展示されています。「聖母子」の絵のまわりは金箔で縁取られ、まるで家紋のような模様が飾られて日本的な感じを受けるのがユニークですね。

藤田嗣治 「聖母子」
1959年 ノートル=ダム大聖堂(ランス)蔵

初めて藤田の戦争画を観たときは、これも藤田なのかとショックを受けたのを覚えています。 こうして初期から晩年まで追って観ていくと、才能に恵まれ、高い評価を受けていたとはいえ、創作に行き詰る様子や画風が変わる様子も実際の作品と共に見て取ることができます。画風の変遷や葛藤も含め藤田がどう変わっていったか分かり、とても面白ったです。


【藤田嗣治展 -東と西を結ぶ絵画-】
2016年12月11日(日)まで
府中市美術館にて


評伝 藤田嗣治〔改訂新版〕評伝 藤田嗣治〔改訂新版〕

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