歌舞伎座新開場の柿葺落公演も三部制の三ヶ月を終え、通常(?)の公演パターンとなりました。これまではベテラン勢中心の公演でしたが、今月はこれからの歌舞伎を担う若手役者による花形歌舞伎。昼の部は『加賀見山再岩藤』、夜の部は『東海道四谷怪談』。いずれも幽霊が登場する夏らしい狂言になります。
まずは昼の部『加賀見山再岩藤』。通称『骨寄せの岩藤』。
ここ最近は澤瀉屋での上演が続いていますが、音羽屋型での上演は久しぶりとのこと。五代目菊五郎の当たり役として人気狂言となり、その後も五代目の養子・六代目梅幸、六代目菊五郎と引き継がれたといいます。平成2年には当代菊五郎も岩藤と又助の二役を演じてます。
本公演ではその岩藤と又助の二役を松緑が引き継ぎました。要の役で大健闘のなのですが、何ぶん主役の存在感に欠けるというか、巧い人なんですが、もう少し何か欲しいところ。大きさなのか華なのか。亡霊の恐さもいま一つ。もっとねっちり演じても良かったのではないでしょうか。それとこれは演出の問題でもあるけれど、全体にゆったりとして緊迫感に欠け、“ふわふわ”も盛り上がらなかったのが残念。
菊之助と染五郎もそれぞれ二役。二人とも安定した演技で、安心して観られるのですが、もう少し二役の演じ分けがくっきりしていてもいいのではないかと思いました。菊之助の二代目尾上がしっとりと演じ、さすがなのですが、お柳の方との違いがもっとはっきりした方が良かったかもしれません。周りには同一人物と思っていた人もいたみたい。
愛之助の望月弾正は悪の魅力が引き立ち、さすがのインパクト。梅枝のおつゆ、松也の求女がともにニンにあった役で好演。玉太郎も琴の演奏も見事に披露し敢闘賞もの。奥女中の廣松もなかなかいい味を出していて、今後の活躍に期待がもてます。壱太郎の梅の方ももうひと工夫欲しいところですが、若くして正室の雰囲気があって印象は良かったと思います。
夜の部は『東海道四谷怪談』。
四代目鶴屋南北による『東海道四谷怪談』の初演(文政8年(1825))が実は三代目菊五郎なのだそうです。三代目はお岩・小平・与茂七の三役を早替りで演じたといいます。今回は菊之助がお岩と与茂七の二役を務めます。
その菊之助のお岩さんの完成度の高さ。菊之助らしいリアリズムの演技で真に迫った等身大の女性を創り上げています。口跡の美しさもあって、格式と品の良さが見え、もとは武家の娘であるということが伝わってきます。だまされた女の悲劇、哀しさというものがひしひしと伝わってくるお岩さんでした。一昨年の勘九郎のお岩さんとは明らかにアプローチが異なり、どちらがいいというのは難しいところですが、勘九郎の方がお岩さんの悲劇性が前に出て、より心情に訴えてきた気がします。勘九郎はどちらかというと芝居として創り上げられたお岩さんで、菊之助は本当のお岩さんはこういう女性だったのだろうというリアルさがあったような気がします。
染五郎の伊右衛門も良く練られていて、一昨年の海老蔵とはまた異なる悪の華を見せてくれます。海老蔵のような目先の欲に囚われた、行き当たりばったり的な悪さではなく、仕組んで女を騙す非情さというものが感じられます。この伊右衛門はお岩さんに愛情など端からはなかったんだろうなと思わせます。本公演では、30年ぶりに「蛍狩りの場」という幻想的な舞踊の一幕があり、これは菊之助と染五郎だからできたものだろうなと感じました。
市蔵の宅悦、小山三のおいろ、錦吾の四谷左門、萬次郎のお弓、歌女之丞の乳母など、ベテラン勢が脇をしっかりと締め、安定感のある芝居に仕上がっていたと思います。小山三丈は元気で何よりですが、意外と出番が多く、あちこち歩き回るもんだから、見てて少しハラハラしました(笑)
ただ、これは演出上の問題か、正攻法の音羽屋型だからか、わたしが観たのがまだ3日目だったのでしょうがないのか分かりませんが、全体的に少し慎重というか、テンポがいまひとつでした。髪梳きとか戸板返し、提灯抜けみたいな仕掛けはやはり中村屋は見せ方が上手かったなと思います。中村屋型はもっとおどろおどろしく、怪談としての怖さ(面白さ)がありましたが、今回の芝居はドラマ性が高く、少しあっさりしすぎていたかもしれません。
昼の部も夜の部も共通しての感想なのですが、みんな真面目に取り組んでいるのはいいのですが、まだ探り探りなところがあり、少し優等生過ぎて、カッチリ演じすぎている嫌いがありました。これが自分の役として変貌を遂げたとき、見ものになるのでしょう。それを楽しみにしたいと思います。
2013/07/15
谷文晁展
サントリー美術館で開催中の『谷文晁展』に行ってきました。
谷文晁というと、狩野派にはじまり、南宋・北宋の山水画を修め、南蘋派に影響を受け、大和絵や円山四条派も学び、南画を発展させ、さらには西洋画も研究したという、俗に“八宗兼学”の絵師。
それこそなんでも描いているので、これという特徴があまりないというか、とらえどころがないというか、名が知られた割には印象が薄いというか、そんな風に自分の頭の中では位置づけられていました。それこそ「この絵師、何者!?」なのです。
たまたま先日、江戸東京博物館で開かれていた『ファインバーク・コレクション展』で観た谷文晁の「秋夜名月図」に衝撃を受け、「もしかして谷文晁ってスゴイかも」と思っていた矢先の展覧会。タイムリーです。
本展は、谷文晁の生誕250年を記念した展覧会で、谷文晁や彼の身近な絵師の作品が約150点(前後期合わせ)展示されます。知っているようでよく知らなかった谷文晁のことがよく分かるというわけです。
序章 様式のカオス
もう初っ端から谷文晁は“カオス”と言い切ってしまっています。文晁の絵は多種多様です、それを承知で観てくださいね、ということなのでしょう。
会場に入ってすぐのところに展示されていた、応挙を思わせる色鮮やかな「孔雀牡丹図」(展示は7/29まで)に早速目を奪われます。牡丹の花のグラデーションや艶やかな咲き方は南蘋派の花鳥画という感じです。
そのあとには山水画、そして仏画、極めつけは西洋の油絵の模写と、なんでもあり。ひときわ目を引くのが「ファン・ロイエン筆花鳥図模写」で、一瞬、花鳥画?と思うのですが、よく見るととても西洋的で、解説を読むと、徳川吉宗がオランダ商館に発注した油彩画の内の一点を模写した石川大浪・孟高兄弟の模本をさらに文晁が模写した作品ということです。確かに彩色や立体感のある描写は日本画には見られないものです。
谷文晁というと文人画家、俗にいう“関東南画”のイメージがあるのですが、文人画的な「連山春色図」や北宋画的な「青緑山水図」など、やはりこうした山水画は観るべきものがあるなと思います。なかには速筆的な作品もあるのですが、たいていはきっちりを描き込んでいて、全く手を抜いてるところがないというか。この人の性格なのかもしれないですが、器用で真面目な方だったのだろうなと感じます。
文晁は仏画を描かせてもその画力は秀でていて、細かなところまで描きこんだ精細な筆致といい色合いといい、その力量に唸らされます。「慈母観音図」と一緒に並んでいた「仏涅槃図」もよくある涅槃図でありながらも、その完成度の高さに驚かされます。
第1章 画業のはじまり
ここでは文晁の活動初期の作品を中心に、師である狩野派の加藤文麗や関東南画の渡辺玄対らの作品を展示しています。
文晁の初期作品の中でも、特に寛政年間(1789~1801年)に描かれた作品は“寛政文晁”と呼ばれ、優品が多いと説明されていました。ちょうど文晁が27歳から38歳の頃にあたり、若くしてその腕を振っていたということが分かります。“寛政文晁”の代表作として挙げられていたのがこの「山水図」と「夏谿新晴図」で、「山水図」の文人画特有の瀟洒な画面構成と落ち着いた色のトーンといい、「夏谿新晴図」の段違いに配置した岩山のスケール感や墨の濃淡による奥行き感といい、思わずハッと引き寄せられるような素晴らしい作品でした。
今回の展示で強く印象に残った作品のひとつが、この「海鶴幡桃図」。赤く巨大な朝日と鶴という、なんともインパクトのある吉祥画で、少々くどい感じもありますが、大胆な構図が面白いと思います。大きな朝日が『ファインバーク・コレクション展』にあった「秋夜名月図」の巨大な満月を彷彿とさせます。
第2章 松平定信と『集古十種』 ― 旅と写生
文晁は田安家で奥詰絵師をしていたことが縁で、徳川吉宗の孫で時の老中、松平定信に認められ、次々と大きな仕事を任せられます。ここでは定信の命を受けての視察や調査での写生画や画帖、模写絵などを中心に展示しています。
面白かったのが現在の東宮御所一帯を描いた「青山園荘図」(展示は7/15まで)や関西視察時の「西遊画紀行帖」といった真景図で、西洋画の遠近法が自然に使われていて、単に模倣のレベルではなく、しっかりと吸収していたことがうかがわれます。谷文晁と洋風画というのは自分はあまり結びついていなかったのですが、亜欧堂田善が文晁から洋風画を学んだという話もあるぐらいですから、相当西洋画を研究していたのでしょう。
第3章 文晁と「石山寺縁起絵巻」
松平定信から依頼を受けた仕事で最も特筆されるのは、滋賀・石山寺の創建と観世音菩薩の功徳の数々を描いた「石山寺縁起絵巻」の未完の6巻、7巻の制作を任されたこと。ここでは文晁が手掛けたその6、7巻(重要文化財)と、サントリー美術館が所蔵する文晁による「石山寺縁起絵巻」全巻の模写(展示は一部のみ)が展示されています
模写作品は習作説もあり定かではないようですが、比べてみても非常に忠実に同様に描かれていることが分かります。あらたに絵巻を補完するにあたっては私意を禁じ、古画を研究し描いたということです。
第4章 文晁をめぐるネットワーク ― 蒹葭堂・抱一・南畝・京伝
最後のコーナーでは文晁作品のほか、文晁と交流のあったという酒井抱一や木村蒹葭堂らとの関連作品、また文晁門下の渡辺崋山や谷文一らの作品を展示しています。
展示作品には、円山応挙や伊藤若冲、木村蒹葭堂、松村景文らとの合作の画帖などもあり、同時代の横のつながりを感じます。特に木村蒹葭堂は京都の絵師と強いネットワークを持っていたので、恐らくその縁で、彼らの作品を目にする機会もあったのではないかと想像が膨らみます。
会場の最後に飾られていたのが文晁晩年の「富士山図屏風」で、墨の濃淡のコントラストが実に見事で、特に中腹にたなびく雲煙が秀逸です。文晁は富士山を好んで描いていたそうで、ほかにも富士山が登場する作品がいくつか展示されていました。
会場には他にも、酒井抱一らとの合作の料理本や古画の模本なども多く展示されていました。こうして観ていくと、谷文晁という人は実に天才肌の絵師だったんだなと思います。様々な角度から文晁の画業を浮き彫りにしている展覧会でした。
【生誕250周年 谷文晁展】
2013年8月25日まで
サントリー美術館にて
谷文晁というと、狩野派にはじまり、南宋・北宋の山水画を修め、南蘋派に影響を受け、大和絵や円山四条派も学び、南画を発展させ、さらには西洋画も研究したという、俗に“八宗兼学”の絵師。
それこそなんでも描いているので、これという特徴があまりないというか、とらえどころがないというか、名が知られた割には印象が薄いというか、そんな風に自分の頭の中では位置づけられていました。それこそ「この絵師、何者!?」なのです。
たまたま先日、江戸東京博物館で開かれていた『ファインバーク・コレクション展』で観た谷文晁の「秋夜名月図」に衝撃を受け、「もしかして谷文晁ってスゴイかも」と思っていた矢先の展覧会。タイムリーです。
本展は、谷文晁の生誕250年を記念した展覧会で、谷文晁や彼の身近な絵師の作品が約150点(前後期合わせ)展示されます。知っているようでよく知らなかった谷文晁のことがよく分かるというわけです。
序章 様式のカオス
もう初っ端から谷文晁は“カオス”と言い切ってしまっています。文晁の絵は多種多様です、それを承知で観てくださいね、ということなのでしょう。
会場に入ってすぐのところに展示されていた、応挙を思わせる色鮮やかな「孔雀牡丹図」(展示は7/29まで)に早速目を奪われます。牡丹の花のグラデーションや艶やかな咲き方は南蘋派の花鳥画という感じです。
谷文晁 「ファン・ロイエン筆花鳥図模写」
神戸市美術館蔵 (展示は7/29まで)
神戸市美術館蔵 (展示は7/29まで)
そのあとには山水画、そして仏画、極めつけは西洋の油絵の模写と、なんでもあり。ひときわ目を引くのが「ファン・ロイエン筆花鳥図模写」で、一瞬、花鳥画?と思うのですが、よく見るととても西洋的で、解説を読むと、徳川吉宗がオランダ商館に発注した油彩画の内の一点を模写した石川大浪・孟高兄弟の模本をさらに文晁が模写した作品ということです。確かに彩色や立体感のある描写は日本画には見られないものです。
谷文晁 「連山春色図」
寛政9年(1797年) 静岡県立美術館蔵(展示は7/29まで)
寛政9年(1797年) 静岡県立美術館蔵(展示は7/29まで)
谷文晁 「青緑山水図」
文政5年(1822年) 東京富士美術館蔵 (展示は7/31から)
文政5年(1822年) 東京富士美術館蔵 (展示は7/31から)
谷文晁というと文人画家、俗にいう“関東南画”のイメージがあるのですが、文人画的な「連山春色図」や北宋画的な「青緑山水図」など、やはりこうした山水画は観るべきものがあるなと思います。なかには速筆的な作品もあるのですが、たいていはきっちりを描き込んでいて、全く手を抜いてるところがないというか。この人の性格なのかもしれないですが、器用で真面目な方だったのだろうなと感じます。
谷文晁 「慈母観音図」
山形美術館蔵 (展示は7/29まで)
山形美術館蔵 (展示は7/29まで)
文晁は仏画を描かせてもその画力は秀でていて、細かなところまで描きこんだ精細な筆致といい色合いといい、その力量に唸らされます。「慈母観音図」と一緒に並んでいた「仏涅槃図」もよくある涅槃図でありながらも、その完成度の高さに驚かされます。
第1章 画業のはじまり
ここでは文晁の活動初期の作品を中心に、師である狩野派の加藤文麗や関東南画の渡辺玄対らの作品を展示しています。
谷文晁 「山水図」
寛政6年(1794年) 根津美術館蔵 (展示は7/29まで)
寛政6年(1794年) 根津美術館蔵 (展示は7/29まで)
谷文晁 「夏谿新晴図」
寛政11年(1799年) 東京藝術大学蔵 (展示は7/29まで)
寛政11年(1799年) 東京藝術大学蔵 (展示は7/29まで)
文晁の初期作品の中でも、特に寛政年間(1789~1801年)に描かれた作品は“寛政文晁”と呼ばれ、優品が多いと説明されていました。ちょうど文晁が27歳から38歳の頃にあたり、若くしてその腕を振っていたということが分かります。“寛政文晁”の代表作として挙げられていたのがこの「山水図」と「夏谿新晴図」で、「山水図」の文人画特有の瀟洒な画面構成と落ち着いた色のトーンといい、「夏谿新晴図」の段違いに配置した岩山のスケール感や墨の濃淡による奥行き感といい、思わずハッと引き寄せられるような素晴らしい作品でした。
谷文晁 「海鶴幡桃図」
山形美術館蔵 (展示は7/29まで)
山形美術館蔵 (展示は7/29まで)
今回の展示で強く印象に残った作品のひとつが、この「海鶴幡桃図」。赤く巨大な朝日と鶴という、なんともインパクトのある吉祥画で、少々くどい感じもありますが、大胆な構図が面白いと思います。大きな朝日が『ファインバーク・コレクション展』にあった「秋夜名月図」の巨大な満月を彷彿とさせます。
第2章 松平定信と『集古十種』 ― 旅と写生
文晁は田安家で奥詰絵師をしていたことが縁で、徳川吉宗の孫で時の老中、松平定信に認められ、次々と大きな仕事を任せられます。ここでは定信の命を受けての視察や調査での写生画や画帖、模写絵などを中心に展示しています。
面白かったのが現在の東宮御所一帯を描いた「青山園荘図」(展示は7/15まで)や関西視察時の「西遊画紀行帖」といった真景図で、西洋画の遠近法が自然に使われていて、単に模倣のレベルではなく、しっかりと吸収していたことがうかがわれます。谷文晁と洋風画というのは自分はあまり結びついていなかったのですが、亜欧堂田善が文晁から洋風画を学んだという話もあるぐらいですから、相当西洋画を研究していたのでしょう。
第3章 文晁と「石山寺縁起絵巻」
松平定信から依頼を受けた仕事で最も特筆されるのは、滋賀・石山寺の創建と観世音菩薩の功徳の数々を描いた「石山寺縁起絵巻」の未完の6巻、7巻の制作を任されたこと。ここでは文晁が手掛けたその6、7巻(重要文化財)と、サントリー美術館が所蔵する文晁による「石山寺縁起絵巻」全巻の模写(展示は一部のみ)が展示されています
谷文晁 「石山寺縁起絵巻」(一部)
文化2年(1805年) 石山寺蔵 (場面替えあり)
文化2年(1805年) 石山寺蔵 (場面替えあり)
模写作品は習作説もあり定かではないようですが、比べてみても非常に忠実に同様に描かれていることが分かります。あらたに絵巻を補完するにあたっては私意を禁じ、古画を研究し描いたということです。
第4章 文晁をめぐるネットワーク ― 蒹葭堂・抱一・南畝・京伝
最後のコーナーでは文晁作品のほか、文晁と交流のあったという酒井抱一や木村蒹葭堂らとの関連作品、また文晁門下の渡辺崋山や谷文一らの作品を展示しています。
谷文晁 「八仙人図」
福島県立美術館蔵 (展示は7/29まで)
福島県立美術館蔵 (展示は7/29まで)
展示作品には、円山応挙や伊藤若冲、木村蒹葭堂、松村景文らとの合作の画帖などもあり、同時代の横のつながりを感じます。特に木村蒹葭堂は京都の絵師と強いネットワークを持っていたので、恐らくその縁で、彼らの作品を目にする機会もあったのではないかと想像が膨らみます。
谷文晁 「富士山図屏風」
天保6年(1835年) 静岡県立美術館蔵 (展示は7/29まで)
天保6年(1835年) 静岡県立美術館蔵 (展示は7/29まで)
会場の最後に飾られていたのが文晁晩年の「富士山図屏風」で、墨の濃淡のコントラストが実に見事で、特に中腹にたなびく雲煙が秀逸です。文晁は富士山を好んで描いていたそうで、ほかにも富士山が登場する作品がいくつか展示されていました。
会場には他にも、酒井抱一らとの合作の料理本や古画の模本なども多く展示されていました。こうして観ていくと、谷文晁という人は実に天才肌の絵師だったんだなと思います。様々な角度から文晁の画業を浮き彫りにしている展覧会でした。
【生誕250周年 谷文晁展】
2013年8月25日まで
サントリー美術館にて