『坊っちゃん』『吾輩は猫である』『三四郎』などで知られる文豪・夏目漱石の小説に登場する画家や美術作品、また漱石本の装幀や挿画など、漱石に関わりの深い美術作品を集めた展覧会です。
お恥ずかしい話、夏目漱石の小説を読んだのなんて、学生の頃のことで、数々の画家や作品のことが言及されていたなど、全く覚えていませんでした。
そこにはターナーやミレイ、応挙や抱一、蕪村をはじめ、当時はそれほど高い評価を得ていなかった宗達や若冲といった絵師の名前まで出てきているというから驚きです。
少年の頃から絵が好きだったという漱石は、ロンドン留学中もたびたび美術館を訪問し、美術に対する教養を深めたといいます。当時のロンドンはラファエル前派や象徴主義派、そしてアールヌーヴォーといった世紀末美術華やかなりし頃。漱石はそうした新しい芸術運動やルネサンス、印象派といった西洋絵画の洗礼を大いに受けたようです。
序章 「吾輩」が見た漱石と美術
まずは漱石の処女作『吾輩は猫である』から。このデビュー作から既にダ・ヴィンチやラファエロ、レンブラント、そして蕪村や元信といった古今東西の画家の名前が登場しています。ここでは橋口五葉の装幀による『吾輩は猫である』の初版本や五葉の画稿などが展示されています。
第1章 漱石文学と西洋美術
ここでは漱石の小説にも登場する、彼がロンドンで観たであろうターナーやミレイの作品、また『文学評論』の中で触れているホーガス、さらには漱石旧蔵の絵画カタログや漱石が帰国後も定期購読していた美術雑誌などが展示されています。
[写真右] ウィリアム・ターナー 「金枝」
1834年 テイト所蔵
[写真左] ブリトン・リヴィエアー 「ガダラのブタの奇跡」
1883年 テイト所蔵
1834年 テイト所蔵
[写真左] ブリトン・リヴィエアー 「ガダラのブタの奇跡」
1883年 テイト所蔵
『坊ちゃん』に出てくる“ターナー島”の元となる松を描いたターナー作品、『夢十夜』の豚の挿話のイメージソースといわれるリヴィエアーの絵、またアーサー王伝説を題材にした短編『薤露行』やロンドンでの見聞を元にした短編『倫敦塔』を思わせるウォータハウスや、ロセッティ、ミレイなどの作品が展示されています。
[写真左] ジョン・エヴァレット・ミレイ 「ロンドン塔幽閉の王子」
1878年 ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ絵画コレクション蔵
[写真右] ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 「シャロットの女」
1894年 リーズ市立美術館蔵
1878年 ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ絵画コレクション蔵
[写真右] ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 「シャロットの女」
1894年 リーズ市立美術館蔵
作品のキャプションがとても丁寧で、小説の一節まで記述されていたりします。漱石の本を読んだことない人や読んでから時間が経っている人にも分かりやすくて優しいです。
第2章 漱石文学と古美術
漱石は牛込の代々続く名主の家に生まれ、家には50~60幅の掛軸があったといいます。その小説や評論の中で日本や中国の古美術に言及することも多く、特に雪舟以後の水墨画や狩野派、円山派、南画など江戸絵画全般に高い関心を持っていたようです。ここでは、漱石が言及した作品やそれに関連した日本画を中心に展示しています。
漱石が高く評価していた雪舟門下の秋月の「達磨図」(展示は6/9まで)や大正時代の宗達展で漱石が観たと思われる宗達の「禽獣梅竹図」、宗達工房(伊年)の「四季花卉図屏風」(展示は6/2まで)、『こゝろ』で“先生”が語る渡辺崋山の「黄梁一炊図」などなど。漱石ファンには、「あゝこれが」となるんでしょうね。
[写真左] 与謝蕪村 「漁父臨雨行」
19世紀 (展示は6/2まで)
[写真右] 伝・秋月等観 「達磨図」
16世紀 東京藝術大学蔵 (展示は6/9まで)
19世紀 (展示は6/2まで)
[写真右] 伝・秋月等観 「達磨図」
16世紀 東京藝術大学蔵 (展示は6/9まで)
会場には、『虞美人草』で取り上げられている酒井抱一の屏風の“推定試作”として荒井経が制作した「虞美人草図屏風」というものも展示されていました。抱一の現品は存在が確認されておらず、架空の作品ではと考えられているそうです。
第3章 文学作品と美術『草枕』『三四郎』『それから』『門』
ここでは『草枕』『三四郎』『それから』『門』の4作品にスポットを当て、その中で展開される美術世界を具体的な作品により紹介しています。
最初のガラスケースには、池大雅や伊藤若冲、そして長沢芦雪などの絵が並びます。『草枕』には芦雪や若冲の名前が出てきたようですが、読んだ当時は高校生の頃で日本画に興味がなかったので、悲しいかな全く記憶にありません(汗)。確かに画工が主人公なので、引き合いに出されるのも分かる気がします。ちなみに若冲の名は『一夜』『硝子戸の中』にも出てくるそうです。
『草枕』で覚えているのが「オフィーリア」。本展では松岡映丘らが描いた、その名も『草枕絵巻』の一部が展示されています。『草枕絵巻』は漱石の没後に映丘が中心となり、若手日本画家総勢27人で制作した全三巻の絵巻。見ものはミレイの「オフィーリア」を模した山本丘人の「水の上のオフェリア」で、水の上を漂い流れるオフィーリアを大和絵風に描いたなかなか雰囲気のある作品です。
[写真左] ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 「人魚」
1900年 ロンドン・王立芸術院蔵
[写真中] 黒田清輝 「婦人図(厨房)」
1892年・明治25年 東京藝術大学蔵
1900年 ロンドン・王立芸術院蔵
[写真中] 黒田清輝 「婦人図(厨房)」
1892年・明治25年 東京藝術大学蔵
ウォーターハウスの「人魚」は『三四郎』に登場するマーメイドの絵のイメージソースとして展示されていました。ウォーターハウスは漱石のお気に入りの画家の一人だそうです。そのほか、『三四郎』に記述されている吉田博・ふじをの作品や、登場人物の一人・原口画伯のモデルとされる黒田清輝の作品、また『三四郎』の作品世界を想起させるということで、藤島武二や鏑木清方の作品などが展示されていました。
[写真右] フランク・ウィリアム・ブラングィン 「蹄鉄工」
1904年頃 リーズ市立美術館蔵
1904年頃 リーズ市立美術館蔵
『それから』からはブラングィンや青木繁、円山応挙、『門』からは岸駒や渡辺崋山、酒井抱一(期間により展示品は替わります)などが展示されています。
第4章 漱石と同時代美術
漱石は第六回文展(1912年・大正元年)を批評した『文展と芸術』に芸術論を連載していて、ここでは第六回文展で漱石が実際に観た作品を中心に明治末から大正初期にかけての作品を紹介しています。
横山大観 「瀟湘八景」(重要文化財)
1912年・大正元年 東京国立博物館蔵(※展示替えあり)
1912年・大正元年 東京国立博物館蔵(※展示替えあり)
今村紫紅 「近江八景」(重要文化財)
1912年・大正元年 東京国立博物館蔵(※展示替えあり)
1912年・大正元年 東京国立博物館蔵(※展示替えあり)
見もののひとつは二つの重要文化財、大観の「瀟湘八景」と紫紅の「近江八景」。大観の「瀟湘八景」は中国旅行からの帰国直後の作品で、水墨山水画の古典的な画題に大観流の独特の世界が広がっています。一方の「瀟湘八景」に因んだ紫紅の「近江八景」は南画や西洋の印象派の画法を取り入れた紫紅の転換期の代表作で、大観とはまた異なるアプローチによる近代日本画として興味深い作品です。そばには寺崎広葉の「瀟湘八景」もあり、比較して観るのも面白いと思います。
平田松堂 「木々の秋」
1912年・大正元年 東京国立近代美術館館蔵
1912年・大正元年 東京国立近代美術館館蔵
今回の出品作品の中で、個人的に一番好きだったのがこの「木々の秋」。松堂は川合玉堂に師事した方だそうですが、この作品はいかにも琳派の影響を受けた装飾性とリズミカルで自由な構図が印象的です。
漱石が『文展と芸術』で触れている作品には、漱石による評がパネルで掲示されていましたが、かなり辛辣な批評が多いのが笑えます。このほかこの章には、坂本繁二郎や安田靫彦、松岡映丘、黒田清輝、萬鉄五郎、青木繁、中村不折といった近代洋画・近代日本画を代表する錚々たる顔ぶれが並びます。この時代の日本美術界の密度の濃さに驚かされます。
第5章 親交の画家たち
漱石の書籍の装幀を手がけた橋口五葉や中村不折、浅井忠、また漱石の絵画の師でもあった津田青楓ら漱石と進行のあった画家の作品が展示されています。
[写真左] 浅井忠 「収穫」(重要文化財)
1890年・明治23年 東京藝術大学蔵
1890年・明治23年 東京藝術大学蔵
浅井忠の木版画作品は以前観たことがあるのですが、挿絵なども手がけていたとは知りませんでした。版画にしても挿絵にしても油彩画の雰囲気とは異なり、なかなか魅力があります。そのほか、橋口五葉の作品が充実しているのが嬉しいところ。
第6章 漱石自筆の作品
子どもの頃から絵の好きだった漱石が本格的に絵を学び始めるのは44歳の頃で、一回り下の画家・津田青楓に手ほどきを受けたそうです。
漱石の作品は、一部水彩画も展示されていましたが、主に日本画で、好きだったという南画、また蕪村などの文人画の影響も感じられます。他人の絵にはキツイことを言う割には…という方もいるようですが、さすが美術に造詣が深い人だけあり、味のある作品だと感じました。どことなく師・津田青楓の画風に近い気もします。
そのほか、漱石の書や原稿なども展示されていて、漱石ファン必見のコーナーだと思います。さすが明治の文豪だけあり、書も達筆です。
第7章 装幀と挿画
最後の章は、橋口五葉による漱石本の装幀や挿画を展示しています。漱石の小説は、橋口五葉の美しい装幀も話題になり、売り上げに貢献したといいますが、こんなおしゃれでスタイリッシュな本が書店に並んでいたら、文学に興味がなくとも、確かに手にとってしまいます。
そのほか、漱石が手がけた『こゝろ』の装幀の貴重な原画なども展示されています。
漱石の小説を読んでから行くか、行ってから読むか。美術ファンなら必ずや、もう一度漱石の本を読み、その美術的世界に触れたくなること必至の展覧会です。主催者の漱石への愛と熱い思い、こだわりを強く感じました。図録も解説が充実し、資料的価値も高いのでお勧めです。
※会場内の写真は主催者の許可を得て撮影したものです。
【夏目漱石の美術世界展】
会期: 2013年5月14日(火)~7月7日(日)
時間: 10:00~17:00 (入館は午後4時30分まで)
休館: 毎週月曜日
会場: 東京藝術大学大学美術館
巡回展: 静岡県立美術館 2013年7月13日(土)~8月25日(日)
芸術新潮 2013年 06月号 [雑誌]
吾輩は猫である (新潮文庫)
三四郎 (新潮文庫)
虞美人草 (新潮文庫)
夏目漱石 (ちくま日本文学 29)
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