練馬区立美術館の企画にハズレなしというか、ここの展覧会で初めて名前を知り、初めてその作品を観て好きになったという画家も多いので、今度もきっと素晴らしい展覧会だろうなという期待感があります。そして、今回は船田玉樹。昨年の国立近代美術館で開催された『日本画の前衛展』のチラシを飾った「花の夕」見たさに、中村橋まで行ってまいりました。
船田玉樹は大正元年(1912年)、広島県呉市の生まれ。もともとは油彩画家を目指して東京に出てくるのですが、すぐに日本画に転向します。2階の資料展示に「私はかうして絵の道へ入った」という船田玉樹の自筆原稿があり、そこにそのときのエピソードが書かれていました。
玉樹は幼い頃から病弱で、病気で旧制中学を中退した後、家でぶらぶらしてたところを彼の油絵を見た洋画家に画家になることを勧められます。しかし、玉樹自身は「油絵をかいていたと言っても絵に関する知識も、情熱もなく、勿論自信などはあるわけもなかった」というやる気のなさ。東京に出たら出たで、初めてピカソやユトリロなど本場の油絵に触れ、強いショックを受け油絵が描けなくなり、さらに宗達や光琳を見て、またまた強いショックを受けてしまいます。しかし、「日本画なら日本人だし日本にいても勉強できそうだと明るい希望がわいて来た」ということで、日本画の道を歩む決心をしたとのことでした。
その後、速水御舟の門を叩くのですが、僅か数カ月で御舟が急逝。御舟が一番尊敬していたという小林古径に師事します。上のエピソードを読む限り、意志が弱いというか、ゆるい感じも受けるのですが、古径の門下になった同じ年には院展にも初入選しており、日本画家としての技量はその頃から抜きんでていたのでしょう。
Ⅰ. 画業のはじまり
御舟、古径といった近代日本画を代表する二人に師事し、正統派の日本画表現を受け継いだ船田玉樹の初期作品からまず拝見。会場に入ったところには、日本画に転向する前の油絵の自画像が展示されていました。ルオーのような厚塗りのタッチが印象的です。
船田玉樹の初期の日本画のいくつかは御舟や古径の作品と並んで展示されていました。「白木瓜」や「白蓮」「椿」などは師の作品を彷彿とさせる端正で品の良い日本画という感じです。ただ、安田靫彦から指導を受けたという「紅梅(利休像)」などを見ると、この人は人物画はあまり得意でないようで、その先にあった「芭蕉」も少しビミョーでした。
船田玉樹 「花の夕」
昭和13年(1938年)
昭和13年(1938年)
船田玉樹の初期の代表作「花の夕」は、そんな日本画らしい日本画が並ぶ中にあって、意表を突かれます。少しピンクがかった赤い花はコチニール顔料を使ったもので、ドットのようにボテっと描かれていて、ところころどころ白い花も混ざっています。桃の花らしいのですが、桃というより真っ赤な木の実や紅葉のようにも見えます。幹はたらしこみで描かれていて、古典的な手法と実験的な描法を巧みに融合していることが分かります。
同じ並びにはモダニズムを感じさせる「麦」や画面の2/3ほどが炎のように真っ赤に染まった「紅葉」といった作品もありました。1930年代は実験的なさまざまな研究会が設立されますが、玉樹もそうしたグループに加わり、抽象主義やシュルレアリスムを取り入れるなど前衛表現を追求し、洋画と日本画の概念の枠を超えようとしていたようです。戦後すぐに発表された「大王松」は、画面いっぱいに大王松の長い針葉がまるで枝垂れ花火のように描かれ、その大胆さと力強さに圧倒されます。
このコーナーには、日本画のアヴァンギャルド集団「歴程美術協会」を一緒に発足した岩橋英遠や丸木位里らの前衛作品も展示されています。
Ⅱ. 新たな出発
戦後に入り、片や“日本画滅亡論”が叫ばれる中、船田玉樹は西洋絵画の描法も意識的に加味しながら、新たな表現を模索していきます。
「暁のレモン園」は、戦前に描いた4曲1双の屏風絵「檸檬樹」が戦災で片隻が焼失してしまったため、残された屏風に加筆し新たな作品としたもの。暗闇に浮かぶレモンの黄色がまるでホタルのようで、幻想的な世界を創りだしています。
船田玉樹 「暁のレモン園」
昭和24年(1949年) 京都国立近代美術館蔵
昭和24年(1949年) 京都国立近代美術館蔵
今回展示されていた作品を観ていて、自分が個人的に好きだったのが、昭和30年代の作品群。前衛的な表現は落ち着き、しかし日本画の絵画表現としては実にチャレンジングで、より繊細かつ端麗な、内容的に充実した作品が多くありました。様式の新しさを求めるよりも、古典に立ち返ることで日本画を見つめなおし、新たな日本画の姿を追い求めようとしていたように思います。
永徳のような力強い幹の「臥龍梅」、マックス・エルンストの暗い森のような「残照」、金の芒と銀泥の空が印象的な「秋意」、右隻に太幹、左隻に松の葉という構図が見事な「松」、たらしこみが効果的に用いられた「梅」、鏡のように山が映り込むほどの凪いだ海を描いた「暁色」など、意欲的に作品に取り組んでいたことがよく分かります。
船田玉樹 「白梅」
昭和46年(1971年)
昭和46年(1971年)
Ⅲ. 水墨の探究
昭和40年代になると玉樹は再び水墨画に挑むようになります。戦前にも「五浦」や「夜雨」といった墨画の佳作が展示されていましたが、この頃になると、冴えた水墨による山水表現を再び展開していったといいます。朦朧体の「夏景」や淡墨と濃墨による「海辺老松」などが印象的でした。
そんな中、船田玉樹は昭和49年にクモ膜下出血で倒れます。右半身が不自由になるのですが、それでも右手で絵を描くことにこだわり、修練を続けたといいます。ガラスや紙に淡彩でコラージュ的に表現した「顔」シリーズや、赤く描かれた「自画像」などリハビリ的に創作に励んでいた頃の作品からは何か鬼気迫るものさえ感じます。
船田玉樹 「梅林」
昭和62年(1987年)
昭和62年(1987年)
やがて不自由な右手を克服し、以前にも増して豪胆で、より華美な作品を発表していきます。玉樹は「線が死ぬ」といって、下図を作らず、ほとんどフリーハンドで直接絵を描くのだそうです。右手の自由がきかないとなるとフリーハンドもままならないと思うのですが、半身不随の身からここまでの絵が描けるようになってしまうのだから、物凄い執念です。
船田玉樹 「ねむれない夜は」
こうした創作活動の一方で、玉樹は昭和20年代から水墨の河童を描いているのですが、その多くは昭和40~50年代に描かれたものではないかといわれています。玉樹は少年時代に詩作に傾倒していたことがあり、絵画制作と並行して、詩集なども発表しています。河童の絵には玉樹の詩が添えられ、ほのぼのとした興趣を醸し出しています。
Ⅳ. 孤高の画境へ
晩年になると、大作の屏風絵を積極的に制作し、琳派的な装飾性豊かな作品や幽玄の趣をたたえた作品、色数を抑えかつ象徴的にものを捉えた作品など意欲的な作品を発表しています。水墨による実験的な「山の家」シリーズは、扇面に墨を偶発的に傾けたり、たらしこんだりすることで作為外の表現に取り組んだもの。大病を患ったにもかかわらず、老いてなおアグレッシブなその姿勢には驚くばかりです。
船田玉樹 「紅梅」
昭和60年(1985年)
昭和60年(1985年)
もう最後は圧巻の屏風絵の連発です。深山に迷い込んでしまったような鬱蒼とした松の迫力。一方で典雅で華やかな美しい屏風絵。余白もないぐらいに大きな画面を埋め尽くす花や樹、そして色。その絵が放つ迫力にただただ圧倒されます。
船田玉樹 「松」
昭和56年(1981年)
昭和56年(1981年)
船田玉樹 「臥龍梅」
昭和55~58年(1980-83年)
昭和55~58年(1980-83年)
船田玉樹は、御舟や古径の正統派日本画を継承しつつ、琳派の洗練さや近代日本画のモダニズムも併せ持ち、さらには前衛の大胆さも表現してしまう恐るべき画家でした。ほとんど無名の日本画家ですが、とてもインパクトのある展覧会でした。この回顧展を機に、船田玉樹の評価はぐっと高まるのではないでしょうか。
【生誕100年 船田玉樹 ―異端にして正統、孤高の画人生。―展】
練馬区立美術館にて
2012年9月9日(日)まで
独座の宴―船田玉樹画文集
師匠へ。
返信削除お久しぶりです。ピエレです(^^)
残暑も厳しいですが、お元気でしょうか?
と言うか、…覚えていらっしゃいますか?(笑
時々、サイト見させていただいてます。
今回は「花の夕」のに見入ってしまいました。
また、どの絵も力強くて、繊細で、
梅の絵に関しては筆使い…っていうのかな。
鮮やかで、好きだなぁと思いました。
絵を見ただけではわからないですね。
残っている素晴らしい絵が、半身が不自由になってからのものなんて。
読んで、絵を見ていて、なんか心にグッとくるものがありました。
俺もがんばらんとな、と改めて感動に近い思いでした。
俺は相変わらず元気に過ごしております。
今年で26歳になりました。
かわいらしかった俺も、もういい大人です(笑
仕事は職場の人達と仲良くぼちぼちやって
ピアノを昔からやってたんですが、
先日友人にバレエの伴奏を頼まれて奮闘しつつ、
趣味でちょこちょこ撮った写真を加工したりとかしてます。
夏は初めて海外に行ってきました。インドネシア、バリ島に!
いろんな事に生で触れて、すごく心に残る夏でした。
勝手に近況を書いてしまい、失礼しました(笑
師匠の近況も、また教えてくださいね(^^
ピエレ(大阪の息子)より
おー!息子よー(笑)
返信削除元気かい?
また来てくれてうれしいよー。
船田玉樹の絵は今回初めて観たんだけど、
古典的なものと現代的なものが融合していて、
それでいて変に踏み外すところもなく、自分もとても好きでした。
半身不随になってからの創作活動なんて、壮絶そのものだけど、
身体の不自由さを感じさせない細密で、勢いのある作品を観ると、
涙が出てくる思いがしました。
自分も頑張らないとと。
ピエレさんもいろいろとエンジョイしているようで嬉しいです。
また思い出したら寄ってね♪
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