高橋由一といえば「鮭」。彼の名前を知らずとも、「鮭」の絵は恐らく教科書などで見た覚えがあるはず。それほど日本の近代洋画では重要な作品として高く評価されています。
しかし、高橋由一の評価はというと、同世代の浅井忠や、その後に続く藤島武二や黒田清輝、岸田劉生ほどに高くないように思います。本展では、高橋由一の作品の全貌を紹介するだけでなく、洋画(油彩画)の普及活動にも触れ、近代洋画の開拓者として彼が果たした功績にもスポットを当てています。
会場は、
「プロローグ 由一、その画業と事業」
「油絵以前」
「人物画・歴史画」
「名所風景画」
「静物画」
「東北風景画」
という構成。
会場に入ると、すぐのところに髷を結った39歳頃の高橋由一の自画像が飾られていました。日本の最初期の油絵として大変貴重なものだそうです。まだ油絵も覚えたての頃の作品で、なんとなく顔の陰影にいびつなところもありますが、見よう見まねで油絵の習得に没頭していた高橋由一の真面目さが絵から伝わってくるようです。
高橋由一 「丁髷姿の自画像」
慶応2-3年(1866-67年)頃 笠間日動美術館蔵
慶応2-3年(1866-67年)頃 笠間日動美術館蔵
高橋由一は武家の生まれですが、狩野派について絵を学んだこともあったようです。20代の頃に西洋の石版画に強い衝撃を受けて西洋画に目覚め、その後、幕府の洋学研究機関に入り、画学局員となったのが30代半ば。30代後半の頃、本格的に西洋画を学ぶため横浜に居留していたイギリス人画家ワーグマンに師事。ようやく40代半ばで洋画家としての活動も安定するようになり、画塾を設立したり、個展を開いたりと洋画の普及にも力を入れるようになります。その後も、50歳にして工部美術学校の画家フォンタネージに教えを乞うたり、浅井忠らと明治美術界を発足させたりと、洋画の研究と普及のために生涯を捧げます。
江戸時代後期にも西洋画の遠近法や陰影法に影響を受けた秋田蘭画があり、司馬江漢も油彩画に取り組んでいますが、油彩技法や油彩画の画材などが伝わり、本格的に洋画が研究されたのは明治に入ってからといわれています。高橋由一はそのパイオニアだったわけです。
高橋由一 「第十一代山田荘左衛門顕善像」
明治16年(1883年) 中野市立美術館蔵
明治16年(1883年) 中野市立美術館蔵
「油絵以前」のコーナーでは、上海に渡航したときのスケッチ入りの日誌や画学局員時代の博物図譜のほか、リンカーンやガリバルディといった西洋の偉人たちの絵の模写など主に油彩画を手がける前の時代の作品が展示されていました。数年前に谷中・全生庵の円朝まつりの幽霊画コレクションで拝見した「幽冥無実之図」にも再会することができました。
「人物画・歴史画」のコーナーでは、岩倉具視や西周らの人物画、日本武尊などの歴史画が展示されています。高橋由一の油絵の評判も徐々に広まるにつれ、肖像画の注文もだんだんと入ってきたようです。彼は基本的にスケッチではなく写真を利用して油彩画を描いていたといいます。また、「色のない写真よりも油絵の方が鮮やかで長持ちする」を売り文句に油絵の将来性や優位性をアピールしていたのだとか。いきなり西洋からの文化が流れ込み、人々が戸惑う中、彼はただの好奇心というよりも、新しいものに対する先見の明が非常に優れていたのだなと感じます。
高橋由一 「花魁」(重要文化財)
明治5年(1872年) 東京藝術大学蔵
明治5年(1872年) 東京藝術大学蔵
少し奥まったところに、スペースを取って飾られていたのが高橋由一の代表作「花魁」。鼈甲の簪や黒髪や肌の質感、刺繍の丁寧な描き込みなど素晴らしいのですが、当代一の美しい花魁の絵というより、 どこかデロリとした生々しさが印象的な作品です。この作品を見た花魁が「わたしはこんな顔ではない」と怒ったというエピソードが残されているそうですが、それまで花魁の絵といえば錦絵のイメージしか頭にない人たちが初めて写実的な油絵に接するのですから、驚くのも分かる気がします。
高橋由一 「芝浦夕陽」
明治10年(1877年)頃 金刀比羅宮蔵
明治10年(1877年)頃 金刀比羅宮蔵
つづいては「名所風景画」。人物画や静物画では、会場の作品解説でも「細部描写に専念するあまり全体のバランスを欠く」と指摘されているように、ぎこちなさを感じる作品もなきにしもあらずなのですが、風景画はそうした違和感はほとんどなく、高橋由一の腕の確かさを実感できます。自分の中で高橋由一というと、歌舞伎座のロビーでよく見た「墨堤櫻花」が強く印象にあるのですが、墨堤(隅田川沿いの土手)の桜は好きな画題だったのか、本展でも何点か出展されていました。高橋由一の風景画で面白いのは、洋画といっても浮世絵のような名所絵的なものが多いところで、そこはかとなく江戸の香りがします。しかし、彼の風景画は空にしても海にしても広がりというか、スケール感があり、雲の色や形も印象深く、どことなく静謐さが伝わってきます。
高橋由一 「長良川鵜飼」
明治24年(1891年) 東京国立博物館蔵
明治24年(1891年) 東京国立博物館蔵
高橋由一の風景画の中で、一番感動したのがこの「長良川鵜飼」。明治天皇に献上するために描かれた作品ということですが、同年に起きた濃尾地震の影響で献納は中止となってしまったそうです。漆黒の闇と赤々とした篝火の対比、たなびく煙や明かりに照らされる川面の丁寧な描写など非常に写実的で、大変素晴らしい作品でした。晩年の傑作といっても過言ではないのではないでしょうか。この翌年にも同じ鵜飼を題材にした作品(ポーラ美術館蔵)を描いていますが、個人的には「長良川鵜飼」の質感が好きです。さすが東博が選ぶだけの作品だと納得しました。
高橋由一 「鮭」(重要文化財)
明治10年(1877年) 東京藝術大学蔵
明治10年(1877年) 東京藝術大学蔵
「静物画」のコーナーには、本展の一番の目玉の「鮭」が。しかも三匹。まるでお歳暮の新巻鮭売場です(笑)。重要文化財に指定されている「鮭」は縦140cmの大きな作品で、鮭そのものも優に1メートルはあるのではないでしょうか。「鮭」は高橋由一の代表作としてだけでなく、西洋画の模倣ではない日本的な近代洋画の傑作として高く評されています。その絵は当時から大変好評だったようで、高橋由一は同様の鮭の絵を何作か残しているようです。本展にもほかに2点の鮭の絵が展示されていました。笠間日動美術館蔵の「鮭図」は板の上に、木目を活かして描かれていて、まるで本物の鮭が掛けられているようなリアル感が見事でした。
高橋由一 「鮭図」
笠間日動美術館蔵
笠間日動美術館蔵
「静物画」のコーナーの最後に展示されていた「甲冑図」も面白い作品でした。少々構図のアンバランスさを感じなくもありませんが、細部にわたるまで丁寧に描きこまれていて、甲冑の素材感や質感が伝わってきました。ほかに「鴨図」や「鯛図」といった、かつての博物図譜を思わせる細密で写実的な作品も印象的でした。
高橋由一 「甲冑図(武具配列図)」
明治10年(1877年) 靖国神社遊就館蔵
明治10年(1877年) 靖国神社遊就館蔵
最後は3階の会場から地下2階に降り、「東北風景画」のコーナーへ。明治17年に高橋由一は東北3県の道路改修事業の記録画を描く仕事を依頼され、東北地方を行脚します。このコーナーでは、東北地方の風景を描いた油彩画や所縁の人物画のほか、その各地の風景のスケッチをもとに後にまとめた石版画が展示されていました。恐らく石版画だけで100枚以上あり、その多さに圧倒されますが、どれも非常に丁寧な仕事ぶりで、彼の風景画家としての才能にあらためて深く感じ入りました。
高橋由一 「山形市街図」
明治14-15年 (1881‐82年)頃 山形県蔵
明治14-15年 (1881‐82年)頃 山形県蔵
まだまだ西洋画の画材が自由に手に入らない時代、高橋由一は自ら油絵具を考案したり、竹や鯨のヒレをパレットナイフに代用したり、カンバスも麻布や、和紙に膠と油を引いたものに描いたりと試行錯誤しながら油絵を研究していたそうです。その画家人生の全てを洋画(油絵)の研究と普及のために注ぎ込んできた高橋由一。本展は、近代洋画のパイオニアとして高橋由一を再評価する意味でも意義のある展覧会だったと思います。ただ「鮭」の画家ではない、彼が近代洋画に注いだ情熱に触れることができるいい展覧会でした。
【近代洋画の開拓者 高橋由一】
2012年6月24日(月)まで
東京藝術大学大学美術館にて
高橋由一 (中公新書)
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