2011/12/23
平成中村座 十二月大歌舞伎
平成中村座の十二月大歌舞伎に行ってきました。今月は夜の部だけの鑑賞。
まずは『葛の葉』。
女房葛の葉と葛の葉姫の二役に扇雀、保名に松也。前半では保名の女房の葛の葉と瓜二つの葛の葉姫が現れて、どちらが本物の葛の葉か、となります。後半の奥座敷では一転、本物の葛の葉姫が訪ねてきたことに動転した女房・葛の葉(実は狐)の切ない子別れ。前半には扇雀の早替わりが、後半には曲書きがあり、ケレン味もあって楽しめました。ただ、後半は狐言葉や狐の仕草など狐っぽさの演技が前に出ていたのに対し、我が子と泣く泣く別れる情感がちょっと物足らない嫌いがありました。松也は保名をとても丁寧に務めていて、古風な感じもあって好感が持てました。先月の『吃又』でもいい味を出していたし、これからますます期待できそうです。
つづいて、常磐津の大曲『積恋雪関扉』。
関守関兵衛実は大伴黒主に勘太郎、宗貞に扇雀、小野小町姫に七之助、傾城墨染実は小町桜の精に菊之助。前半は宗貞のもとを小町姫が訪れ、こんな大雪の日にと関兵衛が怪しむが実は宗貞の恋人だったという展開、後半は関兵衛(実は大伴黒主)と墨染(実は小町桜の精)の駆け引きが見どころです。四人が四人、全員初役というのも面白く、新鮮。まるで花形歌舞伎のようですが、そこは若手とはいえ、実力のある役者ばかりなので申し分なし。中でも勘九郎襲名を前にした勘太郎が奮闘していて、また菊之助の墨染の妖艶さも格別で、二人の踊りはダイナミックで見応えがありました。小町姫と墨染は一人二役の場合が多いようですが、今回は七之助と菊之助がそれぞれ演じ、若手女形の競演といったところ。ただ、七之助も十分に美しいのですが、菊之助の肉感的な色気を前にしてしまうと、その細さ故にどうしても貧相に見えてしまい、ちょっと割を食ってしまった感じがしました。
最後は12月らしく、忠臣蔵外伝の『松浦の太鼓』。
松浦侯に勘三郎、源吾に菊之助、其角に彌十郎、お縫に七之助。勘三郎の松浦侯は愛嬌があって、いかにも勘三郎らしく“機嫌のいい殿様”で楽しい。其角も彌十郎らしいユーモラスなセンスと温かみと出ていて良かったです。菊之助はこの源吾も初役だそうですが、義士という難しい役どころを清々しく演じ、印象的でした。菊之助にしては珍しく声が嗄れていたのが気になりましたが、昼の部から夜の部、ずっと出ずっぱりというのもあるのでしょうか。最後は本公演お決まりの舞台の後ろが開いてスカイツリーが目の前に広がるとなるのですが、この日は昼でも最高気温9℃という日で、寒いわ、暗くてスカイツリーは見えないわで、役者さんも大変ですが、観る方も覚悟の松浦の太鼓でした。
2011/12/17
南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎
すでに会期終了となりましたが、『南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎』展を最終日に駆け込みで拝見してきました。
1543年にポルトガル船が種子島に来航して以後、16世紀半ばから17世紀初頭にかけて活発化したポルトガル、そしてスペインとの南蛮貿易。鉄砲やキリスト教の伝来にとどまらず、さまざまな物資や技術、文化が到来し、日本に多大な影響を与えましたが、美術においても、西洋美術作品や画法がダイレクトに伝えられ、わずか1世紀足らずの間ですが南蛮美術が花開きます。
まず第一会場の4階は、
第1章 はるかなる西洋との出会い
第2章 聖画の到来
第3章 キリシタンと輸出漆器
の3部構成。
入口を入るとすぐ、金雲輝く見事な「南蛮屏風」が展示されていました。一見すると市街を俯瞰した狩野派の作品らしい屏風絵ですが、よく見ると町を行き交うさまざまな階級の老若男女に混じり、ちらほらと南蛮人の姿が。南蛮船や南蛮寺なども描かれ、日本に南蛮文化が到来した頃の人々の驚きや生活の変化が屏風絵から伝わってくるようです。
「南蛮屏風」は当時の様子や風俗などが分かる貴重な作例ですが、そのほかにもキリシタンの礼拝用の聖画や聖像、また海外へと輸出されて行った日本の美術工芸品などが展示されていました。特に礼拝用の聖画や聖像などは、キリスト教の弾圧により、恐らくことごとく破壊されたでしょうから、密かに隠し持たれていたものが今に伝わっているということを考えると、非常に貴重な資料だと思います。
一つ階を降りて3階は、
第4章 泰西王侯騎馬図屏風の誕生と初期洋風画
第5章 キリシタン弾圧
第6章 キリシタン時代の終焉と洋風画の変容
第7章 南蛮趣味の絵画と工芸
の4部構成。
階段を降りてすぐの吹き抜けのロビーには、今回の目玉となっている二つの「泰西王侯騎馬図屏風」が展示されていました。金屏風という日本的なものに描かれた“日本的でないもの”のこの違和感。誰の手による作品なのか、またどうして制作されたのか、全くもって謎のようですが、西洋と東洋の出会いが生み出したこのユニークな屏風を見ていると、なんとも不思議であり、また面白く、南蛮美術の時代的な特異性をあらためて感じます。
傍らには「泰西王侯騎馬図屏風」の各箇所を高精細のデジタル画像で撮影し拡大したパネルが展示され、さまざまな光学調査で分析された構図や技法、顔料などの研究成果が拝見できます。
こういった西洋画の画法を採り入れ、西洋の人々や風俗を描いた作品を“初期洋風画”と呼ぶそうで、同じコーナーには桃山・江戸初期の日本人の描いた西洋風俗図がほかにも展示されていました。16世紀末ともなると、ヨーロッパではバロック美術が台頭してきますが、桃山時代に日本に伝えられた画法はまだ後期ルネサンス様式の影響が色濃いようです。それでも、これが日本人の手によるものかと考えると、その完成度の高さには驚かされます。
今回の展覧会での一番の特徴は、一部の作品を除いて、誰の手による作品かほとんど分からないということ。南蛮美術の作品の多くは、イエズス会の神学校などで西洋人から西洋画の技術を直接学んだ日本人絵師によるものと推定されていますが、名前を残している人がほとんどおらず、屏風絵等の制作の経緯や、その絵師がどういう経歴を持ち、その後どうしたのか、全く謎だなのだそうです。これもキリスト教の弾圧などを恐れてのことだったのでしょうか。
第5章と第6章は南蛮美術の“影”の部分、キリシタンの弾圧とその時代の終焉にまつわる作品が展示されていました。聖職者の処刑を描いた殉教絵や踏み絵は、作品を観るということ以上に歴史に触れるという思いを非常に強く感じます。聖者を達磨に見立てたりと、形を変えながら残ろうとする洋風画に時代の困難さを見る思いがしました。こうして日本に伝わった西洋画の技術は鎖国が解かれる江戸末期まで(秋田蘭画などごく一部を除いて)途絶えることになります。
【南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎】
2011年12月4日(日)まで
サントリー美術館にて
1543年にポルトガル船が種子島に来航して以後、16世紀半ばから17世紀初頭にかけて活発化したポルトガル、そしてスペインとの南蛮貿易。鉄砲やキリスト教の伝来にとどまらず、さまざまな物資や技術、文化が到来し、日本に多大な影響を与えましたが、美術においても、西洋美術作品や画法がダイレクトに伝えられ、わずか1世紀足らずの間ですが南蛮美術が花開きます。
まず第一会場の4階は、
第1章 はるかなる西洋との出会い
第2章 聖画の到来
第3章 キリシタンと輸出漆器
の3部構成。
入口を入るとすぐ、金雲輝く見事な「南蛮屏風」が展示されていました。一見すると市街を俯瞰した狩野派の作品らしい屏風絵ですが、よく見ると町を行き交うさまざまな階級の老若男女に混じり、ちらほらと南蛮人の姿が。南蛮船や南蛮寺なども描かれ、日本に南蛮文化が到来した頃の人々の驚きや生活の変化が屏風絵から伝わってくるようです。
重要文化財「南蛮屏風」(右隻) 伝狩野山楽
桃山時代 17世紀初期 サントリー美術館蔵
桃山時代 17世紀初期 サントリー美術館蔵
「南蛮屏風」は当時の様子や風俗などが分かる貴重な作例ですが、そのほかにもキリシタンの礼拝用の聖画や聖像、また海外へと輸出されて行った日本の美術工芸品などが展示されていました。特に礼拝用の聖画や聖像などは、キリスト教の弾圧により、恐らくことごとく破壊されたでしょうから、密かに隠し持たれていたものが今に伝わっているということを考えると、非常に貴重な資料だと思います。
「花鳥蒔絵螺鈿聖龕(聖母子像)」
桃山時代 16世紀末~17世紀初期 サントリー美術館蔵
桃山時代 16世紀末~17世紀初期 サントリー美術館蔵
一つ階を降りて3階は、
第4章 泰西王侯騎馬図屏風の誕生と初期洋風画
第5章 キリシタン弾圧
第6章 キリシタン時代の終焉と洋風画の変容
第7章 南蛮趣味の絵画と工芸
の4部構成。
階段を降りてすぐの吹き抜けのロビーには、今回の目玉となっている二つの「泰西王侯騎馬図屏風」が展示されていました。金屏風という日本的なものに描かれた“日本的でないもの”のこの違和感。誰の手による作品なのか、またどうして制作されたのか、全くもって謎のようですが、西洋と東洋の出会いが生み出したこのユニークな屏風を見ていると、なんとも不思議であり、また面白く、南蛮美術の時代的な特異性をあらためて感じます。
傍らには「泰西王侯騎馬図屏風」の各箇所を高精細のデジタル画像で撮影し拡大したパネルが展示され、さまざまな光学調査で分析された構図や技法、顔料などの研究成果が拝見できます。
重要文化財 「泰西王侯騎馬図屏風」
桃山~江戸時代初期 17世紀初期 神戸市立博物館蔵
桃山~江戸時代初期 17世紀初期 神戸市立博物館蔵
重要文化財 「泰西王侯騎馬図屏風」
桃山~江戸時代初期 17世紀初期 サントリー美術館蔵
桃山~江戸時代初期 17世紀初期 サントリー美術館蔵
こういった西洋画の画法を採り入れ、西洋の人々や風俗を描いた作品を“初期洋風画”と呼ぶそうで、同じコーナーには桃山・江戸初期の日本人の描いた西洋風俗図がほかにも展示されていました。16世紀末ともなると、ヨーロッパではバロック美術が台頭してきますが、桃山時代に日本に伝えられた画法はまだ後期ルネサンス様式の影響が色濃いようです。それでも、これが日本人の手によるものかと考えると、その完成度の高さには驚かされます。
今回の展覧会での一番の特徴は、一部の作品を除いて、誰の手による作品かほとんど分からないということ。南蛮美術の作品の多くは、イエズス会の神学校などで西洋人から西洋画の技術を直接学んだ日本人絵師によるものと推定されていますが、名前を残している人がほとんどおらず、屏風絵等の制作の経緯や、その絵師がどういう経歴を持ち、その後どうしたのか、全く謎だなのだそうです。これもキリスト教の弾圧などを恐れてのことだったのでしょうか。
重要文化財「聖フランシスコ・ザヴィエル像」
江戸時代初期 17世紀初期 神戸市立博物館
江戸時代初期 17世紀初期 神戸市立博物館
第5章と第6章は南蛮美術の“影”の部分、キリシタンの弾圧とその時代の終焉にまつわる作品が展示されていました。聖職者の処刑を描いた殉教絵や踏み絵は、作品を観るということ以上に歴史に触れるという思いを非常に強く感じます。聖者を達磨に見立てたりと、形を変えながら残ろうとする洋風画に時代の困難さを見る思いがしました。こうして日本に伝わった西洋画の技術は鎖国が解かれる江戸末期まで(秋田蘭画などごく一部を除いて)途絶えることになります。
【南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎】
2011年12月4日(日)まで
サントリー美術館にて
2011/12/03
ゴヤ 光と影
かれこれ1ヶ月前のことなので、ちょっとアップが遅くなってしまいましたが、国立西洋美術館で開催中の『ゴヤ展』に行ってきました。
今回の『ゴヤ展』はスペインのプラド美術館所蔵の作品展。油彩画25点、素描40点、版画57点(内51点は国立西洋美術館所蔵作品)、資料(書簡)1点の計123点。ここまで大規模なフランシスコ・デ・ゴヤの展覧会は実に40年ぶりとのこと。
ゴヤの作品で真っ先に浮かぶのが、「裸のマハ」と「着衣のマハ」、そして「巨人」。しかし、数年前に「巨人」がゴヤの作品ではないという結論に達したと発表された今、ゴヤといえば、もう二つのマハなのです(すいません、他によく知らなくて)。スペインでは国宝級であるはずのマハの一作が、遠く日本までこうしてやって来たのですから見逃す手はありません。
会場に入ると、まずゴヤの自画像が。以後、ゴヤの油彩画や宮廷画家としての肖像画、またライフワークであった寓話的な版画の数々が展示されています。
ゴヤはもともと王立タピスリー工場での原画制作で才能を認められ、頭角を現したということで、まずはそのタピスリー、つまり綴れ織の壁掛の原画が展示されています。どれも美しい油彩画で、タピスリーの原画でこれだけ完成度が高いのだから、実際のタピスリーはどんなものだったのだろうと思いますが、残念ながらタピスリーの展示はありませんでした。それでもゴヤの油彩画の色彩感、またスペインの日常生活の情景を知る上でも、とても貴重な作品だと思います。
本業の傍ら(?)に、ゴヤが私的に描いたり、依頼を受けて描いた作品、主に女性を描いた作品が次のコーナーには展示されていました。ゴヤの代表作「着衣のマハ」もその中に飾られています。“マハ”とはスペイン語で「小粋な女」を意味する言葉だそうで、俗にスペインの下町娘を指していたようです。残念ながら「裸のマハ」は来日していませんが、このモデルが誰なのかというのは諸説あって、数年前には「裸のマハ」を題材にした映画も作られたほど。謎めいた女性は昔も今も人の心を掴んで離さないものなのでしょうね。
ゴヤはタピスリー用の原画制作に携わる一方で風俗画も多く残していますが、ある時期から政府高官や貴族らの肖像画を多く手掛けるようになったといいます。これは宮廷画家の座を狙っていたゴヤの野心の表れだったとも言われていますが、その甲斐あってか、ゴヤは宮廷画家に登用され、やがて首席宮廷画家にまで出世を遂げます。本展にも国王カルロス4世の肖像画をはじめ、この頃ゴヤが手掛けた肖像画が展示されていて、先の風俗画とは異なる手堅い作風が見て取れます。しかし、1792年に病から聴力を失うと、ゴヤの作品には厭世的な傾向が表れ、生業の肖像画にも敢えて理想化されない、時としてあからさまな画風が見られるようになったと言われています。
このようにゴヤは、「着衣のマハ」のような美しい作品や色鮮やかな風俗画があったり、かっちりとした肖像画があったりする一方で、「わが子を食うサトゥルヌス」(非展示)のようなちょっと不気味で怖い絵画があるのもユニークなところ。そうした悪夢的な作風や戯画は版画シリーズ<ロス・カプリーチョス>や<素描帖>にも多くあり、本展覧会でもゴヤのそのもう一つの側面を垣間見ることができます。人間観察の鋭さや社会風刺、権力批判はゴヤの風俗画や肖像画とはまた違う面白さがあります。
ゴヤは一筋縄ではいかない多面性を持った画家だったということが良く分かる展覧会でした。
【プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影】
国立西洋美術館にて
2012年1月29日まで
もっと知りたいゴヤ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
宮廷画家ゴヤは見た [Blu-ray]
今回の『ゴヤ展』はスペインのプラド美術館所蔵の作品展。油彩画25点、素描40点、版画57点(内51点は国立西洋美術館所蔵作品)、資料(書簡)1点の計123点。ここまで大規模なフランシスコ・デ・ゴヤの展覧会は実に40年ぶりとのこと。
ゴヤの作品で真っ先に浮かぶのが、「裸のマハ」と「着衣のマハ」、そして「巨人」。しかし、数年前に「巨人」がゴヤの作品ではないという結論に達したと発表された今、ゴヤといえば、もう二つのマハなのです(すいません、他によく知らなくて)。スペインでは国宝級であるはずのマハの一作が、遠く日本までこうしてやって来たのですから見逃す手はありません。
会場に入ると、まずゴヤの自画像が。以後、ゴヤの油彩画や宮廷画家としての肖像画、またライフワークであった寓話的な版画の数々が展示されています。
ゴヤ「日傘」 1777年
ゴヤはもともと王立タピスリー工場での原画制作で才能を認められ、頭角を現したということで、まずはそのタピスリー、つまり綴れ織の壁掛の原画が展示されています。どれも美しい油彩画で、タピスリーの原画でこれだけ完成度が高いのだから、実際のタピスリーはどんなものだったのだろうと思いますが、残念ながらタピスリーの展示はありませんでした。それでもゴヤの油彩画の色彩感、またスペインの日常生活の情景を知る上でも、とても貴重な作品だと思います。
ゴヤ「着衣のマハ」 1800-07年
本業の傍ら(?)に、ゴヤが私的に描いたり、依頼を受けて描いた作品、主に女性を描いた作品が次のコーナーには展示されていました。ゴヤの代表作「着衣のマハ」もその中に飾られています。“マハ”とはスペイン語で「小粋な女」を意味する言葉だそうで、俗にスペインの下町娘を指していたようです。残念ながら「裸のマハ」は来日していませんが、このモデルが誰なのかというのは諸説あって、数年前には「裸のマハ」を題材にした映画も作られたほど。謎めいた女性は昔も今も人の心を掴んで離さないものなのでしょうね。
ゴヤ「ガスパール・メルチョール・デ・ホベリャーノスの肖像」 1798年
ゴヤはタピスリー用の原画制作に携わる一方で風俗画も多く残していますが、ある時期から政府高官や貴族らの肖像画を多く手掛けるようになったといいます。これは宮廷画家の座を狙っていたゴヤの野心の表れだったとも言われていますが、その甲斐あってか、ゴヤは宮廷画家に登用され、やがて首席宮廷画家にまで出世を遂げます。本展にも国王カルロス4世の肖像画をはじめ、この頃ゴヤが手掛けた肖像画が展示されていて、先の風俗画とは異なる手堅い作風が見て取れます。しかし、1792年に病から聴力を失うと、ゴヤの作品には厭世的な傾向が表れ、生業の肖像画にも敢えて理想化されない、時としてあからさまな画風が見られるようになったと言われています。
ゴヤ「魔女たちの飛翔」 1798年
このようにゴヤは、「着衣のマハ」のような美しい作品や色鮮やかな風俗画があったり、かっちりとした肖像画があったりする一方で、「わが子を食うサトゥルヌス」(非展示)のようなちょっと不気味で怖い絵画があるのもユニークなところ。そうした悪夢的な作風や戯画は版画シリーズ<ロス・カプリーチョス>や<素描帖>にも多くあり、本展覧会でもゴヤのそのもう一つの側面を垣間見ることができます。人間観察の鋭さや社会風刺、権力批判はゴヤの風俗画や肖像画とはまた違う面白さがあります。
ゴヤは一筋縄ではいかない多面性を持った画家だったということが良く分かる展覧会でした。
【プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影】
国立西洋美術館にて
2012年1月29日まで
もっと知りたいゴヤ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
宮廷画家ゴヤは見た [Blu-ray]